「ジークムント、帰ったぞ!」

離宮へと渡る回廊に、皇帝アラベラ・アデライドの声が響き渡る。その声に導かれて、庭園から駆けてくるのは、三歳になった皇太子ジークムントだ。

「ははうえ!」

その姿を見止めると、アラベラ・アデライドはそれまでの速足を止めた。膝を屈めて、一人息子が自力で側に来るのを待つ。そして、転びそうな足どりで辿り着いたジークムントを、力一杯抱きしめた。

「また大きくなったな。元気そうで何よりだ」

それが、母と息子、この世に二人きりの家族の、三か月ぶりの再会であった。

 

 アラベラ・アデライドが皇帝となり、即座に行ったことは、大陸の各所へ、親書を携えた特使を派遣することだった。北、東、西、南、大陸の四か所に設けられた総督府に宛てた親書には、賢帝の法を順守するようにとの通達に添えて、いずれその地へ赴きたいという、アラベラ・アデライドの希望が添えられていた。要は、それまで襟を正して各々の地を治めよ、ということだ。

 大陸のすべてが見たい。それは、実はアラベラ・アデライドが幼い頃から抱き続けてきた希望だ。そうでなければ統治など出来ない。そう、思ってきた。

 実際、ファーレンハイト王朝歴代の皇帝の中で、大陸の四方すべてに足を運んだのは、英雄帝ジークフリード、大帝アンドレアスを始めとした、数えるほどの人数だけだ。賢帝ヴィクトールにも、先代リヒャルトにも、行っていない場所がある。特に、独特の風土病を持つという、南の旧アヨドーヤには、四方すべてに足を運んだ皇帝でなければ行っていない。

 確かに、大陸は広く、皇帝は一人だけで、動き回っていれば政務は滞る。ユグドラシル帝国に於いては、各地の総督府が大きな権限を持ち、その土地の独自性を活かした統治を行っているから、必ずしも皇帝が現場に行くことは必要ではない。

 だからこそ、数えるほどの皇帝しか大陸の四方に行ったことが無くても、十七代目のアラベラ・アデライドまで、帝国は保たれた。

 しかし、とアラベラ・アデライドは思う。それは果たして、国家のあり方としてどうなのだろうと。大陸四方の、独自性と誇りを重んじる統治。英雄帝の理想はそれで良い。だがそれは、一歩間違えばすぐに、国家としての統一性を失うことに繋がる。

 では、一体何が、大陸の四方を繋ぎ止める糸になるのか。何を守り、捨てるべきか。それを見極めるのが、自分の生涯の課題であると、アラベラ・アデライドは心得ていた。

 そのためには、見なければならない。何は無くとも、大陸の各所を。ユグドラシル帝国という糸で束ねられた、幾つもの宝玉を。とはいえ、それには時がある。危険を伴う遠方への行幸は、後継者たるジークムントがある程度の年齢にならねば不用意であろう。その一方、書簡一通で動きが無ければ、本気の程度を疑われかねない。

 そんなわけでアラベラ・アデライドは、ひとまず生母アンナの故郷である、北の辺境バフチサライを訪れた。

大陸の最も果てに位置する、寒く、薄暗く、痩せた土地だ。古来より、独立独歩の気風が強く、優れた人材を輩出する土地柄として知られて、確かに帝都ゴットハルトの宮廷にも、当地で生まれた官僚は数多い。だが、その代償として、バフチサライという土地自体は、ますます静かな、寂れた土地になっていると感じた。その土地を嫌った人材が、外に出るべく努力をして、中央へ出て行く。その構図はいかにももの悲しい。

根本的な解決策は、まだ先になるかもしれないが、差し当たって出来ることとして、アラベラ・アデライドは、荒廃していた恩賜の施薬院を復興させることと、年に一度、名曲が多いと定評があるバフチサライの民俗音楽を演奏する催しを企画させること、二件を指示して、帝都に戻った。いかにも小手先の処置だな、と苦い笑いを浮かべながら。

 

帰りの道すがらは、バフチサライ出身の官僚から話を聞き、出来ることはと考えたり、生母の故地であるバフチサライだけを先立って援助すれば、あらぬ嫉視を招きはしないかと考え込んだりしていたが、いざゴットハルトに戻ると、溜まりに溜まった大量の政務に忙殺されて、そのようなことは吹き飛んでしまった。

その、あまりの忙しさの合間に、アラベラ・アデライドはまた考える。これだから、皇帝が帝都を空けないことには、それなりの意味があるのだ。或いは、ジークムントが一定の年齢に達し、摂政として留守の間の政務一切を代行出来るようになれば、自分はある程度の自由を手に入れられるかもしれないが。

しかし、その肝心のジークムントは未だ三歳で、昼の間は皇帝執務室と続きの控えの間で、乳母が面倒を見ている。執務室は子供を入れるところではないと言われたが、そこに置いておけば、合間に顔を見たり声をかけたり、時間があればすこしは遊び相手になることも出来る。赤ん坊だった頃は、乳を含ませることもあった。

 自分は、ただの皇帝ではなく、皇太子の母親でもある。アラベラ・アデライドは決して、その姿勢を崩そうとはしなかった。母を知らず友というものも持たない自分が、不自由だとは思いつつ幸福で居られたのは、何よりもまず、父である先帝リヒャルトに愛されて、大切に育てられたからだ。ならば自分も、まずは同じものを我が子に与えよう。ごく単純に、そう信じて、実践したわけだ。

 無論、最初は多くの廷臣に顔を顰められた。確かに、深刻な話をしている最中に、赤ん坊の泣き声をさせるわけにもいかない。だからアラベラ・アデライドは、まずは部屋を分けたし、政務には没頭した。子供の顔を見るのにも時間を区切るし、本当に多忙な時は、せっかく隣に居ても、横目にちらと見るだけの日もある。当然だが、逆にアラベラ・アデライドに時間が出来た時に、ちょうどジークムントが昼寝をしていて、寝顔を見つめるしか無かった時もあった。そうやってすこしずつ、周囲にも受け入れ可能な既成事実を積み上げていった。

 例えアラベラ・アデライドのような多忙な母でなくとも、高貴の身分ともなれば、子供のことは乳母任せで、結果的に情の通わなくなる親子も時にはある。それは決して我が子のためにはならぬと、アラベラ・アデライドは固く信じたし、ただ一人の家族である愛児を、必要以上に他人任せにするのは嫌だった。何よりも、それによって我が子が自分以上に他の誰かに懐くのが耐え難かった。

 

 その日の夜、どうにか時間を作ってジークムントを手ずから寝かしつけた後、少しだけ身繕いをして執務室に戻ると、待っていたファルトマンが、苦笑と微笑の間に位置する、穏やかな笑み

を浮かべた。

「お帰りになって早々、随分と頑張られますね。あまりご無理をなさいませんように」

「体力は、あるうちに使っておこうと思っているだけだ。子供の顔さえ見ていれば疲れなど忘れるというのは、事実の様で詭弁だからな。実際、楽ではないよ。好きでやっているが」

対するアラベラ・アデライドは、混じり物無しの苦笑だ。二十歳という若さに比しては、屈託のある表情をするようになったなと、ファルトマンは思う。

 しかし、いつまでもその表情を続けないのが、アラベラ・アデライドが彼女である所以だろう。

「好きでやっている以上、愚痴は言えんな。さあ、仕事だ仕事!」

力づくの笑顔だ、とファルトマンは思う。実際、笑うのも面倒だと思うほど、疲れているに違いないのだ。ジークムントを寝かしつけたついでに、眠りのどん底に落ちて、朝が来ても目覚めたくなかっただろう。だがアラベラ・アデライドは、侍女に声をかけられることもなく起き上がり、一人でここまで戻って、また仕事をしようとしている。今の自分に可能なぎりぎりまで、前向きな気持ちで。

 言われなくても起きる、疲れ果てていても次の行動に移る、そのために気持ちを上向かせる。それはすべてアラベラ・アデライドが、人並み外れて強い意志の力で成したことだ。鎌首をもたげるすべての負の要素を、力で捻じ伏せたとも言える。

 エドガルドを喪った時もそうだった。父帝と死に別れた時も。アラベラ・アデライドはいつも、前を向く方法を知っていた。そして、結果論を言えば、そうすることで、望み得る最良の結果を導いてきた。父帝の時は、即位するなり大陸中の人間の心を鷲掴みにしたように。エドガルドの時は、最愛の我が子の立場を守ると同時に、皇帝の強さを、徹底して印象付けた。女だから、若いからと、この女は御せない。そして、途方も無いほど強靭だ。あの時の一連の経緯から、臣下の誰もがそう思い、呆れ、敬服し、とりあえずは逆らわないという選択をした。その上にまずは無難な統治を行った結果として、アラベラ・アデライドは安定した基盤を手に入れたのだ。若さと、女という性と、二つながらにして侮られる要因を持つアラベラ・アデライドには、結果としてそれらの選択が吉と出た。

 それからもうひとつ。その、あまりに強靭な精神と、そこから生み出される行動の数々、加えて若さと美貌。アラベラ・アデライドはそれらの要素で以て、大陸の民から崇敬の念を抱かれている。ところが、その一方で実は、決して近寄り難くは思われていない。

何故ならば彼女は、ごく幼い頃から、皇太子としてその挙動を伝えられてきたからだ。

最初は、ごく幼い、愛らしい幼児として、人前に姿を現した。そこから順調に大きくなり、一度は祝福されて結婚し、若くして父の跡を継ぐ、健気な娘になった。その上夫の背信という更なる悲劇に見舞われながらも、決して挫けず立派な皇帝となり、更に一人の母親になって、一生懸命に子供を育てている。

それは、アラベラ・アデライドという物語であり、大陸の民たちの多くは、知らず知らずのうちに、その物語の続きを気にかけるようになっていた。

後世の言葉で言うなら、劇場型と言うのだろう。多くの民が、かつてどの皇帝にも向けられたことの無い視線でアラベラ・アデライドを見上げ、その物語の良き登場人物であろうと努力した。それが、アラベラ・アデライドという時代だった。

最も、当のアラベラ・アデライドにしてみれば、かなりの程度その状況を理解しつつ、均衡を保つのに苦心していたのだが。どう振る舞えば人に受けるのか考える一方で、そのような人気取りより、着実に統治を進めることが最大の義務だという思いも強く、時に相反するそのふたつの狭間で、独りで頭を抱えることもしばしばであった。

その辺りのことは、ファルトマンもよく知っている。というより、そうなった時の相談相手は、まず誰よりもファルトマンだった。

この時も、アラベラ・アデライドは考え事を抱え込んでいた。ほかでもない、行幸してきたばかりのバフチサライのことだ。

今ここで、行った帰りだからと目についたことを改善するのは、恐らくそれほど難しいことではない。しかしそれは、恐らく安易な人気取りに堕する――しかも、相手の数がごく限られていて、それ以外に対しては不公平感を抱かせる。

かといって、今何もしなければ、何かする機を失う。いずれ、公平に何か出来る将来など来るとは限らないし、来たとしても随分先で、その時にはまた、バフチサライを巡る状況も変わっているだろう。

資料をあれこれとひっくり返しながら、ああでもない、こうでもないと首を捻っているアラベラ・アデライドの前に、ファルトマンはどさりと、未決済の書類束を置いた。

「とりあえず、色々と整理なさってはいかがでしょう。まずは、やり残しを消すこと」

「…まだこんなにあったのか」

その分厚さを見て、アラベラ・アデライドは鼻白む。

「どなたかが、真っ先でなくても良いことに、かかずらっておられたからです」

それを言われると、アラベラ・アデライドはぐうの音も出ない。

「そなたは厳しいな。まあ、そうでなくては後で困るわけだが」

「ご賢察痛み入ります。それでは、順番に参りましょうか」

他人なら、どう聞いても嫌味でしかない言い草だったが、アラベラ・アデライドにだけは、ファルトマンのその言葉が、軽い照れ隠しのようなものと分かっている。

アラベラ・アデライドが気丈且つ強情であることは、幼い頃から変わらない。そしてそれは、皇帝の立場であっても同じことで、何かの拍子に、決して自説を曲げずに意地を張ることがある。こだわり始めたら、そう簡単には退かない。

何度もそうやって手こずらされていると、時々、素直さに当てられることがあるらしい。アラベラ・アデライドには決して天邪鬼をした覚えは無く、そうまで反応される覚えは無い。というより、それではまるで自分が普段から、よほどファルトマンを手こずらせているようで、些か不本意でさえある。

しかし、それはもうファルトマンの癖のようなもので、しかもそういう時には、決まって穏やかに、額面は嫌味でしかない言葉を吐く。もう長い付き合いだが、分からん男だ、とアラベラ・アデライドは苦笑する。

 

 溜まりに溜まっていた書類束が片付いたのは、それからたっぷり二時間ほども後のことだった。ファルトマンはもちろんだが、それぞれの書類を精読しては決裁していたアラベラ・アデライドが疲労困憊の様子で、目を瞬かせながら、凝り固まった首や肩を動かして、ほぐしている。

「流石にもう、お休みになった方がよろしいでしょう。今日のところはひと段落ついておりますので」

と、こちらもいい加減、睡魔を誤魔化してるファルトマンが言う。アラベラ・アデライドは声を出して返事をする気力も無く、ただ頷く……筈だった。

 アラベラ・アデライドはややあって、眉間に寄せっ放しになっていた皺を、すこしだけ深くして、大きな溜息を吐き出した。

「…どうして、こういう時に限って降ってくる」

「はい?」

ついに座ったまま寝惚けたのかとも思われたが、そんな筈も無い。アラベラ・アデライドは引き出しから新しい用紙を出して、何事か書き付け始めた。

「三十分だ、ファルトマン。きっかり三十分経ったら、誰かこちらへ寄越してくれ。それ以上は、起きていても何も出来ない。だが、今寝てしまったら、思いついたことがすべて消えてしまう。だから、ぎりぎり何とか形にしてみる」

そして、かなり生気の抜けた声で、そう言った。その間も手はせわしなく動き、眼光だけは鋭い。

 もしかして、自分は何か、事実関係を誤認しているかもしれない。ファルトマンとて、そう思わなくは無かった。だが、どうやらアラベラ・アデライドは、最初の懸案だったバフチサライの振興策か、それに類する何かを思いついたようだ。であれば、あと三十分と自分で言い切るのだ、好きにさせるしかあるまい。

 その代わりせめて、明日は朝、一時間だけゆっくりして貰おう。そうでもなければ、いくら何でも身が持つまい。そのためには、日程をどう調整すれば良いか。最早アラベラ・アデライドが何も聞いていないことを確認した上で、そんなことを考えながら、ファルトマンは皇帝の執務室を辞した。

 

 果たして三十分後、近侍の者が様子を見に皇帝執務室を訪れた時、アラベラ・アデライドは、今しがた書きなぐったばかりの紙束に突っ伏して、既に寝息をたてていたという。

inserted by FC2 system