父帝リヒャルトの死は、アラベラ・アデライドにとって、あまりに多くのものの始まりであり、終わりとなった。皇帝という大きな存在に庇護されていた、皇太子時代の終わり。無邪気で居られた少女時代の終わり。父の愛に包まれていた、娘時代の終わり。そして、大陸の全権を総身に負う、皇帝という時代の始まり。強さと非情さを使いこなすべき、大人時代の始まり。その強さで愛するものを守り育てるべき、母という時代の始まり。

 父帝リヒャルトの国葬を終え、自身の即位式の準備を始めた頃、アラベラ・アデライドは初めて、胎動というものを感じた。何回かは、怪訝に思ったり、違和感を覚えたりしたが、それが繰り返されるうちに、確かにそこに命が在るのだと信じられるようになってきた。

 自分と、エドガルドの子。父帝リヒャルトの孫で、英雄帝ジークフリードの唯一の直系。肩書は色々とつけることが出来るが、何であれそのことを考えると、ふっと笑みが浮かぶようになった。穏やかで、甘い幸福感。それを母性と呼ぶか否かは定かではないが、すこしだけ、背筋が伸びるような感覚と、動き始めたばかりの命に対する気遣いが生まれた。我が子という存在を、やっと実感出来るようになった。

 そんなアラベラ・アデライドの姿を、夫であり子供の父親であるエドガルドは、泣きたいような気持で見つめていた。何故ならばそれこそが、狂おしいまでに求めていたものであったから。

 すこしだけ、ふくらみ始めた腹部に頬を寄せると、時折その中の赤ん坊が動くのがわかる。その度に、こみ上げる幸福感で息が詰まる。そうしていると、アラベラ・アデライドの手が黒髪を梳いてくれる。

「よく飽きないな。昨日でも今日でも、そんなに一気に変わったりしないよ」

見上げれば、いつの間にか着々と母になりつつある、ふくよかな笑みがある。それが、たまらなく愛おしい。

「私は貴女と違って、いつでも一緒に居られるわけではないのだから。このくらいは勘弁してほしいものだな」

そうやって返しながら、アラベラ・アデライドのするがままに任せていると、エドガルドはまるで、自分までもが幼い子供になってしまったかのように感じる。

 というよりも、やはり自分は、どんどん弱くなっているのだろうな、とエドガルドは思う。負うものを増し、着実に力をつけ、母にもなるアラベラ・アデライドに比すれば、特に。相変わらずいち臣下で、皇帝としてのアラベラ・アデライドを支えるにはあまりに微力。手放したくないものは増えるけれど、守るというよりはしがみついている。やっと手に入れた、妻が居て子が居る、ちいさな家庭。

けれどもそれは、ほかならぬ妻、アラベラ・アデライドの一存で、いつでも置き去りにされるものでしかない。いつも恐れている「その瞬間」は、あっという間にやって来る。

触れていた柔らかい手が、呆気無く離れていく。

「もう行くよ」

次は何の時間だったろうか。正式な即位はまだでも、アラベラ・アデライドは大陸を統べる皇帝だ。政務に謁見に視察にと、絶え間なくすべきことがある。合間に私室に戻ってきたのは、一応無理をしないように休みを入れているのと、恐らくはエドガルドを気遣ってのことだろう。彼が感じる、手放し難いという思いを、アラベラ・アデライドは察している。

 引き剥がされるような思いで、触れていた手と頬を離す。するともう、アラベラ・アデライドは凛とした皇帝の顔をしていた。

「それでは、また」

柔らかく甘やかだった先程の声音とはまったく別人のような、くっきりとした響きを残して、アラベラ・アデライドは去っていく。すべて分かっていても、呆然としてしまうエドガルドを、独り残して。

 

 諦めることだ、とエドガルドは己に言い聞かせる。いち家臣に過ぎないことを受け入れて、迂遠でも微力でも、それがアラベラ・アデライドのためになることを信じて働く。愛した女がただの女ではないことを認めて、望むように羽ばたかせる。考えもしなかったが、皇配とはそのようなものだと、リヒャルトの死以降夙に思う。

 自分は何を欲してアラべラ・アデライドの夫という立場を受け入れたのか。答えは簡単で、彼女に魅せられたからだ。恋に落ちた者の常として、その結果何が起こるかなど、考えもしなかった。ただ、彼女の側に在ることだけを願った。

 望んだものを得ることと、望むようにそれを持ち続けられることは、まったく別のことなのだ。客観的な事実として、それは理解出来る。心の底から望むからこそ、それが思い通りでないことが悲しいなどとは、蓋し、子供の言い草なのであろう。

 その末に、エドガルドは立ち上がり、文机の上に置かれた一通の封書を手に取る。未だ開封されてはいないが、内容は知っている。アラベラ・アデライドが決して喜ばない内容であることも。かれこれ半年近くも前から、それはその場所にあり、中身を曝されることも無いままに、置き去りにされてきた。

 早々に焼いてしまえば良かったのだ。エドガルドはそう思う。最初の頃なら、まだ、強いてそれが出来た筈だ。今となってはもう、それは敵わない。

「皇帝となるために使いこなすべきものは――」

最早返らない過去に想いを馳せながら、エドガルドは呟く。

「自制心、決断力、それから秘密」

そして、だから自分は、どのような血を引いて生まれたとしても皇帝足り得ないのだとは、敢えて言わなかったが。けれどもエドガルドは、何度でも繰り返し、己の弱さを思っている。アラベラ・アデライドが逆の立場なら、あの手紙は受け取るなり焼いてしまったことだろう。エドガルドがこよなく愛する、その素直さで、不愉快だと言って。

 それが出来なかったことが、疑うべくもなく、敗因なのだ。

 引き出しの中から小刀を取り出し、白い紙に当てて、封を切る。それはとても呆気無い動作であった。そしてエドガルドは、その内容が察していた通りであることを確かめると、今度こそ本当に、蝋燭の火に便箋を翳す。薄い紙はほどなくして端から燃え落ち、僅かな時間で跡形も無くなった。

「読まなかったことには、出来ないな」

炎がかすめていったせいで、指先が痛む。その痛みを他人事のように思いながら、エドガルドは瞼を伏せる。閉ざされた闇の中にアラベラ・アデライドの笑顔と、まだ見ぬ我が子とが見えたが、それはもう、随分遠いもののように思われた。

 

 ユグドラシル帝国の慣習では、皇帝のための服喪は百日とされ、明ければ速やかに次の皇帝の即位式が執り行われる。華やかな典礼というよりは実務的な儀式だが、アラベラ・アデライドにとっては、恐らく一生のうちで最も重要な儀式だ。

 その日までには、まだ若干の時間があり、それを待つ間に、アラベラ・アデライドは十七歳になる。もうひとつ、これは些か困ったことに、その頃には臨月が間近であり、ことによったら戴冠式の当日にでも、子供が生まれてしまう可能性があるという。これにはアラベラ・アデライドも苦笑するしかない。

「予定通りに生まれてくれることを、願うしかないな。まさか、さっさと出てこいとは言えないだろう」

アラベラ・アデライドはそのように冗談めかしたが、宰相のギュンター・ファルトマンは、些かも面白くないという顔をしてこのように返した。

「ご即位も、ご出産も、ともに御身の一大事であらせられます。茶化して終わることではないと、ご自覚下さいますように」

「そうだな、悪かった」

ファルトマンに言われると、アラベラ・アデライドは比較的、素直に応じる。

 アラベラ・アデライドの人生には、それを支えた何人かの重要人物が存在する。そのうち一人が、治世の前半を宰相として支えた、このファルトマンだ。アラベラ・アデライドとは十五歳違いで、この時三十二歳だから、ユグドラシル帝国の宰相としてはかなり若い。これに匹敵する年齢で同じ職責を全うした者は歴史上にも稀であり、尚且つファルトマン以外はすべて皇帝に連なる血筋の者だった。宰相に就任したのは、遡ること三年前。先帝リヒャルトによる抜擢であった。

 いや、抜擢というのは言葉が違うかもしれない。というのは、ファルトマンはリヒャルトによって見出され、いずれはアラベラ・アデライドの片腕として政治を取り仕切るために養成された政治家であったから。候補は一人だけではなかったが、ちょうど十五年前、彼が今のアラベラ・アデライドに等しい年齢で、リヒャルトが後継者について考え始めた頃、選ばれた数人のうちの一人だった。

 最初からそうだったわけではないが、宰相となってからは直接の師としてアラベラ・アデライドを導いてくれた政治家であり、彼女が摂政となったこの一年余りは、父帝リヒャルトよりも、夫エドガルドよりも、長い時間を共に過ごし、どこか兄妹のような関係にすらなっていた。

 ある意味では、エドガルドが望んだ地位を得た男であると言える。とはいえリヒャルトは、政治的な能力以外にも、ひとつのことを十分に考慮して、娘を支える宰相を選んだ。ファルトマンには十年前に結婚した妻と三人の子供たちを慈しむ、良き家庭人である。ものの初めから、アラベラ・アデライドの配偶という立場に、欠片ほどの野心も抱かなかったのである。

 アラベラ・アデライドの配偶を選ぶにあたり、リヒャルトが過ちを犯したとすれば、その男に何を望むかが、非常に曖昧だったことであろう。私人としてのアラベラ・アデライドを大切にするというだけならば、エドガルドで十分過ぎる。だが、その男が宮廷で何を欲しどう振る舞うかを、それほど深く考えたわけではない。皇配の名を汚さぬ程度に有能であれば、という思いしか無かった。その点にもエドガルドは敵っており、地道に研鑽を積んでいけば、二十年ほどかけて、ファルトマン辺りの地位までは昇れる可能性があった。だが、なまじアラベラ・アデライドに近いだけに、その二十年が、エドガルドにはあまりに長く感じられたのだ。

 ファーレンハイト王朝の男児は、皇太子以外は皆、一人の宮廷人として職務を与えられ、大陸のために働いてきた。それほど露骨な依怙贔屓をされた者はおらず、中には一生を軍人として過ごした者もあれば、財務官僚として勤め上げた者も居る。

 が、そこには歴然とした「扱い辛さ」が存在し、他の廷臣たちに気を使わせたのも事実だ。父帝が健在であれば、能力を評価され、然るべき地位に就くこともある。賢帝ヴィクトールは英雄帝ジークフリードの宰相を長く務めたし、大帝アンドレアスと皇后アルマの長子ルードヴィッヒは大将軍位を全うした。しかし、ルードヴィッヒの弟ユルゲンは、甥のフランツ・フェルディナンドが皇帝になった後は冷遇を受けた。後世の評価では、大臣級の地位を得て当然の実力者であったが、それ故に、甥の皇帝から恐れられたのである。そのようなことなど何も無くても、周囲の人間に多大な気遣いをされる存在ではあったし、父帝が周囲に過剰に気を使った挙句、不当な地位に甘んじた皇子も居ないではない。

 そうなることを、エドガルドは恐れていた。

 ファルトマンという男を選ぶにあたり、払ったほどの注意を払ったなら、恐らく彼は、アラベラ・アデライドの夫とはならなかった筈だ。その代わりに有能な一人の臣下として、己の存在を全うしたことだろう。

 結局そうはならなかったのは、リヒャルトの不明、或いは老いの産物である。

 ひたひたと忍び寄る終わりの足音が、聞こえていなかったわけではない。そしてまた、その時間を終わらせることも、出来ないではなかった。

 そうしなかったのは、無論「その方が効果的だ」という打算もあってのことだが、それ以上に、受け入れがたいその現実を、一日でも先延ばししたいという、アラベラ・アデライドの切望の産物でもあった。事実、ファルトマンは終わらせようと言ったのだ。だが、アラベラ・アデライドは受け入れなかった。ユグドラシルの妻と称した彼女の、ぎりぎりの我儘だったと言えるだろう。

 「その日」を待つ間に、アラベラ・アデライドは皇帝の証である紋章入りの指輪を、左手の薬指に合わせて造らせた。その日――自らの戴冠式の日、アラベラ・アデライドはエドガルドとの結婚指輪を外して式に臨んだ。時代の始まりと、終わりのために。

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