五百年の長きに渡り霧の海に浮かぶ大陸を支配した、ファーレンハイト王朝ユグドラシル帝国は、始祖たる英雄帝ジークフリードに始まる、二十五代の皇統を保った。英邁と呼ばれた者も、暗愚と呼ばれた者も存在したが、歴史を振り返り、偉人として崇められる人物と言えば、五人ほどに絞られるだろう。英雄帝ジークフリード、賢帝ヴィクトール、大帝アンドレアスと並ぶ、王朝の礎を築いた面々。王朝中興の祖と呼ばれる二人の皇帝――第十八代ジークムント、そしてその母――王朝唯一の女帝にして烈女と呼ばれた、第十七代アラベラ・アデライド。この顔ぶれについては、恐らくどの史家も異論を挟むことはあるまい。あとは、王朝の歴史に幕を引いた、最後の皇帝アウグストの功績をどう評価するかが、分かれ目であろうか。

 五百年の歴史を統べた、二十五人の皇帝たち――彼らが至尊の位の証として受け継いだものは、決して贅を尽くした宝冠ではなかった。冠もあるにはあったが、誰が見ても決して大陸の支配者に相応しい豪奢さなど持たない。それは、ファーレンハイト家がユグドラシルの北の一角を支配する小国の王だった時代から受け継がれたものであり、また創業を成した三人の皇帝たちが、いずれもその類の贅沢に興味を示さなかったからだ。

 それよりも大きな意味を持ったのは、英雄帝以来、皇帝の礼装として用いられた長い緋のマントであり、黒字に銀で鷲の翼の紋章を縫い取った旌旗であり、皇帝が常に身に着けていた、紋章の入った指輪であった。

 余のものはともかく、指輪には寸がある。故に、新たな皇帝の即位が決まると、指輪は台座から取り外され、新しい輪があつらえられて、戴冠式を迎えることになる。どの指にはめるかは決まりが無く、その時々で皇帝となる者が任意に選んでいたが、アラベラ・アデライドは、即答で左手の薬指を指定したと言う。

「私は、ユグドラシルの妻になるのです」

凛と声を響かせた少女は、その時十七歳。双眸は、歴代の皇帝の中で唯一、英雄帝から受け継いだ、紫がかった青色をしていた。

 

 蒼穹に向かって、差し伸べられるちいさな手――その先には、遥かに聖樹ユグドラシルの梢が見透かされている。

「ちちうえさまー」

舌足らずな、幼い声が父を呼ぶ。けれども、手を伸ばしたまま振り返っても、そこにあるのは侍女たちの姿ばかりだ。というよりも、父の姿は、ものの初めからそこには無かった。ファーレンハイト王朝ユグドラシル帝国の第十六代皇帝リヒャルト。それが、呼ばれた父親の名だ。あどけない、まだ赤ん坊の域を脱したばかりとも思える娘の、父というよりは祖父に等しい年齢のその男は、執務室の窓から、覚束ない足取りで歩く我が子を見下ろしていた。

 父リヒャルトが五十八歳、娘のアラベラ・アデライドは三歳。老いらくの、一粒胤である。けれども、溺愛して然るべき娘を見る父の視線は険しく、執務室を包む空気もまた重苦しい。

「陛下、お考えは、変わられませぬか」

凍てついたような空気を、それでも敢えて動かそうと声を発したのは、宰相たるヘルムート・ノイヤーである。それに対して皇帝は、最初は黙って頷き、ややあって、しわがれた声を発した。

「どうやらあれが、余の唯一の子のようなのでな。であれば、幼時よりそのように育てるのが、国と、あの娘のためであろう」

その言葉の後は、またしばし、沈黙が部屋を圧した。

 

 ファーレンハイトの皇室には、どうやら大陸を統べる家系としては、あまりありがたくない特徴がある。端的に言って子供が少ない。そもそも開祖たる英雄帝自身、設けた子といえば二人きりだし、孫に至っては大帝アンドレアス一人だけという具合だ。歴代の中では最も子福者であったその大帝にしても、二度の結婚で得た子供は八人であったから、帝王として多すぎるとは言えない数である。

 しかし、その一方で奇跡的なことに、五百年の王朝は、英雄帝の直系を絶やさなかった。つまりは、決して多くはない人数の子供たちが、それなりの確率で成人し、血を繋いだからだ実も蓋も無い言い方をすれば、効率の良い子孫の残し方をする家系であったと言える。

 その直系を、危うく絶やしかけたのが、ほかでもない、十六代リヒャルトであった。一言で言えば、とかく家庭運の無い男である。皇太子時代に結婚した最初の妻バルバラと三年で死別。二人目の妻コンスタンツェとは、即位を挟んで十年連れ添ったが、産褥の床で母子ともに亡くした。三人目の妻となったアガーテが子を成さぬまま先立った後は、何人かの愛妾を置いたが、側近たちから何を言われようと、後添えを娶ることは遂に無かった。要するに、家庭を持つということに、こりごりしていたのである。

 そのリヒャルトが、五十代の半ばにして授かったのが、アラベラ・アデライドであった。母親のアンナは、辺境バフチサライ出身の侍女で、愛妾というよりは、皇帝が戯れに手を付けただけの女だったと言える。それでも皇帝の娘の母親ということで、懐妊が分かって後は相応の名誉を与えられていたが、それから一年ほど後に、病を得てあっさりと世を去った。

 そして後には、皇帝のたった一人の子として、女の赤ん坊が遺された。家臣たちは、あわよくばこの後アンナに男の子を上げて貰う心積もりであったから、肩透かしも甚だしいというものだ。その一方、残る何人かの愛妾たちのうち、誰かが皇帝の子を産める保証など、無論どこにもありはしない。

 そして、暗愚であるよりは賢明であったリヒャルト自身、そのことを、よくよく理解していた。

 ファーレンハイトの血族は、無いわけではない。しかし、そのいずれも、英雄帝の直系ではなかった。

 だから、リヒャルトは決断したのである。

 英雄帝の直系を受け継ぐ唯一の子アラベラ・アデライドに、次の皇統を託す、と。

 ファーレンハイト家が、大陸の北の端を統べる地方領主に過ぎなかった頃まで遡っても、女が頭首を務めた前例は無い。そのことを、家臣たちはこぞって口にした。

「賢帝の皇后エリザベート陛下は、ローラン女王の息女であらせられたな」

それに対して、リヒャルトが用意した第一の反撃はそれだった。賢帝ヴィクトールの皇后エリザベートは、かつてユグドラシルの北の一角を統べたローラン王国最後の女王で、後にローラン総督として英雄帝の治世の一翼を担ったロザリー・フィリスの一人娘だ。

 確かに、大陸の北には、そのような歴史があったのだ。それだけではない。確かに、ファーレンハイト家に女性の投手が居たことは無いが、英雄帝の治世を支えた重臣には、複数の女性が存在した。筆頭は、実の妹で、現在の首都であるゴットハルトの総督であったジークリンデ。覇業を担った六将軍にも、ザビーネ・シュナイダー、ヴァレリー・フォン・クロイツェルの二人が居た。大帝アンドレアスの皇后で、ファーレンハイトの偉大な母と呼ばれたアルマも、有能な共同統治者として知られた。

 ユグドラシル帝国の創業期には、多くの女性がその才を国に捧げ、大きな実りを得ていた。アラベラ・アデライドに、彼女らに匹敵する能力がある、とは限らない。が、女であることが無能を証立てるなど有り得ない。ならば、今から周囲の人間が心を砕き精力を傾けて帝王教育を施せば、すくなくともひとかどの皇帝にはなれるのではないか。

 要するにそれが、リヒャルトの論旨であった。

 そして、宮廷の誰もが、その正しさを理解した。英雄帝直系の重みもまた、彼らを頷かせた――心理的な反感が、底の部分に残りはしたが。ただ、慣例を破るとはそういうことだ。

 こうして三歳のアラベラ・アデライドは、正式の礼に則り、ファーレンハイト王朝ユグドラシル帝国の女皇太子となる。

 壇上に於いて父の手に抱かれ、満場に居並ぶ廷臣たちを見下ろした彼女の眼――英雄帝から世代を経て受け継いだ、紫がかった青――の色の中には、その向こう側の広い広い世界と、それを象徴する、世界樹ユグドラシルの梢が見えていた。

 その景色の美しさを、晩年に至るまで、アラベラ・アデライドは繰り返して語り続けたと言う。

「あれは、子供心に忘れ難い光景であったよ。吸い込まれそうに深い色の蒼穹に、聖樹の緑。すべてが輝いていた。それが――私の、最初の記憶だな」

少女の頃から、老婆になっても、変わることなき光をその瞳にたたえて、アラベラ・アデライドは遠く空を仰いだ。その果てに、彼女の負うもの、霧の海に浮かぶ大陸を抱く、聖なる樹の姿を見透かして。

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