見え透いた男だと、アラベラ・アデライドは思った。人生の時間が二十八年もあったのなら、それまでに一体、どんな人間関係を築いてきたのだろう。想像して笑ったりしてはいけないのかもしれないが、苦笑よりは微笑が浮かんできた。どうせ、愚直に突っ走っては転んでを繰り返したのだろう。

 ギュスターヴ・ドワノーが自分を見ていて何を感じたか、それは幾ら何でも分かる。そういう目を自分に向けてきた男なら、これまで何人も居たのだから。

 だが、その目とあの目の間には、決定的な違いがある。これまでの多くが、その位置に留まって、ただこちらを見るだけで満足しようとしていた。アラベラ・アデライドに言わせればそれは、彼女のことが好きなのではなく、そうやって黙って見つめている自分が好きなのだろう。だから関係無い。そう思って切り捨ててきた。

 それとは違う態度を取ったのは、過去に二人だけだ。一人はエドガルドで、その目線を真っ直ぐこちらに向けて、彼女を求めた。そしてギュスターヴだ。自分が何をしているか気付いた瞬間に、踵を返した。無礼で、初心な男だ。自分より、六年も長く生きているのに。アラベラ・アデライドは苦笑する。けれどもその笑みは穏やかなもので、心のどこを探しても、悪い感情など出てこなかった。

 それで十分ではないか、という気分が、ふつふつと湧いてくる。物事が始まる時は、大抵こうなのだ。流れに任せて懸命になっていれば、そこに何かがあって、自然と巡り合う。何も無い時は、足掻こうが喚こうが、何も起こりはしない。

 無論、早々に結論が必要な話などでは無い。そういう可能性もある、その目でギュスターヴを見ていれば、また何か、別のものを手繰り寄せることも出来るだろう。最低限、政治家ではない。ただ考えていただけの時からの条件とも、とりあえずは折り合うのだから。

 ただひとつ、問題があるとすれば、彼が明日から、また無事に出仕してくれるかで、それは甚だ怪しいものであろう。今のうちに、ジュリエットを通してでも、釘を刺しておかなければならない。

 いや、とアラベラ・アデライドは頭を振る。ここで人づてにする必要は無いではないか。考えてみれば自分自身、そう大してギュスターヴと話をした覚えも無い。明日、皇太子の授業の前に、もう一度この部屋に来るように。それでいい。それでまた、ひとつ新しいことが始まるのかもしれない。

 

 果たして翌日、朝まだ早い時間のうちに、ギュスターヴ・ドワノーは再び、皇帝執務室に呼び出されることとなった。そこに立つギュスターヴは、それまでの超然とした雰囲気を纏えずに、寄る辺ない様子で目線を泳がせている。本当に、分かりやすい男だ。アラベラ・アデライドには苦笑するしか無い。

 だが、昨日の状況が逆転しただけだ、と思えば滑稽でもある。そのことに気付くと、すこしほっとした。そのことで、案外肩に力を入れていた自分に気付いた。

「早い時間に済まないな、ギュスターヴ・ドワノー。そなたには、どうしても言っておきたいことがあって、呼びつけさせて貰った」

 余計なことを言おうとすれば、どんどん自分は逃げてしまう。分かっていたからこそ、アラベラ・アデライドは即座に話を切り出した。紫がかった青の瞳を、ひたとギュスターヴのそれに据える。姉ジュリエットと同じ褐色の瞳は、その真ん中にアラベラ・アデライドを捉えて、放さない。奥底には幾らかの恐れを含んでいても、逃げることは出来ないと、悟っているようだった。

「最初にひとつ、確かめておきたい。そなたは私のことを……好いてくれている、と思って良いのだな?」

 アラベラ・アデライドが問いかけると、ギュスターヴは抑揚の無い声で、はい、と答える。

「そうか…ありがとう。ひとつは、そういう気持ちを持ってくれたことに対して。それから、すぐに答えてくれたことも、嬉しく思うよ。大体の男は、ここで逃げてしまうから」

 柔らかな微笑みが、アラベラ・アデライドの唇を染める。自分でも、言いながら不思議だったが、その会話を進めていくことが、とても嬉しく思えた。

「自分でも、こうしていて不思議なんだが、本当に、嬉しく思うんだよ。ただ……今すぐ、その気持ちに応えることは出来ない。嬉しいと、愛するの間には、まだ随分距離があるし、皇太子のこともあるから。まずは、そのことを分かって欲しい」

 それなりに、酷いことを言っている。すくなくとも自分が逆の立場だったら、まるで生殺しだと思うだろう。その自覚はあったが、この状況下では、アラベラ・アデライドに言えることはそれがすべてであり、せめてギュスターヴから瞳を逸らさないことだけが、たったひとつの誠意に思えた。

 ギュスターヴは何も言わない。ただ表情を殺して、固唾を吞んで、アラベラ・アデライドを見つめている。この先起こる、どんな小さな物事をも取り逃すまいと。

「だから、ギュスターヴ。私に機会を与えてくれないか。この先、そなたを知る機会を。それで初めて、私は今の…この、嬉しい気持ちの扱いようが、分かるような気がする。そなたは、私の子を大切にしてくれるし、政治的な問題を起こすような男でもない。この先は、私がそなたを好きになれるかどうか、それだけ、だと思う」

 言いながら、自分でも呆れる。結婚もしたし、子供も産んだ。心底から人を愛したこともある。裏返しで憎んだことも。要するに一通りのことはした気がするのだ。それでも、言えるのはこんな、幼稚な台詞でしかないのだ。他人のことを、どうこう言える立場では無さそうだ。

 そうして我に返ると、アラベラ・アデライドは、随分長い間、自分独りで喋りまくっていたことに気が付いた。

「もちろん、これは私の勝手な言い分だから、受け付けないという選択も有り得ると思う…いきなりそんなことを言われて、すぐに回答出来るかという反応も」

 だが、口がなかなか止まってくれない。内容はあって無いようなもので、決して流暢でもないのに、なかなか黙れない。順番を、ギュスターヴに回せない。

ああ、要するに自分は怖いのだなと、アラベラ・アデライドは知る。そして大きく息をついて、強制的に自分を黙らせた。そうでもしないと、このまま何処までも逃げてしまうだろうから。そして、促すように視線を投げかけると、ギュスターヴは、やっとのことでアラベラ・アデライドから視線を外し、参ったなとしか言いようが無い調子で、かぶりを振った。

「先手必勝、ですね。そこまで仰られては、『承知致しました』と申し上げるしか無いではありませんか」

 軽く溜息をつくと、ギュスターヴはもう一度、今度は強い目線で、アラベラ・アデライドを捉える。

「私のようなものには、過ぎたお言葉です、陛下。仰せの通りに致しましょう。それまでは、一介の教師として、皇太子殿下にお仕えしたいと存じます」

 それは例えば、最初に同じこの場所で出逢った時、手作りの教材を見せてくれた時の様な、輝く瞳だった。何よりもそのことに、アラベラ・アデライドは安堵する。

「そなたが正直で助かるよ。為政者がこういうことを言ってはいけないかもしれないが…私はどうしても、まだるっこしいことが苦手で仕方ないから」

「どうでしょうか。あと三年もしたら、困り果てておられるかもしれませんよ?何しろ私は、時と場と相手を見て対応を変える、ということが何より苦手な、学者莫迦ですから」

「学者ではないが、そんなことは私も同じだ」

 そう言った瞬間に、アラベラ・アデライドはもう、吹き出してしまっていた。嬉しい、から始まった気持ちは、とても穏やかなものに変わっていた。

「正直に言うと、怖かったぞ、それなりに」

 そうして笑うことが出来たら、あとは何を躊躇う必要も無い。アラベラ・アデライドは、生来の果敢さを取り戻す。微笑みを悪戯っぽいものに取り替えて、やや幼い上目使いにギュスターヴを見る。

「私如きを怖がる必要がおありでしょうか?」

 対するギュスターヴは、どうやら完全にいつもの自分を取り戻しているようだ。展開や結論が見えない間は恐れるものがあっても、すべてがはっきりとした今は、誰が相手でも、どんな時でも態度をほぼ変えない、いつものギュスターヴに戻っている。

「一方的に勝手を言うから…逃げられるかと思って」

「逃げても仕方ないではありませんか。仮にそういうことをしていたなら、私はすべて失っていたんですよ。仕事も生徒も、それから貴女も」

 さらりと、とても自然に放たれた言葉だったが、その一言が、アラベラ・アデライドの頬に朱を載せた。そうすると、大陸の支配者であり、一児の母でもある女性が、とても幼いものとなった。

 

 実際のところ、ギュスターヴ・ドワノーが女帝の夫となるのは、これから二年後のことだ。それから三十歳までの六年で、アラベラ・アデライドは三人の子を産むことになる。第二皇子ギュンター、第三皇子イザーク、第四皇子コンラートとすべて男子ばかりで、母であるアラベラ・アデライド自身、「よくよくの男腹だな」と呆れたとも言う。

 そのような事情もあったから、烈女と呼ばれた皇帝の二十代は、統治者としての実績には乏しいとも言われる。だが、彼女の生涯において最も平和で穏やかな日々であったことは、恐らく間違いない。

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