ファーレンハイト王朝ユグドラシル帝国の統治に特徴的なのは、賢帝の法に定められた、議会の存在であろう。議員は大陸全土から人口ではなく行政区画に応じて、皇帝により任命される。例えば大陸の西バグワットは、面積は広いが砂漠がちで、人口は決して多くは無い。けれども、そのことが不平等に繋がってはならぬとの賢帝の考えから、東や南と同数の議員を割り振られていた。議員には五年の任期があり、働きぶりに応じて、再任されたり罷免されたりする。基本的には能力のみで選ばれ、世襲は許されない。敢えて言うなら、息子が特に有能であり、父に続いて任命されることが、稀にはあったが。

 彼らは大陸の各地、己の担当する地域と帝都ゴットハルトを半年おきに行き来し、その地方の長官たちと、中央との橋渡しとなる、様々な折衝を行う。政治的な決定の多くは、議会での議論を参考に、皇帝が行った。議会の意見はあくまで参考であるとの位置づけではあったが、一人二人の暴君を除いて、議会の意見をまったく蔑にするような皇帝は存在せず、大陸国家を支える大きな力となった制度であった。

 因みにエドガルドの実家ドゥカーティ家は、祖父の代には長年に渡ってこの議会の議員を努めた家柄であった。

 アラベラ・アデライドは十二の年から、皇太子として、父帝の傍らで議会を傍聴するようになった。基本的に発言は許されていなかったが、気になったことがあれば、持ち前の素直さで、後から議員本人に質問に行くことは、しばしばあった。無論、後から非公式の場で、父帝リヒャルトから意見を求められたりもしている――無論それは、父が娘に課題を課しているのであって、実際に採用されたことは殆ど無いが。

 

 「皇帝になるためには、使いこなせねばならぬものが幾つかあるのだ。そのひとつが議会」

一日、エドガルドに向かって、アラベラ・アデライドはそう言った。エドガルドは軽く頷き、その、あまりの真顔ぶりに苦笑する。

「それは、議会の結論を己の有利に導ける、という意味でか?」

「いや、そもそも議会の結論に、皇帝に対する拘束力は無いのだから、それは必要無い。要は議会の場に集う人間から、いかにして有益な情報を引き出し得るか、ということだ。英雄帝陛下の御意もそこにあった」

一方のアラベラ・アデライドは変わらず神妙な顔つきで答える。

「なるほど、確かにそういう意味では、歴代の皇帝がたの多くが、議会を使いこなしてきた、というわけだ。秘訣は?」

「自分が何を知りたいかを、まずよく知っておくこと。でも、それに囚われないこと。情報は幅広く何でも取り入れて、後できちんと整理し分析すること」

エドガルドは頷いて、アラベラ・アデライドの頭を撫でた。

「上出来だ。必要な情報は、案外気が付かないまま、近いところにあったりするからな」

アラベラ・アデライドは頭の上の手を柔らかく払いのける。エドガルドに触られるのは大好きだけれど、子供っぽく扱われるのは好きではないからだ。

 二人が向かい合ってこういう話をするのは、私室に限られる。公式には、エドガルドは未だ鎮護府付きの一武官に過ぎず、政治に関して発言する権利を有していないからだ。

 アラベラ・アデライドは寝台の端に腰掛けて、長い濃茶の髪をもてあそんでいる。多忙を極める摂政皇太子の持ち得た、僅かな無聊の時間だ。一方のエドガルドは、机に向かって私的な手紙を書いていた。

 小さな欠伸をして、エドガルドはペンを置き、書きかけと思しき手紙を引き出しに片付けた。

「眠いの?」

アラベラ・アデライドが問いかけると、エドガルドは気の無い調子で頷いた。

「確かに、そろそろ眠った方が良いかな…だが、せっかくだから訊いておこう」

そう言いながら、エドガルドは席を立ち、アラベラ・アデライドの隣に腰掛ける。

「皇帝になるために、使いこなすべきもの、とは?」

問いかけながら、深くアラベラ・アデライドの双眸を覗き込む、その黒い瞳には、久しぶりに見る、鋭い野心の輝きが宿っていた。アラベラ・アデライドは惚れ惚れとそれを見返す。

「幾つかあるが…そう簡単には教えられないな」

そう簡単にはいと言わないのが、強情娘の強情娘たる所以だ。無論エドガルドもそんなことは分かっているから、穏やかに微笑んでまた返す。

「また悪い癖が出たな。言ったところで減るものではあるまいに」

「いいや、案外減るかもしれない。そうなったら、どうしてくれるのだ?」

「万が一そんなことになれば、減った分くらいは、私が背負うさ。それでは駄目か?」

エドガルドがそう言った瞬間、アラベラ・アデライドは、いかにも勝ち気にそびやかしていた肩を、軽く落とした。浮かんでいた笑顔が、寂しく翳る。

「駄目なのだ、エドガルド。皇帝たる者の重荷は、余の誰にも軽くは出来ない。敢えて言うなら、その後継である皇太子が、一部を引き継げるくらいだ…ちょうど、今の私が御父上の代わりをしているように。すくなくとも貴方には無理なのだ」

 その一言は、些かならず、エドガルドを鼻白ませた。確かに、事実には違いない。だが、夫である男に向かって、こうもはっきり、「お前では駄目だ」と言い切るのだ。しかも、相手が自負を持っている、持ちたいと切望している分野において。そしてアラベラ・アデライドはその酷薄さを感じもしない。或いはそれは、彼女自身がもっと過酷なものを正視しているからこその無神経かもしれないが。

 しかし、流石にアラベラ・アデライドも、自分が言ったことがエドガルドの癇に障ったことは、即座に見て取った。

「そうだな、皇帝が使いこなすべきものとは、例えば、」

けれど、自分が間違ったとは、露程も思わない。だから、謝ることはせず、素知らぬ顔で次の話題を切り出す。すこしはエドガルドを立てるために、彼が望む話をする、というやり方で。

「基本的なところでは、時間とか、己の感情とか。兵力だの経済だのは、必ずしも皇帝本人が使いこなす必要は無いし、場合によっては人も、すべては使いこなす必要が無いものだとも思う」

多少は思うところがあるのか、その口調は微妙に饒舌だ。エドガルドはその裏にあるものを推し量りながら、気を取り直して耳を傾ける。

「そう考えると、誰しもが使いこなさねばならないものを、使っているだけ、かもしれない。ある意味では、だけど」

けれども、そう言うアラベラ・アデライド自身、話すべき内容をまとめきれていないようだ。舌が回っている割にはよく言葉を切り、切ったと思えば早口になる。

 エドガルドは苦笑し、手の甲で軽く、アラベラ・アデライドの額を叩いた。

「アデライド、悪い癖だ。『黙る』ことを覚えた方がいい。口を開けるのは、言うべき内容が固まった時だけにしろ。少なくとも、『勝つ』ことを考えるなら」

強情娘は、後手に回ることを嫌い、沈黙を苦手とする。そんな程度のことは、エドガルドならずとも理解しているのだが、面と向かってそれを言うのは、今や父帝リヒャルトではなく、夫エドガルドの役割だ。

 一瞬、淡紅色の唇が尖り、そしてゆっくりと、花のようにほころぶ。

「皇帝となるために使いこなすべきもの――『黙るべき時』と『言うべき時』をわきまえること、だな。内容より、時と場の方が重いこともある」

それでも、素直にありがとうなどとは言わないのがアラベラ・アデライドの性格だ。それでも相手を喜ばせてしまうのは、浮かぶ笑顔がとても素直で愛らしいからだ。そういう時、紫がかった青の瞳には、子供のような曇りの無い光が宿る。まるで、その奥にある心のすべてを、曝け出しているかのように。

「そうだな、確かに、最良の決断も時を誤れば最悪の決断になり得る」

エドガルドは苦笑し、強情娘の言葉を受ける。それが己の度量だと思っているからだ。

 そしてエドガルドは、無造作に寝台に身体を投げ出した。

「本当に、そろそろ眠った方が良いかな。減る、減らないに関わらず、知らずとも良いことに首を突っ込んでしまった」

そうしてさりげなく、切り出した話題をも投げ出した。この話をしている間、何度か刃の上を滑るような、危ない感触があった。これ以上続けて、本当に怪我をしては元も子もないと思ったからだ。

皇帝――その言葉は、アラベラ・アデライドとエドガルドの間では、致命的なほどの温度差で響く。それは、アラベラ・アデライドにとっては、三歳の時に与えられた天命であり、父帝リヒャルトとの絆を繋いできたものだ。己が人生を懸けるべき役割であり、そのためにすべてを捧げつくすべき対象。だから、この言葉が絡むものを、アラベラ・アデライドは何よりも大切にする。時にエドガルドが呆れるほどに。

 一方のエドガルドにとって、皇帝という言葉は特に意味を持たない。何をどう足掻いても、自分のものにならないからだ。そういう地位が、この大陸にはある。それだけの現実である。それよりも、己がどのような官職を得て、何を成し、結果としてどこまで上り詰められるか、それが重要だと思っている。

 アラベラ・アデライドは、己のこだわりを、あるがままに大切にして欲しいと望む。 

 けれども、エドガルドには、そもそも何故そこにこだわるのかが分からない。

 迷わずに互いを最愛の存在と呼び合っても、話してはならないことがある。それは時折、二人の中で不穏なたゆたいを見せる。

「皇帝、か――」

口では寝ると言い、確かに眠気もあるのだが、不思議に冴えてしまった目で、エドガルドは夜の闇を透かし見る。目が慣れてくると、天蓋の裏側だの、端から垂れ下がる房だのが見えるのだが、すべてが曖昧模糊とした暗い色に包まれて判然としない。

 眠気は確かにある。こんな鈍った状態で何かを考えない方がいい。そんな思いとは裏腹に、エドガルドの頭はゆくりない思いを巡らせる。どうやら、それらを制御する理性までも、かなり緩んでいるようだった。

 エドガルドは、皇帝というものを、頭の上の蓋か何かだと思ってきた。彼自身というより、地方の有力者としての自負を抱くドゥカーティ家の空気がそんなものだったかもしれない。自分たちは、持てる力に任せて何処まで行ってもいいのだ。ただ、皇帝という蓋がそれを抑えているだけで。

 その蓋を、疎ましいと思ったことは、エドガルド自身はまだ無い。若さ故、その蓋に近づいたことが無いからだ。いっそ疎ましく思ってみたい、思えるところまで行ってみたいとは思う。

 ただ、そうなったら蓋を外したいかと言われると、杳として定かではない。ちょうど今、目の前に広がっている、模糊とした闇のように。ドゥカーティ家としては、蓋を外してみたい気もするが、単独ではその力も無いし危険も大きいと判断し、蓋と共存していくことを選んだ。野心よりも利益を優先すれば、そういう結論に達するのだろう。

 軽く吐息をついて、身体の向きを変えたのは、強制的に考えを止めたかったからだ。すくなくとも一時は確実に思考を断ち切ることが出来る。

 そして、横に向き直ればそこには、アラベラ・アデライドの寝顔があった。無防備な表情をしている時は、十六歳という年齢以上にあどけなく見える。

 だが、この幼ささえ残した少女の手に、大陸の全権が握られている。寄る年波には勝てないのか、父帝リヒャルトは最近、人前に出ることすら稀になった。今はまだ、リヒャルトの息がかかった多くの家臣たちに支えられてだが、アラベラ・アデライドが無難に政治を動かしているのにも、安堵しているのだろう。

いずれ彼女は立派な君主になる。卓越した才能があるわけではなくても、アラベラ・アデライドは皇帝になるためだけに生まれて、育てられ、支えられている人間だ。そのことを十分に自覚し、そのように行動している。皇帝たる者が使いこなさねばならないもの――幾つもあるのかもしれないが、見識と度量、そして自覚だと、エドガルドは思っている。アラベラ・アデライドは、まだ未熟ながら、その三つとも備えている。

 皇帝――その一言の周りから、エドガルドは離れられない。それは恐らく、彼に野心があるからではなく、アラベラ・アデライドの側に居るからだ。彼女の居ない人生など考えられず、それ以上に皇帝にならないアラベラ・アデライドはあり得ない。

 アラベラ・アデライドには立派な皇帝になって欲しいと思う。何度考え直しても、それは揺るがない。けれど、皇帝という存在、皇帝という概念が、エドガルドを苛立たせる。最愛の妻と、皇帝になるべき者。アラベラ・アデライドはふたつの顔を持ち、エドガルドを翻弄する。

 目を瞑り、私人に戻った時のアラベラ・アデライドだけを大切にして、自分は自分の高みを目指すべきだ。そうして十年もした頃に、皇配ではなくエドガルド・ドゥカーティとして、宮廷で一目置かれる存在になればいいのだ。その頃目を開ければ、アラベラ・アデライドは若き女帝として、輝かしく大陸に君臨しているだろう。そしてきっと、何人かの子の母になっている。そこまで辿り着いてようやく、自分は落ち着いて彼女と向き合えるのではないか。

 それならば、そこを目指すまでだという思いと、それではあまりに遠いという焦燥感が、眠気と混然一体になって、エドガルドの頭を覆い続ける。

 結局、その夜の眠りは、ただそこに存在していただけで、心身の疲れを殆ど癒してはくれなかった。

 

 答えの出ない迷いを持っているのなら、そんなものを見るのはやめてしまえと、恐らくアラベラ・アデライドなら言っただろう。その他に、出来ることも、悩まないやりようもある。どちらを選んでも悩むなら、その「悩む」という事実を度外視して選んでしまえば問題無いのだ、とも。

 そう言ってしまえることが、アラベラ・アデライドの幸福であり不幸でもあった。そう言えたのは、年齢に比してあまりに大きな仕事を与えられ、必死になってそれと組していたからである。そのことが、彼女の喜びでもあった。

 そして、後から思えばそれ故に、見なければならないものを見なかったのだけれど。

 ともかくも、その日もアラベラ・アデライドは議会の間で、並み居る議題と、それを話し合う議員たちと向き合い、財政だの農政だのという懸案事項に取り組んでいた。

 ふと、胃のむかつきが消えないことに思い至ったのは、昼過ぎのことだ。忙しさに紛れて昼食は摂りそびれていたのに、である。幼い頃からの習慣で、アラベラ・アデライドは僅かでも体調に異変を感じれば、侍医の診察を受けていた。

 この日も、念のためとだけ思ってそうしたのだが、下された診断は、身体の不調ではなく、懐妊、というものだった。

 アラベラ・アデライド十六歳、エドガルド二十四歳の、初夏のことであった。

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