皇帝は何故、狂乱しないのか――ユグドラシル帝国の臣下たる、ほぼすべての人間が思ったことだ。新皇帝アラベラ・アデライドは未だ十七歳の若さであり、数か月前に父を喪った。ただでも不安な初産を直後に控え、皇帝の重責を負い、あまつさえ夫に叛かれた。心弱い者なら、このうち一つを背負っただけでも、折れてしまいそうなものだ。

 ところがアラベラ・アデライドは、表面上は落ち着き払って、一切の変更無く、自身の戴冠式とそれに付随する行事類を執り行った。無論その間とて、政務を怠ったわけではないし、大逆の共謀者たちについても捜査をさせ、刻々と集まる情報について報告を受けた。

 大逆の企てについては、最初に捕えられたエドガルド・ドゥカーティが包み隠さず情報を提供したこともあって、全貌が明らかになるのは時間の問題と思われた。無論、そんなことをしても、罪一等とて、減じられるわけではないが。

 だが、周囲の誰もが呆気に取られ、敬服し、かける言葉も見つからないうちに、アラベラ・アデライドは次の一手を取った。

「生まれる子は、男であれ、女であれ、即、皇太子とする。後見はファルトマンに」

相談も無く名前を挙げられたファルトマンも含めて、居並ぶ廷臣たちの誰もが、開いた口を塞げなくなった。生まれたばかりの乳児を皇太子にするなど、前例が無い。その上、子の父は謀反人なのだ。

「驚くことは無かろう。私は若いが、だからといって命の保証がある筈も無い。出産で命を落とすことも、珍しくないのだからな。そういう時のために、後継者を定めておく必要があるだろう。となればこの子が、唯一の、英雄帝陛下の直系ぞ。それが何の問題か」

ざわめく家臣たちに対して、アラベラ・アデライドは嫣然と微笑み、臨月を迎えたお腹に手を当てた。確かに、それもまた事実である。

 そして――誰も言えなかった「その名前」を、アラベラ・アデライドは易々と口にした。

「確かに、この子の父親はエドガルド・ドゥカーティ、大逆の謀反人だ。だが、それ以上に、私の子で、先帝陛下の孫で、英雄帝陛下の直系だと思う…その方が、重いとな」

その表情は至って穏やかで、悲しみも怒りも、あって然るべきだと誰もが思うのに、面からは伺い知れない。

「そう、情けない顔をするな。私は腫物か」

挙句の果てには、爽やかにそう言い放つ。それは凄味を通り越した何かであって、もう誰も、反論など出来なかった。

 アラベラ・アデライドは凪いで居た。これが十七の少女の態度かと、誰もが目を見張る程度には。淡々と、もし自分に万が一のことがあった場合の対応を定め、あまつさえ母子ともに命を落とした場合のことさえしたためて封書にし、ファルトマンに託した。その間も、決して政務は怠らなかった。

 何か、必要なことを確認する。検討する課題があり、それについて議論する。問いかける。そういう事務的なことは可能だったが、気が付けば誰も、アラベラ・アデライドに話しかけられなくなっていた。身体に障るから、すこしは政務を控えて欲しいという、この時期としては当たり前の進言さえ、誰も口にしない。

 それは、彼女が腫物だったからではない。あまりにも近寄り難かったからだ。

 強すぎる精神が障壁を作り、人を寄せ付けなくなった。

 大陸の頂きで、アラベラ・アデライドは独りだった。

 そこが、彼女の辿り着いた場所だった。

 そしてその場所を見上げる大陸の民は、熱狂的に若き女帝を支持するようになった。曰く、健気であるとか、気高いとか。その強さに対する敬服と、悲しさに対する同情とが、絶妙な比率で混ざり合い、女帝という未知の存在への、近しさと畏れ多さを育んだのだ。

 実のところアラベラ・アデライドは、その点は計算に入れていた。だから、そのように振る舞ったというわけではないが、ある程度は見え方に気を使っていた。実際、自分が決して安定した基盤の上に立っているわけではないことは、謀反の一件から思い知らされている。利用出来るものは、この際何でも使い尽くしたかった。

 歴史的に見ると、アラベラ・アデライドの治世は、ファーレンハイト王朝第一期の最後を飾ると言われる。賢帝の法が治めた、最後の時代だ。三百年を経たそれら大陸の屋台骨は、些か古くなり、方々に齟齬を来してはいたが、まだ限界というわけでもなかった。それより大きな問題だったのは、元々地域ごとの独自性を重んじた統治機構故に、ひとつの国家であるという自覚を失い、緩やかな空中分解へと向かっていたことだ。

 アラベラ・アデライドは決して、傑出した才能を持つ政治家ではなかった。それは、後世の多くの意見が一致を見るとことだ。もしそうならば、アラベラ・アデライドの時代に、帝国の統治機構は大きな改革を施されていた筈だと。しかし、実際にそれを行ったのは、いよいよ限界の際に立たされた、彼女の息子ジークムントだった。

 烈女と呼ばれた、大陸史上唯一の女帝は、その統率力と人間的魅力で人々を惹きつけ、もう一度、大陸がひとつの国家であるということを、皆に思い出させた。

 その点を考えると、アラベラ・アデライドはその治世の、あまりな波乱に襲われた冒頭から、ずっと同じことをしていたのである。

 

 後年アラベラ・アデライドはこの時を振り返り、苦笑したと言う。若過ぎたから出来た、単なる荒業だった、と。

 実際、心身ともに休養が不十分だったことは間違い無いのだが、それを乗り切るだけの気力と体力、後のアラベラ・アデライドに言わせるなら「若さの暴虐」があったのだ。

 暴虐なる女帝の初産は、期待通り軽いものであった。当日の午前中までは政務に励み、昼頃に陣痛を訴え、夕方には身二つになっていたという次第だ。生まれたのは健康そのものの男児で、事前にアラベラ・アデライドが決めていた通り、ジークムントと名付けられた。

 勝利(ジーク)とつく名は、ファーレンハイト王朝においては、開祖たる英雄帝ジークフリードに対して畏れ多いと、避けられてきた。それを敢えて選んだのは、謀反人の子である息子が、それ以上にまず、王朝の正統な後継者であるという、母アラベラ・アデライドの強い主張であった。

 流石に、その後数日は休養を取ったアラベラ・アデライドだが、我が子の黒い瞳を確かめると、しみじみと呟いた。

「隠そうとしても隠せぬなら、最初から何もしないことだ。あったことは消えぬし、私は後悔していないよ」

王朝歴代の皇帝の中に、黒い瞳は居なかった。それは、間違いなくその子の父である、謀反人エドガルド・ドゥカーティの血が成した業であった。

 自分が何を無くしたのか――アラベラ・アデライドには分かっている。支えてくれる家臣も、知恵を貸してくれる者もある。今なら自分のために命を投げ出そうという民も居るだろう。だが、それらはすべて「皇帝」の関係者だ。アラベラ・アデライドの、ではない。端的に言うなら、父も、エドガルドも、彼女を「アデライド」と呼んでくれた者は、もう居ないのだ。

 心を預けられる場所が、今は無い。その状態で、一体どれだけのことが出来るのか、いつまで自分は耐え切れるのか、それは見当もつかない。実際、碌でもないところに来てしまったと、思わないではないのだ。

 けれども、と思い直して、アラベラ・アデライドは赤ん坊の揺り籠に手をかける。まだ大して人間らしさを感じないほどのその子は、瞳の色など確かめなくても、確かにエドガルドの子だった。よく、似ていた。

 この先何が待ち受けているとしても、自分はこの子を守り育てて、いつか大陸を背負って立つに足るものにしなければいけない。父リヒャルトが、自分にそうしてくれたように。

 母を知らないアラベラ・アデライドは、自分自身が母になり、我が子を見つめる立場になった時も、どうしても自分を父親と引き比べていた。或いはそのことが、父の無いこの子を育てる上で、何らかの効果を生むかもしれない、とも思いながら。

 

 命の終わりは明日。そう告げられたエドガルド・ドゥカーティは、皇配という身分故に、獄舎ではなく、居心地の良い部屋を与えられていた――窓に鉄格子がついていて、扉の向こうには番兵が居るという状況が、居心地良いと言うならばだが。

 これで終わりなのか、と口にしてみるのだが、奇妙なほど何の感情も湧いてこない。恐らく自分という存在は、辛うじて命が残っているだけで、根本的にもう、抜け殻なのだろう。死ぬことに意味はあるかもしれないが、今ここに、こうして存在していることには、もう意味も無い。

 意味の無い人生だったとは思わない。だが、自身の愚かさが招いたとはいえ、下らない終わり方だ。それさえも他人事の空虚さで、エドガルドは呟いた。

 最後にただひとつ、残った意味があるとするなら――その言葉は「アデライド」だ。

 彼女と巡り合い、選ばれて、愛した、その帰結が今だ。

 けれど、どうしてもエドガルドには、アデライドに出会わなければという思いは湧いてこなかった。というよりも、彼女の存在無しには、それこそ人生は無意味だったと思える。

 それなのに何故、とは今更問うても詮無いが、アデライドこそが、彼の人生の精華であったと言えるのだから。

 扉が開いたのは、その時だった。何事かと思い、顔を上げ、エドガルドは言葉を失った。そこに居たのは、ほかの誰でもない、アラベラ・アデライドその人で――その腕には、生まれて日の浅い赤ん坊が抱かれていた。

「何をしに来たと、言いたそうだな」

そして、何も言えないエドガルドに先んじて、アラベラ・アデライドの方が喋り始める。まるで何事も無かったかのように、落ち着いた調子で。

「あなたのことは言わないけれど、でも、この子には父親の顔を見ておく権利があると思った」

紫がかった青の瞳が、突き刺すように真っ直ぐに、エドガルドを見つめる。彼が何より愛したもの――彼が何より恐れて、遂に敵わなかったもの――

 アラベラ・アデライドはそのまま、腕の中の赤ん坊をエドガルドに見せた。ある程度、距離は取っている。手を伸ばしても、触れさせてはくれないだろう。エドガルドも敢えてそれはしない。ただ、しげしげとその、まだ人間らしくもない顔を覗き込んだ。

半端にしか開かない、その小さな瞼の間からは、彼自身と同じ、黒い瞳が覗いている。何よりも、誰に言われなくても分かるほど、面影がある。これが、我が子。その実感に、エドガルドは思わず、震えた。

「名前は、ジークムント。畏れ多いけれど、英雄帝陛下から半分頂いた。私とあなたの子で…次の皇帝。大陸の後継者だ」

しばらくの自失の後、エドガルドは破顔した。そうだ、それでこそアデライドだという思いが、奥底から湧き上がって、内側を温かくした。

「流石は貴女だな。そうとしか言いようが無い…いつものことだが、圧倒される」

 だがアラベラ・アデライドは、その言葉を聞くと、俄かに表情を強張らせて、視線を外した。

「…それ以外に、どうしようもないだろう。誰かのせいで、私にはもう、この子しか居ないのだから。この子を守るためなら、大概のことはしてみせるよ」

悲しみとか怒りではなくて、それは寧ろ「拗ね」と呼ぶべき響きだった。大陸の民から崇敬を集める女帝が、欲しかったものが手に入らないと、拗ねていた。

「逆に言えば、私にはこの子が居るということ。皇帝でなくても、大陸がどうなっても、変わらずに守るべきものがある――そう思うと、皇帝である以外にもう一本、軸が持てるのかな」

そしてすぐに、その子供っぽい表情を拭い去って、微笑んで見せる。するとそこには、凛として柔らかい、母親らしい顔がある。

「女々しくて仕方ないと思ったよ、ここに来ることは。何を言おうと、そんなことはすべて口実で、私があなたに逢いたかったんだから。だけど…よく考えたら、明日からはもう、私の我儘を聞いてくれる相手は、この世界に居ないんだなと思って……だから、このくらいは許すことにした」

そうかと思えばくるりと裏返って、十七歳の少女らしい、愛らしい面になったりする。それらはすべて、かつてはエドガルドを混乱させたものだった。だが今は――今となっては、すべてが彼への、無条件の甘えだったと思える。最大限の、信頼の証だったと。

 そう気づいた瞬間、押し潰されるほどの後悔がエドガルドを襲い、そして恐らく初めて、己が成したことの意味を、正しく理解した。そのまま崩れてしまいそうになるが、どうせ明日には終わる命だと思えば、あとは居直るしか無い。

「泣き叫ばれるとか、張り倒されるとか、そういう分かりやすい状況に陥った方が、案外楽だったかもしれないな。自業自得だが。それに、アデライドは、そういうありきたりな女ではなかった」

「そういうことだ、エドガルド」

視線を合わせて、互いの名を呼び交わす――儀式めいていたが、かつては日常だった、とても大切な営みだ。最後となるその響きが、愛おしかった。

 そしてアラベラ・アデライドは、そろそろ行かなければと断った上で、静かに微笑んだ。

「忘れないで欲しいのは……怒りもしたし恨みもしたけれど、私があなたを愛していたのは、消しようの無い事実だし、幸せな時間だった。それから、私にこの子をくれて、とても感謝している――それだけだ」

エドガルドは頷き、もう行けと、アラベラ・アデライドを促した。

 

 その翌日、朝早く、エドガルド・ドゥカーティは、その高貴な立場に免じて自裁を許され、毒を呷って果てた。その報告を聞いたアラベラ・アデライドは、ただ深々と溜息をついて人払いを命じ、次の朝まで、我が子以外の誰も寄せ付けなかったと言う。

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