燦々と光が降り注ぐ回廊を、軽やかな足音が渡ってくる。まるで踊るように。世の中には幾つか、聞き間違えようが無い音が存在するが、これもそのひとつだ。

「よく戻ったな」

 振り向きざまに微笑めば、何も身内にそこまでしなくてもと言うくらい、輝くような笑みが返ってくる。

「只今戻りました、兄上」

 誰に似たのか、兄妹の中でたった一人だけ小柄な妹が、そこに居た。ユグドラシルの摂政皇太子ジークムントと、妹たる皇女イーリスの、実に半年ぶりの再会である。

 何の加減だろうと、誰もが不思議に思うのだが、イーリスは四人の兄たちの中で最も年齢が離れ、親子と言った方が自然であるこの長兄に、最も懐いている。ジークムントもまた、自身の長子よりも二歳年長なだけの末の妹を、とりわけ鍾愛してきた。

 だが、ジークムントに言わせれば、理由など明白だ。幼い頃からずっとそうだが、イーリスは兄妹五人の中で、最も母アラベラ・アデライドに似ている。恐ろしいくらい前向きで、気が強く、いつも光の方を見ているような子だ。そしてジークムントは、その母に最も近く育った。ギュスターヴが家族に迎え入れられる七つの年までは、ずっと母と二人の家族だった。その前も、その後も、後継者として最も近くで母に接し、惜しみない愛情を注がれて、今に至っている。時には反発し、呆れ果て、怒りを覚えることすらあっても、母は揺るぎ無く母であった。その母の気質を最もよく受け継いだ妹が、近しいもの以外の何かになるわけが無い。

「あら、しばらく見ない間に、お疲れになって」

 そして、その妹は、開口一番にそんな憎まれ口を叩く。悪意など微塵も窺えない、ごく鮮やかな笑みに添えて。張り倒してやろうかと思う側から、毒気を抜かれてしまう。そんな無法ぶりも、母によく似ていると言うべきか。

「誰かと誰かが、私にすべて押し付けて、好き放題歩き回るからだ。責任を取って貰いたいものだな」

「いえいえ、それは兄上の取り分ですから、そのまま差し上げますわ。私は私の取り分を楽しんでいるだけですもの」

 無論、兄の下手な切り返しなど、意にも介さない妹である。

 しかし、この妹の取り分も、決して安易なものではない。そのことは、ジークムントもよく知っている。三人の弟たちもそうだが、皇帝の子として生を受け、長じては兄を皇帝として戴く身として、果たすべき役割を持て。それが、母アラベラ・アデライドの、口には出さなくても明らかな教育方針であった。

 熱血漢の傾向がある第二皇子ギュンターは武官として、沈着冷静を以て鳴らす第三皇子イザークは経済官僚として、博識で知られる第四皇子コンラートは法学者として、それぞれ兄を補佐する立場にある。男子が四人も居れば跡目争いの心配もしなければいけないところなのだが、不思議なところは父ギュスターヴに似たものか、この三人は何故か政治的な野心に乏しく、己の道を究めることに喜びを見出しているようである。

 そして――五歳の頃から十年に渡って、大陸のほぼ全土を渡り歩いたイーリスは、これからいわば「外交官」としての役割を担っていくことになる。赴いた場所を見て、人の話を聞いて、集めた情報を分析する。中央の意思を伝達する。齟齬が生じれば調整する。それは、皇帝の娘として生まれながら、一体どんな血を引いているのかよく分からず、大陸各地の言葉を操り、各地を転々として育ったが故に、大陸の特定の場所を故郷と思わないイーリスだからこそ、担える役目だ。イーリスは何者でもなく、だからこそ、誰のところにでも行ける。

 因みにその時イーリスは、南の地の特産品である更紗織の衣装を纏っていたが、それがまた、面白いほど似合っていた。イーリスは、何にでも化けられる。

 一方の兄ジークムントは、奔放な皇帝の摂政として、帝都に縫い付けられている。時折視察等で帝都を空けることもあるが、皇帝と皇太子がともに留守では様にならないので、成人して以降、大陸の北を離れたことは無い。

 そして彼は、何に化けることも出来ない。黒い髪と黒い瞳が語るように、父エドガルドの血がかなり濃いが、それでも大陸の北の人間以外には見えない容貌だ――歴代の皇帝の中では異彩を放つ風貌だとしても。

 いや、ただひとつだけ化けることが出来るとすれば、それは、記憶の底にも無い、父の姿にであろうか。実際アラベラ・アデライドは、稀ではあるが、目を細めて彼を見ていることがある。二十五で逝った最初の夫が長じていれば、或いはこのようであったろうか、と。

 確かにジークムントは、母親にはそう大して似ていない。鼻梁や顎の、少々頑丈そうな線はアースガルドの人間らしいとも言えるが、或いはエドガルドも年齢を重ねていれば、そのような険しさを加えていたかもしれない。それ以外は、鋭く涼やかな目元も、やや甘さを帯びた口元も、実によく、その面影を宿している。

 最も、当のジークムント本人は、そうなのか程度にしか、そのことを認識していないが。所詮顔は顔であり、取り替えることも、大幅に変化させることも出来ないのだから、と。

 

 ジークムントはその後も、何分かイーリスと立ち話をしていたのだが、ややあってイーリスが思い出したように、母が呼んでいた、と口にした。

「お急ぎではないとのことです。今日はこの後、特に予定は入れていないから、兄上のお時間がよろしい時に、私室の方へと」

 大陸を統べる皇帝陛下が、特に予定は無いだなどと、贅沢の極みのような発言だが、母も五十路に入っている。旅から帰ればすこしはゆっくりしたいだろう。そもそも予定が狂うことも十分考えられるのだから、帰着初日に色々と予定を入れておくのはまずかろう。であれば、今日一日の休養くらいは安いものだ。

 そんな詮無いことを考えながら、足の向くままに皇帝の執務室に赴くと、母は愛用の肘掛椅子に深々と腰掛けていて、ジークムントの顔を見るなり、薄っすらと目を細めた。

「忙しいだろうに、時間を取らせて済まないな」

「母上の我儘は、我ながら呆れるほど聞いて参りましたから。今更この程度は、何というほどのことでもありませんよ」

 さらりとそんな嫌味を口にしたら、母はごく穏やかに破顔し、それはそうに違いないと言った。

「ちょっと、こちらへ来てくれないか」

 用向きを聞こうとしたら、先んじて手招かれた。何事かと思いながら歩み寄ると、母は立ち会がり、息子の手を取って、何かを握らせた。

「これを、そなたに」

 温かい感触。そして開いた掌のものに、ジークムントは目を見張る。指輪。黒と銀で鷲の翼の紋章を象っている。物心ついた時には、母の左手薬指を占めていた、皇帝の証。

「……母上!」

 母が、何をしようとしているのか分からなかった。その指輪をしていない母など、見たことが無い。戯れに外して見せるような代物でもない。

「そろそろ譲っておこうかなと思って」

 狼狽える息子に対して、母はごく穏やかに微笑んで見せる。幼い頃、寝しなに絵本を読んでくれた時と同じように。

「何を仰っているのです」

「今すぐにとは言わんが、今から準備を始めて、万端整ったら、帝位はそなたに譲る。差し支え無かろう?」

 ジークムントには、すぐには二の句が次げなかった。ファーレンハイト王朝には、存命の皇帝が位を譲った前例が無い。数百年前の他国の歴史を繙けば、そのような例があることも把握はしているのだが。

 すると母は、その内心を見透かしたようで、にやりと笑う。

「前例の無い女の皇帝に、前例を求めるなよ。私は、それがいいと思った。だからそうする。それだけだ」

 確かに、現状でも政務のほぼすべては、摂政としてジークムントが担っている。アラベラ・アデライドの持ち分は、大陸各地への行幸と、最終的な承認だけだ。大体、その承認すら、息子がした決定を覆したことは無い。

「やりたいことが、色々あるのだろう。大陸の仕組みを、大きく改変するようなことが。それは、摂政ではなく、皇帝でなければやり辛い。分かっているから、手を出していない。ならば、手遅れにならないうちに、大権はそなたに譲るよ。だから好きにすると良い。私は気楽な立場になって、そなたのすることを見ているよ」

 英雄帝ジークフリードから、世代を超えて受け継いだと言われる、紫がかった青の瞳――心の底まで見透かされてしまいそうな澄んだ輝きが、真っ直ぐにジークムントの胸を射抜く。

 アラベラ・アデライドの言い分は、ジークムントの心の真ん中を、ほぼ正確に貫いていた。これまで十七代、三百年に渡って大陸を支えてきたのは、賢帝ヴィクトールが定めた法秩序であり、それを基に大帝アンドレアスが作り上げた体制である。が、これだけの時間が経てば、事情は変わり、どんなに優れたものも古びる。それは、十代の半ばで政治に携わるようになってから、夙に感じてきたことだ。

 いや――恐らくアラベラ・アデライドも感じている。ただ、拙速に変えては大陸を瓦解させることになると、慎重にすべてを整えてきてくれたのではないか。そのために大学を設立し、有為の人材を発掘し、法や政治や経済の研究を重ねさせた。だからこそ、ジークムントは参照すべき資料を得られたし、意見を問うべき相手にも事欠かなかった。様々な観点から賢帝の法を分析し、課題を洗ってきた。そろそろ、それを収穫すべき時だと、母は言っている。

「殺しても死にそうにない方だから、まだ随分先のことかと、たかを括っていましたが…ひとつ、肝心なことを忘れていましたね。母上は決して私に楽をさせてくれなかった」

 すべてを得心し、苦笑するジークムントに、母は満足げな笑みを返す。

「鍛えられただろう?感謝して欲しいものだ」

 五十路を迎えて、何人もの孫が居るとは思えない、悪戯娘のような表情。けれどもそれは、いつもこの人が浮かべてきた、慣れ親しんだものだ。

 皇帝の証である指輪を手に、いい年をして呆けた顔をしているジークムントに、アラベラ・アデライドは薄っすらと目を細める。

「私は十七だった…それを手にした時。腹にそなたを抱えて、そなたの父上の裏切りを知って――左手の薬指にあつらえたのは、今にして思えば、意地だったな」

 何があっても大陸を受け継ぐという皇帝の覚悟と、夫は要らぬからこの子は育てるという母の覚悟と。今の自分の半分の年齢の時に、そこまで思いつめた母の覚悟を、ジークムントは推し量れない。

「それで、いかがでしたか?帝国の伴侶という御役目は」

 そんな風に訊ねれば、母はあでやかな笑顔になって、返してくれる。

「楽しかったよ、とても、とても」

 それは、側で見ていて、ずっと思っていた。ジークムントはアラベラ・アデライドが即位してすぐに産んだ子だから、誕生よりこのかた、ずっとその治世を見つめてきた。そして、皇帝たる母アラベラ・アデライドの生き様を。

「…でしょうね。私から見た母上は、いつもこの上なく、活き活きとしておいででしたから」

 どうせ避けられぬ役目なら、喜びを以て受け入れたい。そう言って父親を口説いたのだと言った、あれは母なりの惚気だったのだろう。案外、可愛いことをするものだと、今なら思える。

 そうやって母が見つめ続けてきた、大陸でただひとつだけの視界を、受け継ぐ。すべてを担う重責とともに。それはやはり、軽々に出来ることではなかったが、無理だとも思えない。何時かは来ると思いつつ、まだ先だろうとも思っていたが、今だと言うなら、それも決して悪くない。

 何故ならば、あの輝くような瞳で見ていたものは、どれほどの困難を伴うとしても、やはり美しいと言えるだろうから。

「それで、御位を下りられたら、そこから先は何をなさるのです?」

「さあ…まだあまり詳しくは考えていないけれど、今とそう、大差無いのではないかな。心が赴くままに、適当に、大陸の各所を見て回るさ。今度は書類も追いかけてこないから、さぞ気楽だろうよ」

 事も無げな口調だが、実際その積りなら、確かに気が楽になるだけで、やることは変わらない。

「あとは、そなたが頂上の景色を楽しんでくれれば、それでいいさ」

 物心ついた時からずっと変わらない、華やかで、あでやかな笑顔。挑みかかるようで、心の底まで見透かされるような、澄んだ瞳。その輝き。我が母ながら見とれてしまうと、ジークムントは思う。

「さあ、どうでしょうか…私は母上ではありませんから。ですが、必ずや美しいものが見えるだろうと、期待しておりますよ」

 そう返しながら、掌の上の指輪を握り込む。白金に宿った体温が、じわりと肌に染みた。

 

 まったく、悪い冗談だった、とジークムントは思う。結局、アラベラ・アデライドはその後二度と旅立つことは無く、魂だけが天へと翔り去った。

 あれから半年ほどは、流石に譲位の準備だの式典だので帝都に居つき、何かと忙しくしていた。そしてジークムントの戴冠式が終わった後は、しばらくイーリスや孫たちに囲まれてのんびりしていたと思ったら、ある朝ふいに、起きてこなかった。その前の夜まで、何の前兆も無く、寧ろよく食べて、お気に入りの葡萄酒を干していたくせに、だ。

 驚かせるのも大概にして頂きたい。もうたくさんだ。いや、それとも、どれだけ驚かせてくれても構わないから、出来ればまだ、近くに居て、あの笑顔を見せて欲しかったのか。

 思うことは幾らでもあるのだけれど、それはそれで母らしかったのかな、という気持ちが、やはり一番強い。結局のところ、人が「こうあるだろう」と予測した通りになど、動けない人だったのである。

 そして今、鷲の紋章の指輪を手に、ジークムントは世界を見ている。歴史の重みに、やや歪みはじめた、霧の海に浮かぶ大陸を。その世界を、透明な光が降り注ぐ蒼穹と、大陸を抱く聖樹が包み込んでいる。

 それが最初の光景だった、と母が言った、その同じものを、自分も見ている。己にしか見えない世界の美しさを、その目に焼き付けながら、世界の行く末を思案している。

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