摂政皇太子アラベラ・アデライドの懐妊は、吉報として大陸に遍く届けられた。返ってくる声は祝福のそればかりであったが、中でも齢七十を過ぎてから初孫を得たリヒャルトの喜びようは度を越していて、病床で人目も憚らず滂沱と涙を流した。

 それを見たアラベラ・アデライドは、これですこしは親孝行になるかと安堵した一方で、無残なほどに、父帝の老いを突きつけられた。 

 「認めたくは無いが…長くはないな、父上様は」

報告の後、自室に戻ってから、アラベラ・アデライドは深々と溜息をつき、脱力したように寝台に身体を投げ出した。彼女がこういう投げ遣りな態度を取ることは珍しい。

「あの、見苦しいほどの喜びようを見ただろう?抑制が効かない…理性が衰えておられるのだ。あの…父上様が」

その言葉は、次第に独白めいてくる。「あの」父親が「どの」父親なのかも、エドガルドは知らない。

 そしてまた、最愛の父に対する突き放した態度が、エドガルドを驚かせた。誰に言われるまでもなく、父一人を家族とし、深い愛情を受けて育まれたアラベラ・アデライドは、父帝リヒャルトを誰よりも尊敬し、慕っていた。そのことは、傍目に一目瞭然であったし、何も見聞きしなくても有名な話でもあった。

 その父のことを、まるで耄碌したと言わんばかりの口ぶりだ。まして、娘の立場であれば考えたくもない、死という言葉を、遠慮した風も無く使ってしまう。随分冷たいのだな、とエドガルドは思ったが、流石にそうは言えない。黙って傍らに腰掛け、指先で濃茶の髪を梳く。

「寂しいのか?」

それも、本音には違いないと思って言った。

 アラベラ・アデライドはしばらく、黙って顔を覆っていた。それから投げ出すようにその手を外して、茫然と呟いた。

「寂しい、と言うのかな。残酷、だと思っているのかな。がっかりはしている…大きな父上様だったから。私が摂政皇太子などと名乗っていられるのも、あの方が重石として機能しているからだろう。それが外れたらどうなるか、怖いから見たくない、という思いもある」

それは、娘というより実務上の後継者としての発言だ。正しくその通りであろうとは思えるのだけれど。 

 この場における自分の役割は何なのか。エドガルドは己に問いかけるが、返ってくるものは何も無い。アラベラ・アデライドに向けた言葉すらも、穴の中に吸い込まれていくように感じる。

「貴女は…時々、男になるのだな」

そうして、茫然とした瞬間に、そんな言葉が出た。

「そうかもしれない。これまで、大陸の統治者という役割を担ったのは、皆男だった。それをやろうとする以上、男になるのかもしれない」

けれども、自分で言いながら愕然としているエドガルドに対して、アラベラ・アデライドはまるで、当たり前のことをふと思い出したかのように、淡々と答えた。

「ああ…そうかもしれないな。貴女は強いから。だが、くれぐれも無理はしないでくれ。一人だけの身体ではないのだから」

その冷淡さが、またエドガルドを追い詰めたが、ここで退くわけにはいかないと、必死で言葉を繋ぐ。アラベラ・アデライドに宿った命。それは間違いなく、二人が共有すべきものだ。

 しかし、アラベラ・アデライドは答えない。エドガルドは何かを手繰り寄せるように、濃茶の髪を絡ませていた手を、まだすんなりとしたままの腹部に滑らせる。

「赤ん坊か……そうか、だけどまだ、実感が無いな。何をどうしろと言う」

仕方ないなと言いたげな苦笑が、アラベラ・アデライドの唇を染める。

「何をと言って、侍医から言われているのだろう?きちんと食べて、眠って、走り回ったり重いものを持ったりしないで、身体を労われば良いのではないか」

言いながら、エドガルドは気付いてしまった。子供が欲しいと思っていたのは、まずはアラベラ・アデライドではなく自分だった。そして、それを得たからこそ、喜んでいるのもまず自分なのだ。アラベラ・アデライドにはまだ、そういうことかという程度の思いしか無い。それよりも、終わりつつある父の命と今上帝の治世、それに対する己の向き合い方が、より重いのだ。

 エドガルドは軽く溜息をついて、アラベラ・アデライドから手を離した。

「これでは、まるで逆だな。男というものは、赤子を授かったと聞いても、いざその顔を見るまで実感が持てずに、妻を苛立たせるものだと言われてきたが。どうやら私は違うようだ」

これ以上言ってはいけない。何を言っても詮無い。内心では何度もそう自分に言い聞かせているのだが、思いは喉元まで詰まっていて、吐き出さなければ溢れてしまう。けれども、吐き出したものを確かめて、自己嫌悪するのもまた自分なのだ。エドガルドは、先ほどからずっと、独りでその迷路に居る。傍らに居る筈なのに、アラベラ・アデライドの存在が途方も無く遠い。

 辛うじて、その途方に暮れた表情だけを、アラベラ・アデライドは拾い上げる。

「エドガルド」

今度はアラベラ・アデライドが手を伸ばし、自嘲気味の色に染まる、エドガルドの頬に触れた。

「私にはすべきことがある。そう言ってくれたのは貴方だ。それを、いつでも大切に思っているし、それは変わらない。そしてこれからは…この子を慈しんで、大切に育てていくことも、私がすべきこと、なんだな」

ひとつひとつの言葉を心に刻みつけるように、アラベラ・アデライドは言った。まだ実感が無いということが、最大の実感であったから、足りないものがあれば、それは自覚で補うしか無い。そしてそれしか、今はエドガルドのためにしてやれない。そう思えばこそだった。

 足りないなりの、その真摯さは、触れ合った肌を通してエドガルドに届く。

「…ありがとう」

掠れた声で、エドガルドは返した。

 それはただ、傷口を撫でられたようなものだ。エドガルドには分かっている。傷を癒すには何の助けにもならないが、気持ちの上で、すこしだけ救われた気がした。その程度のものだ。最も今は、それが無ければ何かが切れてしまう状態にあるのだけれど。

「煩わせてすまなかった」

精一杯の見栄で、そう言った。そんなことをしている場合ではないかもしれないが、そのくらいの虚勢を張らないと、それはそれで倒れるように思えたのだ。嘘でもいいから、自分を支えているものが欲しい。

 そんなエドガルドの屈折は知るまい、アラベラ・アデライドは勢いをつけて起き上がった。どうしたのかと問う夫に対して、笑顔で返したのは

「やるべきことをやる」

という、迷いの無い言葉だった。

 一日の公務は既に終わっているが、アラベラ・アデライドはこのところずっと、過去の議会の議事録を読んでいる。帝国の歴史の中で、どのような議題が持ち上がり、どのように議論され、何が皇帝へと奏上されたのか。また、皇帝がその意見をどのように取り入れ、あるいは入れなかったのか。皇帝という重石がついた摂政皇太子ではなく、自らが最終責任を負う皇帝という立場になる。幼い頃から示され続けた未来がいよいよ近いと知っているから、アラベラ・アデライドは勤勉だった。

 公平な目で見て、アラベラ・アデライドに傑出した政治家としての才能があるとは、エドガルドは思わない。そして、彼自身は与り知らぬことながら、譜代の重臣たちの意見も、その線で一致していた。それでも彼女が大過無く為政者としての務めを果たせるのは、無論、父帝リヒャルトという後見人が居て、支えてくれる家臣にも恵まれているからだが、それ以上に、向かう姿勢が違うからだ。

 アラベラ・アデライドは皇帝になるために生まれたわけではないが、根本的にそのために育てられた。年齢に比して大きな知識と経験を与えられ、それに相応しい権限と舞台を得て、そこに全身全霊を投げ出している。命懸けでという言葉は軽く響くが、アラベラ・アデライドのそれは、まさしく命を燃やすような働きぶりだった。かといって、消耗していくのではない。太陽が輝くように、そうすることで力を生み出し、周囲に与えさえする。常に前向きで、働くことを心の底から喜び、そのためには、いかなる努力も惜しまない。その姿勢は、王朝歴代の皇帝たちの中でも屈指のものであり、敢えて比較するなら、英雄帝ジークフリードのそれであっただろう。

 その瞳の色に示されるまでもなく、確かにアラベラ・アデライドは英雄帝の直系なのだ。

 引き比べて、自分はどうなのか。由無いことと知りながら、エドガルドはつい、考えてしまう。持って生まれた才能は、アラベラ・アデライドよりあるのではないか、というのが、一応の自負だ。それほど自惚れてはいない。だが、現に今、こうして立ち位置に大きな差がついている理由は何か。なまじ聡明なだけに、エドガルドにははっきりと見えている。

 ひとつは、明らかに与えられたものの差だ。エドガルドとて、人並み以上に上昇志向はあり、能力を身につけるためには、努力を惜しんできたつもりは無い。それでも、アラベラ・アデライドほどには身を投げ出せない。

 恐らく、アラベラ・アデライドはいざとなれば、父帝リヒャルトも、夫である自分のことも、捨てていけるに違いないと、エドガルドは思っている。そのことを躊躇うだろうし、悲しみ、苦しみもするだろう。冷血な人間ではないのだから。だが、出来ない決断ではないと踏んでいる。極論を言えば、そこの差だ。すくなくともエドガルドには、アラベラ・アデライドは切り捨てられない。実家であるドゥカーティ家も怪しいものだ。

 そして、もうひとつ――仮に、アラベラ・アデライドほどの情熱を持って力を蓄えても、あくまで一家臣に過ぎないエドガルドには、それほどのものは要求されない。仮に実力があっても、誰もそれを知らないし、知っていても使ってくれない。出しゃばれば叩かれる。それが、臣下に生まれた運命だ。加えてエドガルドには、「いち臣下に過ぎなくても、皇太子の配偶」という肩書がついて回り、同世代の他の者たちよりも慎重な行動が求められる。

 もし、自分がアラベラ・アデライドの立場であれば。或いは、摂政皇太子の配偶として、何か別な地位を与えられていたら。もっとあれが出来る、これが出来ると、妄想すると止まらなくなる。雑念で、息が詰まる。

 アラベラ・アデライドが大量の資料束を抱えて一心不乱になっている傍らで、エドガルドはすべきことを失っていた。出来れば、その役割を代わりたいと、身悶えするほどに思う。自分には、それを使える能力も気概もある。そしてアラベラ・アデライドには何よりも身体を労わって欲しい。

 ことここに至って、エドガルドは己の陥った陥穽に気が付いた。

 アラベラ・アデライドには二つの顔がある。近い将来、大陸を統べる皇帝になる顔と、素直な笑顔の一人の少女。どちらも確かに彼女のものだけれど、前者の方が圧倒的に大きな割合を占めている。実際に面に出ている時間、本人の中での比重、周囲から要求される程度。すべてが、皇帝たるべきアラベラ・アデライドなのだ。

 そして、エドガルドが最初に魅了されたのも、その面だった。自信に満ちて力強く、太陽のように輝いている。まだ根拠は無くても、それを引き寄せるだけの何かを、持っているように見えた。皇帝とは、こうあるべきかとさえ思った。この皇帝になら、全力を捧げて付き従える、支えていけると。

 だが、今のエドガルドは若輩のいち臣下に過ぎず、その位置までは遥かに遠い。

 そして、その輝かしさに触れていたからこそ、アラベラ・アデライドに近づき、その無邪気さに触れた時に戸惑った。これではただの子供ではないかと。

 けれど、その素直さで一途に愛された時、それを可愛らしいと思い、心動かされて、惹きつけられた。一生かけて守り通し、慈しみ抜きたいと思った。そうして何人かの子に恵まれ、心穏やかな家庭を築いてゆきたいと。

 その芽は無いではない。だが、今のアラベラ・アデライドにとっては、脇に置いておける程度のことなのだ。

 世継ぎをもうける義務を負いながら、アラベラ・アデライドが子供というものに無頓着であったのは、恐らく今はそこまで意識が回らなかったからだ。逆にエドガルドがそれを熱望したのは、そうでもすれば、アラベラ・アデライドの目がすこしは家庭の側に向くのではないかという、一縷の望みからだ。

 一人の人間が持つ二つの顔を、二つながら愛していても、望んだものが返ってくるという道理は無い。寧ろ自分はいい面の皮ではないか。そう思うと、苦い笑いがこみあげてくるが、それらはすべて噛み殺さねばならない。そうして殺された感情が、エドガルドの中でどろどろと渦を巻き、どす黒くわだかまる。

 澱みを溜め込み、濁った視界の向こうでは、何も知らないアラベラ・アデライドが一心不乱に資料を読んでいる。その横顔には翳りが無く、双眸には光が宿っている。

 アデライド、と声をかけようとして、エドガルドは唇を噛んだ。せっかく一生懸命なのを、邪魔してはいけない?闇が光に手を出してはいけない?自分が触れば穢してしまうような気がする?それとも、今触れたら感情に任せて何をするか分からないから?

 この夜が明けることを、エドガルドは切に祈った。朝が来ればまた、目指すものからはいかに迂遠でも、とにかくすべき仕事がある。一度眠って目覚めれば、すこしはこのどす黒いものが浄化されるような気もする。

 「ある」としか言いようの無いものを前に、「無い」「見えない」「見ても仕方無い」などと言い張り、断固として直視しない。そこには何の意思の疎通も無かったにせよ、エドガルドとアラベラ・アデライドは、お互いがお互いに抱く不安と不満を、こうして処分しようとした。

 もし、誰かがそのことを指摘出来ていたら。或いは、どちらかがぼろを出して、心に溜め込んでいたものを零していたら。仮定は何とでも出来るが、詮無いことだ。

 そして、事態が決定的な局面を迎えるまで、あくまでも表面上は、平穏な時が流れていった。

 その、仮初めの時間の終わりを告げたのは、他でもなく、次の朝早々に降りかかった、皇帝リヒャルト危篤の報であり、その日のうちに起こった崩御という事態であった。

 こうしてアラベラ・アデライドは十六歳の身で、名実ともに大陸の統治者となったのである。親の無い子にも、間も無く子を迎える母にもなったけれども、それはまた、別の話だ。

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