話の発端を、何時にすればいいのだろう。最初はただ、視界に入ってきただけの、それも子供に過ぎなかった。ファリス・セルウィウス。ニンフォニウム城代の息子だ。

 アラベラ・アデライドが初めてニンフォニウムに赴いたのは、三十歳の時。その時同伴したジークムントは十三歳、そしてファリスはひとつ年上の十四歳だった。父親が挨拶に来た時に、その後ろについて来ていたが、その時はそれだけだ。幼い頃から、どちらかと言えば大柄だったジークムントに比べて、随分小柄で細身であったから、もっと幼い子かと、アラベラ・アデライドは思っていた。

 次にアラベラ・アデライドがニンフォニウムを訪れるのはその三年後、砂漠に行った帰りのことだ。旅が多かったアラベラ・アデライドだが、中でも気に入って、時には少々無理をしてでも足を運んだのがメソティキオンの城塞なのだが、これもそんな類の来訪であった。

 記憶の片隅に辛うじて痕跡を留めていた城代の息子は、いつの間にか背が伸びていたものの、頼りないような痩身は変わらなかった。とはいえ、身のこなしに隙が無く、明らかに何らかの武術を修めていることは見逃せなかったが。

 そしてこの時アラベラ・アデライドは、この少年が砂漠の血を引いていることに気が付いた。肌の色が浅黒いのは日に焼けているせいかもしれないが、目元や口元の微妙な線が、直前に訪れた砂漠で多く見たものと重なり合った。

 母親が砂漠の出なのかと尋ねると、少年は白い歯を見せて笑った。

「はい。俺も、今も年に一度、必ず砂漠に行きます」

 少年らしい無作法を、アラベラ・アデライドは咎めようとも思わなかった。寧ろ、その素直さと物怖じしなさが好ましく思えた。

「大陸の、西と東の血を継いで、それぞれを行き来しながら、それぞれの遺産を受け継いでゆく…英雄帝ジークフリード陛下の、理想とした国民だな。羨ましく思うぞ」

「ファリスという名前は、ニンフォニウムの名に近い響きですが、砂漠の名前です。俺は、多分、気性は砂漠の民に近いので、とても誇らしい名前です」

「砂漠の気性、か。私は好きだな。誇り高くて自由…とても正直だと思う。そなたもそうなのか?」

「そうであると信じ、そうありたいと願っています。そうあれるように…努力します」

 その時アラベラ・アデライドは思わず手を伸ばして、自分よりも殆ど頭ひとつ大きな少年の、くせのある黒髪を掻き回していた。

「気持ちの良いことを言う子だ。気に入った」

 言いながら、心の片隅でしまったと思ったが、意外なことにファリスは、その手を振り払おうとしなかった。もしこれがジークムント相手だったなら、とっくに怒号が飛んでいた筈だ。

 ところがファリスは、その手を跳ねのけるどころか、耳まで真っ赤になって、強張ってしまった。大きく見開かれた目が、真っ直ぐにアラベラ・アデライドを見つめている。逆にアラベラ・アデライドが驚いて、慌てて手を引いた。

「あ、あの、失礼致しました!」

 すると、ファリスまで慌てて、しどろもどろに謝り出す。

「いや、謝るのは私の方だろう。つい弾みで、悪いことをしたな」

「悪いなんて、そんな、とんでもないです、陛下が謝ることなんてなくて、その…」

「何を照れている。自分の母親と同じくらいの相手に、そう赤くなることも無かろう」

「母親って、違いますよ、だって陛下は、」

 そこまででファリスは、言葉を呑み込んで俯いてしまった。黒髪から除いた耳の後ろ側は、血でも出るのではないかと思うほど赤い。

 そこで奥まで突っ込んでしまうのは、彼女の悪癖かもしれない。だがアラベラ・アデライドはファリスを逃がさなかった。手を伸ばしてその顎を掴むと、そのまま上向かせる。

「私は、何なんだ?言ってみろ」

 紫がかった青の視線が、真っ直ぐに少年を射抜く。顎に添えられた力は存外に強く、振り払うことは出来ない。細い喉がごくりと音を立て、ややあって、震える唇が音を紡ぐ。

「陛下は、お綺麗です。俺の母親は、大事な母親ですけど、もう、おばさんですから。陛下とは違いますよ」

 腹を括ったとでも言うべきだろうか。それまでの態度とは打って変わって、言葉に澱みは無く、視線も真っ直ぐだった。アラベラ・アデライドは艶やかに微笑むと、掴んでいた顎を放す。

「私の子供たちから見れば、私も立派なおばさんだろうよ。見慣れた顔が前にあって、腹が立つことはあっても、感慨は湧くまい。親子とは、そういうものだ」

 と、ここまでは素っ気無く、けれど最後は極上の言葉で締め括る。

「だが、その性根は気に入った。大人であれ子供であれ、正面切って相対してくれる男は好きだな」

「ありがとうございます!!」

 上ずった声でそう叫んだ瞬間には、ファリス・セルウィウスの運命は決まっていた。それは後に本人も認めたところだ。幼い頃から抱き続けてきた憧れが、あの時明確に形を刻んだのだ、と。

 無論アラベラ・アデライドが彼の存在を認めるのは、まだすこし先のことだ。

 三度目に彼女がメソティキオンを訪れた時、細身だった少年は、しなやかで美しい、獣のような身のこなしを纏って、目を奪った。

 皇帝を迎えたのは、背後に控える城壁に決して見劣りしない、壮麗な兵の一団。乱れの無い動きは、彼らがいかに鍛え抜かれているかを物語った。そして、その先頭に、その男は居た。

「お待ち申し上げておりました」

 アラベラ・アデライドの姿を認めると、白い歯を零して笑った。それがあの少年であると気付くのに、一瞬の間が必要だった。

「…一人前の顔をするようになったな」

「顔だけではありませんよ。ご覧に入れましょうか?」

 驚いた顔を見せると、それをあしらうように、余裕綽々の表情をして見せた。たった一年の年の差だけれど、留守を任せて来た息子より、随分と大人びていた。

「城壁の守備隊をよく整えているとは、報告を受けている。それ以上のことは良い。と言うよりも、これで十分だよ。帝都の守備隊にも、そうは劣らぬ」

 そう聞くと、かつての少年は、やっとその面影を取り戻して、悪戯っぽい、けれど満ち足りた笑みを浮かべる。

「お世辞は結構ですよ。予算が違うのだから、同じになる筈が無い。でも、最上級の褒め言葉を頂いたと思っておきます」

 生意気だと思った。けれど、焼き付けられた印象の鮮やかさが、それに勝った。

 それにしても何故、数夜の後に自室にやって来たあの男を、追い返さなかったのだろう。明確な答えは何処にも無いが、それも悪くない、とアラベラ・アデライドは苦笑する。

「何故と言って、こうでもしないと、貴女は俺のものにはなって下さらないでしょう?それだけですよ」

 と、悪びれずに言ってのけた。

「私が人を呼べば、すぐにそなたを不逞の輩扱いに出来るのだけれどなぁ」

「そうでしょうね。でも貴女は、そういう無粋はお好きでないのでは?」

「知った風なことを言う。そんなに生意気な子だったか?」

「いつまでも子供ではないということですよ」

 客観的に言えば、自分はとんでもない無礼を働かれている。早々に人を呼ぶべきだ。そんなことは頭では分かっているのだが、何となくその気になれなかった。どうしても嫌かと問われれば、そんなことも無いのだ。それよりもうすこし、この男の言うことを聞いていたい気がした。

「ファリス・セルウィウス。基本的なことを、幾つか教えてくれないか」

「あ、今」

 精悍な面を一気に幼くほころばせて、ファリスが笑う。

「初めて、その名前を呼んで下さいましたね。最初にお会いしてから、もう五年になりますけど」

 五年という、その数字を反芻してみる。自分にとっては、「メソティキオン」という点でしかなかったけれど、この男にとっては、繋がった時間だったのだ。

 確かにそれは、感慨深い事実ではある。だが、今の本題はそれではない。

「そなたは、私に興味がある、と言ったな。それは一体何時からだ?」

「最初からずっとですよ。子供の頃、初めてここに来た貴女を見て、なんて綺麗な人だろうと思った、それが初めです。熱病に罹ったのと同じでしょう。ただ、醒めなかった。と言うより、二度目に会った時に、より深みにはまってしまった」

 あの時、自分を見ていた双眸の、痛みより向こうまで突き抜けそうな清冽さは、アラベラ・アデライドもよく覚えている。ただ彼女は、一人の年長者として、その熱はいずれ醒めると信じて疑わなかったが。

「相変わらず、おばさんだとは思っていない、と?」

「それは大したことでは無いのではないですか。ただ、俺にとって貴女は、最初にお会いした時からずっと、美しい憧れの人なんですよ。是が非でも手に入れたいような」

 黒い瞳に、一段の熱がこもった。確かに、そういう瞳に見つめられるのは、快感ではあった。

「…私が俗人なら、それもいいかもしれない。だけど、残念ながら私には、色々立場があってね。目移りは許されないし、死ぬまで逃げられないよ」

 それを聞いたファリスは、いとも満足げに微笑んだ。

「それこそ本望ですよ。命を懸けたいと思ったもの、ですから」

 愛情ではない、と思った。今はまだ遊びに過ぎないと。そんなことをしている場合なのか。どう始末して落とし前をつけるか。そんなことも、考えないではなかった。五年前なら、いや三年前なら、こんなことはしなかっただろう。だが、その時のアラベラ・アデライドは、湧き上がった様々な試案を、さらりと払いのけて、流れに任せた。そのくらいのことは、赦して欲しかった。

 

 「…で、子供が出来たから、体裁を整えたい、と」

 顛末を聞き終えて、やや脱力感を覚えながら、ジークムントは問うた。家族を何よりも大切にしてきた母らしくない暴挙とも、母らしい奔放さだとも思った。

「そういうことだ。せっかく授かった子を、独りだけ庶子にするのは忍びない。でも、あの男の扱いは、ギュスターヴとはまったく違うよ」

 静かに微笑んで、母は返してきた。

「書類の上で、私の配偶と言うことにするだけだ。あれはメソティキオンを離れないし、皇配の称号を得ることも無い。家族には加わらない」

 確かに、その方がジークムントや弟たちはすっきりする。自分と大して年の違わない男をどう扱うか、悩まなくていい。

「ですが、それは彼にとって、とても不利益な扱いなのでは?」

「だから私は警告したし、それでもあれは踏み込んできた。だったら受け入れて貰おうじゃないか。どの道、砂漠の鳥は縛ったら死んでしまうしな」

 しゃあしゃあと言ってのけるその人は、やはり母だった。何の妨害も受け付けず、誰にも相談せずに肝心なことを決めてしまう。いつも自分たちを置き去りにするくせに、その一方で全幅の愛情を注いでくれる、矛盾した母。その同じ母を持つ子が、もう一人増える。それは悪くないと、ジークムントには思えた。

 それではとにかく、お体をご自愛下さい、もうお若くは無いのだから。そんな嫌味を言いながら、ジークムントは心に決めていた。いつか、この母を見送ったらその時は、墓碑銘に「烈女帝」と書いてやろうと。誰が何と言おうとも、この人にはそのくらいの強烈さがあるのだから。そして、そのくらいのことは、恐らく笑って許してくれる人だから。

 

 この半年後、アラベラ・アデライドは自身の末子で、唯一の女児となるイーリスを産む。その前後一年半余りが、この十年で彼女が最も長く、帝都に腰を落ち着けた時間であったと言える。

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