アラベラ・アデライドとエドガルドの婚儀は、皇太子のそれに相応しい盛大なものであった。その日だけはと体調を整えて臨んだリヒャルトは、ついにただの好々爺と化した。家臣たちが慌てふためくほどの喜びようで、花嫁アラベラ・アデライド本人すらも驚いたほどだ。

 そしてアラベラ・アデライドは、時折うっとりと、美丈夫の夫を見上げていた。口では色々なことを言い、頭では更に色々なことを考えるが、心はやはり、一人の恋する少女であったから。

「私は幸せだ、エドガルド」

大輪の花が咲き零れるような、あでやかな笑みを浮かべて、アラベラ・アデライドは言った。

「これと見込んだ相手を夫に持つなど、皇帝の娘に生まれた身としては、過ぎた喜びだ。いや、男の身で皇太子に生まれていたとて、叶う望みではない。あまり恵まれすぎると、少々怖いな」

頬を紅潮させて、すこしはにかみ、恐る恐るという具合で、白い細い指をエドガルドのそれに絡ませる。その初々しさは、エドガルドを屈服させた、あの堂々たる皇太子の姿とはまるで対局にあるものだった。

 エドガルドはその姿に、かなり面食らい、些か戸惑い、幽かに苛立ちさえ感じた。この小娘は、自分が認め、受け入れたあの女とは違うではないか、と。

 そうかと思えば、摂政皇太子として政務に当たる時は、エドガルドを魅了したあの姿より更に隙の無い、殆ど男度然の表情をしていることもある。だが、その時エドガルドは、あくまで廷臣の一人としての立場で接しているから、「その他大勢」として向かい合うに過ぎず、何処か無感動にそれを受け止めている。

 いずれにせよ、あれほど輝かしい姿を、その後エドガルドは見ていない。

 「貴女は一体、何者なのだ?」

その夜、エドガルドは、夜の闇に向かって問うてみた。無論、それに対する答えは無く、闇を透かして見えるのは、あどけなさの目立つ寝顔ばかり。ことと次第によっては、自分の胸に凭れかかっている女にそう問いかけるのは、魅力的な状況かもしれない。けれども今のエドガルドには、苛立ちの方が先立った。

 その時ふいに、アラベラ・アデライドが目を覚ました。長い睫毛に縁どられた瞼が幽かに震えると、残っていた涙が零れる。その向こう側の瞳もやはり潤んでいる。夜の闇を挟んで、二対の視線が交わった。

「エドガルド…起きていたの?」

問いかける声が甘いのは、半分以上眠りの中に居るからだが、無意識の媚態に見えなくもない。愛を交わした後の、満ち足りた寝覚めであるから、基本的にそんなものだ、と言うことも出来そうだが。

 もし、この女が、単に配偶としてあてがわれただけの女であれば、と――エドガルドは夢想する。恐らくなどとは言うまでもない。文句なしに愛おしんで、宝としたであろう、と。

結婚前にも、経歴に傷をつけない程度には遊んでいたが、何かと言えば「嗜む」という言葉に相応しい関わり方が多かった。無論相手は慎重に選んだし、何をするかもそれなりに重んじた。とはいえ、すべては己の内面に経験値を蓄積するためであって、相手のために何かをと思ったことは無かった。

しかし、この女であれば、掛け値なしの「最愛の妻」だ。高みを目指すことに変わりは無かろう。しかしそれは、ただ己のためではなく、この女と、この女がいずれ産む我が子のためでもある。ただ慈しみ、守ってやればいいだけの存在であるならば。

しかし、現実には、上位者はエドガルドではなくアラベラ・アデライドだ。皇帝となり、大陸の支配者になるのは彼女なのだし、第一エドガルドは、その夫とは言ってもファーレンハイトを名乗ることすら許されていない。それは、歴代の皇帝の妻たちとは、また違った待遇であった。

そして、ファーレンハイト王朝の皇帝の子たちは、皇太子を除いては、他の貴族や有力者の子弟たちと同じように、官職を与えられて、宮廷に勤めねばならない。皇帝によって扱いは異なったが、それほど大幅な依怙贔屓をされた皇子が居なかったのは、厳然たる事実だ。それと同列にと言うことなのか、エドガルドの役割も、結婚前と同じものに据え置かれている。いつか、何らかの形で、皇太子、或いは皇帝の夫であることがものを言うこともあるだろうが、とりあえず、差し迫った時期にそれは無さそうだった。

もしかしたら自分は、相当因果な場所に、望んで来てしまったのかもしれない。エドガルドの脳裏には、しばしばそんな思いが去来した。

けれども、一方のアラベラ・アデライドは、夫のそんな複雑な心境など知る由も無い。生まれて初めて恋した相手を夫として与えられた幸せには、素直に酔っている。そして、それ以上に、摂政皇太子としての役割に邁進して、脇目を振ることなど殆ど無い。十六歳になったばかりの毎日は、考えようによっては過酷だったが、充実していることに於いてはこの上無いものでもあった。

見つめあったまま、上の空の体でいるエドガルドの頬を、アラベラ・アデライドの細い指がなぞる。

「何を考えている?」

気遣わしげに、けれど無邪気に問いかけるアラベラ・アデライドには、考え込むだけの暇も、恐らく今は無い。あるのはただ、積み上がっていく政務について、検討し考慮する時間だけだ。若さもあって、エドガルドの複雑な内心など、推し量る術も知らなければ、推し量ろうともしない。それは自然で、やむを得ないことだと、エドガルドは思う。そういう一途さまで含めて、自分はこの女を選んだのだ、と。

 頬の上に残る細い指を握り返すと、アラベラ・アデライドはいかにも嬉しそうに目を細めた。

「エドガルドは、時々難しい顔をする。思うことがあるなら言ってくれ。私に出来ることなら、」

そう言いかけた花のような唇を、エドガルドは荒々しくふさいだ。これ以上、くどくどと何か考えているくらいなら、ただひとつ本当に抱えている、愛おしいという想いに任せてしまえばいい。アラベラ・アデライドはいつものように、素直に身を委ねてきた。

 十六歳の少女の体は、流石にまだ幼さを残しているけれど、しなやかさも豊かさも、それなりのものを備えている。肌は滑らかで柔らかいが、その上に踊るエドガルドの指を、時には弾き返すような張りもある。幼さは、裏返せば暴虐とも呼べるほどの若さであった。

 そしてアラベラ・アデライドは、気性に限らず夜の中でも、この上なく素直な娘であった。年齢相応の恥じらいはするが、悦びを訴えるのには躊躇いが無い。愛らしい鳴き声は、程よくエドガルドの自尊心を刺激する。縋りつく細い腕と指先、仄かに染まる肌と、潤んだ瞳。そのすべてが、エドガルドが好きだと言っている。

「貴女は、余計なことを考えなくてもいいのだ」

熱を帯びた耳元に、エドガルドは囁く。同じことを、己の心にも念じながら。

「大陸を統べる者には、すべきことがある。今は、それだけでいい」

その言葉を聞くと、アラベラ・アデライドは、鼻にかかった甘い声で、うん、と答えた。そんなことは無い、お前のことも大事だとは――決して言えないアラベラ・アデライドである。それもまた、エドガルドが選んで、愛した女の真実である。

 それでもアラベラ・アデライドは、汗ばんだエドガルドの背に、そっと手を添えて微笑んだ。

「名前を、呼んで欲しい。二つ目の名前」

それは、エドガルドより先には、父帝リヒャルトだけが使ってきた、特別な名前だ。エドガルドは目を閉じて、額と額をくっつけた。面と向かって言うには、不思議と面映ゆい。

「アデライド」

背中に触れていた手に、柔らかい力がこもる。

「エドガルド、だいすき」

子供っぽいと言ってしまえば、それまでなのかもしれない。だが、摂政皇太子として大陸の全権を取り仕切る者の顔を知っていると、その落差がたまらなく可愛らしいとさえ思える。

「よく、知っている。貴女を見ていると、よくわかる」

そう言ってエドガルドは、アラベラ・アデライドを抱き寄せた。我ながら、呆れるほど甘ったるいことを言っているとは思うのだが、これ以外に、何をどうすることも出来ない。恋に落ちた者の本音など、そんな具合にしかなり得ないのだから。

 そのすこし後、アラベラ・アデライドの満ち足りた寝顔を見つめながら、エドガルドはつくづくと独白せざるを得なかった。

「アデライド、貴女は、一体何故……貴女なのだ?」

呟きは真夜中の闇に吸い込まれて散ってゆく。けれども、遅い眠りに堕ちてゆくエドガルドの胸中には、甘やかな幸福と、何かもっと苦い味わいのものが、混然として溶け残っている。

 

 アラベラ・アデライドが目を覚ましたのは、次の朝、まだ払暁前の時間だった。傍らのエドガルドは眠っている。霧の海を越えて届く太陽の光は淡く、視界の中はぼんやりとした影に包まれている。

 眠るエドガルドの横顔にも、同じ影が落ちている。指を伸ばして顔にかかる黒髪を掻きやっても、それが晴れることは無い。目覚めればまた、新たな一日が始まるというのに、その寝顔は何処か疲れて見えた。

 エドガルドを起こさないように、アラベラ・アデライドはこっそりと寝台から抜け出した。肌には温もりが残っているが、夜明け前の空気は冷たい。部屋着を羽織り、振り返ってもう一度見ても――やはり、エドガルドは影の中に居た。

 時間と、光の加減だけなのだと、何度も自分に言い聞かせるが、アラベラ・アデライドの心もまた、曖昧な影に包まれていた。

 恋をした相手と結ばれて、自分は幸せになった筈ではなかったのか。アラベラ・アデライドは己に問いかける。その通りだ、と己で答える。そのことに間違いは無いし、面と向かって見せてくれるエドガルドの心や言葉を、疑ったことなど無い。愛し愛されているというその感覚は、暖かで心地良い。

 それなのに、何故不安になるのだろう。もう一度己に問いかけるが、十六歳の少女でしかないアラベラ・アデライドは、それに答えるべき言葉を持たなかった。

 或いはこんな時、母というものが居れば、相談を持ちかけたりするのだろうか。ぼんやりと、アラベラ・アデライドは考える。母が居る、という感覚は、物心つく前に母を亡くした彼女には、どうしても実感出来ないものではあったが。

 アラベラ・アデライドの人生には、いつも父が傍らに居て、限りない愛情で彼女を包んでくれた。だからこれまで十六年の間、母の不在を嘆いたことなど無かったのだ。それどころか、不在を感じたことさえ乏しかったかもしれない。そのアラベラ・アデライドが、今、恐らく初めて、母が居てくれたら、と思っていた。そんな人が居てくれたなら、この不安を洗いざらい話してしまえるのに、と。

 是非も無いと、アラベラ・アデライドはかぶりを振る。無いものは無いのだから、そのことをあれこれと思い悩んでも何にもならない。そして、昨晩エドガルドも言ってくれたように、今の自分にはすべきことがある。まずはそれを、全うしなければ。そのことも、エドガルドも喜んでくれる筈だと、何度も己に言い聞かせる。本当は、そうと言い切れるくらいなら、こんなに不安には陥らないのだけれど。

 気が付けば、地平から太陽の光が差し、大陸を包む霧の海も、水位を下げている。アラベラ・アデライドはカーテンに手をかけて、晴れゆく世界を見つめた。そこに広がるものが――彼女が背負っているものの、ほんの一端だ。

 何かと言うと答えがそこに行きついてしまうのは、アラベラ・アデライドが、悲しいくらいに皇帝になるために育った娘だからだ。

 軽く溜息をついて落としたその肩に、温かな重みが載る。振り返るまでもなく、そこにはエドガルドが立っていた。

「おはよう」

見上げると目線が合う。その瞬間、アラベラ・アデライドは、殆ど反射的と言っていい具合に微笑んでいた。エドガルドの前では、いつも良い顔をしていたい。それは、恋に落ちた少女の本音であり、一途な性格はその思いをそのまま行動に落とさせている。こうしてアラベラ・アデライドは、不安な思いを口にする機会を、自ら封じていった。

 大丈夫何とかなるとか、自分にはすることがあるとか――満更嘘でもないことを言い訳にしては、乱れる思いを笑顔の内側に閉じ込める。それを成しうる気丈さと意志の強さを持っていたことが、アラベラ・アデライドに最初の悲劇を招いたのかもしれない。

 この時、それはまだ「萌し」以下の状態であったのかもしれないが。

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