「そのひと」に出会ったのは、後にも先にも一度きり、オレンジの花が散り果てた頃、ナヴォーナのオルシーニ邸だった。濃い栗色の髪と、茶褐色の瞳。小さな身体を、地味な薄茶色のドレスに包んで、廊下の隅に立っていた。すれ違えば忘れてしまうような、印象の薄い顔。けれども忘れられないのは、お互いを隔てた立場の差と、その両眼に宿った、あまりに強烈で複雑な、光の色合いのせいだ。

 チェチーリア・ロッシ――それが彼女の名だった。当時まだアンセルミの領主であり、教会軍の有力な傭兵隊長に過ぎなかった、アスカーニオ・オルシーニの妻。そして、五ヶ月の身重だった。その腹の子が宿った時点では、彼女からこんな眼光を浴びる謂れは無かった。

 眼光――それはあまりに烈しく、苦しいものだった。嫉妬、怒り、悲しみと孤独と、それに苛まれる自分を支えようとする誇り。けれどもその誇りこそが、却って逃げ場を奪い、彼女を責め苛むのだ。怒りと悲しみは、何に向けられていたのだろう。愛人という立場の女に?自分を蔑ろにする夫に?与えられた運命に?そのすべてに、色々な意味の感情が寄せられてはいただろうが、すべては彼女自身にも、判然とはするまい。ただ、その眼光を宿すことは、彼女にとって何よりも辛いには違いなかった。

 気の毒に、と思うのは、あまりにもおこがましかろう。詫びる気にもなれない。正妻の立場も、「あの方」の子を産むのだという事実も、何一つ羨ましくは無かった。覚えたとすれば、共感。これもまた、盗人たけだけしい感情ではある。けれども、同じ男を愛して、生き地獄に落ちた女と、これから落ちる女と――そんな意味の、奇妙な共感は、確かにあった。

 無論それは、何の免罪符にもなりはしないが。

 バルトロメア・ミケーレ・ヴェローナは、目礼してチェチーリアの前を過ぎ、廊下の奥の、オルシーニの執務室へと足を向けた。

 

 ウェスタ教会軍――神の代理人の兵士たるこの組織は、名前だけなら、随分古くから存在していた。国境を接するアースガルドやローラントことを構える度に、都市国家の諸侯が同盟を組み、この名の下に集まってきた。

 だが、オルシーニが指揮する軍は、それとはまったく違う。彼が最初に唱えたのは、教会の名の下の、国家統一であった。いわく、小国に分裂しているからこそ、ウェスタはアースガルドやローランにつけ込まれ、軽んじられるのだ、と。同じような領邦国家だったアースガルドの、統一後の隆盛を見るがいい、と。

 だがオルシーニは、ある意味で卑屈に、とても器用に立ち回った。自ら提唱した理念を実現させるのに、人を使ったのである。男の名はジャンカルロ・ベルゴンツィといい、教皇の親族筋で、さる有力都市国家の長であった。そのような男を押しのけて頂点に立つほど、まだ彼は大きな存在ではなかったし、人を纏めるのに、通りのよい名でもなかった。

 とはいえ、ベルゴンツィは武人ではない。従って、実戦はすべて、オルシーニの手に委ねられた。そこでオルシーニは、我が意のままに軍を進め、征服地を広げて、己の存在を揺ぎ無いものにしていったのだ。

 それは無論、最初に唱えた大義名分のためではない。教会ではなく、己の名の下での、ウェスタ統一。それを足がかりにした、聖樹の大陸の制覇。それこそが、オルシーニの野望であった。

 

 執務室の扉を開けると、殺風景な部屋が広がる。その中で、中央奥の卓だけが、書類や書物で雑然としており、その向こう側に、アスカーニオ・オルシーニの姿があった。

「首尾は」

顔を上げることさえ無く、無味乾燥な調子で、言ってのける。それが彼の、いつもの喋り方だ。

「既に情勢は固まっております。あとは時機を計るだけかと」

「兵数は、どの程度確保できる」

「一万五千は」

そこで初めて、オルシーニは顔を上げた。青みがかった灰色の双眸には、抑えきれない焦燥感が滲んでいる。

「…瑣末な数字だ――!」

吐き捨てるように、オルシーニは呟いた。

 それは決して、兵力を軽んじているから、ではない。いや寧ろ、一万五千という数字が、自分にとって持つ意味の大きさは、痛いほど分っている。そして、たかが一万五千に命運を左右される、己の存在の小ささに、苛立っているのだ。

 オルシーニの目は、遠く遠く、野心の赴く限り、果てまでを見通す。とはいえ、心が翔るほどには、現実は動かない。遥か先を見越すが故に、はたと我に返った時、行きたいと場所と、今在る場所の、あまりにかけ離れた位置関係を思う。その隔たりを埋める作業の、迂遠さを呪う。それは殆ど、オルシーニという存在の根源が抱える、苦悩と言ってよかろう。

 バルトロメアは、そのことについては何も言わなかった。代わりに口にしたのは、いたって事務的な、報告事項。何故なら彼女にも、オルシーニの目が捕らえるものが、何であるかは分らないからだ。代わりに、そこと、現在との距離感を感じ取る。そして、その距離を縮めるために、万策を講じる。結局はそれだけが、オルシーニの焦燥を和らげることが出来た。そして、いざ動き始めれば、オルシーニはいつも、活き活きとしていた。無論その中でも、味方の無能さに怒ること、ままならぬ状況に苛立つことはあるが――とにかく動いてさえ居れば、オルシーニという炎は、自分ではなく敵を焼くのだから。

 

 オルシーニが次に狙っているのは、アースガルド側の国境近くに位置する都市国家、ソットサスだ。別にそこが、次に彼の野望が赴く場所だったわけではない。狙いたい土地なら、ほかにあった。例えば、ローラン寄りの商業都市カッペッロ。バルトロメアの生地に近いジェンマ。軍事的に、政治的に、経済的に、ソットサスよりも重要な場所は、まだ幾らでもある。それを、「教会の名の下の統一」「教皇への献上」の名目で征服し、己の支配地を広げていくのが、オルシーニの望むところであった。

 だが、今ソットサスには、彼に叛旗を翻した者たちが居る。その地を支配する、公爵ジョヴァンニ・シレア。その周囲に、ほんの一ヶ月前までは教会軍に名を連ねていた傭兵隊長たち、ヴィンチェンツォ・マラテスタ、ガエターノ・パイジェッロ、ピエトロ・ガッリ、マリオ・ロゼッタ。彼らを処断しないことには、オルシーニは身動きが取れない。

 問題となるのは、ソットサスの立地だ。アースガルドの国境に近いから、聖都ナヴォーナにも、オルシーニの本拠地アンセルミにも、直線距離で近くは無い。だが、ソットサスは街道の要衝だ。その気になれば、北半分のどこにでも駆けつけられるし、その中にはナヴォーナも含まれている。

 加えて不気味なのが、カッペッロの存在だ。オルシーニがこの地を狙っていること、けれどもローランとの密な関係と、弱からぬ国力ゆえに、迂闊に手を出せないでいることは、誰もが知っている。そしてこの土地もまた、街道でソットサスと結ばれている。その気になれば、彼らが同盟を組み、ローランの助力を仰いで、ウェスタ国内を転覆することも出来ようか。

 この叛乱が起こった理由が、如実にウェスタという国の、複雑な成り立ちを物語っている。傭兵隊長たちは、皆それぞれに、小さいなりとも支配地を持つ者たちだ。だからこそ、成り上がり者であるオルシーニに対して、嫉妬も羨望も抱くし、いつかは我が国も滅ぼされるのではないか、という恐怖も抱く。そも、何故同じような出自の男に顎で使われねばならぬ、という不当感。己の立場に対する、誇りもある。領民に対して、良い顔のひとつもせねばならぬ。そこには、大小様々にして無限の、あらゆる利害が存在し、調整するのは不可能に等しい。

 故に、オルシーニは考えてきた。この国には、絶対の支配者が必要なのだ、と。ローランの国王然り、アースガルドの皇帝然り。小領主たちを従え、ウェスタという国と利害をひとつにする者が。それは決して教皇ではない。その立場に就くことが、指し当たってオルシーニの野望の、第一の階梯であった。

 これに対して、オルシーニが執った最初の手段は、カッペッロと接触することだ。使者を派遣し、利害をすり合わせて、彼らが敵になるのを防ぐこと。自分が接触したという事実だけでも、ソットサスを牽制することが出来る。それが出来れば、時が稼げるというものだ。そしてこのような場合、時を稼ぐことは、何にも増して貴重になる。

 オルシーニの目は、反乱者たちの内情を見据えていた。確かに、彼らの利害は、当面のところでは一致している。オルシーニが邪魔だ。だが、その、あまりにウェスタ的な理由で集まった者たちの中には、ウェスタらしいことに、絶対的な主導者が居ない。この際には、それがオルシーニの、最も強力な武器になろう。時を経れば、無理のある同盟は、必ず綻びを生じる。大体、彼らの中には、「オルシーニ後」の展望さえない。ウェスタを旧来のままに保てばいいのか、誰かが主導して、彼らが国を制するのか。

 オルシーニの足場とて、磐石にはほど遠い。近くは教皇庁の枢機卿サンセヴェリーノが、虎視眈々と足元を狙っているし、背後にも身近にも、まだ平定していない都市国家が幾つもある。カッペッロを抑えられたわけではない。その向こう側の、ローランの動静もまた不気味――だがオルシーニは、そのような状況にあって、臆する表情ひとつ見せなかった。寧ろ余裕の構えでナヴォーナに座り、カッペッロの使節を迎え入れたのであった。

 カッペッロの外交官ジャチント・コンティがナヴォーナの門を潜った時、最初に感じたのは、平時とあまりに変わらぬたたずまいであった。人々が行きかい、商売をし、賑やかな人馬の音が響き渡る。城壁の向こうでは、オルシーニが集めた一万五千の兵が、周到に出兵の準備をし、いつでも戦端を開ける状態にあるというのに。何よりも反乱者たちが、じっとしている筈が無い。既に砦のひとつが落とされていたし、次の手も、準備されつつあるだろうに。

 扉を開けて、そこに開けた光景に、コンティは息を呑んだ。場所はオルシーニの私邸。何のことは無い、執務室の光景である。だが、そこに存在していたのは、たかが執務室におさまりきる筈がないと、一目で確信出来るだけの、男女の一対であった。

 男装で、少年のような短い髪。それでも彼女を彼女と認識出来たのは、全身を包む、優雅な色香のせいだ。特に目元の辺りに、背筋が寒くなるような艶めかしさが漂う。卓の近くに控えていた、それがオルシーニの新しい愛人と言われる、ドリアーノ城主ファブリツィオの娘だ。名は確か、バルトロメアと言った筈。

 そして、窓際に立つ、後ろ向きの人影に――コンティは目を凝らした。見えるのは、背中。肩の辺りまでの黒髪、黒と紫の、豪奢な衣装。だが、実際にその眼差しを見なくとも、眼光の強烈さ、そこに顕れる意志の強さが分るような、威厳。その存在が、この部屋の光景を、一幅の絵画たらしめていた。

 「カッペッロの使節が参りました」

バルトロメアの声が、一瞬、凍てついたようになった空気を震わせ、再び動かす。オルシーニは振り返った。目が眩むような感覚が、コンティを襲う。何かを決断する時の表情ではない。にも関わらず、オルシーニの双眸は、彼が予期していたよりも、ずっと深く、強い光をたたえていた。その眼光は、まるですべてを見透かすか、あるいは見下すようでもある。削ぎ落としたように鋭い、浅黒い顔。美丈夫と呼んで構わないだろうが、そうと言い切るには凄みがありすぎる。唯一、それを和らげるものがあるとすれば、無言のままに発せられる、色気のようなものだろうか。だがそれは、却って彼の存在を大きくしている、とも思える。

「カッペッロ外交官の、ジャチント・コンティと申します」

とりあえず自分を失わないために、コンティは声を出した。

 だが、次に投げかけられた言葉が、再び彼の平常心を揺るがす。

「本題に入れ。カッペッロは教皇庁の慈悲を必要とするのか、否か」

形どおりの外交辞令さえ、オルシーニは無駄と斬り捨てたのだ。そして、実質はともかく、この国の中での自分の立ち位置を、僅か一言で表して見せた。教会軍の、有力な傭兵隊長。背後には教皇インノケンティウス十三世という、無実だが大きな名を背負っている。アンセルミ領主アスカーニオ・オルシーニを叩き潰すことは容易いが、教会を敵に回すのは得策ではない。それは、神の名の下に統治されてきたこの国では、空の青さと同じくらい、当たり前のことだった。

 この一言で、オルシーニはカッペッロの立場を決めた。ソットサスの叛乱者たちが目指すのは、あくまでオルシーニの首であり、教会ではない。それどころか、教会軍でさえない。だが、オルシーニはカッペッロの前に、その三つは不可分であると、示して見せたのだ。対オルシーニだけなら、ソットサスとの同盟の可能性を残していたカッペッロは、この一言だけで完全に、二つの未来のうちひとつを断たれたのである。

「私は諸君に、信頼を求める。与えられたものには、等価を返そう。だが、それが叶わぬとあれば、教皇領の安全のために万策を尽くさねばならぬ。その過程において、諸君らにどのような不利益が起ころうとも、私の関知するところではない」

鮮やかな先制の一撃に始まって、条件提示、最後は恫喝――その言葉の連なりは、流れるように自然でありながら、反論を許さぬ強さに満ちている。

 コンティとて、素人ではない。国の舵取りを任された、外交官である。だが、彼はこの日、殆ど会話の主導権を握ることなく、オルシーニの思う様に交渉を進めさせられ、この件に関する恭順を誓わされたのであった。

「喋ったとて無駄なことだ。諸君らの言葉如きで、私の利害は変わらぬ。であれば、取るべき道もまた、定まっている」

会談の終りに、オルシーニはごくさりげなく、そう言った。それは極上の優雅さを伴なった言い回しではあったが、同時に悪魔の如く凄惨で、情け容赦ないものであった。

 

 オルシーニに、そのような強気を取らせた原因は、実は部屋の外にあった。教皇に働きかけて出させた、ローラン国王ニコラへの親書である。その書面には、教皇が今回の叛乱に心を痛め、早期解決を願う旨を綴ってある。そして、内輪のことゆえ、手助けは無用であるとの、異例な一文で締めくくられる。これで、ローランは手を出してこない。権力は無くとも権威は持つという教会の特性を、オルシーニはよく知っていた。

 そして、これから先の三ヶ月間、ウェスタの人々は、アスカーニオ・オルシーニという若き才能の悪辣さと鮮烈さを、見せ付けられることになる。

うっすらと瞼を開けると、世界はまだ仄明かりの中にあった。窓の外はすべて霧に沈む、ユグドラシルの夜明け前だ。

 起き上がろうとして、バルトロメアは、自分を絡め取ったままの、太い腕の存在を思い出す。傍らに横たわるオルシーニは、決して眠りが深い方ではないが、今は目を覚ます気配とて無い。こういう形で朝を迎えるようになって、かれこれ三ヶ月になる――

 過去も、現在も、そして未来においても必ず、バルトロメアは彼の、唯一の女性というわけではない。この三ヶ月の間でさえ、忙しく動き回って彼の側に戻れない間に、情熱のはけ口として求められた女が、何人か居た筈だ。それはこの先も、変わることは無いだろう。そのような状況にあって、素直に自分の立場を信じていられる、己の能天気さに、バルトロメアは時折、呆れることがある。自分以外のすべての女を使い捨ててきたオルシーニが、いつか自分をも使い捨てるに違いない、と思うのが、常識的なものの考え方だろうに、と。

 けれどもバルトロメアには、自分と、彼女たちの間にある、決定的な違いが、幾つかは見えていた。端的に言えば、自分以外の女が、こんな風にオルシーニの寝顔を見つめること、抱き合ったまま朝を迎えることは、決して無い。信頼しても居ないものの傍らで意識を失うほど、彼は愚かではなかった。だからこそ、ことが果てれば、それが真夜中であっても、立ち上がり、残されるものには目もくれず、あるべき場所に戻る。それゆえに、名に聞こえた漁色家ながらも、オルシーニに対して色仕掛けは無意味であった。

 彼がこれまで、多くの女を求めてきた理由は、ひとつしか無い。我が身を焼き尽くさないためだ。その精神と肉体には、人並みを遥かに外れた力が宿り、野望の翼はすぐにでも天翔ける強さを秘めている。けれども、現実は遅々として動かず、心のままに動くことを、彼に許さない。オルシーニのうちに宿る炎は、行き場を失って、彼の中で暴れ出す。抑圧され、鬱屈した情熱をぶつける場所が欲しい。それが、漁色の正体だった。

 それとは違う形で彼と向き合う女が、ただ二人、この世に存在する。一人は妻のチェチーリアで、彼女には、オルシーニに権力を与える政治的な存在意義があった。そして、彼の血統を残すという意味も。けれどもオルシーニは、彼女には最低限の礼だけを尽くして、慇懃無礼に、放置した。そしてもう一人、ここに自分が居る――その罪深い事実を、バルトロメアは何よりも尊いと思っていた。

 

 オルシーニがカッペッロの外交官コンティを追い返してから、一ヶ月が過ぎている。その間、実に多くの書簡が行き交い、人が走り、ナヴォーナとソットサスを結んだ。オルシーニが手駒に使ったのは、教皇庁で秘書官の職にある、パイジェッロ公爵家の次男フランチェスコであった。事実として、フランチェスコは教皇庁に叛旗を翻した父の行為に心を痛めており、調停のために心血を注いでくれた。オルシーニはオルシーニで、もしも彼の心に報いたならと、幾つもの褒章を約束し、餌をちらつかせておいた。

 時間は必ず、己に味方する――危険な橋を渡りながら、ただひとつ、オルシーニが絶対的な信を置いていたのは、この考えだった。時を積み重ねることによって、自軍の力を増すことは出来ないが、減ることはない。そして、相手の力は、確実に落ちる。これ以上、同盟の輪を広げられないように、手だけは打ってあったからだ。あとは内紛の種を蒔けばいい。どれが芽吹くかは分らないが、叛乱軍は良い土壌であると、見抜いていた。

 そのために働く、種蒔き男を演じるのが、フランチェスコ・パイジェッロであった。善良で真面目なだけの人間で、オルシーニから見れば、唾棄すべき無能者ではあったが、とにかく叛乱軍に名を連ねた父の説得に、死力を尽くしてくれた。それ以上のことは望むまい。何しろ、彼の行動それ自体が、既に「種」なのだから。

 無論、叛乱軍とて、ただ喚いているだけではない。傍から見れば、オルシーニは実に危ない橋を渡っていた。今、彼が居るのは聖都ナヴォーナだが、本拠地のアンセルミへ続く道は、叛乱軍によって遮断されており、当然ながら、勢力も二分されている。そして、本拠地にある方の兵力は、彼無しには動けない。

 何よりも、彼らは街道を押さえていた。その機動力で、ナヴォーナ防衛の要になる砦を、ひとつ落としている。今はまだ「点」を確保したのみで、「線」にも「面」にもなってはいないが、状況さえ整えば、オルシーニは喉元に刃を突きつけられる格好になる。

 傍目に見ているぶんにも、オルシーニは随分、上手く立ち回った。実際のところ、その巧妙さは、後になって全体を見渡した時、より一層の悪辣さを見せるのだが、この時点に置いて、状況を鳥瞰していたのは、オルシーニただ一人であった。

 やりたいことは、はっきりしている。叛乱軍を潰すこと。ただ勝つだけなら、やり方は幾らでもある。だがオルシーニは、ただ勝つ程度では満足しなかった。この不愉快な現実を、最大限に利用して、己の立場を強化したかったのだ。

 そのために、この時点でしたことは三つ。一つは、叛乱軍相手の和平工作。こうひとつは、これを機に、自分に不利益を働きそうな者への牽制。そして叛乱軍には、拮抗した勝負が続いている、との錯覚を与えること――

 

 「やはり、状況はそう、易々とは好転せぬな」

低く豊かで、豪快に響くその声に、オルシーニは上辺だけで聞き入った。声の主は、形の上では彼の上役ということになっている、ジャンカルロ・ベルゴンツィである。声と同じように、分厚く頑丈な体つき、それを裏切らぬ、骨ばった四角い顔だが、頬から顎を包む豊かな髯が、全体の印象を柔らかく、愛想の良いものにしている。

「和平工作を続けてはおりますが、捗々しくなく…力が足りず、申し訳ない」

言外に「愚物が」と呟きながらも、無礼に落ちないぎりぎりの慇懃を保って、オルシーニは返した。何はなくともベルゴンツィの名前は、彼にとって利用価値があったのだから。そして、この立場に甘んじることも、そう長くないと、分っていたから。

「戦力さえあれば、正面切って一戦の上、粉砕してしまえるものをな」

この豪放さ、単純さとも善良さとも言えるものが、ベルゴンツィの生まれ持った性分であった。それが、ひいてはオルシーニにとっての利用しやすい部分になったし、邪魔に思う部分でもある。

 ここでベルゴンツィは、更なる愚を犯した。

「そういえば、奥方は変わりないか。あと、三月ほどであったと思うが」

元来、あけすけで他人の心に踏み込むことにも躊躇を感じない人間である。オルシーニの、愛着の一片さえ無い家庭を覗き込むことさえ厭わない。こういう手合いを、オルシーニは、無能の次に憎んでいた。

「多忙ゆえ、このところ顔を見ておりませぬ」

とりあえず口にしたのは、嘘ではない最低限の言葉。

「相変わらず、冷淡だな。まあ、貴公は奥方以上の女も、よく知っているだろうからな…」

と、品の無い笑みを浮かべる。オルシーニは一瞬、足元の床を踏み抜きたい衝動に駆られた。

「とはいえ、大事な世継ぎが生まれるやも知れぬ。そこは気になるところではないのか」

適当に相槌を打ちながらも、オルシーニの耳には、次第にその、野太い声が届かなくなっていった。

 チェチーリア――その女の存在を、オルシーニの中で意味づけるのは難しい。有力な枢機卿の姪である彼女は、多大に政治的な意味を持って、彼に嫁いできた。あの頃、彼女故に、オルシーニは教皇庁の人間や、その他の多くの諸侯から、あからさまな白眼視を逃れ、発言権を手に入れ、成り上がりの足がかりを手に入れた。けれども、あの女が妻として在ることに、何の意味があるのか――不愉快に思うほどの女でもない。彼の前で差し出口をきくほど愚かではなかった。といって、それ以上の力で彼を惹きつけるものも持たない。恐らく、彼が自ら求めたなら、決してめぐり合わないような、小さな存在。それがチェチーリアだ。

 世継ぎ、という言葉さえ、オルシーニには遠い。彼はまだ十分に若く、野心に溢れて、自らが老いることなど予想だにしない。いつか、血縁というだけの理由で、己の覇業を継ぐ者が現れると言われても、ぴんとこなかった。何よりも、この手で成し遂げたいことこそあれ、それを誰かに残したいなどと、考えたこともない。

 それよりも、オルシーニの目は深く、卓上の地図を見透かして、いつしかウェスタの国土を見下ろし始める。浮かび上がるのは、ナヴォーナとソットサス、そして街道の道筋――そろそろ、動き出してもいい。

「街道を、封鎖しましょう」

その重大な一言は、あまりに静かに言い放たれた。

「正気か?」

ベルゴンツィが、その大きな目を剥く。けれどもオルシーニは、地図に目を落としたまま、そちらに一瞥を与えることも無い。

 ベルゴンツィの驚きは最もだった。ウェスタ全土を結ぶ街道の、要になる交差点を、ソットサスは占めている。そこを閉ざせば、即ちウェスタ全体の物流が滞る。

「代替の道はこれを。日干しにされれば、連中とていつまでも虚勢を張って、和平を拒否することも出来ぬ筈。ソットサス事体には、生産能力は無い。万に一つ上層部が耐えたところで、住民がもたぬでしょう」

いつしか地図上には、街道の封鎖箇所と、その代わりに通る、今はあまり用いられなくなった旧道が、朱で記されていた。

「…一理ある。相変わらず、貴公のなさりようは、鮮やかだな」

その、些かならず間抜けた返事に、オルシーニは、冷笑する価値さえ見出せなかった。

 

 実際には、現実は鮮やかどころの騒ぎではない悪辣さで進んでいた。オルシーニがベルゴンツィと、さして意味も無い会話を交わしていた、ちょうどその頃には、街道の封鎖は始まっていたのである。

 封鎖の指揮を執りながら、バルトロメアは痛感した。オルシーニが、いかに巧妙で、勇敢であるか。

 いかに代替の道を作るとはいえ、国を網羅する街道の要を、閉ざすのである。ソットサス以外の地域も、そう長くはもたない。だが、この際必要なのは、叛乱軍を追い詰める時間だけであって、それ以上、こちらまで我慢する理由は無い。その二つを、分けて考えられない人間が、世の中には多いのだ。街道の要だから、というだけの理由で、ソットサスに拠る人間、あるいはそこに手を出せない人間が。

しかしオルシーニは、状況を個々に分析し、総合する頭と、導き出した結果から、直ちに行動を起こす強い心を、持ち合わせていた。

 しかし同時に、バルトロメアはひとつのことを恐れている。あの悪魔の頭脳が、ただ勝つだけのことを、求める筈が無い。ひとつの行動を起こす時には必ず、三つも四つもの成果を求める貪欲な男だからだ。とりもなおさず、この叛乱によって、オルシーニの行動は大きな制約を受け、多額の金銭を、多くの兵士と物資を費やさざるを得なかった。その復讐をも、オルシーニは望んでいる。

 そしてそれは、ソットサス以外の所で求められるのではないか――その予感が、バルトロメアを捕らえて離さなかった。

「だが、私は一体、何を恐れるんだ――」

気がつけば、粟肌立っている自分が居て、細い身体を、両腕でしかと抱きしめていた。そうでもしなければ、こみ上げる震えを抑えきれない。

 復讐の血祭りを、恐れるのではない。二十歳前から、小さいとはいえ、一国を背負ってきた身だ。叩かずとも埃は出るし、返り血の染みなど、最早消そうとも思わない。だが、ひとつだけ――策謀を用いて人を陥れたことが、バルトロメアにはまだ、無かった。オルシーニが求める犠牲の血。それは、恐らく自分の手で捧げねばならない。何故ならそれは、彼の生命線になりかねない、重大な秘密であり、分かち合えるとすれば、バルトロメア以外に無いからだ。

 オルシーニの側を、離れないと誓った。彼のためならば、命以上のものを捧げられると、信じてきた。だが、いざ心を切り売りする段になって、バルトロメアは戸惑っていたのである。本当に自分に出来るのか、ではない。することは決まっている。罪を抱えて生きていくことが、だ。

 伝令が走ってくる。作業の完了を報告され、撤収の指示を出しながら、バルトロメアは思い知る。何もかもが、動き出していることを。そしてオルシーニの強さを想った。彼には、自分など及びもつかない罪業が、深く、数多く刻みついている筈。それをものともせず、野望のためならすべてを尽くす――その強さが、羨ましかった。

 

 吹き荒れれば止まらない現実の嵐は、あっというまにウェスタ一国を席巻し、バルトロメアの逡巡を飲み込んで、ただ一人にしか分らない勢いで、終息に向かいつつあった。

 街道を封鎖した当初、オルシーニはこともなげに、呟いたものだ。「一ヶ月もてば、褒めてやろう」と。それは厭味なほど正しい読みであり、叛乱軍は、三週間をすこし過ぎたところで、音を上げた。その時オルシーニは、手勢を率いてソットサスに最寄の砦まで来ており、和平交渉を求める文書に、刃のような鋭い笑みを浮かべた。

「…私の勝ちだ――」

その一言は、既に確信に満ちていた。

「敵に気づかれぬように、出兵準備を整えておけ。私に歯向かった者の末路を、見せつけてやりたい」

そして、同じように冷たく、こう言い放つ。それは決して、目には目をというような考えではない。必要とあれば、自分に何をした人間であろうとも、何らかの形では、生かしておく。今回はそれよりも、血祭りに上げるほうが効果的だと、オルシーニは言っているのだ。彼に敵対することが、どれほど危険で愚かなことか、ウェスタ全体に、思い知らせるために。

「それから…」

続く言葉を、もうずっと前から、バルトロメアは知っていたような気がする。振り向いた眼差しと、青みがかった灰色の、凍てつくような色がぶつかり合い、澄み切った音を奏でる。その音の、あまりに冷徹で澱みない色が、バルトロメアを震えさせた。

「和平交渉が終わる間に、お前にひとつ、やってもらいたいことがある…」

いつもと同じ、無味乾燥な口調だが、流れる時間が悪夢よりもなお遅い。

「ベルゴンツィを殺せ」

投げつけられた言葉が、心に深々と突き刺さり、鮮血が迸る様を、バルトロメアは確かに、その目で見た。その色は不吉を通り越して美しく、生涯忘れえぬものに思われた。                                 

つぎへ

inserted by FC2 system