「そのこと」に気が付いたのは、一体いつ頃だったろうか。物心ついた時には、当たり前のように目の前にそこに在ったから、最初は意識していなかった筈だ。そして、それを当然のものとして受け止め、成長してきた。

 けれども今、一体何度この呟きを発したのか、既に記憶に無く、正直に言えばうんざりしている。

「……母上は、化け物です」

すると、まだ三十歳の若い母は、鮮やかに微笑んで、振り返る。

「最高の褒め言葉だ。そう言うそなたは、もう音を上げるのか?」

「冗談ではありません。まだ平気です」

正直に言えば、体中が痛い。昨日も今日も、日がな一日馬の背に居て、体中がぎしぎしと痛む。母だって、日頃は宮殿の中で書類仕事か人に会っているか会議をしているか、とにかく体を動かすようなことはしていた気がしない。それなのに、朝は自分より先に起きて身繕いをし、息子を叩き起こしに来る。夜は自分が寝る頃もまだ、家臣たちと何ごとか話し合っている。昼間もよく、合間に書類に目を通している。それでいて表情はいつも明るく、決して疲れなど見せない。

 見ているだけで分かる。皇帝という仕事は、激務中の激務なのだ。そしてそれが、いつの日かは知らないが、己のものになる。そう思うと、ユグドラシル帝国の皇太子ジークムントはいつも、些かならず暗澹たる気分に陥るのだった。

 

 三十歳になったから、と言うわけではないが、アラベラ・アデライドは思い立つなり計画を立てて、行動を開始した。己の治世のうちに、大陸を一通り見ておきたい。十代と二十代の日々の中で、彼女が赴いたのは、皇室の故地である旧アースガルド一帯のみである。とりあえず子供は産み終えたとして、その子供たちも、連れて行けないならギュスターヴに任せれば良い。あとは政務の段取りをすれば済むだけで、その辺りは宰相たるファルトマンの腕の見せ所だ。投げっ放しは許されないが、一から十まで自身の手で完璧なものを仕上げる必要は無い。

 皇帝の必要なものは何か――アラベラ・アデライドはいつも、そのことを考えていた。そして信じ続けた結論は、帝国の運命と一蓮托生である覚悟と愛情、そして未来を描く見識こそが、皇帝が持つべきものだ、ということだ。実務能力は、あるに越したことは無いが、絶対条件ではない。

 帝国の未来を描くためには、まず大陸の現在を知ることだ。その信念も、アラベラ・アデライドは持ち続けた。だからこそ、自ら設置した女学院や、拡充した大学に人を集め、自ら歩けない分は人を知ろうと努めてきた。そして、やはりそれでは足りぬという実感から、長い時間をかけてでも、大陸のすべてを見たいと目論んだわけだ。

 最初に選んだ目的地は、大陸文明の揺籃の地たるニンフォニウムだった。すぐに行かねばならない、差し迫った理由があったわけではない。敢えて言うならここ半年余り、皇太子ジークムントが噛り付くようにしてニンフォニウムの史書を読んでいたからだ。

 そう、最初の旅に出るにあたり、皇帝アラベラ・アデライドは十三歳の皇太子を伴った。体力的にはもう大丈夫であろうから、見聞を広める良い機会だ、と言って。

 警備上の都合を言えば、皇帝とその後継者が一緒になって遠出をするのは論外である。同時に事故に遭ったり、もっと何か不測の事態に襲われたらどうするのか、ということだ。無論それを知らぬアラベラ・アデライドではないが、そういう時のために弟皇子たちが居るのだろうと無茶を言って、意に介さなかった。

 一方のジークムントはと言えば、言いたいことは色々あったのだが、敢えて何も言わなかった。何故、先に「行くか」と一言訊いてくれないのか、とか、そもそもそんなところへ行きたくないとか、言いたいことの大半が子供じみていると、子供ながらに思ったからだ。それに何より、未だ帝都近郊より遠くへ行ったことの無い彼には、文明揺籃の地をこの目で見たい、まだ行ったことの無い場所に行きたいという思いが強かった。

 それから、もうひとつ。母のことを、見てみたい。決して口に出しては言えないが、確かにその思いがあった。幼い頃から、絶対の力を持つ者として君臨し、愛情を注ぎ、自分を育てて、この大陸を守ってくれた人。自分があと十七年であのようになれるかと言えば、答えは絶対に否だ。しかし、いつかはあのようにならねばいけない。母が負う荷は、好むと好まざるとに関わらず、皇太子たる自分がいずれ負う荷である。

 どうすれば、母と己の間にある、果てしない隔たりを埋めることが出来るのか。考えても考えても分からないから、間近で見てみたいと思ったのだ。

 思ったのだが、実際見て更に、隔たりの大きさを思い知った。その上に体力を使い果たして、殆ど気力だけで持たせて、馬にしがみついている始末だ。言い訳はどうとでも出来るし弁解の余地もあろうが、我ながら情けない。

 色々な思いを噛み殺した苦い表情を、母が横目に見ている。いつもそうであるように、落ち着き払った淡い笑みを浮かべて。

「相変わらずだが、根性は良いな、そなたは」

「根性『も』です。気力も体力もあります」

 我ながら、子供そのものの言い草だと思った。こんなことを言えば、母が笑う、とも。

「そのようだな。まだ減らず口も叩けるし、顔を上げることも出来る。それでいい」

 やはり、母は笑った。ごく穏やかに、優しい母の顔で。

「せっかくだから、あとは知力と武力と政治力と、何をつけようか?」

 そして、そんな自分の稚気など、幾らでもいなせてしまう余裕。ああ、どうせ自分はこの人には勝てないと思うのには、流石にもう飽きてきた。だが、どうやら先程、頭の中に同じ言葉があった時よりは、気が晴れているようだ。

 いつまでも仏頂面をしていても仕方ないから、せめて真っ直ぐに顔を上げる。

 その瞬間、少年皇太子は目を見張った。

 抜けるような蒼穹に聳える、聖樹ユグドラシル。それを背景に、かつて千年の都と讃えられた、メソティキオンの城壁が威容を見せていた。そのことは、様々な史書や物語で繰り返し読んできたが、その長大な姿はやはり、実際に見ると圧倒された。

 それは、母も同じの筈だ。軽く息を呑んだ後、横目でこっそり、その様子を伺う。

 少年の予想に違わず、母もまた、美しい瞳を見開いて、古代の都を見つめている。まるで少女のように頬を染めて、輝くような笑顔で。

「やはり、来て良かった――」

 誰に向かってでもなく、アラベラ・アデライドは呟いていた。

 

 メソティキオン入城後のアラベラ・アデライドは、またしても疲れを見せず、てきぱきと働き続けた。現地の責任者に会い、報告を受け、次は会議。翌日からは視察を入れると言う。馬を降りたら最後、立ち上がれなくなってしまったジークムントは、最早ぐうの音も出ないで居たが、最後の意地で、翌日からの視察には同行を申し出た。

 そうして、千年の都の各所を回って、流石に気が付いたことがある。確かに、歴史ある都に違いない。だが、活気に乏しい。もっと言えば寂れている。或いは、このままではゆっくりと風化して、気が付かないうちに消えてしまうのではないか、とも思えた。

 それは、あまりにも勿体無い。どうにかしなければ。そう思い立ったのは、歴史にも名高い城壁の上に辿り着いた時だった。

 そして、その瞬間を、恐らくは母見ていた。

「皇太子に問う」

 弾かれたように、ジークムントは顔を上げる。母が、確信に満ちた表情で、真っ直ぐこちらを見ている。

「この都を、どうしたい」

 自分にはまだ、何の能力も、権限も無い。その自分に、何を訊こうと言うのか。そうは思ったが、訊かれた以上は逃げ道など無い。

「…衰退していくことに、疑問を持っていない都市、と見受けました。千年の歴史を支えた都としては、あまりに惜しい。活気を取り戻す策が必要です」

「例えば?」

「例えば…大学をひとつ、ここへ移すとか。産業を興すには立地も肝心ですが、学問はそうとばかりも言えません」

「そうだな、それもいいかもしれない」

 満足そうに、母が微笑む。

「やはり、文化的なことだろうな。新たに産業を興すのは難しい立地だ。食糧生産能力も決して高くない。何より、もう何百年とこの調子で生きてきて、寂れていることに慣れ過ぎている。だがここは、文明揺籃の地だ。貴重な史跡や資料も数多くある。それを活かす形で、活性化策が必要だな」

 それ見ろ、自分が分かる程度のこどなど、母はとっくに分かっている。つい、そういう風に思ってしまうのは、ジークムントがそういう年代の真っただ中だからだろう。それは自分でも分かるのだが、分ったからと言って止められないのが、またこの年代でもある。

 そんな息子の心情もまた、どうせ母はお見通しだ。癪なんだか、嬉しいのかよく分からないが、この母はいつも、発狂するしか無さそうな忙しさの中でも、絶対に自分のことを見ていてくれる。肯定するかはいざ知らず、必ず知っていてくれる。

「言いたいことがあるなら、言えばいい。人払いはしてある」

「……母上の、そういうところが嫌なんです。自分では敵わないのが、嫌と言うほどよく分かるので」

「そうだな、まあ、十年早いと言っておこうか」

 にやり、とでも形容すればいい、悪戯っぽい母の笑み。ほら、やっぱり敵わない。

「乗り越え甲斐のある母で居てやろうではないか。早々に見下せる親というのも寂しいぞ。そなたの祖父リヒャルト陛下は、英明な方であられたが、何分老いておられた。そなたと幾つも違わなかったが、これまでだな、と思ったものだよ」

 そんなことを言われても、と思うが、母にとっては大切な話なのだろうし、自分にとってもきっとそうだ。

「苦労をかけるな、そなたには」

母の面が、ぐっと柔らかくなる。母であり皇帝であり、父親の役までこなしたりするこの人が、随分久し振りに。

「私も嫌だった。皇帝の長子に生まれたというだけの理由で、得体の知れない重荷を負わされるのが。出来るわけが無いとも思ったよ。放り出したこともある。だが、ある時ふと思った。いずれにせよ私は、この大陸で唯一の立ち位置から、唯一の仕事をせねばならぬのだから、能うなら、喜んでその役目に当たりたいと。どうせ逃げられぬのだし、そうして見た景色の方が美しかろうと思ったのさ。」

「…私にも、そう思えと?」

「思えと言って思ってくれるなら、とっくに言っていただろうなぁ。ただ、私にもそういう時期があった、というだけさ」

 狡い、とジークムントは思った。実際には「思え」と言っているのに等しいのだ。ただ、こういう言い方をされると、正面切っては反発しにくい。

 そのぶすっとした表情に、母は更に口元をほころばせる。

「それにしてもまあ、そなたは父上によく似ているよ。本当に私の子か?」

 際どい冗談だ。あまりに際どい。何故なら皇太子ジークムントの父エドガルド・ドゥカーティは、大逆の罪人だから。

「自分の子だから、こんな風に気にかけて下さるのでしょうが。冗談にもならない冗談はやめてください」

 無論、こんなことで悪びれる母ではないが。

「悪かった、悪かった」

 口ではそんなことを言うが、同じ言葉を繰り返した時点で、真剣さが薄い。

「言ってみて思い出したが、確か私は、さっきみたいな言葉で、そなたの父上を口説いたんだったな」

 父親――興味が無いわけではない。実際、母に尋ねたこともあるし、その度に母は答えてくれた。道を間違った罪人には違いないが、確かに愛し合った相手だし、自分が生まれてくることを、待ち望んでいたと。

「母上は……どうしてそんなに、後悔しないのですか?その父上を、処断されたのでしょう?」

「後悔して結果が変わるなら、そうだな、後悔のひとつもして見せようか。だが、起こってしまったことは起こってしまったこと。その場その場で最善の判断を下してきたことだけは、自信を持っているから」

 本当は、悔いもあるし辛かったのだろうと思う。どれほど超人的な働きをしていようとも、やはり母は母で、人間には違いないのだから。ただそういう顔を、自分たちには見せないだけで。

「父上を…愛しておられる。今でも」

「まあ、ある意味では」

「皇配殿下に対して失礼ですよ!」

「それとこれとは別問題だ。まあ…この話も、十年早いかな」

 莫迦にしないでください、と言おうとして、言えなかった。十年後、自分はどういう位置からこの母を見ているのだろう。それは見当もつかないし、十年と言えば物心ついてからの時間に等しいから、まだ呆れるほど先のような気もする。

 だが、その果てしない十年も、喜んで受け入れれば、案外すぐで、きっと悪くない。

 この時初めて、ジークムントはそう思った。

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