帝都ゴットハルトに、新たな大学を設立する。それが、アラベラ・アデライドの発案だった。

 大学と言うなら、既にある。伝統的な法や医学を学ぶものから、英雄帝ジークフリードの皇后ルフィラが設立した、歴史や文学を学ぶもの、音楽院や芸術院の類。兵法を研究するものもある。

 しかし、アラベラ・アデライドが新たに設立するのは、直接これからの大陸の統治に関わるものを専門に研究し、成果を現場に反映させるというものだった。まずは、三百年を経ている賢帝の法を、時間をかけて徹底的に検証する。必要があれば、いずれはそれらを改めることも、無論視野に入れる。その一方で、各地域ごとの課題を洗い出し、討論して解決策を話し合う。その結果は、重要な参考資料として、総督府はもちろん、皇帝自身も目を通す。手始めにバフチサライについて取り上げるが、献策さえあれば、どの地域のことも取り上げ、手間暇を惜しまず検証する。そのようなものを作りたいと、アラベラ・アデライドは言った。

「それで、学生の中で優れた者があれば、卒業後は然るべき立場に取り立てて、引き続き能力を活かして貰う。私を叩いても大した案は出てこないが、このくらいのことをすれば、何か有用なものが出てくるのではないかな」

そう語るアラベラ・アデライドの、紫がかった青の瞳は、星のように輝いて、まるで子供のようにも見えた。

「ああ、それから、女子の登用も進めたい。私には、話す相手が居ないんだ」

付け足すように言われたが、案外それこそ、アラベラ・アデライドの深刻な本音に違いないと、ファルトマンは思った。確かにアラベラ・アデライドには、私的な会話をする相手が居ない上、公的な立場で話をする相手は、殆どが男性である。身の回りに居る女性と言えば、すべてが女官たちだ。話し相手に飢えていない筈は無い。

 ファルトマンは静かに微笑み、書類を取り上げる。

「では、早急に詳細を詰めましょう。始めるなら、早い方が良いですから」

「すこし具体的になったら見せてくれ。楽しみに待っているから」

そして、たっての希望だから是非自分に関わらせろ、とは言わないアラベラ・アデライドである。寧ろそういうことは、その道に秀でている専門家がやればいいとさえ言う。その方が良いものが出てくるのだから、と。

 ファーレンハイト王朝歴代の皇帝の中で、個人として最も高い能力を持っていたのは、恐らく大帝アンドレアスであったろうと言われている。実際彼は、若い頃こそ賢帝の従弟であった宰相ルードヴィッヒ・シューマッハを使っていたが、その死後は、殆ど一人で政務を取り仕切っていた。宰相は置いたものの、その役割は専ら宮廷内での調整役であった。

 それに比べれば、個としての能力はそれほどでもない、と言われるのが、英雄帝ジークフリードであり、アラベラ・アデライドだ。

 しかし、恐らく王朝歴代の中でこの二人だけが持っていたのが、恐ろしいほどの「人たらし」の才能である。王朝歴代と言うより、大陸の歴史の中でも稀なものと言えるだろう。

 二人は、決して己に傑出した才能が無いことを知っていた。そして、それを補うべく人を探し、それらの人材を使いこなした。極論すると、それがこの二人が持っていた能力と、成したことのすべてである。だが、極論するとそれだけのことが、歴史上にいかに大きな足跡を残したかは、史書を紐解くまでもない。一人が成したことが、有史以来戦乱に明け暮れていた大陸を統一し、いま一人が成したことが、ほつれかけていた、その統一の絆を、再びひとつに纏め上げたのである。

 そして――ジークフリードとアラベラ・アデライドの間にも、明確な差異がある。それは二人の性別というよりは、生い立ちに基づくものだろう。ジークフリードの治世を支えた家臣たちは、多くが彼自ら、即位後に抜擢した者たちだ。それ故に、両者の心理的な距離は近く、高名な六将軍の顔ぶれに至っては、友情に近いものが通い合っていたと言える。一方アラベラ・アデライドの家臣たちは、まずは父帝リヒャルトが彼女のために揃えた顔ぶれであり、幼い頃からの教育係を兼ねていた場合も多い。だからこそ、皆が彼女を守り、盛り立てて育てようとした。まだ少女のうちに父親を喪い、夫に叛かれた彼女は、とかく周囲の同情を買う存在でもあり、年齢故の危なっかしさや、生真面目な性格からくる張りつめた感じもあって、周囲の人間たちに「自分が何とかせねば」という思いを抱かせたようである。

 同情など要らないと、アラベラ・アデライドが言ったかどうか、それは定かではない。要するに、人に伝わるような形では何も残さなかったし、出さなかったわけだ。意地も見栄も無かったではないが、使えるものは都合良く使おうという、女らしいしたたかささを、存分に使ったのかもしれない。

 

 そして実際のところ、ファルトマンに新大学設立の件を任せたアラベラ・アデライドは、やれやれと一息ついて隣室に下がり、僅かな隙間時間を、愛息ジークムントの遊び相手として過ごしたのだ。成すべきことは成す一方で、過剰な責任感とは無縁、権利は権利としてしっかり主張するアラベラ・アデライドである。

 皇太子ジークムントは三歳だ。数か月も目を離せば、見違えるほど成長する。語彙が増え、饒舌になり、足取りも早く確かなものになってゆく。憎まれ口を叩いたり、嘘をついたりもするようになる。連日、アラベラ・アデライドは舌を巻いていた。

 「ははうえ、もういっかい!」

甲高い声を上げて、ジークムントは玩具の剣を構えている。男の子の遊びと言えばチャンバラなのは昔からだが、アラベラ・アデライドは女の子だったので、やったことが無い。正式の剣術ならば話は別だが。

「もう一回もう一回と、一体何度言った?」

疲れたのと呆れているので、アラベラ・アデライドは苦笑する。もちろん、大して時間が取れるわけでもないので、思う存分付き合ってやる積りではあるが。

「ええい、分った、何度でもかかって来い!」

こうなると、半分は自棄のようなものだ。殊更に大きな声を出して、わざとらしく身構える。そして、隙だらけの構えで飛び込んでくる愛息を、両手を広げて抱き止めた。

「じんじょうに、たちあえっ!ははうえの、ひきょうもの!」

何の物語を読み聞かせられたのか、意味もわからない難しい言葉を使って抵抗するのが、憎らしいやら愛らしいやら。

「何処でそんな言葉を覚えた?」

「はなせーっ!」

母の問いかけには応えず、手足をばたつかせるジークムントだが、その力は明らかに、バフチサライへ発つ前よりも強い。

すこし見ぬ間に、どんどん大きくなる。その思いは、アラベラ・アデライドの胸中に、一抹の切なさを泡立たせる。父リヒャルトから継いだ、英雄帝唯一の直系。愛した男の忘れ形見。何は無くても、初めてで、ただ一人の我が子。どんなに見ていても飽きないと言いたいところだが、実際のところアラベラ・アデライドは、もういいとか飽きたとか思うまで、この子と一緒に居られたことはない。

皇帝としての政務は毎日絶え間が無く、どうにか時間を見つけては、合間を縫って子供の顔を見に行く。時間があれば、寝かしつけることもあるし、遊んでやることもある。辛うじて、乳母の方が好きだと言われない状況を作っている。

人並みの母なら、言い換えれば人並みの女なら。それは恐らくアラベラ・アデライドにとって、生まれて初めての苦い思いだ。同様の言葉は、無論今までにも浮かんできたことはあるが、すぐに捻じ伏せて、考えるのを止められた。だが今回は、そうはいかない。

寝かしつけて、起こして、着替えさせて食べさせて、汚されたり、泣かれたりする。一緒に笑って、遊んだり物語を読み聞かせたり、諭したり叱ったり。意味の無いようなことを延々聞かされたりするかもしれない。我儘に辟易することもあるだろう。

人並みの母親がするという、それらすべてが、アラベラ・アデライドにとっては眩しく、羨ましい。幼い我が子が、自分を取り巻く世界から、ひとつひとつ学んで成長していく姿を、つぶさに見ていたい。叶わぬ切望に胸を締め付けられる。

「…ははうえ?」

なかなか腕を離さない母の様子を訝ったのか、ジークムントが顔を上げる。

「だいじょうぶ?」

小さな柔らかい手が、いつしか泣き濡れていた、母の頬に触れた。ずっと感じていた筈の温もりが、更に強く、染み入るようにアラベラ・アデライドの中に入ってくる。

「大丈夫だ。当たり前だろう?母が大丈夫でなかったことなど、今までにあったか?」

その温かさが、アラベラ・アデライドに涙を振り払わせ、微笑みを浮かべる力を呼び覚ます。

 そう、いつしかアラベラ・アデライドにとって、笑顔の半分以上は、力づくで浮かべるものになっていた。外側から形を作れば、どうにかこうにか中身もついてくる。そんな理屈で、だ。或いは、これ以上悲惨な状況も無いから、この上顔まで悲惨にならなくてもいいな、と居直ったこともあった。たまに顔を合わせる時くらい、いつも笑顔の母でありたいという、切ない思いもある。

 悩んでも解決しないものは、もう悩まない。三年前のアラベラ・アデライドなら、恐らくそう言えただろう。今でもそうは思っているし、ある程度、それが正しいと信じてもいる。だが、それ故に切り捨ててしまったものを思う時、アラベラ・アデライドは、我が子の黒い瞳の由来を思い出すのだ。

 誰かに、側に居て欲しい。時折、焼けつくような痛みとともに、アラベラ・アデライドはそう思うのだ。十年もすれば、幼い我が子もそれに足るような存在にはなるだろう。だが、未だ二十歳のアラベラ・アデライドにとって、十年後という時間は遥かに遠くて、どんなに目を凝らしても、霞んだ影さえ見えてこない。

 何も無くても行かなければならないが、だからといって望むなと言うのは酷な話だろう。

 誰かとは、一体誰なのか――男、ではない。確たる根拠があるわけではないが、アラベラ・アデライドはそう思っている。誰も、自分を気遣って口にはしないが、皇帝の子が一人だけなのは、些か心許ない。適当な人間が居れば皇配を、という声は、少なからずあるのだろう。あって当然だ。自分が臣下の立場なら、必ずそう思う。

 だが、そんなことを言われても、心は右へも左へも動かないし、どういう人材なら皇配に相応しいのか分からない。大体、こうやって頭だけで考えているうちは、事態は動かないものだ。

 だから、この話は脇へやるとする。それ以外の男ならファルトマンを筆頭に、信頼出来る者たちが、臣下に大勢居る。無論、数が多いに越したことは無いが、血眼になって探すほど人材が居ないわけではない。

 だから、その誰かは、女であって欲しい。その話題は政治のことかもしれないし、文化のことかもしれない。或いはお互いの家庭の話をするのかもしれない。だが、何であれ胸襟を開ける相手が必要だ。そもそも女というものは、同性で寄り集まって、必要なこともそうでないことも、際限無く喋りまくる生き物ではないのか。だったら自分がそれをやってもいい筈だ。

 腕の中の我が子をあやしながら、ゆくりなくそんなことを考えていたら、扉を叩く音がした。

「申し訳ございませんが、陛下、お時間が…」

僅かに開いた隙間から侍女が顔を出して、申し訳無さそうにそう伝える。その瞬間、腕の中でジークムントがすこしだけ身体を強張らせたのが分かった。すべてが、いつものことだ。

「分かっているよ、すぐに行く」

顔を上げ、きっぱりした調子でそう言うと、扉はいったん閉ざされる。考え事をしている暇があったら、もっと遊んでやれば良かった、と思っても、もう遅い。アラベラ・アデライドは一度、ジークムントの黒い瞳を覗き込んでから、両腕でぎゅっと、幼くて柔らかい体を抱きしめる。

「すまない、もう時間だから、行かなければ…食事は残さずに食べて、良い子にして待っていなさい。夜寝る前に、好きな本を読んであげるから」

ジークムントは黙って頷くと、小さな拳で母親の袖を握りしめた。頭では、いつも分かるのだ。ここで母を困らせてはならないと。乳母から、自分が行った後になって泣きじゃくり、手を焼いたと聞いたこともある。それでも、こうして離れたくないとしがみつくのが、ジークムントなりの、幼いながらの抵抗なのだろう。そんな様子が愛おしくもあり、その物分かりの良さが不憫でもある。

 だが、アラベラ・アデライドには無駄に出来る時間が無い。最後に我が子の柔らかな髪を数回撫でると、そのまま抱き上げて、側に控えている乳母に手渡す。するとジークムントは、小さな手を離した。母親の袖にだけ、微かな抵抗の痕跡が残る。

「また後で。約束だ」

立ち去り際に微笑むと、ジークムントは、涙を堪えて大きく見開いた瞳のまま、頷いた。

 碌に相手をしてやれない母を、よく慕ってくれる。そんな自分は幸せだと、アラベラ・アデライドは思っている。だからこそ、政務には没頭する。大好きな母を手放してくれた犠牲の分は、成果を出さねば申し訳ないだろう。それに、約束を果たすためには、定められた仕事だけは終えねばならない。最愛の我が子が待っているのだから。

 アラベラ・アデライドは思い出す。彼女を育ててくれた先帝リヒャルトは、思えば決して、長い時間を彼女のために使ってくれたわけではなかった。会えない日など珍しくはなかったし、今自分がジークムントに使っている時間とは比べ物にならない。それは、男親と女親の差でもあろうし、未だ二十歳の自分と、既に五十を過ぎていた父とでは、使える体力にも格段の差があった筈だ。

 だから、大丈夫だと、何度も自分に言い聞かせる。彼女が今、他の誰でもなく父が自分を育ててくれたと、心から思っているように――ジークムントがそう思ってくれる日が、きっと来る。そのために頑張れる、と。

 

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