どうやら、すっかりお株を奪われた。アラベラ・アデライドがそのことに気付いたのは、ギュスターヴの授業が始まって、僅かに一ヶ月後のことだった。

 元々ジークムントは、母に似て好奇心旺盛な子供であり、与えられた絵本に書かれた文字にも興味を示していたから、食いつき事態は心配していなかった。しかし、何と言っても四歳の幼児であるから、どの程度集中力が続いて、どの程度の速さで身についてゆくかは、やってみなければ分からなかった。

 ところが、いざ蓋を開けてみれば、ジークムントはあっという間にギュスターヴの魔法にかかったと見えて、一時間でも二時間でも、根気と授業を続けている。ギュスターヴに言わせれば、ただ遊んでいるだけなのだが、傍の大人には驚くばかりだ。集中力というよりは、体力が続く限り書物に向かっている印象さえある。実際、ギュスターヴから「もうこの程度になさいませ」と言われてやっと本を閉じると、そのまま眠ってしまうこともしばしばだ。多少は授業の時間を減らして、身体を動かす時間を設けねばとさえ思える。

 そしてジークムントは、子供の素直さで、その楽しくて仕方ない時間を設けてくれるギュスターヴに、それはそれはよくなついた。物心ついた頃から、乳母よりも守り役よりも母が好きだった子が、あっさり裏切ったのである。

 正直に言えば、アラベラ・アデライドは少なからず衝撃を受け、かなりの程度落ち込んだ。苦労して時間を遣り繰りして顔を見に行ったのに、ギュスターヴの授業に噛り付いて、相手にされなかったこともある。一心不乱に勉強した挙句に眠ってしまい、起こすわけにもいかずに寝顔だけ見つめていたこともある。この四年間、寝る間も惜しんで愛情を注いだつもりだったのに、母とは一体何であるのか…とさえ考えたほどだ。

 しかし、そんなアラベラ・アデライドの可愛らしいほどの落ち込み具合を見て、ジュリエットは一笑に付した。

「まあまあまあ、本当に陛下はお若くていらっしゃるから。子供とは、移り気で気まぐれなもの、ですのよ?いちいち浮き沈みしていては身が持ちません。お分かりでしょうか?」

 頭では分かる、とアラベラ・アデライドは唸る。が、分かりたくない、とも。

「四年このかた、皇太子殿下お一人に、かかりきりでいらっしゃいましたから。のめり込むのも無理ないことと存じますけれど」

「待て。私はただの一度も、気が済むまでこの子と一緒に居たことなど無いぞ」

 反射的にアラベラ・アデライドが放った言葉に、ジュリエットは我が意を得たりと微笑む。

「まさにそこが、要点なのですわ。人並みの母親であれば、いつまで一緒に居ても寝付いてくれない、ぐずって泣きやまない、要するに意に叶わない我が子に対して、もう十分だとうんざりする時があるのです。ところが、幸か不幸か、陛下にはこれまで、そのようなことが無かった。美味しいところだけ取られているのですよ」

 その通りだ。いちいち癪に障るが、本当にその通りだと、アラベラ・アデライドは呻く。ジークムントと過ごす時間は、いつも終わりが見えている。三十分とか、一時間とか。その間だけは、確かにかかりきりかもしれない。だがそれは、所詮「政務に携わっていない時間」に限られたことなのだ。皇帝である時間の方が、圧倒的に長い。そして彼女は、母になるずっと前から、皇帝だった。皇帝になるために生まれて、育ち、生きてきた。それは、そう簡単に変えられるものでもなければ、変えていい道理も無い。重みも、意味も違う。

 がっくりと肩を落とすアラベラ・アデライドに向かって、ジュリエットは更に、危険極まりない言葉を投げつける。

「子供は、自我を持てば離れてゆくものです。実際には、もうすこし先のことになりますが。でも、せっかくですから陛下、すこしだけ皇太子殿下のお手が離れたところで、次のお子様を考えられてはいかがですの?」

 それこそ、ユグドラシル帝国の宮廷にあって、最も危険な発言に違いない。側で聞いていた侍女たちも、皆一様に蒼褪め、肝を冷やして皇帝の反応を窺った。

「……面白いことを言う。配偶を持たぬ皇帝に、どうやって子を産めと?」

 発せられた声は、抑揚を失い、乾いた響きをしていた。言葉面は平静だが、らしくもなく、かなり動揺している証拠だ。

「後添いの候補くらい、掃いて捨てるほどおられましょうが。その中からどなたでも、お好きなようにされればよろしいのですよ」

「知らぬ。第一ジュリエット、お前自身が独り身であろうが。偉そうなことは、自分が夫を持ってから言えばいい」

 どうやらこれは、完全に拗ねたらしい。ここまでの反応を見て、ジュリエットもようやく悟った。例えどのように終わったとしても、エドガルド・ドゥカーティは彼女が初めて恋に落ち、相思相愛であった間柄だ。それを壊してしまった責任の一端はアラベラ・アデライドにあるのだろうし、彼女自身もそう思っている。そしてそれを、いつまでも後生大事に、心の奥底にしまいこんでいる。

 ただ人であればそれも良いと、ジュリエットは思う。だが、アラベラ・アデライドは皇帝だ。皇統を安定させることもまた、日々の政務に勝るとも劣らない大切な役割である。それは果たされなければなるまい。

「では陛下、ひとつだけ申し上げます。皇太子殿下に、ごきょうだいを作って差し上げる、そのことだけは、お考え下さませ。今で無くても構いません。陛下は未だ二十二歳。十年程度は猶予がございましょう」

「きょうだい、か。私も一人っ子だからな。逆に訊くが、それがあるというのは、やはり良いものなのか?」

 良いか悪いかと言われれば、実際のところよくわからない。弟を持つ姉として、ジュリエットが持つ実感はそんなものだ。特に親しいというわけでもないが、あまりに当たり前にそこに存在していて、その理由など考えたことなど無い。

「きょうだいとは、良くも悪くも無く、ただ、そこに存在している、そういうものです、私にとっては。ただ、お蔭様で独りではございません……恐らくは。そして、この大陸を統べる方ともなれば、その意味は計り知れないのではございませんか。英雄帝ジークフリード陛下が、妹君を生涯の頼みとされたように。違いますか」

 アラベラ・アデライドは、一度は背けかけた視線をジュリエットに戻し、潤んではいなくても泣き出しそうな瞳で見返した。

「そうかもしれぬ。だが、一度愛した男の子を産んだ女に、適当な相手を見繕って子を産めと言うのは、なかなか難しいものなのだ。含み置け」

 その、紫がかった青の瞳は、ジュリエットを遠く透かして、向こう側に過去を見ている。叶うなら、まだあの男の傍らに在りたかった。産みたいとすれば、ジークムントのきょうだいであるなら、あの男の子だった。無論アラベラ・アデライドはこの四年間、誰にもそんなことは言わなかった。けれども、確かに心の奥底では、そういう風に思っているのだ。そのことが、突き刺さるような鋭さで分かる、そんな眼差しであった。

 

 そもそも自分は、どうして皇帝の家庭の事情に立ち入ったのか?後になってから、ジュリエットはぼんやりと考えていた。自分はあくまで、女学院の校長だ。その地位が欲しくて、その地位でやりたいことがあって、アラベラ・アデライドに近付き、その知遇を得た。個人的に、彼女のことを興味深く思うし、利害が一致する点は多い。互恵関係というやつだろう。そんな風に思って、これまでの時間を過ごしてきた。その時間に、何の不足も無かった筈だ。

 そして、何はなくとも、アラベラ・アデライドにとって「男」は絶対的な禁句だと、分かっていた筈だ。踏み込むだけ野暮で、無駄。と言うよりも、アラベラ・アデライドの気分を害し、心を閉ざさせると言う点で、明確に有害。それと知っていて、どうして敢えて踏み込んだのだろう。

 皇統の安定的な維持を、と言うのは、確かにその時、頭をよぎった言葉で、正論でもあるが、自分にとっては守備範囲外であるのも間違いない。そのようなことは、それこそファルトマン辺りが気を使っているのだろうから。

 ジュリエットが見る限り、アラベラ・アデライドは、女性にとっては範にならない人間だ。持っている気力も体力も精神力も、桁違いに大きい。それは、物心ついて以来、皇帝になるためだけに育てられた結果であるし、だからこそ、この大陸を独りで背負い、母親としての務めもそれなりに果たせている。歴史上誰も立ったことが無い場所に、何年でも立ち続けて、耐えていられる。女性と言うよりも、人間として強すぎるのだ。あれを目指せと言われて、目指したいと思える者は居ないだろう。また、目指したところで早々に潰れてしまうのが目に見えている。

 あまりにも唯一無二故に、大陸の誰よりも孤独。それがアラベラ・アデライドだ。そして、その母が育てる我が子も、いずれそのようなものになるだろう。顔立ちこそ父親に因るところが多いが、その勝ち気な気質といい、群を抜いた集中力といい、皇太子ジークムントは、驚くほど母アラベラ・アデライドに似た気質をしている。

 母に似ているが故に、いつの日か息子もまた、同じ孤独を背負うだろう。そして、それ以前のある日には、似通い過ぎた気質故に、母と息子が激しくぶつかり合う日もあるに違いない。お互いがお互いを、ただ一人の血を分けた家族と思い、寄りかかって過ごしていれば、その時に負う傷は深いものとなる。

 ああ、だからこそ、家族の数を増やしたいのだ。そこまで考えて、ジュリエットは得心した。母と子が、一対一で凭れ合わぬように。母と子がぶつかった時に、緩衝の役割を負う者、或いは結果として生まれる傷に、孤独に、誰かが寄り添ってくれるように。

 そして、生涯の孤独を引き受けたアラベラ・アデライドに、すこしでも多くの安らぎを。鬱屈を鬱屈とも知らず、傷を癒す暇すら持てないで進み続けるしかない者に、支えを。その強すぎる輝きを間近に知るからこそ、ジュリエットはいつしか、そう祈っていた。

 孤独を孤独と知ることが出来るのは、その皇帝が強いから、かもしれない。大陸の歴史で言うならば、英雄帝ジークフリード、賢帝ヴィクトール、大帝アンドレアス、王朝の創業を成したこの三人が、そうであったように思う。しかし、この三者はいずれも、家庭には恵まれていた。王朝一の子福者であった大帝はもとより、英雄帝も賢帝も、后には恵まれたからだ。そして英雄帝には、王朝の礎を共に築いた、臣下と言うより友と呼ぶのが相応しい家臣が多く居たし、ただ一人の妹もまた、よく兄を支えた。そして、その妹ジークリンデが産んだ子たちが、兄妹同然に賢帝を囲んだ。賢帝と大帝は、孤独を孤独と知るようになる年齢では、まだ父の庇護下にあった。

 いずれにしてもアラベラ・アデライドは、その三者に近づき得る強さを持ちながら、最も早く親を喪い、夫に叛かれたのだ。背負う孤独の桁が違う。

 エドガルド・ドゥカーティという男を、ジュリエットは知らない。その顛末を聞き、愚かと言うのは簡単だが、恐らく彼自身も必死だったのだろう。そういう風に斟酌することは出来る。地味ではあるが、彼自身の立場もまた、大陸に唯一で、歴史上類を見ないものだったのだから。本来であれば、順当に出世し帝国の支えとなったであろう経歴と能力も、寧ろもどかしさを助長しただけかもしれない。そう思えば、恐らく若過ぎたのだ。彼も、アラベラ・アデライドも。先帝リヒャルトの死が、些か早かったとも言える。その庇護の下で、もう何年か甘えていられたなら、また別の未来もあったかもしれないのだ。

 しかし、仮定はすべて、等しく意味を成さない。殊に、それが過去を取り扱うものならば。

埒も無いことをしてしまったと、深い溜息を吐いたジュリエットの背後に、静かな足音が近付く。

「姉上」

 一応、気を使った形跡はある、静かな声だった。こういう時はいっそのこと、何の遠慮も無いいつもの調子の方が気が晴れたように思うが、それはあまりにも我儘であろう。この、場の空気を読もうとしない弟が、姉の疲れた表情を見てくれたのだから。

「何を、お悩みでいらっしゃいましたか」

「というより、お前の方こそ何の用なの」

「いえ…姉上が、難しい顔をしておいででしたので」

 要らぬ気を遣う、とジュリエットは苦笑する。気持ちは有り難いが、あまり現実的な解決策を提示しないのが、この浮世離れした弟であるから。

「私の方は、埒の無い考えから、ちょうどいい。これで切り上げることにします。それよりも、皇太子殿下の方はどうなの?随分お前になついでおいでのようだけれど」

 その一言で、ギュスターヴはすぐに、直前まで姉が見せていた渋面など忘れてしまう。好きなことをさせたり、話させたりすると、思わず夢中になって、他のことを振り捨ててしまう。ギュスターヴの悪い癖だが、姉であるジュリエットもまた、少なからずその傾向を持っているので、何も言えない。

「聡明な御子であらせられます。好奇心がお強くて、何でも素直に学ばれますし、集中力もある。私が教えられるのは読み書き程度ですから、遠からず他の教師の方にお渡しすることになるでしょうが、末頼もしい御子と存じます」

 ギュスターヴ自身はそう言うが、四歳の子供に知識を詰め込んでも仕方ない。それよりも今は、きちんと読み書きや簡単な計算を身に着けさせて、書物に親しみ、学ぶ楽しさを体得して欲しい。それがアラベラ・アデライドの思いであったから、まだ数年は、ギュスターヴが皇太子ジークムントを教えることになる。誰に言われなくても、それこそアラベラ・アデライド自身に確認しなくても、ジュリエットは知っている。

「陛下が、僻んでおいでです。殿下をお前に取られた、と仰って」

 女たちの考えすぎをよそに、無邪気に笑うギュスターヴがすこし妬ましくて、ジュリエットはそんな意地悪を言った。無論、ギュスターヴには通じない。

「取られたも何も、私はただの教師ですよ。それに、殿下がもし、その…畏れ多くも、私に多少はなついて下さっているのだとしたら、それはこれまで、陛下が殿下を大切に育ててこられたからではありませんか」

 この際は、要らないことまで考えている女たちより、余計なことは何も考えていないギュスターヴが正しい。皇太子が教師に、というより人に素直に懐くのは、人に愛されて育ったからだ。そうでなければ、人に対して怯えを抱く子になってしまう。アラベラ・アデライドはジークムントを、恐れないで、愛する子に育てた。

「お前は気楽でいいわね。でも…その通りだわ」

 ふっと、力の抜けた笑みが浮かぶ。それが姉弟だからかと問われれば、答えは否かもしれない。だがジュリエットは、とりあえず今、ギュスターヴがそこに居て良かった、と思った。

 アラベラ・アデライドには、もうすこし広がりのある家庭を持って欲しい。自分のその願いも、恐らく間違いではない。しかし、頑なになってしまった女帝に対して、どう話しかければいいのか。ジュリエットは今は、その言葉を持っていないのだった。

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