世に「烈女帝アラベラ・アデライド」という――史書を紐解いたうち何人かは、途中で首を傾げるようだ。恐ろしい二つ名をしているから、どれほど激しい気性だったのか。それとも戦乱でも起こしたのか、その治世で随分人を粛清したのか。或いは、歴史を大転換させるような大事業を成し遂げたのか。そんなことを期待していたのに、何も無いではないか、と。

 確かに、ファーレンハイト王朝ユグドラシル帝国の歴史に於いて、アラベラ・アデライドの成した役割は大きい。女子教育を推進したことにより、大陸全土の識字率は急激に高まった。治世の後半では、そうして底上げされた国民の知的水準を利用し、防疫にも力を注いだ。その結果、乳幼児死亡率が半減し、大陸の人口増加にも繋がっている。

 そうして生み出された、若く活気に満ちた世代が、王朝第二の黄金期と呼ばれる、十八代ジークムントの御世を作り上げた。

 そもそも、そのジークムント自身が、母であるアラベラ・アデライドの強い影響下にあった人物であり、彼を育て上げただけでも、その功績は大であると言うべきかもしれない。

 とはいえ、賢帝の法を全面的に時代に即して作り変えたのは、あくまでジークムントであり、アラベラ・アデライドはただ、その時に使えるようにと、人材が出てくる環境を整えていただけだ。功ばかりでなく罪もあり、彼女が力を注いだ教育だの防疫だので、帝国の財政は大きく傾いた。ジークムントは、母が作ったそれらの負債を処理するために、強制的に大改革を行わされたのだ、と言う歴史家すら存在する。要するに彼女は、傑出した個性ではあり、功績を残した有能な統治者でもあったけれど、息子であるジークムント、或いは賢帝ヴィクトール、大帝ジークムントといった面々と比べれば、能力と言う意味では見劣りがする皇帝であった。

 加えて言えば、私生活では極めて情愛深い母親であり、且つ、ファーレンハイト王朝歴代の皇帝の中ではまあまあの子福者だったことも相まって、強さよりは優しさで語られる方が多い人物なのである。

 では、「烈女帝」などと、派手な二つ名をつけたのは一体誰だったのか。

 実はこれは、他でもなく、息子であり後継者であった、ジークムントの命名である。

「あの方には、どんな説得も、妨害も受け付けない何かがあって、本当に大事なことは、基本的に誰にも相談しないで決める。決めたら天地が裂けても動かない。まあ、そんな人だ」

 二十歳前のある日に、何気なくこんなことを言ったとも伝えられている。因みに相手は、後に妻になるクラウディアだったとも言われる。

 では、アラベラ・アデライドは人の話を聞かない独裁者であったのか? 答えは否だ。というよりも、為政者としては、実によく人の話を聞く人物だった。何しろアラベラ・アデライドは、自分が傑出した政治家などではないことを、よく知っていたから。

 ジークムントが苦笑したのは、そういうところではない。大陸のすべてを見て回る、とか。或いは、自分は教育や防疫をやるから、残る負債は息子であるお前が始末しろ、とか。そういう、本当に大筋のことだ。そして確かに、その点においては、アラベラ・アデライドはいつでも自分で見て、考えて、決めて、揺るがなかった。その強烈さは、決して衆目に明らかではないけれど、誰よりも近くで母を見、その事業を支えてきた息子だからこそ、ジークムントは身に染みていた。

 時々どころではなく、考えてしまうといつも、自分はあの方の何なんだろうと思うよ、と、若きジークムントは呟いた。これも、聞いていた相手はクラウディアだ。宰相ファルトマンの遠縁にあたる貴族の令嬢で、叔父の秘書役として宮廷に上がっていた。万事に控え目で大人しく、ありていに言えば地味。際立った聡明さも、実は柔らかな美貌の持ち主であることも、殆どの宮廷人が見落としていた。

「何と仰られましても、陛下は殿下の、御母上様でいらっしゃいましょう?」

 斜に構えたジークムントの呟きを、クラウディアは事も無げに受け止める。

「母親。母親、か――あれが?十代の息子に留守を放り出して、出て行ったきりもう三か月も帰らないのが?」

 その落着きが気に入らなくて、すこし不貞腐れるジークムントに、なおもクラウディアは、淡々と続ける。

「誤魔化してはいけません、殿下。問題にされているのは、そこではございませんでしょう?」

 聡明さをたたえた蒼い瞳が、真っ直ぐにジークムントの双眸を覗き込む。どうせ嘘などつけはしない。

「……二人だったんだ。物心ついた時には、あの方と。それから後にしたって、私は、皇配殿下とは、家族だったかもしれないが、親子だったわけじゃない。弟たちとは、向き合い方が違ったと思う。存在が、とてつもなく大きいんだよ。俺にとっての、あの方は」

 多忙を極める母親と、どれほどの時間を一緒に過ごしたのだろう。絶対に、それほど長い時間ではなかった筈だ。それなのに、ジークムントの記憶の中には、至る所に母アラベラ・アデライドが存在している。視察から戻り、両手を広げて駆け寄ってくる姿。寝しなに物語を読み聞かせてくれた低い声。書類に向かう横顔や、臣下に命を下す時の、毅然とした姿勢。挑みかかって来いとばかりに煌めく、紫がかった青の瞳。

 そこまで思い出して、つい口にしてしまったところで、ジークムントは赤面し、更に憮然とした顔を背ける。恋人相手に自分の母親の話を滔々とするだなどと、体裁が悪いことこの上無い。

 確かにそれは、女の側にとって面白い話であろう筈が無い。基本的には。けれどクラウディアは、そこで嫌がるという愚を犯さなかった。と言うより、この母子の結びつきの強さを、よく理解していた。

「そういう、御母上様でいらっしゃいます。世間での母親というものがどういう格好であれ、貴方様のお母上様は、そういう方。そのような方に育てられ、鍛えられて、今の貴方様が存在するのですし、そういう方を、私は選んだのですから。気にしていませんよ、何も」

「……私が気にするんだ」

「そうやってむきになるところが、可愛いですよと申し上げているんです」

 そしてジークムントは、完全に脱力する己を自覚する。

 大きな愛情で包んでくれた母に、反感を覚えて立ち向かおうとしたのは、最初は何時だっただろう。父親ではない男を家族に迎え入れると言った時に、反発を覚えなかったわけではないのだ。皇太子という立場に苛立ちを禁じ得なかった時期もある。平気な顔をして激務をこなす母を、乗り越えたいのか、支えたいのか、守られてきた分は守りたいのか。それはもう、混然一体になってしまって、ジークムント自身にも分からない。

 ひとつだけ分かっているのは――今はまだ、母には敵わない。

 溜息をついて、顔を上げ、そしてもうひとつのことに気付く。クラウディアが、静かに微笑んでこちらを見ていた。ここにも一人、敵わない相手が居る。どうやら自分は、今度は自分の意志で、そういう相手を選んでしまったらしい。

 その感触は、暖かいようでむず痒いようで、何とも居心地が悪い。抜け出そうとも、抜け出せるとも思わないが。

 差し伸べられたクラウディアの手が、ジークムントの頬をなぞる。

「でも、ご立派でいらっしゃいますよ。殿下がこうして見事に帝都の留守を預かっていらっしゃるからこそ、陛下は陛下の望む通りに、大陸の各所に赴かれるのです。頼りにしておいでなのですよ」

「いいよ、これ以上おだててくれなくても。そのことも分かっているし、それがすべて、あの方の掌の上だということも」

「あの方ではなくて、御母上様でいらっしゃいます。お認めになった方がよろしいのではございませんか?」

 確かにこれでは、駄々をこねている子供と変わらない。相手がクラウディアだから、こうして聞いてくれるだけであって、万が一にも母の耳に入ったら、気持ち良く笑い飛ばされることだろう。

「敵が増えたんだか、味方が増えたんだか、分からないぞ。お前はいつから、そんな風に母上の肩を持つようになったんだ」

 と、言ってからしまったと思ったが、もう遅い。「母上」という、その一言に、クラウディアが満足げな表情を浮かべた。

「別に、私は何も。ただ申し上げたいことを、適当に申し上げているだけですから」

 好むと好まざるとに関わらず、あの母にしてこの息子があり、その息子が選んだ相手がクラウディアなのだから。それはもう受け入れたくなくてもどうしようもない現実であり、本当のところ、嫌かと言われればそれほどのことも無い。ただ、素直に降参するのが癪に障る、十代の少年の足掻きに過ぎない。

 ともかく、夕刻には帝都に戻ると、母からの早馬を受けたのは、つい今朝のことだ。そうしたら、事務的なことも色々あるが、一度この娘のこともきちんと話をしなければ。

 ジークムントは、生真面目にそんなことを考えていた。

 考えていて、母親からそれ以上の不意打ちを受け、激怒することになる。

 果たしてその日の夕刻、予定通りに戻ってきた母アラベラ・アデライドは、いつものようにジークムントやファルトマンから留守中の報告や申し送りを受け、未決済のものや追認すべきものに目を通し、視察してきた内容に基づいて翌日以降の予定を組むなど、夜遅くまで精力的に政務をこなした。とりあえずその日は、何事も無いかのように過ぎた。

 アラベラ・アデライドがとんでもないことを言いだしたのは、その翌朝だ。ジークムントは前夜、自室に下がる前に、明日は一番で、執務室ではなく私室に来るようにと言われていた。政務に関することは基本的に執務室で話すから、内容は個人的なことだろう。弟たちのことで、何か気になることでもあったのか。それともまさか、誰かからクラウディアのことを聞き及んだのか。それならまあいい、きっぱり話してしまうまでだ。そんなことを考えながら、ジークムントは廊下を歩いて行った。

 ジークムント同様、アラベラ・アデライドも前夜は遅かった。その上彼女は旅の帰りだ。凡人なら、昼間で惰眠を貪りたいところだろう。それなのに、寝台脇の椅子に腰掛けていた母は、いつものように、疲れの残滓を残さない清々しい表情で居る。まったく、相変わらずの化け物ぶりだと、ジークムントは内心で軽く毒づいた。おはようございます、と声をかけると、妙に無邪気に微笑む。

「おはよう。呼び立ててすまなかったな。大した用件ではないが、良かったら座るといい」

 そんなことは無い、何か企んでいる。咄嗟にそう思ったのは、誰よりも近くで親子をやってきた、十八年の積み重ねが成せる技だ。

「大した用件だと思っていらっしゃらないのは、母上だけなのでは?」

 最早、かまをかけるのも莫迦らしい。直截に切り込むと、アラベラ・アデライドは満足そうに、艶やかな唇を歪める。

「流石にお前は、話が早くて助かるよ。でも、もう決定事項だから、大した用件にはならないよ」

「それでは、さっさと仰って下さい。迂遠な言い回しは時間の無駄ですから」

 その一言を大いに後悔するには、一秒あれば十分だった。

「子供をもう一人産むことにした。というわけで結婚する」

 絶句すれば良かったのだろうか。それとも、もっと冷静に詰め寄るべきだったのか。とはいえ、最前アラベラ・アデライド自ら言ったように、結論が変わることは無いのだろう。それがどんなに受け入れ難いことでも。だとしたら、ジークムントに出来たことはひとつしか無い。

「何を考えているんです、貴女は!!」

 何を考えるまでもなく、怒鳴りつけていた。無論母は、そんなことでは微塵も動じない。ただ、憎らしいほど落ち着き払った様子で、真っ直ぐにこちらを睨み返している。

 結論はどうあれ、すこし長くなりそうだ。そんな風に、ジークムントは感じていた。

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