烈女と呼ばれるようになるには、相応の理由がある。アラベラ・アデライドの場合、まずは即位と同時に最初の夫を断罪したという、衝撃的に過ぎる事件があったからだ。その他にも、三十代以降に幾つかの出来事があり、彼女を「烈女」ならしめるのだが、それについては筆を改めよう。

 とにかく二十代で、ギュスターヴ・ドワノーを夫とした日々は、女帝にとって最も平和で「烈女」の名には相応しくない日々であった。

 とはいえ、その最中にも財政収支の均衡に気を配り、より一層の教育の充実に腐心するなど、統治者としては平均以上のことをしてはいる。ただ、それだけで歴史に残るわけではない、という話だ。

 ギュスターヴ・ドワノーは教育者であった。では、二十代の女帝が教育に気を配ったのは、その影響あってのことだろうか? 答えは否だ。皇配としてのギュスターヴは、とにかく表に出ることを嫌い、自らの学究の成果すら、積極的に発表しようとはしなかった。彼の、文学者としての優れた功績が明らかになるのは、その死後数年を経て、遺稿が整理されて後のことである。生前の彼は、皇太子ジークムント、そして己が血を分けた三人の皇子たちの教育に気を配り、多忙な女帝を迎え入れる、穏やかな家庭を維持することに心血を注いでいた。

 ユグドラシル帝国において、平民の識字率が著しく向上したのは、アラベラ・アデライドの治世下でのことであり、これは彼女の最も大きな実績として歴史に残っている。だが、それは決して誰かに影響されてのことではなく、自ら考え抜いて、掴んだ実感から決めたことだ。敢えて言うなら、生涯の友人であったギュスターヴの姉、ジュリエットの影響はあったのかもしれないが、それとて小手先の方法論程度のことだ。アラベラ・アデライドは己に足りないものをよく知っていた。自分が多くの人間に支えられていることも。だから、将来自分を、或いは自分の子供たちを支えてくれる人間が、多ければ多い方が良いと考えたのだ。そのためにはどうすべきか? その答えが、彼女にとっては教育であった。

 ギュスターヴ・ドワノーはまた、女帝の子供たちのうち過半を占める、三人の父親である。男子が四人も居れば跡目争いが心配なくらいで、少なくとも英雄帝の直系が絶える危惧は無い。こうして、父帝リヒャルトの治世以来、半世紀以上に渡って些か心許ない状況にあった皇統を安定させたこと、これもアラベラ・アデライド二十代の大仕事であった。

 要するに、アラベラ・アデライドにとっては、二十代は「溜め」の時期であった。十代にして皇帝となり、幾つかのことに手をつけ、それを充実させる。家庭を築き、大きくして、将来への不安を無くす。そういう時期だったのだろう。

 

 気が付けば、二十九歳になっていた。三十という、得体の知れない数字が目の前に迫っている。この時代に於いては、年増の領域だ。一日の政務に区切りをつけて、私室の扉を開けると、一日の疲れがどっと押し寄せる。実際にはこれで終わりではなく、家族の顔を見たら、また執務室に戻って、考えたいこともある。

相変わらず、力ずくで捻じ伏せるような生活だ。こんなことがあと何年続くのかと、うそ寒い思いでやってきたが、案外続くものだ。

「母上、お帰りなさいませ」

 そう言って最初に迎えてくれたのは、十二歳になった、皇太子ジークムントだ。このところやや声が掠れ始め、声変わりの前触れを見せてくれる。黒い瞳には怜悧な光が宿るようになり、面差しは時に憎らしいほど、亡き父エドガルドに似てきている。

「ほら、お前たちも」

 そして、ジークムントは情の篤い子になった。父親の違う弟たちを、とてもよく可愛がる。もう母に正面から甘える年齢ではない、ということもあるが、この日も自分は先に挨拶だけ済ませて、まだ玩具を手にしていた弟たちを、母のところへ行かせる。

 第二皇子のギュンターは、弟らしい気儘なところと、兄らしい気丈さがあって、四人の中では最も扱い辛い。父譲りの柔らかな面差しの裏には、時に両親ですらうんざりさせるほどの強情さを秘めているのだ。まだ四歳のこの時ですら、開いていた絵本をなかなか閉じようとせず、最後は兄ジークムントに手を引かれて母のところに来た。それでいて、弟たちに譲ってやろうという気はそう大して無いので、あっという間に喧嘩になる。

 第三皇子のイザークは、どうやら父ギュスターヴの気質に通じるものがあるらしく、三歳にして風の様な自由さで動く。年子の兄ギュンターが多少横暴な振る舞いをしても、年の離れた異父兄ジークムントが命令口調になっても、何でも受け流して平然としている。頼もしいと思いかけては、単に鈍いだけなのではないか、との不安に襲われることがある。

 そして、まだ一歳とすこしの第四皇子コンラートだが、顔立ちが最も母に似ているのはこの子だ。きりりとして涼やかな目元が、赤ん坊の域を出ないながらに、ファーレンハイトの血を感じさせる。その一方、目下のところ末っ子とあって一番の甘ったれで、父であれ母であれ独り占めしようとして、叶わないと言ってはぐずる。一歳児などそんなものと言うことも出来るだろうが、上の三人は、多少は譲る気があったり、我慢する気があったりした、と思うのは気のせいだろうか。これで末っ子と決まったわけでも無いから、特に甘やかした積りは無いアラベラ・アデライドだが、この末っ子のことについては、多少自信が無い。

 幼子が三人居ると、腕など何本あっても恐らく足りない。膝を屈めて、まずは飛び込んできたイザークを受け止める。遅れてやってきたギュンターの頭を撫でる。よちよち歩きのコンラートに声をかけ、よちよち歩きに手を差し伸べる。そうすると、放り出されたギュンターがむずかるので、取って返す。イザークがコンラートにちょっかいをかけて、泣き声が上がる。もうそれだけで、目が回りそうだ。

 足らない両手を目一杯に広げて、ようやく三人を抱き止めたところで、はっと顔を上げる。するとそこには、反抗期の入り口に立った、独りだけ父親の違う一番上の子が、すこしだけ寂しそうに微笑んでいる。

「して欲しいことがあるのなら、黙っていないで何とか言いなさい」

 辛うじて空いた左手を伸ばして、アラベラ・アデライドはジークムントの黒髪を引っ掻き回した。ジークムントは、何をするのかと言いたげに顔を顰めたが、決して振り払おうとはしない。まだあとすこしだけ、母に甘えたい年頃であるようだ。

 そんな風にして団子状態になった母子を、一歩退いて見つめている者が居る。皇帝アラベラ・アデライドのもう一人の家族、皇配ギュスターヴ・ドワノーだ。アラベラ・アデライドの夫たちが皆そうであったように、彼もまた、ファーレンハイトを名乗ることは許されず、生来の名のままで居る。

「何度見ても、壮観ですね」

 そしてギュスターヴは、今日も良い天気ですねと言うのと同じ調子で微笑む。アラベラ・アデライドは苦笑を返す。

「こればかりは、そなたに手伝わせるわけにはいかないから。それよりも、何かほかに、言うことは無いのか?」

 今度はギュスターヴが苦笑する番だ。

「どうせまた出て行かれる方に、これを申し上げるのもどうかと思いますが…お帰りなさいませ、陛下」

「聞きたいものは、仕方ないだろう。それが楽しみで、そなたの顔を見に来るのだから」

 両手一杯に四人も子供を抱えておいて、ぬけぬけと甘ったるいことを言うアラベラ・アデライドである。何故か彼女は、ギュスターヴが言う「お帰り」を、殊の外好んだ。そして、お決まりの台詞を返す時だけは、そこに誰が居ようとも、皇帝でも母でもない顔になって、屈託の無い笑みを浮かべる。

「ただいま、ギュスターヴ」

その笑顔で、こう言うのだ。可能な限り、一日に一回は。その後、子供たちの寝顔を見てから執務室に戻ることも、ざらにあると言うのに。

 

 ギュスターヴと添った時代のアラベラ・アデライドには余裕があった。長子たるジークムントは徐々に手を離れていったとはいえ、断続的に三人も子を産んで、慢性的に幼子と赤ん坊を抱えた、身動きが取れない時代であったにも関わらず、だ。

 それはひとえに、皇配としてのギュスターヴの功績だと言われている。早い話が、アラベラ・アデライドは下の三人の子供たちの養育を、九割がたギュスターヴに任せてしまったのだ。母親だから、いつも気に掛けてはいたし、そのことが子供たちに伝わるよう、心を砕きもした。どんなに忙しくても、必ず日に一度は子供たちのために時間を作った。それは、女手ひとつでジークムントを育てた時代と変わらない。

 その代わり、具体的で子細なこと――例えば、子供たちの健康状態だとか、勉学のはかどり具合の管理は、すべてギュスターヴに任せきりにした。ギュスターヴの子ではない、長子のジークムントも含めて、だ。まったく放置しているわけではなく、定期的にギュスターヴ自身の口から報告を受けはしたし、子供たちに尋ねることもあったが、仮にそこで何か問題を発見しても、直接自分でどうにかはしなかった。それは、子供たちの管理者である、ギュスターヴの仕事だからだ。

 そうして自分は、要点を押さえるだけに留める。子供たちをいつも気にかけていること、愛情を持って見ていることを、伝える。それが、四人の子の母になったアラベラ・アデライドの流儀であった。そしてそれは、遥かに長い時間を子供たちと過ごし、何かと具体的な気苦労もするギュスターヴが、思わず不平を言いたくなるほど、要領を得ていた。ギュスターヴは時々、堪えきれない苦笑を浮かべて言ったものだ。「どうして私がこれほど心を砕いているのに、皇子たちは皆、母上の方が好きなのか」と。

 その度に、アラベラ・アデライドは静かに微笑む。学問でも政治でも、成果を出したいと思ったら、無駄なことや効率の悪いやり方も、時には必要になってくる。それは育児も恐らく同じで、結果的には不要な手間であっても、踏まずにはいられないものがある。自分たちは、二人でそれをやっているのだ。そして、申し訳ないけれど、手間の部分をすべて、ギュスターヴに委ねている。それだけだ。

「得な母親だ、と言っておこうか」

 口先ではそんなことを言うが、本当はその「手間」の部分に、かなり面白いことがあるのだろうな、と思い、時々物足りない気分になるアラベラ・アデライドである。そして、手間はやはり手間で、莫大な時間と労力を費やすのだから、それを肩代わりしてくれるギュスターヴには、申し訳なくもあり、感謝の念が尽きないアラベラ・アデライドでもある。

 年少の三人の皇子たちは、ひとしきり騒いで甘えた後、ギュスターヴに促され、乳母に伴われて寝室へと向かった。すこし年上になるジークムントはまだ眠る必要は無いが、母との時間は、もう終わりだ。

「では母上、皇配殿下、お休みなさいませ」

 と、分別臭い顔をして、軽く一礼する。

「でも、まだ眠らないんだろう?何をするんだ」

「読みかけの本を、もうすこし進めておこうかと思います。ニンフォニウムの歴史書ですが」

「そうか。夜更かしはほどほどにしておくように」

「そう言われながら、言いつけを破るのが楽しいんですよ」

 最後に一言、生意気を言わないと気が済まない年頃のようだ。最もそんなものは、母親にとっても、元教師である義父にとっても、笑うまでもない可愛げなのだけれど。

 子供たちの時間の終わりは、皇帝としての時間の始まりを意味する。ただ、その前にすこしだけ、夫婦の時間が欲しい。それが最後になってしまうのが申し訳なくはあるが、子を持つ親とはそうなってしまうものかもしれない。

「それでは、もうお戻りになるのですね?」

 無論それを分かっているから、ギュスターヴはそう言って微笑む。

「そうだな、まだ色々と、考えたいことがあるから…先に休んでいてくれ」

 言葉面も、表情も素っ気ないが、アラベラ・アデライドはさりげなく手を差し伸べて、ギュスターヴの頬をなぞる。ギュスターヴがその手を受け止める。

「起きていられる限りは、お待ちしていますよ。これは私の好き勝手ですから」

「分った分かった、勝手にするといい」

 苦笑とともに、触れていた手を離して、踵を返す。執務室に戻る時間だ。終わりはわからない。敢えて言うなら終わった時間だ。そして、その後寝室に行けば、ギュスターヴは必ず起きて待っている。だからと言って何をするわけでもなく、他愛も無いことをすこし話して、眠ってしまうわけだが。

 そうしてまた、一日が終わる。その積み重ねで、生活が出来ている。それが、アラベラ・アデライドの二十代の日々だった。

 もうそろそろ、それを終える頃なのだろうとは、薄々思っているのだけれど。

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