フェリックスが、久し振りに「実家」の扉を叩いたのは、戸外が春めいてきた、三月も末のことだった。聖樹の根元での戦が終り、帝都に戻ってすぐ、下宿を探して家を出て、しばらくは顔を出さなかったものだが。

「ヴェンツェル、居る?」

ひょっこりとやって来て、開口一番に、恐る恐るの風情で問いかける。

「いや、留守だけど」

赤ん坊を寝かしつけ、裁縫をしていたザビーネが答えると、フェリックスはあからさまに安堵の息をついた。

「良かった。ちょっとさ、あんたに相談があって…ヴェンツェルには聞かれたくなかったもんだから」

言わなくてもいいことまで正直に白状してしまう、その性分と表情は、大人になったとはいえ、まだ青さを残している。その辺りが、ザビーネには好ましく思われた。

「相談?わたしに?」

けれども、彼がこんな形で自分を頼ってくるのは、初めてのことだ。

「助けてくれ、ザビーネ!俺、女心ってわかんないよ!」

短い息をつくなり、フェリックスは一気に言い放った。

 

 ことの発端は、これより三ヶ月前に遡る。

去年の戦での傑出した働きが認められ、正式に騎士の叙任を受けたフェリックスは、ゲオルグの「副官のまた副官」のような立場で働いていて、宮殿に出入りすることも多い。その日もちょうどそんな具合で、ゲオルグの執務室へ食事を届けた後、知り合いの兵士の顔を見に、番兵の詰め所へと足を運んだ時だった。

目指していた部屋の扉が、わざとらしいくらいの勢いで跳ね開けられて、中から数人の兵士が転がり出てくる。

「はい、さっさ出て行ってください!ここからは、あたしの持ち時間なんですからね。終わるまで、戻ってきたら承知しませんよ!」

廊下に響く甲高い声は、十代半ばの少女のものと思われた。

 面白半分に、扉の影から中を覗くと、柔らかい茶色の髪を布でひとつに纏めた、小柄な少女が腕まくりをしていた。

「あのー…ここ、掃除中?」

随分と気合が入った後姿だったので、心なしか気圧された。恐る恐るといった具合で声をかけると、箒を持ったまま、少女が振り向く。

「ええ、そうですよ!聞こえませんでした?」

振り向いた瞳は、晴れ渡った空のような鮮やかな青。一瞬、その色に見入ってしまう。

「ごめん、聞いてなかった。俺ここの持ち場じゃないからさ。随分広いけど、一人でやるの?」

「そうですよ」

そう言った少女の微笑みは、どこか誇らしげにも見えた。

「お役目ご苦労様です」

その笑顔には、そんな軍隊式の挨拶が、何だか相応しく思えた。

 

 「…で、その女の子に一目惚れしたって?」

詰り詰りにフェリックスが語り終えると、ザビーネはそれほど間を置かず、きっぱりと尋ねた。

「そこまで単純じゃないよ」

しかしフェリックスは、年よりは幾分幼い表情を浮かべて、昔、一目惚れした相手に言い返す。

「たださー、可愛いなと思って。後で番兵やってる友達に聞いたら、名物娘なんだってさ。ほら、陛下のお達しで、戦で身寄りを亡くした人間は、優先的に城とか役所で雇うってのがあるじゃないか。あれで、一年くらい前から城の掃除婦になったらしいんだ」

それを一目惚れというんだよ、という言葉をお茶と一緒に飲み下してから、ザビーネはすこしだけ、悪戯っぽい微笑を浮かべた。

「名前は何ていうの?」

「エーファ」

「そう、女の子らしい、可愛い名前じゃないか。顔立ちはどんな?」

「あんたのほうが綺麗だよ。なんてこと無い顔。でも見てて安心する」

「気の強い子なんだ?」

「まあな。けど、蓮っ葉じゃない」

喋るうちに、フェリックスが落ち着いてくる。頬に上っていた血が下がって、年相応の、ややつっけんどんな声の響きが戻ってきた。

 そこでザビーネは、一気に核心をついてみた。

「それで、今どこまでいってるの?」

ところが、この一言が、すべてをひっくり返してしまった。フェリックスは、飲みかけのお茶を吹きこぼしかけてむせ返り、派手に咳き込んで、テーブルに突っ伏した。

「ど・ど・ど・どこまでって…」

まったく、何を考えているのやら。ザビーネは軽く肩を竦めたが、彼女にこのての話題で呆れられたくないものだ。

「ちょくちょく顔を出して、世間話をしてるくらいだよ!何もしてない!」

偉そうに言うことじゃないよ、とザビーネは心の中で呟いた。自分の過去は、この際、どうでもいいらしい。

「…という状況で、何の相談?」

「いや…だからさぁ」

フェリックスは言葉を濁す。

「女性の立場として。これから先、俺がどうしたら、彼女にとっていいのかなって。今のところ、そういう雰囲気はこれっぽっちも無いしさ。この場合、俺が黙ってれば、当分平和だろ?その方がいいのかな。それとも、はっきり言ってさっさとかたをつけた方がいいのかな?」

十四、五の子供じゃないんだから、と、ザビーネはすっかり自分のことを棚にあげた呟きを、心の中でこぼしながら、すこし考えた。

「わたしは、その彼女じゃないから、断言は出来ないよ。ただ…お前の気持ちがはっきりしているなら、言ってしまうのに早すぎるってことは、無いんじゃないかな?そのひとことをきっかけに、彼女が考えてくれるかもしれないし、運悪くそれですべてが終わってしまっても、一年後よりは今のほうが、傷が浅くて済むと思うよ。ただ…いずれにしても、お前とその子のことなんだから、話をしながら、相手の心をよく、推し量ってご覧。それで考えるしかない」

それは、一般論の範囲の話に過ぎなくて、きっとわざわざ、彼女に相談する必要も無かったくらいの当たり前な答えだった。

 けれどもフェリックスは、ふんふんと真面目に頷きながら聞き終えると、すっきりした笑顔を浮かべて、立ち上がった。

「うん、分った。時間取らせてごめん」

立ち上がったフェリックスの背の高さに、ザビーネはすこし、驚いた。春先から殆ど変わっていない筈なのに、今ほど意識したことは無かっただろう。

「ありがとな」

と、すこしぶっきらぼうな調子で言ってゆく、その口調がどことなく、ヴェンツェルに似ていた。

 

 ところでフェリックスは、帰りしなに、一番大事な一言を言うのを忘れた。つまり、「今の、ヴェンツェルには内緒な」――と。

 そんな具合で、その夜は比較的早めに帰ってきたヴェンツェルは、食事の後でことの大筋を聞くと、ふん、と面白くも無さそうに頷いて、グラスの葡萄酒を干した。

「感想は?」

憮然とした顔に向かって、ザビーネが問いかける。

「面白くない」

返答はいたって簡潔だった。

「どうして?」

明らかに興味本位のていで、ザビーネは夫の双眸を覗き込んだ。

「…惚れたも腫れたも、好きにするがいいさ、あいつもそういう年だからな。だが、何で俺じゃなくて、お前のところに話が行くんだ?」

出てきた本音は、ごく他愛も無い。

「見栄、じゃないのかな?お前だって、父上様に、弱みの話なんてしないだろう?」

「あれと俺を一緒にするな!」

混ぜ返すほどにどんどんと、そんな子供っぽい表情が溢れて零れる。そんな瞬間が、ザビーネはとても好きだ。

 だから、最後にもうひとつ、特大の一撃を加えるのを忘れなかった。

「いいじゃないか、むくれていられるうちが華だよ。まだ先の話だけど、アンゲリカが誰か連れて来た節には、怒り狂うに決まってるんだから」

予期せぬ意地悪に、ヴェンツェルは一瞬、目を白黒させて、二杯目の酒を吹きこぼしそうになった。実の子でもないくせに、こういう時の表情も、フェリックスは受け継いでいる。

「…勘弁してくれ」

特大の溜め息をつきながら、ヴェンツェルは腕を伸ばし、妻の手から愛娘を貰い受ける。まだお座りも出来ない掌中の珠を手放す日の話など、今からしたくないものだ。

「それで、フェリックスには何て言うの?」

さりげなく、ザビーネはそこで、会話を戻した。

「知らん。あいつが勝手にどうとでもすればいい。俺がしゃしゃり出る話じゃないだろう」

この台詞は、いじけたわけではなくて、彼のいつもの口ぶりだった。

 

 フェリックスが、勝気で可愛らしい花嫁を射止めるのは、これから更に、二度目の春の出来事である――

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