血の香りがする――と、思った。蒼白い月が照らす、透き通った夜の闇の中に、浮かび上がる館。その開け放たれた窓から、確かにそれは漂っていた。

「貴方――何故、こんなところに居るの」

その窓から、唐突に投げかけられた、声。見ればそこには、若い娘が独り、立っていた。年の頃は二十歳そこそこだろうか。ゆったりと波打ち、ゆるやかに流れる濃い栗色の髪、深い湖のような色をした瞳、抜けるように白い肌と、壊れそうに繊細な輪郭で描かれた面差しが、月光の下に浮かび上がった。そして、月光よりも潔癖な光を宿した双眸が、ひたとこちらを見据えている。

「お前こそ――何故、こんな時間に目を醒ましている。何故、こんなところを通りかかる俺を、恐れない」

月が描き出す影の中に、溶け込む姿。乱れた金髪、鋭い顔立ちにこけた頬。漆黒のマントに包まれた、痩せた体。これを見て、世の者が何と呼ぶか――この娘は、知らぬとでも言うのか。

「さあ、何故かしらね」

娘はそう言って、幽かに微笑んだ。

「私の名はマグダレーナ。貴方は」

「アルブレヒト」

問われて返したが、「彼」はそのまま、闇天に消えた。餓えた「彼」には、その部屋から漂う香りは、あまりに凶暴だったから。マグダレーナと名乗った、あの娘を喰っても良かったのだが、抵抗されるよりは、眠っている人間を襲った方が容易い。それに――つい数秒前、我が身、我が目を貫いた視線があまりに印象的で、殺り難い、と思ったのだ。

 獲物はすぐに見つかった。館に近い小さな家。音も立てずに窓を開けると、若い女が寝息をたてていた。先程の娘と、どれだけも違わぬ。呼吸に合わせてゆっくりと上下する華奢な胸。あおのいた白い頤、細い首――アルブレヒトは一息に、そこに牙を立てた。溢れ出た血が口腔に広がり、喉を通って、腹に満ちた。快感に眩暈がする。アルブレヒトは恍惚となり、欲望の迸るままに、女の身体を掻き抱いた。力を喪い、だらりと伸びた女の身体は、ぴくりとも動かないまま、アルブレヒトがするに任された。やがて、瑞々しかったその肌は艶を無くし、乾涸びて、痩せ細ってゆく。アルブレヒトの中が、血でいっぱいになる。一瞬の忘我――そして女は、息絶えた。

 開け放たれた窓からは、先程と変わらぬ蒼白い月の光が差し込む。その光が透かす闇の中に、血塗れの男と、枯れ木のようになった屍が在る。それが即ち、マグダレーナが恐れなかったものの正体であった。

 

 日が落ち、月が昇って、夜が満ちると、吸血鬼の時間が始まる。霊廟の中で目覚めたアルブレヒトの鼻先に、昨晩と同じ、血の香りが届いた。腐った、古い血ではない。若くて熱い、新しい血潮だ。同じ――ということは、やはりあの窓から届いたのだろうか。マグダレーナ、と言った。あの娘は、また今宵も、あの窓に立っているだろうか。あの、月光よりもなお清い、潔いほどの瞳で、真夜中を見据えて。

 もう一度、あの窓を訪れる――蓋し、酔狂であろう。そう思った。真夜中の時は短い。早々に獲物を定めて、腹を満たさねばならぬ。あの娘を喰うというならば、話は別だが――否、それも悪くは無い。そう思った。確かにそう思って、アルブレヒトは霊廟を出たのだった。

 「アルブレヒト」

窓から、先に声をかけてきたのは、マグダレーナだった。昨晩と同じだ。

「もう一度、同じことを訊くわ。何故、こんな所に居るの?」

幼い子供が発するに似た、直截な物言いである。しかし、それはまるで、定かではない夜の空気に、己の存在を刻むが如く、無邪気と言うよりは、聡明さが勝る口調であった。

「お前こそ――何故、こんな時間に目を醒ましている。何故、こんなところを通りかかる俺を、恐れない」

昨晩と寸分違わぬ言葉で答えながら、アルブレヒトは一躍に、その窓に移った。長い指を伸ばして、その頤に触れた。

「俺が誰だか、分っていないのか?」

アルブレヒトの黒い瞳が、鋭い輝きを放つ。その色に、魅せられる者もあるだろう。凍てつき、恐怖に攫われる者もあるだろうが――目の前の娘は、そのいずれの反応も示さなかった。ただ、静かに微笑んで、アルブレヒトを見返すと、真っ直ぐに腕を伸べて、窓の外を指した。

「あの家の娘は、貴方が喰ったの?」

つまり、自分は目の前の男の正体を知っているのだと――問わずとも、こんな時間にここに居る理由など、疾うに承知であると、言ってのけたのである。

 ならば、自分が今、吸血鬼の獲物になりかけていることなど、分っている筈だ。

「何故、恐れない」

深く、深く――アルブレヒトは、湖のような色の瞳を覗き込んだ。その深い底からは、娘の年や、可憐な見てくれにはおよそ相応しくない、達観したような静けさしか、湧いてこない。

「同じことだもの…貴方に喰われても、このままゆっくり病に喰い尽されても」

それが、さも当たり前のことであるかのように、落ち着いた口調で、マグダレーナは返した。

「私の肺は破れていて、真っ赤な血を噴くの。血が巡るのは、私を生かすためじゃなく、ただ傷口から吐き出すためで…そのたびに、私は疲れて衰える…それならばいっそ、貴方に喰われた方が素敵だわ。一瞬で終わるもの」

ああ、なるほどと、アルブレヒトは思いながら、マグダレーナの白い喉に、指を滑らせた。確かに白い。日の光など浴びたことも無い、吸血鬼の己とも、伍するほどに白い。その白さは、生者の場合、血の色を透かして、なお不吉に見えるのだろうか。月の光の下ではよく分らない。

肌理の細かい、薄い皮膚だ。牙を突き立てるまでもなく、爪でも裂けるようにも思える。さて、それではこの娘が望む通りに、一思いに喰らってやろうか――けれども、どうしてもそれ以上、マグダレーナに近づけなかった。

吸血鬼に息など無いが、マグダレーナの息は、血の通わぬその頬にかかる。それほどの距離で、二人はひたと、見詰め合った。やがてマグダレーナは、ゆっくりと手を伸ばして、アルブレヒトのこけた頬に触れた。

「喰う気が無いなら…すこし、私の話に付き合って」

大胆な娘だ、と思った。が、遅かれ早かれ訪れる死というものの前で、自棄になっているだけかもしれない。いみじくも今しがた、吸血鬼に喰われるのも病に喰われるのも、同じだと言ったではないか。

「では、気が変わったら喰うぞ。それで構わんと言うなら、何なりと話すがいい」

つい昨日、一人喰ったばかりだ。切羽詰った空腹は無かった。それ故の、酔狂だ、と思った。

 黒いマントが夜気を孕んで、死神の翼のように広がる。アルブレヒトは、月を背にして、窓に腰掛けた。

「さあ話せ」

マグダレーナのことなど、これっぽっちも思い遣らない。昼間の時間を生きる人間の男なら、許されない横暴だ。けれどもマグダレーナは、軽く目を細めて笑みに近い表情を作ると、頷いた。

「では、最初に教えて。貴方は、昔は人だったの?吸血鬼に血を吸われた人間は、吸血鬼として生まれ変わると聞いたけれど」

はたと――アルブレヒトは、己の来し方を考える。が、思い出せない。記憶の発端は遥かに茫洋としていて、辿れる限りのところでは、あの霊廟で目を醒まし、欲望の赴く儘に人を喰っていた。

「さあな、知らん。俺は、気がついた時にはこうしていた」

「どのくらい前から?」

「知ったことか」

人間の男なら、もうすこし気の利いた台詞を要求されるところだが、アルブレヒトはそんなことは知らない。ただ心の赴く儘に――聞き、切り返す。

「吸血鬼を殺す方法は、幾つか聞き及んでいるけれど…もしも殺されなければ、貴方は永久に、人を喰い続けるの?」

そんなことは、考えたことも無かった。喰うのは欲望が湧くからで、人が命を繋ぐために喰うのとは、すこし趣が違う。腹に満ちた血はいつの間にかどこかに消えて、吸血鬼の肉になることは無い。蒼白い皮膚の下には、どんな血も通わないのだ。老いることも無く、従って終りの時を察することも無い。よく言われるように、太陽の光を浴びれば灰と化す。心臓に杭を打ち込まれても同じことだ。だから、死に対する恐怖は、無くはない。だが、それがいつか必ず訪れるという実感は、欠片ほども無いのだ。それは恐らく、マグダレーナには想像もつかない世界だろう。同じようにアルブレヒトには、マグダレーナの置かれた状況がまったく分らない。

「さあな――俺は知らん」

「怖くは無いの」

「考えてもいないものを、どう怖がれと言うのだ」

つっけんどんな答えを返しながら、考えてはみたが――やはり、分らない。

 死とは何だ。些かの興味が湧いた。上手い具合に、目の前に、死に瀕しているという娘が居る。

「では訊くが、お前は怖いのか。死というものが」

軽く、驚いた顔をしたマグダレーナだったが、やがてすこし、表情を強張らせると、深くゆっくりと、頷いた。月光に照らされたすべらかな頬を、涙が一筋、伝って落ちる。

「それが何なのかは、私にも分らない。ただ、分ろうとして考える…そのことが、堪らなく怖いの」

言葉につれて、一筋、もう一筋と涙が溢れる。アルブレヒトは手を伸ばしてその頬に触れ、指先で拭ってやった。その透き通った雫は、血よりも冷めやすく、舌先で転がしても、あの酩酊冠には程遠い。だが、その指には、マグダレーナの頬の感触が、生々しく残った。

「考えも、考えても、分らない…でも考えるのを止められなくて……いっそ貴方に喰われて、この瞬間に終ってしまった方が、どんなに楽か知れない――」

 分らない、とアルブレヒトは思った。上手くすれば永遠に生き永らえるかもしれぬ吸血鬼と、明日の命をも知れぬ人間の娘の間には、超えられそうも無い何かが、横たわっていた。

「人は…死ぬと、神とやらの元へ、行くのでは無かったのか?」

ふと問いかけたそれは、聞き覚えの知識だった。けれどもマグダレーナは、かぶりを振った。

「神の御許から還ってきた者は無いのに、何が分ると言うの…こんなことを言うのは、赦されないことかもしれないけれど。ただひとつ、確かなのは、私が病に喰い尽された後は、棺に入れられ土に埋められて、独りで腐り果てていくこと、だけ」

随分きっぱりと、マグダレーナは言い放った。そう、まるで、己の処刑宣告でも読み上げるかのように、恐らくは過剰な残酷さで――誤魔化しの無い、我が身の行く末を見据えていた。

 そしてマグダレーナは、かなり無理のある笑みを浮かべて見せた。

「それよりは本当に、貴方に喰われた方が増しだと思う…少なくとも血だけは、貴方のものになるのでしょう?朽ちて無駄になることは無い」

ああ、そうかと、アルブレヒトはここで得心する。多くの人間が神を頼むのと同じように、この娘は、吸血鬼という物語に縋っているのだ。

「残念だが、お前は勘違いをしている」

それならば、幻想は幻想のままにしておくのが、所謂親切なのではないか。恐らく「多くの人間」ならそう思う筈だ。しかし、アルブレヒトはその言葉を知らなかった。

「俺の身体は、老いることも、朽ちることも無い。人がものを喰うのとは、恐らく意味が違うだろう…人は、飢えを満たすために喰ってそれ以上は必要としないのではないか。俺は違う。喰いたければ幾らでも喰うし、喰わなければ死ぬ、というものでもない」

 恐らく、この娘は落胆するだろうと――その程度のことは、アルブレヒトにも見当がついた。が、予想に反して、マグダレーナは微笑んだ。酷く満足そうに。

「それでもいいわ。何もかもが、独りで土の中に逝くよりは――何かひとつでも、貴方と一緒に行けるなら」

そしてマグダレーナは、またその瞳を、アルブレヒトに向けた。一瞬、その中に吸い込まれそうな錯覚を覚える。どうやらこれ以上、この娘を揺るがすのは、無理な相談のようだった。

 アルブレヒトは、窓の上に立ち上がる。月光が遮られ、マグダレーナの上に影が落ちた。

「喰っては貰えないのね?」

表情は分らないが、明らかに落胆した声。アルブレヒトはかぶりを振る。

「今日のところは、興が殺げた…が、お前を喰うのは俺だ。俺より先に、他のものに喰われるのは許さん。それで、いいな」

言いながら、その薄い唇には、確かに笑みが浮かんでいた。アルブレヒトは己の表情に興味など無いから、それが何であるか、知るよしも無いのだけど。

「いいわ…それで、上等よ」

マグダレーナはそう返した。アルブレヒトが知らない言葉、幸福と呼ばれる、そのものの響きで。

 黒いマントが翻り、風が流れる。吸血鬼が纏ったその風には、マグダレーナが吐いた血の香りが、確かにまとわり付いていた。

 

つぎへ

 

 

 

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