砂漠に行ってくる――旅先の母から受け取った手紙を見るなり、ジークムントは頭を抱えた。あの大嘘つきめ、帝都を出る時は、そんな様子はおくびにも出さなかった。ただ、ウェスタの様子を見てくる、とだけ。そのうち何かやらかすだろうという予感はあったものの、いざ本当にしでかされると腹が立つ。そんなことをしてしまう母にも、仕方ないから後をどうにかするか、と考え始めている自分にも。

 留守番など、疾うにやっているのだから、それが少々長くなったところで、実際のところ問題は無い。至急で片付けなければならないような、切羽詰まった案件も無いし、宰相たるファルトマンが、万事良く心得ている。第一、遠くに行ってしまった母とて、自分と同じ十六の年には、摂政皇太子として政務を取り仕切っていたのだ。

 同じことが、やれいでか。

 少年らしい気丈さで、ジークムントは考える。そして、帰ってきたら、驚かせてやろう。いつまでも子供だと思っていた息子が、いつの間にか大人になっていたとでも。

 けれども、すこしして、苦笑が湧き上がってきた。そんなことにはならない。何故なら母は、皇帝なのだから、そう無責任に統治を放り出したりなどしない。火急の案件が起こる確率は低く、何かあっても、留守番の皇太子を支える体制は整っている。必要とあれば、自分も駆けて戻る。その状態であれば、まあ息子でも大丈夫だろう。そう踏んで、平然と行ってしまったのだ、あのひとは。

 何もしていない状態で、何故こう、敗北感を感じなければいけないのか。何ということはない、単に相手があの母だからだ。つまり、肩肘を張っても、自分以上のものを出そうといきがっても、根本的に無駄ということ。

 己のままに、全精力を傾ける。必死になる。出来ることはそれしか無く、その上で成したものを、母に評価させねばなるまい。

 毅として顔を上げると、その後ろから、扉の開く音がする。振り返るとそこには、相変わらず母の盟友である、ジュリエット・ドワノーが居た。その弟たるギュスターヴが皇配であった数年間は、立場を憚って多少は距離を置いていたこともあったが、彼亡き後は、再びその最良の助言者に戻っている。

「ドワノー殿。貴女は御存知だったのですよね? それとも、貴女が唆されたとか」

「あら、人聞きの悪いことを」

 ジュリエットは、華やかに微笑む。

「私が何を言おうと、言うまいと、知っていようと、知るまいと、あの方のなさる事は同じですよ。私の方に、さしたる意味は無い」

 答えになっていない、と言うことも出来たが、あまりにもその通り過ぎて、ジークムントは笑ってしまった。

「非常に遺憾ですが…仰る通りです。ファルトマンを呼んで頂けますか。留守番の仕事がありますので」

 十六歳――母が、摂政皇太子として、大陸を取り仕切っていた年齢だ。自分を、授かった年齢でもあった。権限も環境も、そもそもの能力も違うのだから、比べてもどうしようもないけれど、憧れるものが、そこには確かにある。

 憧れているだけに意味は無く、ただそこを目指して邁進するのみと、ジークムントは己に言い聞かせる。その果てにはやはり、いつかは母をあっと驚かせたい、そんな少年らしい夢を抱いて。

 

 解放感というものを最後に味わったのは、一体いつだっただろう。砂漠の熱風に吹かれながら、アラベラ・アデライドはふと思った。

 目の前には、地の果てまで続くかと思える砂の広がり。その上には、目に痛みを覚えるほどの鮮やかな蒼穹が、これも、どこまでも広い。その狭間に人の造ったものは見当たらず、ただ風が吹き、刺すような陽光が降り注ぐ。

 肌を露出しないようにと言われ、現地の女性が着用するという、足元まで届く分厚いヴェールを被ったが、その意味がよく分かった。これほどの強烈な光に晒されれば、ただでは済むまい。遮蔽するものが無いから、風も情け容赦無く、砂を巻き上げて叩きつける。油断すれば、北の人間には理解も出来ないような理由で、傷だらけになるに違いない。そもそも、そうやって自分を日陰に隠しでもしなければ、息が詰まるほど暑い。太陽という言葉が持つ意味さえ、帝都ゴットハルトとは違うかのようだ。

 すべて、書物で読み、人から聞いて知っていたことではある。

 だが、来てみなければ、何一つ分からなかったと、今なら言える。

 これまで訪れた新しい土地で、いちいち同じことを言ってきたが、何度でも言える。

 大陸は広い。広さの分だけ多様さを内包し、直接行って見聞きしなければ、到底理解出来ないだろう。だからこそ、すべてを見て回る価値がある。見て回らねばならない。そうやって、この身で直接受け止めてこそ、自分は大陸を背負う者に足るだろうし、そのための手も打てるというものだ。

 とはいえ大陸は広く、皇帝は多忙である。多くがその必要性を認めながら、彼女に至るまでの十六代の皇帝のうち、大陸のすべてに足を運んだと言えるのは、英雄帝、大帝ほか、片手の指の数ほどに過ぎない。留守を預けるに足る者が居なかったからだ。

 自分は恵まれている、とアラベラ・アデライドは思う。まだ自分が若いうちに、頼れる後継者を得たのだから。

 悪いなぁ、と呟く傍から、笑いがこみあげて仕方ない。もうそろそろ、伝令が帝都へ辿り着いて、ジークムントに伝言を伝えている筈だ。どうせ怒っているだろう。仕方のない母だと言って。そして、意固地になっても留守を守り上げるに違いない。頼りになる子だから。

 だから、とりあえずしばらく、母親という役割だけは放棄して、皇帝にだけなれる。ただそれだけのことが、極大の解放感になって、彼女を覆っていた。

 皇帝で、母親。それでお終い。それが、この三年の彼女のすべてだった。だが、そのたった二つが、恐ろしいほど重かった。認識と記憶に間違いが無いのなら、その二つは、十七歳からずっと背負ってきたもので、時々それと一緒に、妻とか女とかいうものもあった筈なのだが、その時は、それらを苦痛と思ったことは無かった筈だ。

 二十代終わりの数年に関しては、女をやることも、妻をやることもおざなりにして、母親という荷を相当程度、ギュスターヴが軽くしてくれていた。ある意味では、彼女の人生で最も安楽に過ぎて行った日々だと言える。その一方で、十代終わりの、経験浅い皇帝で、新米の母親だった日々は、ただ若さの暴虐に任せて、勢いでやり抜いたようなものだった。

 今はもう、そんな力ずくをする体力は無いし、私生活を支えてくれる相手など望むべくも無い。皇帝で、母親でしかない立場では、男を男として見るのが、まず困難だ。そしてまた、万が一そういう風に見る相手が居たとしても、皇帝であることも母親であることも手放せないなら、そちら方向に向ける余力が無い。

 肺一杯に灼熱した空気を吸い込んで、吐き出す。強張っていた身体が、ほどける。出来れば砂の上に全身を投げ出したかったが、それでは火傷をするだろう。残念だ。

「疲れているのだな、どうやら、私は――」

 しみじみと、アラベラ・アデライドは呟いた。そう、だから、せめて一時、何かを投げ出す自由が欲しくて、ついこんなところまで来てしまったのだ。すべてが仕事にかこつけて、であるところが、皇帝たる身の悲しさかもしれないが、どうせ一気に全部を投げ出せるとも、投げ出したいとも思わない。

 見上げれば、数里先には、花咲き匂う都メディナ・アサアラの白亜の城壁が聳えている。永遠の都メソティキオンとはまた違う、繊細で美しい城壁だ。よくもこの、過酷な気候に耐えていると思う。それとも何か、理由があるのか。そう思った瞬間には、一刻も早く、この目で見たくて仕方なくなる。

「早馬を飛ばせ。時間が惜しい。メディナ・アサアラ到着後は、なるべく早く、現地の執政官と会談がしたい。それから、視察先の資料を。今日のうちに目を通しておく」

 疲れた人間が聞いて呆れるが、その次の瞬間には、こんな風に言い出す自分が居る。紫がかった青の双眸を、星のように輝かせて。まったく矛盾しているが、それが自分なのだから仕方ない。どうせやるなら、喜びを持って。十五の年に、初めて愛した男に宣言したことを、守っているだけだ。

 例えば、エドガルドが生きていたら、今頃自分はどうしていただろう。そこからふと、アラベラ・アデライドは思いつき、連想を飛ばしてみた。だが、すぐに気が付いてしまう。恐らく彼に帝都と子供たちを任せて、同じようにここに来ていたに違いない。今とは違って、随分後ろ髪を引かれながらではあるだろうけれど。

 ギュスターヴが生きていたら――それでも同じだ。やはり自分は、ここに居る。その場合、政務を執るのは今回と同じようにジークムントではあるが、安心して子供たちを任せて来ただろう。

 そのことに気が付いたら、もう後は、笑うしか無かった。逃げても、進んでも、辿り着く所は同じだなんて。

「要するに、私は強情娘だ、と言うことだな。親の見立てには敵わんか」

 かぶりを振り、もう一度顔を上げて、白亜の城壁に思いを飛ばす。とりあえずは今そこに、成すべきことがある筈だ、と。

 

 アラベラ・アデライドの後半生は、旅から旅への人生であった。帝都に腰を落ち着けて政務を執ったのは、年間に恐らく半年。残りの半分は、視察と称して大陸の何処かへ足を向けた。大陸の多くを見聞きし、その場で何らかの改善を指示することもあれば、帝都で留守を預かっていた、皇太子ジークムントに改善を指示したこともある。息子が二十歳を過ぎる頃には、どうやらその統治者としての手腕が自分に勝っていることは、自覚していたアラベラ・アデライドである。

 だから彼女は、種を蒔くことに徹した。情報を集めること、人材を揃えること、行った先々で人の心を掴むこと。そうしながら、帝都で独りで政務をしていると煮詰まってしまう自分を解放し、己の興味を満たしたりもしながら。

 人はそれを称して、「旅する玉座」などと言ったものだ。実際のところ、政務の半分はジークムントが取り仕切るようになっても、依然として彼女は、名実ともに皇帝であったから。

 国民に気遣われ、愛されていた孤高の存在は、いつしか己の足で国民の元に赴き、彼らの声に耳を傾ける、大陸すべての母になっていった。それもまた、アラベラ・アデライドの後半生である。

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