男運が良いのか悪いのか、よく分からない。それは晩年、アラベラ・アデライド自身が苦笑とともに残した述懐であり、彼女の生涯を知った者の一定数が必ず抱く感想でもある。

 そしてアラベラ・アデライドが人生で最初に、且つ最も強くその思いを抱いたのは、間違いなく三十一歳の時だ。この年アラベラ・アデライドは、二人目の夫ギュスターヴを病で喪った。

 元々、夫婦どちらが丈夫かと言えば、それは圧倒的にアラベラ・アデライドだったという事実はある。彼女が睡眠不足を抱えたまま激務をこなして疲れを見せない一方で、ギュスターヴの方がこまめに風邪をひいたりはしていたから。とはいえ、蒲柳の質かと言われればそんなことも無く、人並みの範囲内ではあった。

 だから、ニンフォニウムから戻って間もなく、彼が最初に不調を訴えた時も、三十代の若さもあって、誰もそれが深刻なものであるとは考えなかった。最もギュスターヴ自身も、幼い子を三人も抱えた状況で、何とはなく続いていた微熱や倦怠を、かなり長い間堪えてはいたようなのだが。

 だからそれは、最初にいきなり、どす黒い血の塊になって、家族に襲い掛かった。本人はともかく周囲にとっては何の前触れも無く、ギュスターヴはくずおれ、その口から血が溢れた。咄嗟に抑えた手でも留めきれないで、その膝と、膝をついた床を汚した赤黒い色。その禍々しさが、事態の深刻さを物語っていた。

 身体の中のことなので、正直言ってよくは分からない。最初に、侍医はそう言った。しかし、恐らくは内蔵の何処かが深刻に傷んでいるのだろう。その場合、命もそう長くは持たないかもしれない。歯切れが悪く、余計な言葉が多くて長い説明だったが、要約してしまえばそれだけだ。話を聞いていたのは、ギュスターヴ本人とアラベラ・アデライドの二人。

「貴様、それでも医者か!」

 激高したのはアラベラ・アデライドだった。本当かどうかは分からないが、また夫たる者を喪うかもしれない。確率も決して低くは無い。だが、それが何時なのか分からない。下手をすれば今日、ということもあるのかもしれない。確かにそんなことを言われて、平静で居られる方がどうかしている。

 つまり――この場合、どうかしていたのはギュスターヴ本人だ。

「……あまりのことに、思考が止まってしまっているのかもしれません。ですが、もし時間が無いとするなら、やっておきたいことがありますので」

 そんな風に言って、穏やかに二人を制した。

「皇太子殿下に、これから成人なさるまでの間、読んでいただきたい書物がありますので、それを揃えたい。それから皇子たちの勉学の教材を。体調は、それは良くはありませんが、このところずっとこんな具合でしたから、作業は出来ます。起きて、動けるうちに、やってしまいたいのですが」

 周囲の思惑など、もとより構わない男であった。相手の出方を察して自分の動き方を調整などしない。ただ、したいから、する。そんな、静かな強引さを、ギュスターヴは持っていたが、恐らくそれを最も強く発揮したのは、この時だった。

 そんなことはいいから、身体を休めて回復に努めろと、言うべきだったのかもしれない。だがアラベラ・アデライドは何も言えなかった。恐らく逆の立場なら、自分も似たようなことをしている。誰に止められても、聞き入れる筈が無い。それと同じことを、ギュスターヴはするだけだ。

 それに、ただ身体を横たえるということは、実はとても過酷なことだと、アラベラ・アデライドは知っている。それは、ジークムントを産んだ後、どうしても体力を回復させないわけにはいかなくて、政務を休み、臥せっていた間に思い知った。

 その時アラベラ・アデライドは、産んだばかりの子供の父親、エドガルドのことを、ずっと考えていた。考えたところでどう改善するという見込みは無く、逆に考えれば考えるだけ、後悔が募った。些細なことばかり思い出しては、あの時こうすれば良かった、或いはなどと、もう取り返しのつかないことばかり考えていた。考えれば考えるだけすべてが苦しくて、止まらない涙の中に溺れた。

 楽になったのは、とりあえず乳母から赤ん坊を取り上げて、こんな時だけだからと、手ずから面倒を見始めてからだ。何かに必死になっている間だけ、何も考えなくて済んだ。間も無くそれが本来の政務になり、ただ働くことで、アラベラ・アデライドは己を長らえさせた。後悔することを、忘れられた。

 ギュスターヴも恐らくそうなのだ。死ぬと言われて、怖くない筈が無い。若いし、戦時の騎士のように、死を覚悟している立場でもない。まだ若い妻と、幼い子供たちを遺して逝かなければいけない。それは、考えるまでも無く、とても恐ろしいことに違いないのだ。ならばそれを、考えなくても済むようにしてやろう。

 そのくらいしか、してやれることが思いつかなかった。

 そして、そうすることでアラベラ・アデライドは、己の恐怖を捻じ伏せた。

 

 実際、それから本当に体調が悪化するまでの三か月あまり、ギュスターヴは実に淡々と、よく働いた。多少は休息を挟みつつも、基本的には今までと同じように毎日を過ごし、今までは己の研究に充てていた時間をすべて使って、皇帝の四人の子供たちのために、多くのものを調えた。

 唯独り己の血を分けていないジークムントには、頑丈なオーク材の箱に一杯の書物を。主に史書や思想書、文学書の類だ。実務に関するものは、自分よりも母であるアラベラ・アデライドや、これから政治の師になるであろう、宰相ファルトマンに任せた方がいい。それよりも、知性の糧、教養と人格を陶冶するものとして、学んで欲しいものを取り揃えた。ファーレンハイト王朝には、何歳から成人だという明確な区切りや儀式は無いが、とりあえず独り身の、皇太子のうちに読んでおいて欲しいと、言い添えて。父と子の間柄には無かったが、彼の最初の生徒であったジークムントを、ギュスターヴは生涯、大切に気にかけていた。

「貴方は、とても向学心の旺盛な子でしたね。書物を読むのが好きだったから、文字でも文法でも、進んで学ぼうとした。でも、御母上に似て、とんだ負けず嫌いな子で。子供の頭ですし、集中力にも限りがありますから、一度で覚えられなくても当然なのに、夜になってから、授業の内容を忘れてしまったと言って、ぐずるんですよ。もう眠らなければいけない時間なのにね」

 かねてから少しずつ用意はしてあったということで、この木箱は、一か月と経たずに皇太子ジークムントに渡された。その際ギュスターヴは、目を細めてそんなことを語った。

 当然のことだが、狼狽えていたのは、誰かと言えばジークムントだ。ギュスターヴ本人は見ての通りだし、母も何やらきつい顔をして、弱味を見せようとしない。十三歳の自分は目一杯混乱しているのに、どうして当事者たちは落ち着いているのだろう。

「どうされました、殿下? 何か仰りたいことがあれば、お早めに」

「洒落にならないことを!」

 叫んでから、しまったという顔をしても遅い。けれどギュスターヴは、静かに微笑んで、少年の弱さを受け止める。

「そうでしょうねぇ…私が殿下と同じ年に、同じ目に遭っていたら、間違いなく書物の中に逃げ込んで、現実とは対峙しなかったでしょうね。こうして毎日、現実を生きているだけでも、貴方は立派ですよ」

「そうではなくて、です。貴方も、母も、どうしてそんなに落ち着いて居られるんですか!」

「まず、大事なことは。人が強いからといって、必ずしも自分も強くなければいけない、ということはありません。特に、貴方の年齢では。貴方が弱くなれるように、強くある。それは大人の甲斐性と言うものです。忘れないように」

 ギュスターヴは手を伸ばして、ぎゅっと皇太子の黒髪を掻き混ぜる。彼がそんな風に皇太子に触れるのは、それが初めてだった。

「もうひとつ……にも関わらず、誰かのために強くなりたいと思う時が、人にはあるんですよ。私は今、恐らくその状態なんでしょうね。私の伴侶である方は、皇帝として、この世の誰よりも重い責務を負っておられます。それこそ己の悲しみにかまけていることなど出来はしない。そういう方の隣に居て、自分だけ狼狽えるのも如何なものかと。それよりは、まだ体も頭も動くうちに、あの方と家族のためになることをしておきたいんです」

 そして、目尻に深めの笑い皺を刻んで、もう一言。

「だから、とりあえず今は、弱くてもいいですよ。今は……私が、ここに居るうちは。その代わり、私が居なくなった後は、御母上と、弟たちのことを、お願いします。特に御母上のことを。それは、誰よりも長い時間をあの方の家族として生きてきて、いずれ同じ荷を負う貴方にしか、出来ないことですから」

 その瞬間、十三歳の少年の双眸から、どっと涙が溢れた。ジークムントはギュスターヴのことを父と呼んだことは無かったし、そう思ったことも無かったが、そんなことは関係無く、彼のことが好きだった。

 それからしばらくの間、ジークムントは涙を流れるに任せ、嗚咽を堪えることも止めた。ただ、未だ黒髪に触れていてくれる、ギュスターヴの掌の温かさだけを感じながら。

 そうして自然に涙が止まってから、力任せに濡れた頬を拭うと、ジークムントはギュスターヴに礼を言って、その足で母の執務室に押しかけた。

 母アラベラ・アデライドは、そう驚いた様子も見せずに、署名を終えたばかりの書類を脇へやる。

「何の用か」

「私に、御役目を頂きたいのです」

 一息に言い切ったジークムントに、アラベラ・アデライドは余裕でしかない表情を向ける。

「役目、とは?」

「何でも構いません。母上がおやりになっている中で、私が出来ることでしたら、何でも。母上が私の年だった頃には、なさってたようなことを。すぐには無理かと思いますが、それですこしでもお時間が出来ましたら、弟たちのために使ってやってください。皇帝としての公務は、いずれ私のものになる…出来なければいけないものですが、私は弟たちの、親にはなれませんから」

 つまり、ギュスターヴ亡き後、そうやって家族を回していこうと、ジークムントは言ったわけだ。アラベラ・アデライドは破顔一笑する。

「何が出来るかわからないが、とにかくやる、か…気だけは強いが無謀だな。逆より良いが」

「そうでもしなければ、何も始まらないではありませんか」

 何時でもそうだが、真正面から母と対峙すると、やはり気圧される。だから、退くまいと口を結び、真っ直ぐに見つめ返す。

 母と息子の間に、一瞬張りつめた沈黙が流れ、ふっと和らいで、そこに声が降り注ぐ。

「私は、配偶には恵まれているのか、居ないのかさっぱり分からぬが、とりあえず後継者に恵まれたようだ」

 その一言が、ジークムントの瞳に光を灯す。

「とにかくも、そなただけは私より後に残るのだからな。出来るか出来ぬか分からぬが、やってみるが良い。ただし、母に尻拭いをして貰おうとは考えぬことだ」

「考えませんよ。及ばずながら、母上と家族を支えると――皇配殿下との約束です」

 その刹那、アラベラ・アデライドの頬を、涙が伝った。ゆっくりと湧き上がって、やがて溢れると言ったような、溜めは無かった。まるで、それまで堪えに堪えていたものが、一筋だけ零れてしまったような――そんな流れ方であった。

「二人揃って、泣かせることを言う」

 言葉になったのは、それだけだった。

 

 その後、母とギュスターヴが何を話したのか、ジークムントは知らない。ただ、ギュスターヴが起きていられた限りは、変わらぬ皇帝であり母であり、ギュスターヴもそれを支え続けた。

 そして半年経ち、いよいよギュスターヴの枕が上がらなくなった時には、外に出る公務を減らし、書類の下読みなどをジークムントに任せて、能う限りの時間を、ギュスターヴと下の三人の皇子たちと過ごした。

 すこし、寂しいと思ったが、それでいいとジークムントは思った。それがギュスターヴの望みであったし、自分と違って弟たちには、父親というものの記憶を持っていて欲しかったから。

 そうして独りで耐えることが、すこしだけジークムントを大人にし、寂しさを知ることで、皇帝たるものの孤独を、一瞬垣間見させた。

 そうして一年後にギュスターヴがその目を閉じた時、泣き崩れた母を支えながら、ジークムントは初めて、自分の背が母よりも高くなっていることに思い至った。

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