長く続く王朝の礎には、初代、二代目、三代目辺りまでが重要だと、史書は説く。その意味では、ファーレンハイト王朝は典型的であった。初代たる英雄帝ジークフリードが大陸を統一し、大陸国家という概念を打ち上げた。その概念を実際に纏められる法を作ったのは、それ故に賢帝と呼ばれる、二代目ヴィクトール。そして最後に、三代目の大帝アンドレアスが、その法を運用してみせた。実際のところ、四代目のマクシミリアンは無難という以外何者でもない皇帝であったが、取り立てて暗愚でもなく、父の事業を受け継いで、何となく治世を過ごしていったという趣が強い。

 ファーレンハイト王朝の特徴として挙げられるうちに、桁外れの暗君が存在しなかった、という項目もあるのだが、それでも短命だった者や、私情を持ち込んで宮廷を混乱させた者は存在する。そして、中興の祖が現れなければ王朝は緩やかに衰退していくだろう、という節目になって皇帝の冠を戴いたのが、十六代リヒャルトであった。

 アラベラ・アデライドの生涯と功績を語る時、決して外してはならないのが、息子である十八代ジークムント、そして父リヒャルトだ。

 アラベラ・アデライドは、傑出した個人ではあったが、為政者として傑出しているかと言われれば、評価は様々だ。確かに、人を見る目に優れ、大陸全土から多くの人材を抜擢して適所に配した。そういう意味では名君である。また、息子ジークムントを正しく教育し、帝国第二の黄金時代へと導いたという意味でも、有為の人材ではあったと言える。その一方で、三百年前から続く賢帝の法に手を付けることは無かった。それより良いものを作れないというのが、彼女の言い分であり、卑屈になることも無くそう言い切っていた。時代にそぐわなくなっていたそれらの法を、現状に即して改善したのは、すべて息子ジークムントの功績だ。その面では、必ずしも抜きんでた能力を持っていたわけではない。

 そんな彼女を、誰よりも正しく導いたのが、父リヒャルトであった。父というよりは祖父に等しい年齢であった父は、彼女の才を見出すよりも先に彼女を後継者と定め、持てるすべてを注いで彼女を育てた。

 それ故に、アラベラ・アデライドは過酷な幼少期を送ることになる。歴史や文学、哲学や数学、科学といった、基礎教養。政治や経済、軍事などの実学。武術や馬術も一通りは仕込まれたし、かといって貴婦人としての嗜みの類を免除されるわけではない。ダンスや音楽、花やドレスや宝石の知識を蓄えること。要するに彼女は、時と場合に応じて、男にでも女にでもなれる能力を身に着けなければならなかった。

 その生涯を通して、アラベラ・アデライドは、極めて意志の強い女性ではあった。そしてまた、極度の負けず嫌いでもあったから、最初のうちは、与えられた課題は何でも一心不乱に取り組んだ。

例えば、文学は得意で数学は苦手であったし、馬の扱いやダンスのステップは巧みである一方、楽器を奏でる才は無かった。そのような具合で、決して神童ではなかったが、基礎教養や実学の中の幾つかの分野では、それなりに優れた能力を示した。

敢えて言うならば、その傾向は、王朝の始祖たる英雄帝ジークフリードと似たようなものであった。彼もまた「卓越した」と言われる才は持たなかったのである――少なくとも、勉学という分野においては。

とりあえずのところ、父リヒャルトは、与えられたものを意地でもこなしていく娘の気力と体力と集中力に目を細め、失格点を与えねばならぬ科目が無かったことに安堵した。そして娘の方はと言えば、最初のうちはあくまでも、父に向けてしたり顔の笑みを浮かべたりしたものだった。

とはいえ、子供は徐々に大きくなり、生意気を身に付ける。アラベラ・アデライドが反抗的な態度を見せ始めたのは、初潮を迎えた十三歳の頃であった。

「そなたらは、一体私を何だと心得ているのか?!」

そう叫んで、与えられていた自然科学の書物を投げ出したのは、初夏のことであった。数学と同様自然科学もまた、アラベラ・アデライドの苦手科目であった。

「毎日毎日、要るものも要らぬものも区別なく、詰め込みおって。いつまでも大人しく言うことを聞いていると思うなよ!」

立太子以降、十年分の疲労と怨念を凝縮した、とまでは言わないが、それでも十分に憎々しげな調子で言い放つと、教師が何か言うよりも先に椅子を蹴り、アラベラ・アデライドはそのまま廊下へ駈け出して行ってしまった。

 ああ、ついに来たか、というのが、側近くの者たちの、偽らざる実感であった。実際、十歳を越えた辺りからは、一体いつまでこの無茶が持つのか、いつ皇太子は爆発するのかというのが、密かな関心事でさえあったから。

 とはいえ、ついに爆発したところで、逃しては貰えないのが皇太子だ。速やかに追手がかけられ、別の者が父帝リヒャルトにご注進に及ぶ。リヒャルトは溜息をついて、早々に我が前に引き立てよ、とだけ言った。

 一方、娘である皇太子アラベラ・アデライドは、幼い頃から鍛えられた足腰と、まだ体つきが女らしくなる前の身軽さで、早々に廊下の窓から外に出ると、宮殿の中庭に紛れ込んでしまった。隠れるところなど幾らでもあるし、人目につかぬよう移動することも容易い。加えて近侍の者たちは、必ずしもこの中庭には詳しくなかった。

 つまるところその中庭は、歴代の皇帝が私的な場所として使っていた区画にあたる。リヒャルトがアラベラ・アデライドの母アンナに使わせていたのも、その中庭にある小さな建物だった。ゴットハルトの地に遷都した大帝アンドレアスが、北の旧帝都の宮殿にあった離宮を模して造らせたものだ。

 その離宮にはかつて、英雄帝の皇后ルフィラが住み、祖父母の鍾愛を受けたアンドレアスは、幼い頃から足しげくその場所に通ったという。

 新しい宮殿の中庭では、離宮はまず大帝の子供たちの遊び場になった。何人かの皇帝は寵姫を住まわせたし、皇后ルフィラのように、連れ添った皇帝を亡くした皇太后が、その場所に隠棲したこともあった。

 要するにそこは、臣下の者がみだりに入り込むことが、非常に憚られる場所なのである。逃げ込んだ子供を探すとなれば、藪を掻き分けたり、目につく以外のところも当たらなければならない。けれども、そこではそんなことはしたくない、出来れば入るのも避けたいというのが、近侍たちの偽らざる本音であった。

 無論、アラベラ・アデライドはすべて見越した上で中庭に逃げ込んでいる。その身軽さから、周囲には随分、子供のように思われているが、実際には十三歳で、身長ばかりは大人に等しい。体はまだまだ細いと言っても、入り込める隙間が少なくなってきたのは事実だ。

 だから、そもそも追手がかかりにくい場所に入り込むことが必要だった。また出来れば、ちょっと目の端を掠めたくらいの場合は、身を隠せる場所であることが望ましい。そうすると、咄嗟に思いつく場所と言ったら、そのくらいしか無かったのだ。

 さて、アラベラ・アデライドの逃亡劇を途中経過まで聞いた父帝リヒャルトは、しばらく考えた後「捨て置け」と指示した。どうせ城外へは逃げられないし、またその意思もあるまいと踏んだのだ。下手に追い回して逃げまくられるよりも、意外と探しに来られない方がぞっとする。それに耐え切れる娘でもなければ、逃げた先の展望などもとより無いのだから。

 一方のアラベラ・アデライドは、父親の予想通り、放置されたら最後、進退窮まってしまった。中庭に逃げ込んだが最後、入ってきた道以外に帰る道があるわけでなし、そこを帰るのも癪で仕方ない。かといって行き先に道があるわけでもなく、いつしか日は暮れて、足元からはそろそろと霧が忍び寄り、風も冷えてきた。

 さてどうしたものかと考えても、おめおめ引き返すなど有り得ない。先の展望など何も無くても、アラベラ・アデライドにとっては、そこが意地の張りどころだった。けれどもこのままでは、大陸を包む霧の海が水位を上げて、彼女自身をも飲み込んでしまう。そんなことで濡れそぼっては情けないので、庭の真ん中にある建物に入ることにした。

 母アンナが与えられていたというその場所は、けれども、母の記憶を持たないアラベラ・アデライドには、やはり覚えが無い場所だ。まだ皇帝の庶子でしかなかった赤ん坊の頃、確かに彼女も、ここに住まったことがある筈なのだが。

 火の気は無いので明かりをつけることは出来ないが、暗闇を恐れるアラベラ・アデライドではない。とりあえずは座り心地の良さそうな寝椅子を見つけたので、そこに腰掛けて一息ついた。寒い季節ではないから、このままここで夜を明かしても問題無さそうだ。そろそろ食べ物を欲し出した胃袋を、どうにかなだめすかせれば。だが。

 そうして一体、どれほどの時が流れたことだろうか。真っ暗闇の室内で、アラベラ・アデライドは独りぽつねんと、寝椅子に腰掛けていた。本当に今、一体どのくらいの時刻なのか、見当もつかない。

 無為な時間を過ごしている、とアラベラ・アデライドは思った。本当のところを言えば、後悔したいところ、でもある。が、それでは何だか負けたようで、どうしても素直にそれを認められない。というよりも、そんなことを認めるくらいなら、疾うに負けを受け入れて、すごすごと居るべき場所に戻っているだろう。

これだけの時間があれば、あれが出来た、これが出来たという、湧き上がる思いを無理に押さえつけて、もう一度闇を凝視した瞬間、その先で扉が開いた。

「アデライド、この、強情者が」

ほかでもない、夜霧を掻き分けてそこに立っていたのは、父帝リヒャルトであった。父は娘を、アデライドと呼ぶ。

「父上様」

半ば茫然と、アラベラ・アデライドは返した。母を知らない娘には兄弟も無く、学ぶことが特殊であるが故に、学友の一人も居なかった。娘には、父の存在があまりに大きかった。

 リヒャルトは、夜霧が入らぬように扉を閉めると、手にしてきた明かりを、娘の方に差し伸べる。

「詫びの一言も言えぬというか。まこと、そなたは強情よな」

しかし、その言葉に咎める響きは無く、慈父のそれであった。年頃といい気性と言い、叱れば叱るだけかたくなになる娘なのを、父は誰よりも知っていた。

 アラベラ・アデライドは父のそんな態度に拍子抜けつつも、面には出さず、真っ直ぐに見返す。

「それが、取柄にございますれば」

明らかに、自分は引き際を見失っている。そのくらいは、アラベラ・アデライドにも分かっていた。この上は父に連れ帰って貰うよりほかに道は無い。けれども、強情と言われた以上は、なお意地を張った。

「負うた荷に音を上げた子供が、よく言うわ」

しかし、無論その、最も肝心なところを見逃してくれる父ではないのである。というよりもアラベラ・アデライドは、それを言われて久々に自分が何をしていたかを思い知った。癇癪を起こして飛び出した子供、それが紛れもない、彼女の正体だった。

 言葉を失って立ち尽くす娘の傍らに、父が寄り添う。訝った娘がちらりと横目で見上げると、父はそこに目線を合わせて、微笑んだ。

「強情ではあるが、弱いよりは良いな。逃げたことを褒めるわけにはゆかぬが」

「私はいずれ大陸を統べる者だから、ですか?」

そこでやっと、娘は口を利くことが出来た。内容的には些か素直さを欠いたが。

「それもある。だが、そなたにはまだ幾つか、すべきことがあるぞ」

続いた父の意外な言葉に、アラベラ・アデライドははたと目を見開き、顔を上げた。

「余の後を継いで、大陸を統べること。これが、ユグドラシルの皇太子としてそなたが負うべき第一の荷。第二に、そなたはいつか、母となり子を産み育てねばならぬ。これは、そなたが英雄帝唯一の直系として負うべき、第二の荷。そして、第三に――」

父の手が、娘の柔らかな髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。

「余の娘として、第三の荷を与える。余は、家庭というものに恵まれなんだ……すくなくとも、そなたが生まれてくるまでは。結局、良き配偶を得ることも無かったしな。そなたには、能うなら、良き夫を得て、多くの子に囲まれた、幸福な家庭を営んで欲しい。悪い荷ではなかろうが?」

「荷ばかり多い人生でございますね」

「第一と第二は、避けられぬからな。であれば、三つ目などもう、あろうと無かろうと同じではないか。同じ負うなら、喜びがあった方が良いしな。違うか?」

そこまで聞いてから、アラベラ・アデライドは強情者の面目を躍如する、鮮やかな笑みを浮かべた。

「そこまで仰るなら、父上様の顔を立てて差し上げます」

生意気境の小娘の、輝くような笑顔であった。

「いずれにしても私は、歴史の上でも、大陸の上でも、誰の様でもない人生を送るのですね。ならばせめて、逃げずに、喜んで迎え討ちましょう」

その誇らしげに聳やかされた肩や、紫がかった青の双眸に宿る星のような光は、もし比べられる目があったならば、まさしく英雄帝ジークフリードの直系を示すものであった。

 年老いた父親は、その姿を眩しく思い、我が娘ながら誇らしいとさえ感じたが、その一方で、寂しさを禁じ得ないのも事実であった。近々、本当に近々、自分はこの娘を置いて逝かねばならぬ。その日に備えるべくして、今、この娘は大人になりかけているのだ。その自覚がひとつと、もうひとつは、その日のためにも、その先のためにも、この娘に相応しい配偶を見出さねばならぬという現実だ。掌中で慈しんだものを、人に渡すのは辛い。しかしまた、それを見届けねば終われぬ。その狭間で、リヒャルトは一瞬、立ち竦んだのだった。

 そして、その配偶たる者を選ぶ眼鏡に於いて、後の世には様々な評価が存在するのである。

inserted by FC2 system