ファーレンハイト王朝ユグドラシル帝国の第十七代皇帝アラベラ・アデライドの戴冠式が行われたのは、初夏のことであった。最早、大陸の北の小国ではない時代になっても、やはり帝国の人間、特に旧アースガルドの人間は夏というものを尊んだ。そして、それ故に、初夏の戴冠は若く美しい新皇帝にとって、いかにも似つかわしいものとされたのだった。

 皇帝が代々受け継ぐ冠は、アースガルド時代からの簡素なもの。それに、ファーレンハイト家の紋章である鷲の翼の指輪と、漆黒の地に銀で紋章を縫い取った旌旗。そして緋のマント。それが、皇帝の座とともに受け継がれるすべてである。

 装いとしては簡素だ。例えば、ウェスタ教皇の大礼装はもっと美々しいものだし、旧ローラン王家の宝冠も、芸術品としては史上の価値があるだろう。決して恵まれた土地ではなかった大陸の北で育まれたファーレンハイト家の気質は、質実剛健を以て尊しと成すものだから。

 そして、生粋のファーレンハイトの娘であるアラベラ・アデライドは、その簡素さを良しとした。華美であることに意味が無いとは言わないが、皇帝とは帝国のために働く者だ。それに必要なのは、美しさよりも実用であろう。それを思えば、日々身に着けることになる指輪や、帝国の旗印となる覚悟を示す旌旗などは、極めて相応しいものと思えた。英雄帝ジークフリード以来、緋のマントが持つ意味も知っている。同じものを纏うのは、やはり誇らしい。

 その日、アラベラ・アデライドはエドガルドとの結婚指輪を外した。理由はほかでもない、左手の薬指に、鷲の指輪をはめるためだ。

 外した結婚指輪を箱にしまい、チェストの引き出しに片付ける。どうも、儀式めいてしまって良くないなと、アラベラ・アデライドは苦笑する。儀式は戴冠式だけで十分だ。

 笑いたいものなら、他に幾らでもある、それを笑おう。強いて、アラベラ・アデライドは思いの向きを変える。八か月目を迎えたお腹は、もうかなり重いし目立つ。お蔭様で立ち姿勢も何やら滑稽だし、歩くと更に滑稽だ。これに、皇帝の礼装と宝冠を着けると、何やら奇妙なものが出来上がりそうだ。頼むから、そういう姿の肖像画は残さないで欲しい。

 紅く塗った唇から笑みが吹き出し、すぐに力無く潰える。我ながら無理をしている――と、アラベラ・アデライドは痛感した。

「皇帝となるために使いこなすべきもの――決断力と、覚悟――」

呟いたのは、言い聞かせるためだ。

 扉を叩く音がする。身繕いはせめて独りでと、ねだって得た僅かな時間が、どうやら終わったようだ。

 入れ、と声をかけると、数人の侍女が入ってきて、手際良く化粧や髪の具合を見、手直しをしてくれる。そういう手先は、人並みの腕前でしかないアラベラ・アデライドだ。

 濃茶の髪は、星のように輝くダイヤモンドの髪飾りを編み込んで、結い上げる。緋色のマントに合わせるドレスは深く穏やかな紺色で、金糸銀糸の縫い取りが鮮やかだ。若く美しい女帝に相応しい、華やかで落ち着いた装いと言えるだろう。鏡の中の自分を見て、アラベラ・アデライドは頷いた。そしてやはり、妊婦でさえなければ、もう一段様になるのにな、と苦笑した。

 そしてアラベラ・アデライドは立ち上がる。その動作は、流石に颯爽というわけにはいかないが、せめて背筋だけは正して、凛と歩きたい。そう思って、視線をやや上げる。お時間でございます、という侍女の声が聞こえた。

 

 ファーレンハイト王朝の皇帝たちは、戴冠に臨む時、誰からその宝冠を得るかを選んできた。例えば、賢帝ヴィクトールと大帝アンドレアスは、ともに英雄帝ジークフリードの皇后だったルフィラから冠を与えられている。彼らにとって、母であり祖母であった人だ。大帝アンドレアスの皇后アルマも、四代皇帝マクシミリアンに冠を与えた。大体において、皇室の中で影響力のある、年長の人物がその役割を担うことが多い。

 その中で明らかに異色だったのが、英雄帝ジークフリードだ。皇室の傍系に生まれ、若くして父帝を喪い、皇太子ですら無かった彼は、いざ帝位を目の前にした時、孤児も同然であった。

 宝冠を授けてくれるあてが無かった彼は、後年「我ながら暴挙だった」と言う行為に出た。空の王座に冠を載せ、自らそれを手に取って戴いたのだ。必ずしも皇帝になれる出自ではなかったにも関わらず、幼時から一貫して大陸の統一への強い意志を持ち続けた、彼に相応しい行為だったと言えるだろう。

 そしてここにもう一人、孤児同然の新皇帝が現れる。英雄帝唯一の直系としてその血を繋ぎ、皇帝になるためだけに育てられた、アラベラ・アデライドだ。何の偶然かその瞳は、英雄帝子孫の中で唯一、紫がかった青の稀有な色を受け継いだ。

 偉大なる帝国の開祖、英雄帝に対し奉り、不遜である――そのような考え方から、アラベラ・アデライドは自由であった。即ち、アラベラ・アデライドもまた、己の手で己の頭上に、宝冠を載せたのである。

 戴冠式の場である、宮殿の大広間に足を踏み入れた瞬間――アラベラ・アデライドは深呼吸をして、歩き出した。人前に立つことにも、儀式を執り行うことにも、特段の緊張は感じない。手順など簡単なものだし、居並ぶ廷臣たちも、いつもの顔ぶれだ。自分でも怖くなるくらい、アラベラ・アデライドは落ち着いていた。

 広々とした大理石の床には、玉座に向かって真っ直ぐに、赤い絨毯が敷かれている。アラベラ・アデライドはゆっくりとそれを踏みしめて歩みを進め、玉座への階段を上った。

 最上段に上がったアラベラ・アデライドは、玉座のクッションに据えられていた宝冠を手に取り、それを戴くと、今度は同じ手で、横に立てかけられていた旌旗を取った。息遣いさえ聴き取られてしまいそうな静けさが、場を圧している。その過剰な濃密さは、若き女帝が廷臣たちに向き直り、その姿を見せた瞬間に、一気に解き放たれる。若いとはいっても、アラベラ・アデライドは皇帝になるために育てられ、踏むべき場数を踏んできた人間だ。その威風は既に大陸の統治者に相応しい。そして、その美貌が生み出す鮮やかな印象は、皇帝としての礼装に引き立てられて、更に輝かしいものになっている。

 アラベラ・アデライドは足下の廷臣たちを一望すると、視線を上げる。広間の天井は、大帝アンドレアスの強い希望で、天窓になっている。磨き抜かれた水晶硝子を透かして、初夏の明るい光が零れ、その更に向こうには、痛いほどの蒼穹を背景に、聖樹ユグドラシルが聳える。大帝アンドレアスは、その光景を愛し、且つ誇ったが故に、その大きな窓を設けさせたのだ。

 あの時とよく似ている。アラベラ・アデライドはそう思った。あの時とは、父に抱かれてこの場所に来た、立太子の儀式の日だ。その時も季節は初夏で、空は吸い込まれそうに深い色をたたえ、世界は輝いていた。

 ああ、空はこんなに蒼い。突き抜けるような痛みとともに、アラベラ・アデライドは心に呟く。あの日の蒼とともにこの蒼もまた、生涯の記憶になるだろう。この痛みと対になって。

 「宮廷武官エドガルド・ドゥカーティ」

澄み渡った空気を、凛とした空気が震わせる。壇上の皇帝は、居並ぶ廷臣たちの、末席に近い辺りを真っ直ぐに見据えている。

「立て」

 それは、いかにも場違いな命であり、その場の誰も、何が起こっているかを理解していない。ただ、跪いたまま顔を上げることも叶わず、動揺した視線を絡ませている。

 さざ波のように広がるざわめきのただ中で、エドガルドは立ち上がった。廷臣たちよりも、ぐんと視点が高くなり、壇上のアラベラ・アデライドとの間には、妨げるものも無い。その時エドガルドは、不思議に堂々として見えた。

「何故、立っているのかは、分かっているな?」

感情を排した抑揚の無い声で、アラベラ・アデライドが問う。その、紫がかった青の瞳を真っ直ぐに見返しながら、エドガルドは同時に、その距離の遠さを思った。

「貴女なら、必ず暴いてくれるだろうと思っていた」

その言葉を受けるアラベラ・アデライドは、彼が知る素直であどけない少女ではなく、氷の壁のように冷厳で、揺るぎ無い。

 それでいい、と――エドガルドは心に呟く。独りだけ立ち上がった彼と、壇上のアラベラ・アデライドの間には、妨げるものとて無い。エドガルドは一息に言い放った。

「私の罪は、皇帝陛下に対し奉り、大逆の企てに加担したこと。陛下の健康を害し、政務を困難とさせた上で、御子を擁し、皇配の立場を利用して、この大陸を恣にしようとしたこと。以上です」

瞬間、さざ波であった困惑が沸騰し、ざわめきが一気に膨れ上がる。が、それを、アラベラ・アデライドが一喝した。

「一同、控えよ。私はエドガルド・ドゥカーティと話をしている」

決して大きな声ではない。抑揚を排した、静かな声であった。が、そこに込められた精神の強さが、広間を埋め尽くす廷臣たちを圧倒した。

 圧倒されていないただ独りは、エドガルドだ。その面には、微かに笑みさえ浮かんでいる。自ら、死に値する罪を告白した、その直後に、だ。

 凍りついたような空気の中で、アラベラ・アデライドとエドガルドの間でだけ、時間が流れている。アラベラ・アデライドはゆっくりと段を降り、エドガルドに向かって歩を進めながら、更に言葉を続ける。

「皇帝であるために、使いこなすべきもの――情と非情、言うことと言わぬこと――」

「そして、生かすことと殺すこと」

エドガルドがその言葉を受ける。受け取られたものを更に返されて、アラベラ・アデライドが頷く。

断罪する者とされる者――皇帝と臣下、男と女、生まれる子供の父と母。二人を繋ぐ名前は幾つもあったが、この場合はどれが適切なのだろう。それは、当事者である二人にも分からない。気が付けば、アラベラ・アデライドはその正面に、エドガルドの姿を捉えていた。手を伸ばしてもすこし届かないが、表情はつぶさに見ることが出来る。

凍てついたようなアラベラ・アデライドに向かって、エドガルドは静かに微笑みかけた。

「貴女は、やはり皇帝なのだな。私が身命を捧げたいと思い、信じた、強くて大きな光――貴女はきっと、大陸の歴史に名を残す、偉大な皇帝におなりなのだろう。それを見届けたい気も、したのだけれどな」

「…では何故、このような形で、向かい合わなければならなかったのだ?」

そう言った瞬間、アラベラ・アデライドの口元が微かに引き攣れた。紫がかった青の色が俄かに澱み、涙が膨らんで、頬を伝う。

「それは私が弱かったからだろう。主君と仰ぐ方は、私の妻でもあったのだ。守りたい愛しいものは、あっという間に私の前から去って行く。かといって、公の場で貴女の側に在りたいと思っても、その場所は果てしないほど遠い。正直言って、何処にどう身を置けばいいのか、疾うに分からなくなっていた」

どうしてこんなに落ち着いているのだろう。それは、アラベラ・アデライドとエドガルド、双方が思っていることだった。エドガルドは今、自身の死刑宣告を読み上げている。破滅の淵に居るのに、心は実に穏やかだ。一方アラベラ・アデライドは、怒り狂い、泣き叫びたいと思っているのに、その行動は何処までも、公の場での、皇帝としてのそれにしかならない。

「その結果が、この愚行だと言うのか。一体何が望みだった」

「すべて、終わりにしたかった。大逆の企てなど、成功するとは思えなかったが――結果がどうあれ、私の行くべき場所だけは定まるというわけだ。我ながら、実に愚かだと思うが、その愚かなことをせずには居られなかったのが、私という人間というわけだ。結論は、貴女に相応しくなかったということだろう」

まるで他人事のような冷静さで、エドガルドは言ってのける。アラベラ・アデライドの瞳からは、更に一滴、涙が零れる。

「……つまりは、そなたを選んだ私と、先帝陛下の眼力が足りなかった、ということか」

「そのような些末はことは、気にされぬが良い」

そしてエドガルドは、貫くような強さで、アラベラ・アデライドを見つめ直す。彼の最愛の妻であり、身命を捧げる主君であり、子の母である女を。

「いずれにせよ貴女は、この屍を越えてゆかれるが良い。情に流されず、負うた責を全うすることが、貴女が皇帝として成すべき、最初の役目だ。その歩みのごく初めに、このように愚かな男が居たことなど、未来に偉大な業績を重ねた上では、塵芥のようなものになるだろう。忘れてしまっても構わない。だからせめて、貴女はその名を、偉大な皇帝として歴史に刻んで欲しいと思う――皇帝としての貴女に望むことは、それだけだ」

そして最後にエドガルドは、瞳の光を和らげて、声を落とした。

「そして出来れば、その将来に良き配偶を得て、幸せな家庭を築いて欲しい。これは私が言うことではないだろうがな」

 いつしか広間は異様なまでの沈黙に支配され、その場の誰もが、何も出来ずに二人を見守り、そのやり取りに耳を傾けた。本来なら動くべき衛兵たちですら、凍りついたように身動きが取れなかった。それほどの冒し難さで、二人はその場に存在していた。

 アラベラ・アデライドはすべてを聞き入れ、痛みとともに心に納めると、佩剣の鞘を払い、切っ先をエドガルドの喉元に擬する。

「いいや、エドガルド・ドゥカーティ、私は忘れない。この歩みの初めに誰と出会い、何が起こったかを。私がこの先何をして、何者になるとしても、その上に立っていることは消しようが無いのだからな。そういう者として、そなたの望みに適う存在であろう。それでいいな」

 その声は静かに澄んだ響きで、最早涙の澱みは感じられなかった。事実、その面には、静かな笑みさえ浮かんでいた。間近でその表情を伺えた何人かは、衝撃のあまり呆けたのかと思ったほどだ。無論それは事実ではないが。

 自分の立ち位置は大陸で唯一のもので、その果たすべき役割も唯一。であるなら、能う限りは喜びを以てそれを果たしたい。かつてアラベラ・アデライドは、エドガルドにそう言ったことがある。その言葉が、今更のように思い出された。そして、恐らくエドガルドと対峙するのは、これが最後なのだろうという思いもあった。そのふたつが合わさった時、アラベラ・アデライドには、微笑む以外の選択肢が無くなってしまったのだ。自分は変わらず、その想いを抱いていると――伝えるしかない。

 紫がかった青と、黒。二色の視線が出逢い、絡み合って、束の間、柔らかな空気が流れる。

「そうだ――それでこそ、私の魅せられた、貴女だな」

その果てに、エドガルドはそう、万感の想いを込めて呟いた。

 

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