側に人が居る、とは、こういうことなのか。人生二十一年目にして、アラベラ・アデライドは痛感していた。相変わらず、政務は多忙でどうしようもなく、母親としての時間を確保することもままならない。だが、その合間にジュリエットの顔を見る時間があると、何かと気が晴れた。  

無論ジュリエットとて遊びに来ているわけではなく、女学院のことで何かと報告もあれば、決済が必要なこともある。月に一回程度ではあるが、アラベラ・アデライド自ら、仕上がり具合を視察に行きもした。ただそこに、彼女が居るだけだ。

話すことも、大概は仕事の話に終始する。その合間に、緩衝材程度に雑談や冗談や世間話が挟み込まれる。逆に言えば、それ以外に何も無い、と言っても過言ではない。

だが、その単にそれだけのことが、どうしようもないくらい、アラベラ・アデライドの中に溜まっていた鬱屈を晴らした。

というよりも、自分の中に鬱屈というものがあったことを、アラベラ・アデライドは初めて知った。だが、徐々に軽くなっていった心から、何が消えていったのだろう。それを突き詰めて考えれば、それは鬱屈と言うよりほかは無かった。

 己の内側を、突き詰めて考える――そのこと自体、生まれて初めてかもしれない。皇帝になるべき者としての生まれを疑ったことも無いし、そのために必要なことは迷わずしてきた。夫であった者をその手にかけることさえも。

 だが、本当は恐らく、どこかで立ち止まったり、迷ったり、考え込んだりすることが必要だったのだろうなぁと、今はさながら他人事のように、アラベラ・アデライドは思う。それをしなかったがために、知らず知らずのうちに溜まっていたものがあったのだ。放っておけば、いずれ心身を害したりしたのだろう。恐らく、若さという名で誤魔化せないものが出てきた時にでも。

 その一方で、これもまた、一時凌ぎだなという気もしているのだ。気晴らしをする方法は出来たにしても、依然として、立ち止まる自由は無い。だからきっと、これからもずっと、何かが心に溜まり続けるのだ。そしていつの日か、自分はそれに押し潰される日が来る。

漠然とそう思うと、一瞬、ぞくりという悪寒が背筋を撫でる。せめて、あと二十年。ジークムントが一人前になるまでは、立ち続けなければいけない。

「だが、どうしようもあるまい」

 軽く、ごく軽く、アラベラ・アデライドは呟く。そう、これが、彼女が生きてきた方法だ。立ち止まって悩んでいる暇があるなら、前に進む。動く。動きながら考える。

 心の中に溜まっていくものを、押し留める方法など知らない。どれだけ溜まったのか確認する術も無ければ、どれほどの量で何が起こるかなど見当もつかない。ならば、それは考えても無駄なことだ。

 軽減する方法が見つかっただけでも、良しとしようではないか。

「陛下?」

 傍らから、ジュリエットが問いかける。今、アラベラ・アデライドは、完成した女学院の講堂に立っている。出来がったから、時間がある時に見に来て欲しいと言われて、別のところへ視察に赴く道すがら、立ち寄ったのだった。

「何やら嬉しそうでいらっしゃいますね?」

「いや、別に」

 人には言う必要が無いことだ。そう思って、アラベラ・アデライドは適当な誤魔化しを口にし、目の前に広がる景色に目を向けた。

 こぢんまりとしているが、良い建物だ。大きく取られた窓からたくさんの光が降り注いで明るく、実際の面積よりも広く見える。

「こういうところで学べたら、幸せだろうな。立ち入っただけでも、何となく解放感があるよ」

「そうですね、まあ、学ぶというのは案外退屈なことですから。すくなくとも途中からは」

 自分は好きで散々学んだくせに、しゃあしゃあとジュリエットは言い、屈託の無い笑みを浮かべる。実際にはアラベラ・アデライドより十歳年上の三十一歳になるのだが、そういう表情を浮かべるとまるで姉妹のように似ていると、いつだったかファルトマンが言った。

 ふてぶてしさの質が似ていると、アラベラ・アデライドは思う。歩んできた道は違えど、女にとっては道無き道であったこと、それだけは同じだからだ。

 だが、自分は決して、ジュリエットほど自由にはなれない。その華やかな笑顔を横目に見ながら、アラベラ・アデライドは苦笑する。背負うものがあるからだ。皇帝としては大陸そのものを、人としては我が子を。同じ道無き道としても、持っているものの量が違いすぎるではないか。

 ああ、恨み言だ。それでは何か手放すかと言われれば、何一つ、死んでも放さないと叫ぶだろうに。

 そんな風に、一瞬埒も無い思案がよぎって、すぐ消えた。時間だ。

「それでは、私はもう帰る。また何かあったら呼んでくれ」

 側近が声をかけるまでもない。やることを詰め込み過ぎた日常もここに極まり、何も言われなくても皮膚感覚で、次の予定が迫っていると分かるようになってしまった。これで自由を云々しようとは、蓋し、笑える話であろう。

 アラベラ・アデライドはこれから宮殿に戻り、ジークムントの家庭教師を志願する者に会わなければならない。ついでに言えば、それはジュリエットの実の弟だという。姉が皇帝のお気に入りであるのをいいことに、弟まで捻じ込もうというのか、という声も無いではなかったが、姉の立場を理由に有為の人材を棒に振るのもいかがなものかと、アラベラ・アデライドが押し切った。そもそもジュリエットは女学院以外に希望するものは無いし、係累は学者ばかりで、政治の世界に興味を持つ気配とて無い。

 踵を返そうとするアラベラ・アデライドに、ジュリエットはいつもの、よく通る声で言った。

「すこし、浮世離れした子です。お手間を取らせて申し訳ございませんけれども」

「らしくないな、ジュリエット・ドワノー」

 進めかけた歩みを止め、更によく通る声で、アラベラ・アデライドは返す。

「手間など、貴女のためには幾らでも取ってきただろう。今更ひとつやふたつ増えたところで、何とも思わないよ。それとも流石に、弟が心配か?」

 するとジュリエットは、一瞬きょとんと眼を見開き、やがてまた微笑む。

「そうでした。本日こちらへお運び頂いたのが、そもそもお手間でございましたね」

 けれどもその瞳の底には、存外と鋭い光が宿っており、真っ直ぐにアラベラ・アデライドを見据えている。

「心配しているのは、どちらかと申しましたら、陛下の方です」

 まったく以て予想外の反応であったので、半分返しかけていた踵を戻してしまう。

「どういうことだ」

 ジュリエットの唇が、人を食った曲線を描く。

「それこそ、浮世離れの中身ですわ。実際に会って、お確かめになればよろしいかと」

 そう言われると、まずは興味を抱いてしまうのが、アラベラ・アデライドの習性だ。

「わかった、それでは、感想はまた伝えよう」

 そう言うそばから、既に声が弾んでいる。こうまで思わせぶりに言われる男とは、一体何者だろうと、考え始めている。

「楽しみにさせて頂きますわ」

 そうして足早に去ってゆく背中に、ジュリエットは呼びかけた。

 

 ジュリエットの弟は、名をギュスターヴと言う。年齢はジュリエットより四歳年下の二十七歳で、本業は文学者だがそれでは食えないものだから、研究の傍ら貴族の子弟の家庭教師をしてきたのだという。

 四歳になるジークムントに、そろそろ読み書きを教えなければならない。他にも教えたいことは幾らでもあるが、まずは机について、学問をするという習慣をつけさせなければ。だから、それほど厳格な人間である必要は無い。子供の興味を逸らさずに、根気よく教えてくれるような人材であれば。それがアラベラ・アデライドの方針であったから、あまりに本格的な前歴を持つ者については、名前を控えておき、今回は遠慮するが数年後には声をかけさせて貰う旨を、書面で伝えた。

 やれやれと思う次第だが、そうしたら案外、人数は残らなかった。既に何人かに会い、今一つという感触が残っただけだったので、実を言えばギュスターヴとやらが、最後に残った手札である。ジュリエットがはっきり「やめておけ」と言わないのだから、決して不適材ではない筈だが…

 「お待ちしておりました」

扉を開けると、いきなりそうやって声をかけられた。どうやらそれが、ギュスターヴ・ドワノーのようだ。机の上には大量の紙が広げられ、書物が積み上がっている。

「…それは、一体何か?」

 驚くより不快に思うより、呆気に取られて、アラベラ・アデライドは思ったままを問うた。年齢の割に場数だけは踏んで来て、虚を突かれることなど滅多と無いのだが。

 しかし、目の前の男――姉とは似ても似つかない、ローラン人らしい優男風――は、よくぞ訊いてくれましたとばかり、満面の笑みを浮かべる。

「教材を、色々と用意して参りました。殿下はどういった物語がお好きでしょうか」

「物語……?」

「まずは読み書きを、と伺っております。であれば、まずは書いてあるものに興味を持って頂くのが良いかと。文字だけ示されても、幼い方にはなかなか難しいものです」

 なるほど、浮世離れとはよく言った。場を心得ていない。相手を見ていない。皇帝相手に、思ったままを喋りまくる。愚か、と言うことも出来そうだ。だが、悪い人間ではなかろう。悪さを働くには純真に過ぎる。そして、混じり気なく楽しそうに、持ってきた教材の話をする。机の上のそれらを作る時も、どうせこんな有様だったのだろう。

「面白そうだ。教材とやらを、見せて貰おうか」

 アラベラ・アデライドはそう言って、ギュスターヴの許可を待たずに一枚の紙を手に取る。そこには短い文章が、薄いインクと大きな文字で書かれている。

「それは、上からなぞって頂くのです。『空は青い』とか『りんごは甘い』ですとか。それからこちらは、読み聞かせ用の本。すこし慣れたらご自分で読んで頂くのがこちらで…」

 話し出したら止まらない様子だった。近侍の者は些か不満なようだったが、アラベラ・アデライドには面白かった。確かに自分も幼い頃、意味の無い書き取りに苛々したものだ。これなら、すこしは興味を持って机に迎えるかもしれない。

「植物とか、動物の話が好きだ、あの子は」

 そうするうちに、我知らず、アラベラ・アデライドは切り出している。

「男の子らしい騎士道物語も好きだけれど、それよりも、生き物の話が好きだ。短い文にも、動物の名前を入れたら良いのではないかな」

「はい、それではそのように致します!」

 即答で答えるギュスターヴは、頬を紅潮させ、まるで子供のように瞳を輝かせている。ああ、誰かに似ていると、アラベラ・アデライドは思った。それは、我が子かもしれないし、幼い頃の自分かもしれない。

「ドワノーという家は、なかなか面白い人間を出すのだな」

 そんな風に、一呼吸置いてみる。

「それでは、ギュスターヴ・ドワノー。貴公に皇太子の最初の教師を任せたい。早速だが、明日からでも」

 勢いに任せた決断だったが、それはいつものことだ。ただ、目の前の男に好感を持った。これも、それだけだろう。その向こう側は、また別の話だったのだから。

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