聖樹歴1090年の、秋も暮れに迫った頃のこと。ウェスタの聖都ナヴォーナの、路地裏にある古道具屋に、一人の男が入ってきた。薄い茶の髪を長く伸ばしてひとつに束ね、旅の埃に汚れたマントを羽織っていた。腰には、使い込まれた様子の、大振な剣。日に焼けた顔は、痩せて鋭い輪郭で描かれている。堅気の人間ではないと、一目で分る、鋭い眼光で、さして広くも無い、店の中を眺め回してから、男は言った。

「鳩の血紅の石を、手に入れたと聞いたんだが」

 店主の顔に、険しいものが走る。この胡散臭い店を取り仕切る男は、売れる物なら素性を問わず、手広く商ってきた。お蔭様で、盗品をはじめ、他所では売れない代物が、この店に集まる。自然、店主であるこの男も、大小の修羅場を潜ってきた。その経験が、脳裏に警鐘を鳴らしたのである。

 一見の客は、流石にその変化を、読み取ったようだった。

「そう、気構えんでくれ。何もそれを、奪い取ろうというわけじゃない。俺が探している物かどうか、確かめたいだけだ」

笑うと、薄い唇の辺りに、多少は愛嬌が浮かぶ。無論、店主はその程度のことで、警戒を緩めはしなかったが。

 鳩の血紅――それは、紅玉の中でも最高級の品をさす色名だ。到底、このような古道具屋で商える代物ではない。それがこの店にあるということは、即ち、いわくつきの宝石を意味する。

 店主は確かに、その石を手に入れていた。大粒の紅玉を抱く、女物の指輪。白金の台座は、植物を模したものと思われた。いささか古びてはいるが、王侯貴族が競っても求めるであろう品に、間違いなかった。持ち込んだのは、盗品を専らに扱う、裏社会の商人で、どこから手に入れたかは、もちろんながら聞いていない。

 この店では、売れない。そう、店主は思った。一度は断ろうとしたが、その、不吉なまでに鮮やかで深い、鳩の血の真紅が、彼を惹きつけて離さなかった。それ故に求めた石ではあったが、店先に置くには、あまりに多くのいわく因縁を抱えていそうで、誰にも言わずに、奥にしまっておいたのだ。それを何故、この男は嗅ぎつけたのか。

 「簡単な話さ。俺はずっと、多分、その石を追いかけていた。鳩の血紅など、裏社会の市だとて、そう幾つも出回りやしない。探せば、辿り着くだろう」

そういうこの男こそ、随分深く、社会の裏側にはまり込んでいる。

 しらを切っても、どうやら無駄――そう悟った店主は、男に椅子を勧めると、奥に入っていった。そして取り出したのは、何の変哲も無い、布張りの手箱。無造作に蓋を開けると、古びた亜麻布に包まれた、ちいさなものが転がり出る。男は手を伸ばし、それを掴み取った。その手つきは、荒っぽい外見からは想像もつかないほど丁寧で、畏れさえ秘めていそうだった。

 ゆっくりと、布が取り払われる。果たして現れた深い真紅に、男は感嘆の息を漏らした。

「……間違いない、これが、俺の探し求めていた石だ。親爺、この指輪、値は幾らだ?」

薄暗い店内で、その高価な宝玉だけが、淡く輝きを放ち、男の暗い横顔を照らすようにも見えた。だが、それにも増して輝いたのは、黒い双眸であろうか。そこにはまるで、今の年齢の半分ばかりの少年が浮かべるような、無垢で必死な光が灯り、宝玉の色と反射しあうようだ。売る積りなぞ無かったから、当然、値など決めていない。店主は咄嗟に、買値の二割り増しを答えた。それは、これほどの石の価値としては、甚だ不当な廉価ではあったが、こんな店で商える値は軽く超えていた。

「まあ、そんなところだろうな――」

男は呟いて、懐に手をやると、ずしりと重たげな袋を取り出した。

「それが対価だ。中を検めるといい」

無造作に放り出されたその口からは、金貨や宝石が、雑多に零れ落ちた。商売だけを考えれば、この方が余程、有り難い。確かに、指輪の値には相当しよう。

 けれども店主の腹の中に、些か天邪鬼な考えが、ふと浮かぶ。それは元々、魅せられて求めた石だった。金を払ったとて、そう易々と、売り払えるものではない。

「で、あんたは何故、この石を探していたんだ?その物語とやらを、聞かせて貰おうか。その次第によっちゃあ、売ってやらないこともない」

何故、そんな言葉が口をついたのか、後になっても説明はつかなかった。だが男は、軽く頷いて、言った。

「あんたもよくよく、物好きと見える。いいだろう、話してやるさ。この石は、独裁者アスカーニオ・オルシーニが、副将で愛人だった、バルトロメア・ミケーレ・ヴェローナに贈ったものなんだ――」

 

 皇帝ジークフリードが、大陸の統一を始めたばかりの頃だから、今から十六、七年も前になるか。俺は、オルシーニが敷いた軍制によって、兵に徴られたんだ。与えられた役目は、バルトロメア・ミケーレ・ヴェローナの従卒だった。幸運だったよ、お蔭様で、最前線に送られずに済んだ。それにヴェローナ閣下は、俺のことを大層、可愛がって下さった。自惚れじゃないさ、確かに、あの方は俺を、大事に扱って下さった。多分、俺と同い年の、弟君の代わりにな。無論、当時はそんなことなど、知りやしない。ただ、あの方は俺の、初めてのご主君で、美しい方だった。それで十分じゃないか?

 そう、美しい方だった。髪は短くされていたし、女の装いなど、見たことも無い。だが、あの方は間違いなく、女性だったよ。そう、あらゆる意味で。絹のような肌を白く塗り、紅をひき、香水を使って――いつも綺麗にしておられた。ただ一人、あの方が愛された男のために。

 何分にも子供だったから、女性の身じまいや、持ちものにまでは目がいかなかった。情けないが、本当の話さ。この指輪のことだって、あの一件が無けりゃ、思い出せなかったろうよ。あれは――そう、カレット平原の戦の、すこし前の話だ。

 夜、すこし遅い時間だったろうな。俺は、閣下から言われた雑用を済ませて、報告のために、閣下の天幕に戻ったんだ。思っていたよりも随分、時間を食っちまったから、慌てていたのがよくなかったんだな。入りますとは言ったが、いいと言われるまでは待たなかった。入り口に垂れた布を跳ね除けると――そう、そこには閣下と、オルシーニが居た。

 何とも言えない光景だったな。閣下はオルシーニに寄り添い、左の手を差し伸べていた。オルシーニはその手に口づけていて――男と女の姿で、あれより美しいものを、後にも先にも、俺は見たことが無い。完璧と言っても良かった。閣下の瞳は陶然としてオルシーニを見つめ、オルシーニの瞳にも、ただ閣下しか映っていない。あの、希代の野心家の目に、だ。

 言葉を失う俺に、オルシーニは一瞥を投げかけて、こう言った。

「外せ」

残酷で、傲慢で、この上なく美しい、堕天使のような表情だったさ。その時、短い言葉を放った唇のすぐ近く、オルシーニの手に包まれた、閣下の手の上に、鳩の血紅の輝きがあることに、気付いたのさ。

 二人が何をしていたか、分らないほどには子供じゃなかった。だが、流してしまうには幼かった。あの時の俺は、体中の血が顔に上ったみたいに、赤くなっていたことだろうよ。とにかく、強烈で忘れ難い光景だったのさ。

 閣下が亡くなられた時、もちろん俺は、お側に居たよ。カレット平原の戦で、裏切りがあったのは知っているだろう?あの時、その裏切りを食い止めたのが、閣下だったのさ。その時、閣下はアースガルド六将軍の一人、ヴェンツェル・ラウランと立ち合って、左腕を斬り落とされたんだ。だが閣下は、そのことを誰にも言わず、隠しおおせた――死の瞬間まで。そう、どうにかあの日の戦を落ち着かせた、その瞬間のことだった。その覚悟を、見事と言えばいいんだろうか?俺は今でも分らない。

 閣下の死を見届けた人間として、俺はオルシーニの前に立ち、思い出せる限り、すべてを語った。オルシーニはそんな俺に兵をつけて、閣下のご遺体を、家族のもとへ運ぶ役を命じた。あの時は俺も、泣きじゃくって、言われた通りにするので精一杯だったさ。

 だが、いざ閣下のご遺族のもとへ辿り着き、許されて葬儀に参列した時だ。俺は気付いたんだ。閣下の左腕が、無くなってしまったことに。それはもちろん、この指輪ごとだ。この指輪が、二人にとって何であったか、俺は知らないよ。何の約束があったか、なんて。ただ、きっとあの方にとって、これが無くてはならないものだったんだ、という、妙な確信はあった。理由を聞かないでくれよ。そんなの俺にだって分らないんだから。

 それから後は、ご想像にお任せしよう。とりあえずは戦場跡に這いつくばって――まあ、裏社会に入り込んで、色んな修羅場を渡ったさ。もういいだろう?そして今日、俺は、この指輪を見つけたし、対価を用意することも出来たんだから。

 

 店を出たその足で、男は、彼にとって唯一の主君だった女が眠る、墓所に向かった。アースガルドの皇帝ジークフリードは、あの戦が終わった後、故郷ドリアーノに葬られたバルトロメアの棺を、オルシーニの傍らに埋葬し直したのだ。結局、そこ以外天地のどこにも、彼女の居場所など無いのだ、と言って。

 「お久し振りです、閣下。随分、長くかかってしまいましたが――どうにかこれを、取り戻しましたよ」

呟きながら、男は目の前の、質素な墓石に手を伸ばした。一度土に埋められた棺は、ここまで持ってくるには大きかったし、春から夏に向かう季節柄、遺体の損傷も問題になった。故にジークフリードは、バルトロメアを火葬にしている。だから、この土の下に棺は無い。墓石にちょっとした仕掛けがあって、それを使うと蓋が開く。その蓋の下には、遺骨を納めた、小さな箱。男は手を伸ばし、箱を引き寄せて、蓋を開けた。その中の、焼け焦げた白い骨――その中に、指輪を落とす。ことりと、小さな音がした。

 そして男は、墓を元あったように戻すと、立ち上がり、踵を返して、墓所を出た。過去の感傷は終わりを告げ、彼を待つ者たちが、扉を開けている。

「エットーレ」

愛する者が、呼ぶ声が聞こえた。

「キアーラ。遅くなってすまなかった、体の具合はどうなんだ?」

「心配ないよ、なんにも。あんたの子供だもの、丈夫に出来てるんだわ」

キアーラはそう言って、ふくらんだお腹に手をやった。

 そうして二人が寄り添い、見上げる空には、夕映えが広がっている。鳩の血よりは随分薄い、貧しい色の――けれど果てしなく、愛しい真紅の空が。

 

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