烈女帝アラベラ・アデライドの末子、イーリス・フォン・ファーレンハイト。ある意味ではその母の奔放さに相応しく、大陸の北と東、西の血を引いて生まれてきたその娘は、謎めいた容貌をしていた。母や兄たちよりは濃いが、黒いとは言えない微妙な色の肌と、褐色の髪。そして、その肌と髪の色を裏切る、天頂の空にも似た蒼い瞳。

 混血の子には美貌が多いとは、もうすこし時代を経てから認識される事実だが、イーリスはまさしくそのものだった。母アラベラ・アデライドの持つ、周囲を照らすような華やかさではない。北の端正さと、東の柔和さと、西の豪奢さを絶妙の配合で併せ持ち、本当は一体何処の血を引いているのか定かではない。その不思議さこそが、最大の魅力と言えた。長じてはもとより幼い頃から、イーリスの纏う空気は微妙な陰影を帯び、その色合いで見る者を幻惑した。

 とはいえ、気性はまさしく母親譲りの陽性で、表情は明るく、口数は多く、出会って間も無くに、最初の謎めいた印象を裏切られる。

 イーリス・フォン・ファーレンハイトはそのような娘であった。

 母アラベラ・アデライドは、遅がけの末子であり、子供たちの中でもひときわ自分に似ていたこの娘を、側から離したがらなかった。実際、五つの年には、「旅する玉座」の膝に載せて、帝都を連れ出していたのだから。

 その頃には、事実上の摂政皇太子として政務を預かっていた長子ジークムントは、最初はそれを止めようとしたらしい。だが結局、母が自分の言うことなど端から聞く気が無いことに思い至って、諦めたようだ。

「母上の言いなりと思うと癪だが、イーリスに経験を積ませると思えば、大したことではないさ。あの子が、兄妹の中では一番、母上に似ている。外の世界を見て回れば、案外面白いものになるかもしれん」

 親子ほど年齢が離れた――実際、彼自身と母の年齢差よりは離れている――妹について、長兄たるジークムントが言った言葉である。

 相槌を打ったのは、もちろん、既に居なくなった母ではなく、皇太子妃となったクラウディア。面白いものなどと言われたイーリスは、乳母に抱かれて、窓の外から手を振っている。まだ宮殿を出たことも無いくせに、外に行こうと言われれば双眸を輝かせ、怯えなど微塵も見せない。

「母上も、あのくらいの年頃には、あんな具合だったのかもしれないな」

手を振り返しながら、ジークムントが呟く。一方のイーリスは、視線の先に母親を捉えたらしく、乳母の手を振り払って駆けて行ってしまった。大したお転婆娘だ。

 そうして巡らした視線の先では、四十路を越えた母が、幼い娘を抱き上げている。どの子にも惜しみなくそうしてきたように、満面の笑顔を浮かべて。

 今度の旅の目的地は、ジークムントの最初の旅と同じ、東のメソティキオン。イーリスの父親が守護する都だから、顔を見せにという意味もあるのだろう。

 母が、妹の父親である男とその後どういう関係なのか、実はジークムントも定かには知らない。母自身は、イーリスが一歳になった頃には、再び「旅する玉座」の人になっていたし、東に足を向けたこともある。それ以外のところ、例えば西の砂漠辺りで落ち合ったことも、あったかもしれない。だが、母は何も言わないし、耳に入る噂があるわけでもない。どうでもいいと言えばどうでもいいが、よくもまあ、自分と幾つも違わない身で、そんな立場を引き受けたものと思うことはある。とりあえず、母と妹が幸せそうにしている限りにおいて、ジークムントには些末なことではあるのだが。

 

 何も考えていないわけではない。らしくなく、些か言い訳がましいが、アラベラ・アデライドはそんなことを考えていた。

 末娘のイーリスは、年が離れているからなのか、唯一の女児だからなのか、とにかく父親の違う四人の兄たちから可愛がられている。とはいえ、最初に、まだ赤ん坊だった彼女を置いて旅に出ようとした時は、誰も、何も言わなかった。要するに、誰もが通った道だから、ということだ。それに、例えずっと帝都に居たとしても、アラベラ・アデライドが母親として使える時間など、限られている。

 だが、今度は違った。五歳のイーリスを連れて出ると言ったら、全員が何かしら、含むところのある目をして、母を見た。唯一、長兄たるジークムントだけは、最初の一瞬そんな風だっただけで、どうぞご自由にと苦笑したが、やはり内心は呆れているのだろう。

 次兄ギュンターは、直情型の性格そのままに、何を考えているのだと食ってかかってきた。

 三兄イザークは、それは母上の勝手ですが、イーリスも苦労させられますねと、露骨な嫌味を言った。

 そして、イーリスからすればすぐ上の兄になる、四番目のコンラートは、深々と溜息をついた後、博識にものを言わせて、五人の子の母であるアラベラ・アデライドよりよほど詳しく、大人に比べて五歳児がどれほど弱く体力が乏しい存在であるから力説した。

 要するに、それぞれがそれぞれのやり方で、無いわけではない母の罪悪感を煽った。

 言われなくても分かっているよ、と、その度にアラベラ・アデライドは口中に呟いた。付きっ切りで目配りをしたわけではなくても、憎らしい態度を取った四人とも、手塩にかけた我が子なのだから。

 個人差はあるにしても、五歳の子供など、すぐに風邪をひくし、こじらせることもある。疲れ知らずに思えるのは、後先を考えないからだ。確かに一晩寝れば疲れを残さないが、体力を使い果たせば、昏々と眠って、金輪際目など覚まさない。

 そんな子供を置いて行くのが正しいのか、連れて行くのが正しいのか。

 行かない、という選択肢は存在しない。もう若くはなくても、老け込むには早かろう。動けないうちに歩みを止めたら、自分が自分である意味を失ってしまう。

 帝都の留守は、ジークムントに任せておけば間違いない。アラベラ・アデライドはその鋭い観察眼で、後継者たる長子の、優れた資質を見抜いていた。恐らく、為政者としての才覚は、ファーレンハイト王朝屈指のものになるだろう。だったら、早いうちから環境を与えて、存分にその才を発揮させてやれば良い。自分はただ、後ろ盾として要所を押さえるだけだ。その代わりに、自分でなければ行けない場所に行って、物事を見て、聞いて、それらを余さずジークムントに伝えてやれば良い。

 そういう埒も無いことを考えていたら、膝の上でイーリスがむずかった。

「ははうえさまー」

 ぶすっとした表情を見ると、どうやらもう、何度か話しかけられたらしい。

「はやくー」

 そして、そんなことを言って前に向き直る。

「早く…行きたいのか?」

「うん!」

 一も二も無いとは、こういう言い方のことだろう。子供らしい、きっぱりした口調で、イーリスは言った。

「父上に会いたいのか?」

 だが、その問いには、イーリスは答えなかった。父と言い、折に触れて話に聞かせてはいるものの、五歳のこの年まで、この子は父親に会ったことが無い。それに会いたいかと問われれば、そうでもないのが正直なところでは無かろうか。

 どうやら、そんなことは関係無く、母親と一緒に出掛けられるのが嬉しいらしい。まだ、宮殿の外を見たことも無いくせに。

 いや、だからこそ、外の景色を見られるのが、嬉しくて仕方ないのか。イーリスは手足をばたつかせ、母親の膝からはみ出してでも、何処かへ行こうとする。

 その姿が、ふと何か、懐かしいものに触れた。

 もう、かれこれ四十年近くも前のことになる、そう思うと少々気が遠くなったが、アラベラ・アデライドには確かに、思い当たる節があった。

 自分の、最も古い記憶。ユグドラシルの皇太子となった三歳の時、父帝リヒャルトの手に抱かれて、見上げた光景だ。吸い込まれそうな蒼穹を背に、一杯に広がった聖樹の緑。光に溢れていた、一番最初の光景。

 ここから先は、後付けの妄想かもしれない。だが、今のイーリスより更に幼かった自分も、こうして手を伸ばして、何かに触れ、何かを掴み取ろうとしていたような気がしてならない。その先に何があるかなど考えもしないまま、ただ何かに近付きたくて。知りたくて。

 その心赴くままに歩んで、気が付いたらここに居た。膝に抱いた末の子が、かつての自分と同じような顔をしていた。よくあることかもしれないが、符号めいているとも思える。

 そんなものは、こじつけだ。頭の中には、冷静に切り捨てる自分も居る。だが、かつての自分と重なる幼い娘の姿が、これでいいと、背中を押してくれるように思えてならない。自分が見たように、様々な景色を、この子にも見せてやれ、と。

 未だ外の世界を知らず、知識も持たず、それ故に何の先入観も無い。その状態で目の当たりにする世界は、どれほど輝いて見えることか。どんな刺激に満ち、どれだけの財産を、その心の内に積み上げられるのか。そんな風に考えるだけで、アラベラ・アデライドの胸は高鳴る。まだ何も知らなかった、少女の頃のように。そうしてまっさらに戻った心で見れば、自分の視界もまた、新たに拓けるかもしれない。

 虹を意味するイーリスという名は、ただ単に色々な血を引いているからという理由で付けたものだ。実際のところ息子たちには、そんな安直なと、一言二言の苦言を呈されたものだ。

 だが、今にして思う。この子は、虹色に輝く世界を見る子。そしてきっと、もう一度母の見る世界を虹色に輝かせてくれる子だ、と。

 そんなことを言えばまた、恐らく息子たちには呆れられるだろう。だが、今更それを意に介するアラベラ・アデライドではない。

「では、行こうか」

 その一言で、娘の幼い面がぱっと輝く。

「はい!」

 この上も無く歯切れの良い返事に満足して、アラベラ・アデライドはまた、一歩を踏み出した。

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