一瞬、誰もが、その華やかさに息を呑んだ。一目で、ウェスタ人と分る容貌である。ゆるやかだが不思議と豪奢な印象を与える、濃い栗色の巻き髪。化粧映えのする、くっきりした目元と、輝く青灰色の瞳。艶やかな唇、こころなしか向こう気の強そうな顎の線。北の人間が内心で憧れる、健康的な小麦色の肌からは、傍若無人な若さが透けて見えた。その輝きだけで、地味な濃紺のドレスが煌びやかに見えるほどだ。女の粗にはことのほか五月蝿い宮廷の侍女たちが、それを探すことさえ止めてしまうほど、その新参者は、光を放っていた。

「ヴァルトラウト・フォン・ベーレンスと申します。至らぬ点もあろうかと存じますが、何卒よろしくお願いいたします」

頭を垂れた作法は完璧だったが、十八歳だという年齢よりも、ずっと堂々と、大人びて見える。

「大切なお勤めです、心してお仕えするように…でも、無用に恐れる必要はありませんよ。皇后陛下はお優しい方です。わたくしも、そなたが立派にお役目を果たせるよう、及ばずながら力になる所存です」

侍女頭のシルヴィアは、絶世の美女たる主人を見慣れているせいか、並み居る中でただ二人、平静を保っていた。因みにもう一人とは、言うまでも無い、この部屋の主、ユグドラシル帝国の皇后ルフィラである。

「早くに、両親を亡くしたと聞きました。寄る辺の無い時は、いつでもわたくしを頼りなさい。出来る限りの後ろ盾になりましょう。期待しています、よく務めるように」

輝くような亜麻色の髪を、アースガルド風に結い上げた皇后は、二人の子供の母親らしい、落ち着いた風情でそう言った。

 幼い皇太子ヴィクトールを別とすれば、ただ一人その部屋に居た男である、宮廷楽師マリーチは、一見醒めた、内心は興味本位の目で、新参の侍女を見ていた。

 侍女とはいっても、ヴァルトラウトと名乗った少女は、重い役目を背負っていた。彼女の仕事は、宮廷の華でも、皇后の世話でもない。ただ一人、武器を持って彼女の側に侍ることを許された、れっきとした近衛兵なのである。歴代この役目には、名だたる武門の娘たちが当たってきた。ベーレンス家とは、あまり聞かない名だが、元アースガルド六将軍だった、ザビーネ・シュナイダーの推薦だと言うから、得体の知れない娘ではなかろう。

 それにしても、とマリーチは、もう一度横目で、彼女を見やった。目立つ、不自然な娘だ。何をどう見ても、その身に流れているのは、北の本国ではない、ウェスタの血。ヴァルトラウトというのは、ワルキューレの妹娘の名である。これ以上無いほど北の香りを漂わせる名前は、艶やかな南の容貌には不似合いだが、却って強い印象を残す。どういう素性の娘だろう――それは、他者に余計な関心を寄せることのすくない彼が、珍しく抱いた、好奇心だった。

 

 「ベーレンス?聞かない名前だな」

マリーチの問いかけに、エルヴィンは小首を傾げた。この男が知らないとなると、本当に武家ではなさそうだ、と、マリーチは内心で考えた。

 エルヴィン・シュライヤーは、元のアースガルド六将軍で、現在は鎮護府の長官である、ゲオルグの長男だ。マリーチとは同い年の十九歳で、母親同士が親しかったこともあり、幼馴染の腐れ縁である。北の地にあっても目をひく長身、年齢の割には体つきもしっかりしており、細面の穏やかな表情が、時折不似合いに映る。

 だが、これはあの娘の不自然さとはまったく異質なもので、過渡期の生み出す「揺らぎ」に過ぎない。あと数年もすれば、体格が自ずと生み出す存在感に、内面が追いつくだろう。そんなものであれば、マリーチの興味を惹きはしなかった。

 けれどもエルヴィンは、いつものように丁寧に、何なら周囲の人間に聞いてみようか、と返してくれた。

「いや、そこまでして貰うほど、知りたいわけじゃないんだ」

「まったく、お前らしいんだか、らしくないんだか…珍しく他人に興味を持ったかと思えば、強いて知りたくは無いんだからな」

「心の向くまま、無理はしない…いつもの僕だろう?」

浮かべた韜晦の笑みに、エルヴィンは軽く、肩を竦めた。

「好きにしろよ」

 柔らかい沈黙が流れかけたが、駆け寄ってきた軽い足音が、二人を黙らせない。

「エールヴィン。まだおわらないの?」

頭の後ろの高い位置で、艶やかな黒髪をひとつに束ねた、齢七つばかりの童女が、大きな青灰色の瞳で、長身の青年を見上げる。

「やれやれ、君は今日も、お姫様のお守りなのか…いいよ、行ってあげれば。僕は、これといって用も無いからね」

幼さ故の傍若無人と、無垢故に許される無礼を、マリーチは笑顔で迎えてやった。もっとも、自分がそこにかかずらう気は無いから、丁重に、すぐさま送り出す積りだが。

 童女の名はアンゲリカという。姓はラウラン。父は大将軍ヴェンツェル・ラウラン、母は元六将軍のザビーネ・シュナイダーという、アースガルドで最も純粋な戦士の血をひく娘で、何故だか知らないが、エルヴィンに懐いている。一方のエルヴィンは、四人兄妹の長兄だけあって、子供の面倒を見るのは満更苦でもなく、よく付き合ってやっている。

 エルヴィンは、苦笑して身を屈めると、アンゲリカを抱き上げた。幼い子供を一人で歩かせるには忍びないが、これだけ身長が違うと、手を繋ぐのも面倒だ、という寸法だ。マリーチに言わせれば、甘やかしすぎなのだが。

 皇帝ジークフリードによって大陸の統一が成されてから、間もなく十年になろうとしている。その原動力になった、英雄たちの二世を送り出してから、マリーチはふと、その時間を考えた。

 二世というなら、彼も二世である。義理ではあるが、親の名はガルーダ家のラーマといって、やはりアースガルド六将軍に名を連ねた一人だった。ただし、命の親はともに、ジークフリードの覇業の前に、立ちはだかった者である。父の名はインドラジット。母はウシャス。ジークフリードの軍勢を、最後まで最も苦しめた宿敵だったと聞いている。そして、ジークフリードの六将軍のうち、覇業の成就を待たずしてヴァルハラに召された二人、ヴァレリー・フォン・クロイツェルとアルベルト・ライザーの死は、ともにこの二人の責であるという。

 マリーチは初め、母とその一族に育てられた。母の一族とは、大陸の南で闇の世界を牛耳ってきた者たちだ。策謀と諜報、毒と暗殺の刃とを、破格の高値で、誰にでも売っていた一族。母は、その総領だった。父が、その母と情を通じたのは、ほかでもない、己の実力を知り尽くし、決して安売りはせぬ誇り高い一族を、欲しい侭にするため。

 けれども母は、父に溺れ、焦がれて、すべてを捧げた。その果てに、最後だけは道を違えたのだけれど――恐らくその時には、母は自らの終りを、見つめていたのだろうと思う。父がなくては、生きていけない母だったから。母の最期を、マリーチはその目で見ていた。それが、母の望んだことだと、何度も自分に言い聞かせては、涙を堪えて。

 そのマリーチを引き取って育ててくれたのが、養父母である、アースガルド六将軍ラーマと、妻シータだった。それが発端で、彼はこの北の地にやってきた。12歳の時だったと思う。それから数年後、六将軍という制度が解体された時に、養父は将軍職を辞し、養母と、自分と、実子である弟のスーリヤを連れて、南へ帰った。けれどもマリーチは、その翌年に、北の都へ戻ってきている。

 音楽を教えてくれたのは、南の地で最高の歌姫だったという、養母だった。喋るよりも動くよりも、歌うことですべてを表現出来る人だと、今でもマリーチは信じている。その母の歌に似せて、楽器を触ることを覚えた。最初は、北の地で身近にあった、リュートやクラヴサン。やがて、南の地の楽器である、シタールを覚えた。弦、管、鍵盤――片端から学んで、いつしか音楽で身を立てることを考えた。

 その時、最高の場所として思い当たったのは、北の都の宮廷だった。養父も養母も、何の反対もしなかった。大陸の南北を行き来する養父と違い、養母や弟とは、それが今生の別れになるかもしれなかった。

 こうしてマリーチは、幼馴染たちの居る、北の都に舞い戻る。そこは、世界帝国の首都とはいっても、やはりまだ、住民の殆どを、白い肌と白い髪のアースガルド人が占める場所だった。確かに、高官の中には何人かの異国人が居るが、帝国の成立から十年にも満たない。その若い国では、現地のことは現地の人間が取り仕切り、中央に報告を上げるという方法で統治が行われており、自然と、己の生まれた場所から動く者はすくなかった。それは、皇帝ジークフリードの望むところではなかったが、さりとてここで、無駄にことを急くほど、彼は愚かではなった。

 その代わりと言っては何だが、北の都に人を寄せたのは、公の場には最低限しか姿を現さない、皇后ルフィラであった。元々彼女自身、大陸の東で生まれている。だからというわけではないだろうが、彼女のサロンには、大陸の各所から芸術家が寄せられた。ウェスタ生まれの歌姫、ローランの画家、砂漠から来た詩人、辺境の舞姫、大陸の南から来た楽人であるマリーチ――そこでは誰もが、思うままに己の芸術を究めることで、皇后の庇護を得ていた。

 けれどもマリーチは、幼い頃から一瞬たりとも、考えることを止められなかった。明らかに、自分はこの、北の地を照らす淡い太陽と、その光が描き出す背景には馴染まない。己という人間が、大陸の南、恐らくは自分に最も馴染む自然に包まれた場所に生まれながら、ここに辿り着いたことの意味を。

 さすらい人であり、半端者であり、自由人であり――十九年の人生の中で、マリーチはなかなか、自分というものを定義付けられなかった。言葉を被せることは出来ても、何一つ、しっくりとは嵌まらない。鏡が映し出す自分は、いつも北の冴えたそれとは違う空気を纏い、背景から浮いて見えた。

 ヴァルトラウトが気になったのは、間違いなく、そのせいだ。彼女もまた、くっきりと、この国の空気とは別の線で描かれていた。鮮やかさではない。華やかさでさえない。その、あまりに明らかな印象の違いが、マリーチの心を惹いたのだ。

 

 その同じ頃、ヴァルトラウトは、久し振りに宮殿に上がった、ある人物と向かい合っていた。彼女と同じく、女性の身で軍人になり、最高の座に就いていた人物――かつてはアースガルド六将軍の戦女神として名を馳せた、ザビーネ・シュナイダーである。体調を崩して軍務の第一線は退いているが、時折こうして登城し、練兵の指南をしている。

 「今日が、初出仕だったね。感想は?」

「まだ、何か申し上げるほどのことはしていません。ただ――お礼だけは、どれだけしても足りないと思います。私のような者が皇后陛下のお側に上がれるのは、貴女の推薦をいただけたから、ですから」

しおらしく深々と頭を下げるヴァルトラウトに、ザビーネはすこし、困ったような笑みを浮かべて、かぶりを振る。

「わたしは、その役目に最も相応しい者を選んだに過ぎないよ。腕が立って、陛下のお側に上がっても恥ずかしくない行儀作法を身につけている娘など、そう多くは無いからね」

その笑みには、最早戦士の鋭さは無い。すべてのものの母のような、包容力と暖かさと――けれど二人の間には、女同士とは思えないような、張りつめた緊張が漂ってもいる。

 「ある意味では、申し訳なく思っています、閣下。貴女は、私相手には好意を惜しまない…でも、今度それを使ったら、私が貴女の教えてくださらないことを、知ろうとすると、思わなかったのですか?」

その一言を、ヴァルトラウトは敢えて口にした。ザビーネは、困ったように笑顔を曇らせて、かぶりを振る。

「…決めるのはわたしじゃない、ヴァルトラウト、あくまで貴女だから…わたしは、その手助けをするだけだ」

 ザビーネの教えないこと――つまり、ヴァルトラウトに向かう好意の理由を。何故、アースガルド軍の高官が、傍流の貴族であるベーレンス家と付き合い、頭首亡きあと、残された一人娘の彼女の、後見役をしてくれるのか。ひいては恐らく、何故彼女が――明らかにウェスタ人である自分が、ベーレンス家の娘だったのか。

 十五の年に死んだ父も、翌年後を追った母も、何も言わないままだった。何の才覚があるわけでもなく、広くも無い領地から上がる収入で、こぢんまりした屋敷を維持し、善良に、無趣味に生きた父と母。養女であることは、誰の目にも明らかなのに、最早子供でない娘に対して、下手な嘘をつき通した。

 その両親が居なくなった後、ヴァルトラウトの視界に突如現れたのが、ザビーネだった。亡父に多少の恩義があるから、望むことがあるなら、幾らかは世話をしよう、と。だが、時折領地の視察に行くだけだった父が、一体どこで彼女と接点を持ち、どんな恩を与えたというのか。ザビーネは、それについて語ろうとしない。

 何故、誰もが口を噤み、見え透いた嘘をつき、隠しだてるのか。生意気な年頃の少女は、周囲のそんな振る舞いに反発し、自立を志して、騎士になった。元々活発な気性で、すこしは武芸もかじっていたし、馬術には自信があった、という理由がひとつ。ザビーネという実例があるのだから、自分が栄達することだって、不可能ではない、という理由がもうひとつ。そしていつか、もっと大きなものを望めるようになったら、きっと自分の出自を暴いてやるのだ、と誓った。

 その時だった。ザビーネの口元に、見慣れない種類の表情がたゆたった。寂しいようで、嬉しいようで、誇らしいようで――まるで、独り立ちする我が子を、母が見るようで。

「…情の強い子だ。貴女のそういうところは、御父上に、よく似ているよ」

 弾かれたように、ヴァルトラウトは顔をあげ、食い入るように、ザビーネに見入った。その父が、ベーレンスの父でない人を指しているのは、明らかだった。それ以上、彼女が何も語らないことは、分りきっていたけれど――それでも、そこに食らいつきたかった。

 そしてもうひとつ、分ったことがある。この人は、きっと自分が物心つくよりも前から、ずっとこんな眼差しで、見ていてくれたのだ、と。実の父を知るから、顔こそ見せなかったけれど――ずっと、見ていてくれたのだ。

 そこに、駆けてくる足音と、子供の声が届く。ザビーネはたちまち、甘い母親の顔になって、幼い我が子を迎え、抱き上げた。それは涙が出そうに優しい、愛しい光景である。それはヴァルトラウトには、酷く遠いものに思われた。

「それじゃあ、わたしはこれで。何かあったら、いつでも言いなさい、出来る限りの力になるから」

踵を返す前に、ザビーネはふと、思い立ったように言った。

「そうそう、皇后陛下のお側に、マリーチという楽師が居るだろう?何かあったら、彼に話をするといい。一筋縄ではいかない青年だけれど、いつか貴女の力になる日が、来ると思う」

名前を聞いても咄嗟に顔が思い浮かばなかったが、そういえばあの部屋には、楽器を持った男が居た、とだけ、必死に手繰り寄せる。

 何故とは、その時どうしても、口には出来なかった。理由など無い。ただ、いつか自分が、誰もが隠しとおしたものを暴き出しても、それでいいと、この人は言ってくれるだろう。そのことだけを、信じられた。

 聖樹歴1086年、ヴァルトラウト・フォン・ベーレンス十八歳、楽師マリーチ十九歳――北の地に生きる異国の血筋の二人の、これが最初の一日だった。

 

 アースガルド皇后ルフィラは、近衛兵として見た場合、非常に仕えやすい相手である。人前に出ることを好まず、外出が少ないため、警護に手間がかからないのだ。

 ただし、侍女として見ると面倒なことがある。人使いは決して荒くは無く、寧ろ寛大な方であろう。無体を言うことはまず無く、気紛れを起こさず、ゆったりと優雅に振舞う様は、流石に千年帝国最後の皇女だった人と思われるのだが。

しかし、唯一、すこし大きな難がある。着替えが多いのだ。というのも、皇后は人前に出る時は、床に届きそうに長い亜麻色の髪を結い上げて、アースガルド風に装うのだが、一度私室に戻ると、その髪を解いて、ゆったりとしたニンフォニウム風の装いに替えてしまうのである。あるいはそれが、人前に出ることを好まない、理由のひとつとも思われた。

 そんな具合で、どこへ行くにも支度に時間がかかるし、戻ればまた手間を取られる。使っている侍女の数が決して多くは無いので、一人一人にはそれなりの負担がかかった。

 侍女として、近衛兵として、慣れない仕事に押し流されながら、ヴァルトラウトは時折、横目で部屋の片隅を見やった。皇后の庇護を受けるサロンの芸術家たちの中でも、マリーチはとりわけ、皇后の私室に侍る機会が多くて、殆ど毎日のように顔を出し、長居することもままあった。皇后は、彼の奏でる様々な楽器の音を、いたく気に入っている風であった。

 一筋縄ではいかない青年、というザビーネの言葉は、次第に納得感のあるものとして、ヴァルトラウトの胸に収まっていった。マリーチは、決して多弁な方ではない。皇后の前では殆ど口をきかない、といった方が正しいかもしれない。どこか冷ややかで無関心な――まるでこの世から一歩退いた場所からものを眺めているような、醒めた眼差しを、時折感じた。

 秀麗という言葉がよく似合う、美青年である。南の血を引く人間にありがちな、顔立ちのくどさが無い。鼻筋の通った、すっきりした面輪に、切れ長だが黒目がちの、憂いを秘めた瞳。時折、無意識に女のヴァルトラウトさえぞっとするような色気を感じさせることもあるが、女顔というわけではない。酷薄になる寸前の鋭さが、薄い唇や顎の辺りに見て取れる。あるいはその鋭さを、濃厚に漂う物憂い空気や、流れるような黒髪、額つきの辺りが、和らげているのだろうか。

 浮世離れしたような美貌、音楽の才を持ち、皇后の寵遇を受ける十九歳の青年が、何故あのような、厭世的とも言える眼差しを、持たねばならないのか。直接話をする機会には恵まれず、ヴァルトラウトには見当もつかなかった。

 そんな二人が、初めて言葉を交わしたのは、至って野暮なことからだった。ある日の早朝、いつもの時間よりもだいぶ早く目が覚めてしまったヴァルトラウトは、皇后の部屋に行くまでの時間を持て余して、廊下をうろついていた。自分の部屋に居れば良かったものを、じっとしているのが何故か嫌で、顔を洗い、髪だけを整えると、部屋着のまま扉を開けたのだった。

 外はまだ仄明かりで、霧も晴れず、人の気配などあるような時間帯ではない、筈だった。

 耳に届いたのは、囁きあう声と、女の忍び笑い。決して遠くないが、昼間であれば、通り過ぎる足音にさえ掻き消されるであろう、ささやかな音。ヴァルトラウトの部屋は角だが、その向こう側のようだった。この辺りは住み込みの侍女たちの部屋ばかりだから、そのうちの一室、方角と距離から、大体は分る。皇女ヴァレリーの世話役をしていて、皇后の部屋にもよく出入りする、侍女だろう。

 宮廷に上がって日が浅いせいもあり、そういったことに疎いせいもあって、気にも留めてこなかったが、侍女と廷臣の情事など、珍しいことでもあるまい。主たる皇帝も皇后も、私生活にまで口を挟み、五月蝿いことをいうたちでもない。

 後になって考えれば、何故そこで、部屋に戻らなかったのだろう。お蔭でヴァルトラウトは、角を曲がってきた人物と、鉢合わせる破目になった。気がつけば声はやみ、片方が廊下のこちら側に来る可能性があることなど、分った筈なのに。

 「朝も早くから、ご苦労様。余計なものを聞かせて、申し訳なかったね」

ひそやかに、目覚めの前のまどろみにたゆたう空気を、謳うような声が振るわせる。そこに立っていたのが、マリーチだった。そこはかとなく漂う気だるい空気が、憂いを秘めた美貌に、厭味なほど似合う。

「…何を――」

気まずさにしらを切ろうとしたが、上手くいかない。するとマリーチは、ごく淡く、明らかに人を食った笑みを浮かべて、言ってみせた。

「あまり虚勢を張らない方がいい。顔に、書いてあるから」

その一言が、ヴァルトラウトの頬に、血を上らせる。図星を指された口惜しさもさることながら、個人的な付き合いはまったく無く、その謂れも無い男に、見下したような口をきかれたことの不愉快さは、格別だった。

「…どうなりと、お好きに。私の関知したところではないわ」

きっぱりと、過剰な力を込めて、言い放つ。するとマリーチは、先ほどの笑みに、もうすこしだけ濃い色を落として、今度は声まで笑った。

「確かに、それはそうだ――」

「こんなところで小娘の相手をしているほど、お暇ではないでしょう?さっさと自分の部屋に、お帰りになったら?」

返す言葉は更に刺々しく、可愛げの無いものになってしまった。余裕において雲泥の差があることを、認めざるを得ない。

「からかって申し訳なかった。おおせの通りに、退散するよ」

そう言って、マリーチが立ち去った後に、北のこの地には咲かない、南国の花の香りが、残ったような気がした。無論それは、錯覚なのだけれど。あるいは彼が持つ、色濃い異国の雰囲気が、そのような形で印象を残したのかもしれない。

 次に顔をあわせたのは、同じ日の午後で、皇后ルフィラが、いつものように彼に演奏を所望した時だった。この日、皇后は珍しく公務の予定が何も無く、朝からゆったりした東の衣装を纏い、輝くような亜麻色の髪を流して、寛いだ様子で過ごしていた。

 召されて参じたマリーチの顔を見て、瞬間的に表情やら背筋やらが強張ったのは、ヴァルトラウトの未熟を表すものだろう。礼儀としても処世術としても、何もなかったかのように振舞うのが、この際は正しい。

 マリーチがこの日携えていた楽器は、シタールだった。リュートとよく似た、丸い胴と長い棹を持つ弦楽器だが、一見して、その弦の多さに目を奪われる。奏でられる音はといえば、リュートよりもやや重く渋みがあって、響きが長い尾を引く。ヴァルトラウトに音楽の嗜みは無いが、何やら癖の強そうな楽器だ、という印象を抱いた。

 けれどもマリーチは、僅かな時間で調弦を終えると、その奏でる音で、狭くは無い部屋を満たしてしまった。曲目は、皇后の生まれた東の曲、南の地の雅歌、この北国の物語歌と、多岐に及ぶが、どれひとつとって、無理や不自然を感じさせず、人の心をひきつけた。

 シタールは本来、南の地で、南の音楽を奏でるために生まれた楽器の筈だ。そして今も、決してシタールらしくない音を出しているわけではない。それは本当ならば、北や東の歌を紡ぐには相応しくない筈――確かに、「正しくはこうであろう」という音楽は、脳裏に浮かぶ。

 けれども、部屋を満たした音楽は、決して曲本来の魅力を損なうことなく、時に激しく、時に美しく、切々と嫋々と、聴くものの心を揺さぶる。

 「ヴァルトラウト」

はっと我に返ったのは、名前を呼ばれてだった。慌てて背筋を正すと、皇后ルフィラが、女神の如き笑顔で、こちらを見ていた。

「そなたは、マリーチの演奏を聴くのは、初めてではなかろう。なのに、それほど心動かされましたか?」

それは、幼い皇太子と皇女が何か失敗したときに向けるような、慈しみに満ちた表情であり、我を忘れていたことを恥じるよりも、詫びるよりも先に、安心感を呼び起こす。

「涙が、出ていますよ」

伸ばされた白い指が、小麦色の頬をなぞる。そこは確かに、双眸から溢れたもので濡れていた。

「…失礼を」

「構いません。わたくしも、初めはそうでした」

やっとのことで言葉を取り戻し、恐縮するヴァルトラウトに、皇后は変わらぬ笑顔を見せた。

 マリーチはといえば、そのような遣り取りなど聞こえぬげに、既に楽器を下ろし、退出の機会を窺っているようだった。そういえばこの男は、明らかに皇后が最も寵遇している芸術家であるにも関わらず、それに狎れるということがなく、この部屋にも決して長居しない。

 気に食わない男、素晴らしい楽師、それから――ひとつには解け合わない、幾つもの印象が、ヴァルトラウトの中で渦巻いて、マリーチという名前によってだけ、結びつく。それは決して快いことではなく、彼女を苛立たせた。何故、たかが通りすがりの男に、これほど悩まされねばならないのか。それから数日の間、眠れなくなるほど考えた。

 そして、ひとつの結論に辿り着く。大陸中の音楽を奏でる、異国の楽器――その音色が、懐かしかったのだ。美しい、でもなく、悲しい、でもない。聴いたことの無い筈の音色に、自分と相和す、親しいものを感じ取っていた。

 そのことに、ヴァルトラウトは初め、随分と驚いた。けれども、考えれば考えるほど、よく分る。あの音色もまた、自分と同じなのだ。確かに、この地、この場所で育まれたものに違いないのに、永遠に融和しない何かを、抱えている。それなのに、きっと、この地無しには、生きていけないものでもある。その矛盾。それこそが、あの音楽とヴァルトラウトの、唯一無二の共通点であり――ひょっとしたら、マリーチ本人も、そうなのかもしれなかった。

 

 「貴方は、」

勇気を出して声をかけたのは、それから一週間ほども経た後であった。振り向いたマリーチの口元には韜晦に似た笑みがたゆたっていた。

「何?」

「いつも、あの南の地の琴を使っているわけではないのでしょう?何が得意なの?」

口火を切るまで散々考えたが、結局、一言目に選んだのは、一見無難なこの台詞。

「ご所望とあれば、何なりと。ああ、でも笛は苦手かな…弦のものなら、どうにかするよ。リュートでもいいし、良ければ砂漠の楽器を聞かせてあげるよ」

今までの印象に違わず、上辺の愛想は極上に良い。だが、その声も表情も、するすると手をすり抜けて、決して掴み取れはしない。その感触が、ヴァルトラウトには苛立たしい。

「誰にでも、愛想が良いのね」

「商売柄だよ」

 ヴァルトラウトは怖いもの知らずな娘だ。相手が誰であれ何であれ、臆することなく正面突破を試みて、多くは貫き通してきた。その娘が、目の前の細身の男に、攻めの糸口を見出せないで居る。

 彼女がこれまで相手にしてきた者たちなど、子供を甘やかしてくれる相手ばかりだった、という言い方は出来る。だが、マリーチの言葉や振舞いは、すべては「受け流す」という言葉に集約されていくのだ。真っ直ぐにぶつかろうとすればするほど、肩透かしを食らって、悲しみを呼び覚まされる。何故、答えてくれないのか。何故、こちらを見ないのか。

 それほどの時間を経たわけでもなく、積みあがった言葉は微々たるものなのに、気がつけば胸郭の中を、冷えた寂しさが満たしていた。だが、これ如きで退くには、ヴァルトラウトは若かったし、無鉄砲で、無邪気でもあった。

「私は、」

気がつけば、口をつくのは、滅多と喋りはしない、秘密の本音。

「ウェスタの歌劇が、好きなの」

それは、幼い頃からずっと思い続けてきたのに、誰にも言えなかった言葉。よく知りもしないこの男に、言う必要などない言葉。

 だが、その言葉は、マリーチの表情を、明らかに変えた。最初は、すこし驚いた表情。やがて、ゆっくりとそれがほどけて、穏やかな、作意の無い笑みに変わった。

「ああ…そうかもしれないね。そうだね」

その時初めてヴァルトラウトは、取り付く島を見つけた、と思った。

「どうして…そう思ったの?」

「何故って、そう、見えるよ」

一瞬、ヴァルトラウトの面が曇る。

「やっぱり、そういう顔かしら」

するとマリーチは、闇色の流れる髪をさらさらと揺らして、かぶりを振った。

「そうじゃないよ。心の話を、しているんだ。喜びも悲しみも、心のままに愛を尽くす――ウェスタの歌というのは、そういうものじゃないかな」

弾かれたように、青灰色の瞳がみひらかれる。そこに宿る、暁の星に似た輝きに、マリーチは目を細めた

「憶測でものを言って申し訳ないけれど、君も、そういう人に見えるよ」

歌うように響く、不思議な声だった。

 喜びも、悲しみも、心のままに愛を尽くす――初めて聞くその言葉は、ヴァルトラウトの心の琴線に触れて玲瓏の音を響かせると、儚くも美しく、長い余韻をひいて、心に消えない波紋を描いた。具体的には、それが何を意味するか知らない。だが、そんな風に生きられたら…と。その刹那、確かに、祈りに近い強さで、願った。

 それは一瞬の、酩酊に似た感覚だった――といっても、ヴァルトラウトはまだ、酒の味などよく知らないのだが。

 

 けれども、目くるめく夢の覚醒は、一瞬にして訪れた。絹を引き裂くような、甲高い悲鳴。聞こえたのは、庭園の回廊の向こう側だった。

 弾かれたように、ヴァルトラウトは立ち上がり、まるで何事も無かったかのように、余韻を踏み拉いて駆け出した。

 マリーチにとっては、彼女を追いかける必要など無かった。故に、その後の行動の理由を問われれば、酔狂と答えたろうか。だが、そこから開けた視界の先には、ヴァルトラウトの印象そのままに、鮮やかな光景が待っていた。

 資格よりも先に、刺激を受けたのは聴覚。悲鳴、怒号、馬の嘶きと、車輪が石畳を踏み抜く乱れた音。凡その事態を察した瞬間に、目の前にすべてが見えた。何かの拍子に理性を失い、暴走する馬と、それに引きずられ、軌道を失った馬車。御者は既に振り落とされた後と見えた。そして、その前に、ヴァルトラウトが立っていた。

 危ない、と思わなかったのは、何故だろう。マリーチは、恐ろしいほど落ち着き払って、ただ双眸だけを見開いて、すべてを睨みつけていた。

 すっと伸ばされた細い手が、擦れ違い様に、四頭立ての馬を繋ぐ、色鮮やかな革の組み紐を握る。それと同時に、花が舞うように、紺青のドレスが翻った。

 気がつけば、彼女は一頭の馬の上に居た。一番先頭に立つ、筆頭の馬である。御者の手を離れた手綱は既に届く位置には無く、風を切って振り回されるのみ。だがヴァルトラウトは、そんなものに惑わされることもなく、細いけれど強い意志を込めたその指で、馬の長首を押さえた。

 そこからの光景は、知らぬ者には、魔法にも見えたろうか。けれども、ヴァルトラウトは何の奇術を弄したわけでもない。使ったのは、両の腕と脚。手綱を握ることさえなく、手早く、的確に、馬を落ち着かせて、歩みを緩めた。それはまるで、母親がぐずる子供をあやすにも似て、慣れた優しい仕草だった。

 先頭の馬が落ち着くことで、続く馬たちも鎮まってゆく。いつしか喧騒は、水を打ったような静けさにとって代わり、誰もが息を潜めて、奇跡とも思える、その光景を見つめていた。誰もが、あまりに呆気に取られていて、拍手も、歓声さえも、割って入ることは無かった。その真ん中に、ヴァルトラウトは立っていて、息の詰るような静寂など感ぜずに、まだ馬たちをあやしている。

 決して長い時間ではなかった。誰もが、時を数えることを、忘れてはいたけれど――そして、澱んだ時を再び動かす音が、決して大袈裟にではなく、響いた。

 馬車の扉が開く音。そして、ゆっくりとした足取り。現れ出でた光景に、今度は誰もが、驚嘆の息を呑む。アースガルドの民なら知らぬ者のない、風に翻る緋のマント――皇帝ジークフリード・フォン・ファーレンハイトが、そこに立っていた。

 皇帝は、周囲のざわつきに一瞥をくれることもなく、真っ直ぐにヴァルトラウトに歩み寄り、少年時代から変わることの無い、確信に満ちた笑みを浮かべて、静かに言った。

「礼を言うぞ。お蔭で助かった」

 膝をつくなり、頭を下げるなり、臣下ならすべきことは、幾らでもあった。だがヴァルトラウトは、何をすることも出来ないままに、皇帝の、底知れぬ力を秘めた双眸に、見入ってしまった。それが無礼であることも忘れて、ただ、ただ。

 理性よりも直感よりも深いところで、彼女には分っていたのかもしれない。自分が、皇帝に出会ったことの持つ、大きな意味が。

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