神聖にして不可侵の皇帝。ファーレンハイト王朝歴代の中で、最もその言葉が相応しいとされるのは、大帝アンドレアスであろうと言われている。歴代随一の美丈夫と言われるその身に、何ものをも恐れない精神と実行力を兼ね備え、生まれながらの皇帝として、大陸国家を完成させた。   そしてもう一人、その名を挙げるとしたら、それは英雄帝ジークフリードではなく、「烈女帝」アラベラ・アデライドであろう、と言うのが大方の意見だ。

 生まれながらの皇帝という意味では、アラベラ・アデライドもまたそうだった。彼女はそのために生まれ、育てられて、そのように生きたのだから。

 その一方で、彼女は常に偶像として生きた。その生い立ちを、大陸の民が皆で見守った。幼かった少女が美しく生い立ち、聡明な為政者として、強く優しい母として生きる様を、見守り続けたのだ。アラベラ・アデライドという物語がそこにはあり、大陸に生きる者皆が、その物語の登場人物になった。アラベラ・アデライドはその事実に対して自覚的であり、なるべく良き偶像であろうと努めた生涯だったと言える。

 それ故にこそ、彼女はその生涯に、無数の崇拝者を持った。そして殆どの場合、崇拝者たちは遠巻きに彼女を見守るだけで、決して近づこうとはしなかったものだ。神聖にして不可侵の女神に、触れてはならぬとでも言いたげに。そしてそれ故に、彼女が夫を持たなかった時期、再縁を勧める家臣たちですらも、その難しさに頭を悩ませたものだ。一体何者が、彼女の配偶に相応しいのであろうか、と。

 恐らく、政治家であってはならぬのだ。ジュリエットに再縁話で踏み込まれてから、柄にもなく、アラベラ・アデライドはそんなことを考えていた。政治家は政敵になり得るのだし、何よりエドガルドの再来になりかねない。それだけはご免だ。いや、そもそも再縁話など何ら正式なものではないのだし、無視すればそのまま流れるだろう。自分は一体、何を思い悩んでいるのか。アラベラ・アデライドはかぶりを振り、頭の中にわだかまったものを振り払う。どうもこれが、根深い病なのではないかと、思わないではない。だが、アラベラ・アデライドは「きっかけ」のようなものを重んじた。例えば何か閃くとか、誰かと出会うとか。今回はまだ、それが無い。ならば、考え続けるだけ無駄だ。アラベラ・アデライドはそう決めた。本当に自分が進むべき方向があるならば、どこかで何かがある筈だ。それを待とう。そして何も起こらなければ、それは結局、自分には不必要なのだ。

 

 そんな風にして、埒も無い思案を振り払ったアラベラ・アデライドだったが、その直後に、いきなり「何か」にぶち当たることになってしまった。

 「わたしには、どうして、ちちうえがいらっしゃらないのでしょう?」

その日、顔を合わせるなり、ジークムントにそんなことを訊かれてしまったのだ。流石のアラベラ・アデライドも、これには途方に暮れた。

 いつか、我が子がそれに気づく日が来る、とは思っていた。思う度に何も考えられなくなっては、何か自分に言い訳をしてきたような気がする。それこそ、黙っていたら何かにぶち当たるかもしれないという、いい加減な希望を抱いて。その果てに、逃げてきたツケを払わされるというのだから、一体何が皇帝か。我ながら情けない。

 何を、どう言えばいいのだろう。この様な時に、上手く言いくるめる術を、アラベラ・アデライドは知らない。政治家として多少の手練手管は使えても、我が子に弄するものなど持たない。そもそも政治家としても、求心力にものを言わせて、正面から突破してきた。

 落ち着け、アラベラ・アデライド。一度だけ、強く心に言い聞かせる。自分が父帝リヒャルトとの間でそうだったように、息子との間にも、下手な嘘は通じるまい。時には搦め手さえ不要になる。言い方の上手い下手はあっても、根本的には、家族とはそういうものだ。

「ジークムント、そなたの父上は、そなたが生まれて間もなくに、亡くなられた。これが、まずひとつだ」

 父譲りの黒い瞳を、あらん限りに丸くしている我が子に、アラベラ・アデライドはゆっくりと語りかける。

「それから、もうひとつ。亡くなられた原因だが……父上は、この大陸の法に反することをなされた故、罰を受けられたのだ。そのことについては、母が決めた。そなたの父上だからといって、特別扱いは出来ぬ」

 錐で刺す様な、細くて鋭い痛みが胸を貫く。本当はその痛みに、同じような細い叫び声を上げたかった。堪えねばならないなら、せめて歯を食いしばりたかった。だが今は、それをしてはならない。アラベラ・アデライドは力づくで微笑み、その白い手を、我が子の頬に差し伸べた。母よりも父の面影が濃い、その輪郭に軽く触れる。

「どうしてそんなことになってしまったのか、今でも時々考えるのだが、正直言って、まだ分からぬ。父上も、母も、何処かで何かを間違えて…それが無ければ、今も一緒に居られたかもしれない、とも思うが。いずれにしても、そなたから父上を奪ってしまったことは、申し訳なく思う」

 それからアラベラ・アデライドは、もう一度息をつく。肝心なのはみっつめだ。

「最後のひとつ、これが一番大切だ。色々なことがあったけれど、母は、父上と結婚したことを、後悔したことは無いよ。父上のことが大好きだったし、父上も母のことを、大切にしてくださった。そもそも、そうでなければそなたは生まれてこなかった。そなたのことを、誰よりも待っていたのは父上だし、今こうして、そなたが健やかに育っていることを、きっと誰よりも喜んでいてくださる。そのことは、絶対に間違いないよ」

 何でも正面突破すればいいというものではない、とは思う。だがこれは、恐らくアラベラ・アデライドにとって、最も大切なことであり、それ故に嘘をつくなど思いもよらなかった。ジークムントはそんな母の、らしくもなく朴訥とした語り口に、黙って耳を傾けている。

「…難しい話を、してしまったかな。分からぬなら、今はそれでも良い。大きくなってゆくにつれて、思うことが色々変わったりもするだろう。その時でもいいし、何も無くても、思い立ったらいつでもいい。父上のことが訊きたければ、いつでも言え。その時は、必ず答えよう」

 アラベラ・アデライドはそう言って、我が子の柔らかな髪を撫でる。一方のジークムントは、相変わらずきょとんとしたまま、真っ直ぐに母を見上げていた。

 

 皇太子の家庭教師たるギュスターヴ・ドワノーが皇帝執務室に呼ばれたのは、同じ日の午後のことだった。その日、ギュスターヴはいつものように午前中で授業を終えており、後は自宅に戻って書物でも紐解こうかと思っていたのだが、破格に珍しく、彼のたった一人の生徒の母親が、たっての話と称して呼びつけたのだ。

 侍従に導かれて皇帝執務室に入ると、傾き始めた日を背中に受けて、皇帝、或いは生徒の母である人物は、軽く俯いて座っていた。

「ギュスターヴ・ドワノー、参りました」

「ああ…よく来てくれた。面倒をかけるな」

 視線が、やや泳いでいる。声にも幾許かの揺らぎが感じられて、明瞭であることを旨とする、いつもの彼女とは違うように見えた。

 そしてまた、いつもは時間を無駄にすることを極端に嫌い、すぐに要件を切り出すアラベラ・アデライドであるのに、この日に限って「喋りたい」と「喋りにくい」の間を行ったり来たりしながら、何も始めようとしない。

 よほど喋りにくいことがあるのだ。それも恐らく、お互いの職務に関することではないだろう。そうであるなら、もっときっぱりと切り出せる筈だ。

「皇太子殿下に、何かございましたでしょうか」

 先方が始められないなら、こちらから始めればいい。ギュスターヴがそう思ったのは、別に彼に、惜しい時間があったわけではない。無論、時間はあるには越したことは無いが、そのために血眼になりたいわけではない。ただ、恐らくアラベラ・アデライドは、迷えば迷うだけ辛いのではないか。いっそ喋り出した方が、楽になるのではないか。そう思ったからだ。

 その言葉を聞いた瞬間、確かにアラベラ・アデライドはかすかに顔を上げた。肩と眉間から力が抜けて、笑みになる寸前の何かが、一瞬口元に浮かんだ。

「……すまない、気を使わせるな。確かに、あの子のこと、だ。すこし、まだるっこしい話になるかと思うが……聞いてくれると助かる」

 そしてアラベラ・アデライドは、今度こそ真っ直ぐに顔を上げて、ギュスターヴの双眸に視線を投げかけた。

 

 訥々と、不器用そのものの語り口で、詰まりながらでもアラベラ・アデライドが話を終えたのは、日がやや傾いて、その橙色の光が斜めに執務室に差し込む頃だった。手短に終わらせたければ五分でも済むような話に、莫迦のように時間がかかったのは、だからその時自分がどう思ったとか、今のは言い訳で実際はどうだとか、行ったり来たり訂正したり追加したりが矢鱈に多かったせいだ。

 内容的に、この上なく言いにくいのはよくわかる。それに、幾ら皇帝と言ったところで、二十二歳は人生の未熟者になるのだろう。その上に、まさかこの話を、一切の誤魔化しを省いて対処したとは。ギュスターヴはそのことについて、軽く呆れもしたし、好ましくも思った。個人としてのアラベラ・アデライドについてはよく知らないが、その愛児であるジークムントの相手をしていると、何となく分かる部分はある。直情で、曇りの無い愛を我が子に注ぐ母であろう、というくらいは。そして目の前のアラベラ・アデライドは、確かにその通りの人物であると思われた。

「……それで、私に何をせよ、と」

 ひとしきり語り終えて、さながら悪事を白状し終えた子供のような顔を俯けているアラベラ・アデライドに、ギュスターヴは問いかける。相手の立場を慮り、言葉を控えるなどしないギュスターヴである。

 しかしアラベラ・アデライドはその声を受けて、顔を上げ、微笑んだ。

「そうそう、そうこなくてはな。私に、そのように直截な物言いをするのは、そなたら姉弟くらいだからな。だが…そうでなければ私が逃げてしまう。いや、今のこの物言いも、逃げなのかな。いや、だから……私は、あの子にどうやって言えば良かったのかな?そなたはどう思う?」

「何故、それを私にお訊ねになるのでしょう?私は一介の教師で、このお話は、畏れながら、陛下ご自身の、ご家庭のお話かと存じますが」

「残念な話だが、あの子を見ている時間という意味では、私よりそなたの方が長かろう。それで、何か気になったことや気付いたことがあれば言って欲しい。それに、確かに私はあの子の母だが、そうであるから見えないもの、見ようとしないものも、あるのではないかと思う。そこは、他人としてのそなたの意見を聞きたい」

 そしていつしかアラベラ・アデライドは、人前での彼女が常にそうであるような、凛として迷いの無い物言いに戻っていた。覚悟が定まると見事なものだと、ギュスターヴは思う。

「まず、ひとつ。殿下おかれましては、差し当たり私の目から見て、変わりの無いご様子でした。それからもうひとつ。重ねて申し上げますが、私は一介の教師です。殿下の御心の問題には立ち入れません。ですが、その上で敢えて申し上げれば、嘘をつかれなかったことは、よろしいかと存じます。正直申しまして、陛下は嘘がそれほどお上手とは思えませんし、この手の嘘は、近い将来には真実が明らかになるもの。その際に、親子の間で信頼に罅が入ることは無いでしょうから」

 優男然とした顔立ちや、同じように柔らかい口調からは想像も出来ないほど容赦のないことを、ギュスターヴは言ったが、無論それを咎めるアラベラ・アデライドではないし、その程度で動じはしない。

「良い、悪いは状況と相手によって変わりましょう。ですが、陛下のご気性が、どのような面においても真っ直ぐであることは、この先恐らく変わりますまい。それから、陛下と殿下が親子であらせられる、この事実も変わりません。でしたら、そのようなご気性の陛下として、殿下に向き合っていかれるよりも他に、なさりようは無いのではありませんか」

 そして最後にギュスターヴは、最も辛辣な言葉を投げかける。

「母親としてのお立場から、見えないもの、見ようとしないものがある、それは事実であろうと存じます。そのために、他人の目を利用しようというお考えも、それはそれでひとつでしょう。ですが陛下。ご自身の考えを補強したいだけなら、人の意見を聞くなど有害であると、私は考えます。不安だから誰かに肯定して欲しい、その思いで人の言葉を求めれば、いずれは肯定の言葉だけを選んで抜き取るようになります。否定の言葉を受けた時に、期待していたものと違うと言って、過剰に傷つくこともありましょうし。こう申し上げるからと言って、私がそれを出来ているとは、とても申し上げられません。ただ、人の意見を求めることは、存外に厳しいことと、ご承知おき下されば幸いに存じます」

 これにはアラベラ・アデライドも流石に面食らった。だが同時に、顔は似ていなくても、やはりジュリエットの血の繋がった弟なのだなと、妙に納得しもした。これはこれで一理以上のものがあるし、面白い、と。

 ものを言う前に、「これを言ったらどうなるか」とは、ギュスターヴは考えない。ただ、必要だと思ったことを言うだけだ。そして言ったら、相手がどう反応するかを、興味津々で待ってみる。この時も彼は、些か不躾すぎるほどに、真っ直ぐアラベラ・アデライドを見ていた。

 するとアラベラ・アデライドは、浮かべたままの微笑みを色濃くし、やがて声をたてて笑った。最初はまだ、皇帝らしい隙の無い表情をしていたのだが、笑い声を立て始めたと思えば、一気に幼くなる。頬を紅潮させ、抑えた様子も無く感情を露わにして、それではまるでジークムントの母というより、姉に近いというような様子で。

「そなたの言うことを聞いて良かった。感謝するよ、ギュスターヴ・ドワノー。私のためにも、皇太子のためにも。良い話だった」

 神聖にして不可侵の皇帝も、生徒の母も、極論を言えばギュスターヴには関係無い。生徒が居て、教えるべきことがある。それと自身が究めたい学問。強いて加えるとするなら、切っても切れない縁の姉くらいで、世界などそれで終わる。それがギュスターヴの領域で、だから彼は、こうも好き勝手なことを言えた。

 その、狭く鉄壁であった世界が揺らぐ音を、恐らくギュスターヴは聞いていた。愛らしい笑顔の影が瞳に焼き付いて、鮮やかな残像を結ぶ。それは消そうとして消えるものとは思われず、敷いて振り払おうとすれば痛みを伴うと思われる。些か不自然に理由を並べ立て、長居し過ぎた場所を辞しながら、ギュスターヴは自分が、踏み入れてならぬ場所に踏み入ったことを知ったのだった。

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