北国の輝ける夏も、夜になればすべてを霧と闇が包み、眠りの底に沈む。その片隅で、ザビーネは未だ眠りに就けぬ身を抱えていた。

 七月の終りの一日は、何しろ長かった。前日に、一日かけて家の片付けと引越し。そして今日は結婚式。祝宴は午後からと言うのに、早朝から引っ張りまわされて、息をつく暇も無かった。宴が果てて、やっとのことで家に戻ったのは、ほんのすこしだけ前のこと。昨日まで住んでいた、小さな家ではない。夫になった人の家。今までその人と、その妹、養い子の三人が暮らしてきた家だが、今夜ここに居るのは、夫婦二人だけだ。妹は、これを機会に実家に帰ると言って、荷物の運び出しも済ませている。養い子は、邪魔だから、とか何とか言って、何故かアルベルトが連れて帰った。今頃、深酒につき合わされているだろうか。

 装身具の類を外して化粧を落とし、次に考えたのは――失敗した、ということ。多忙な公務の合い間の慌しい引越しで、荷物は運び込んだだけ、荷解きもそこそこなのだ。必要最低限のものだけ、とりあえず箱に入れて、寝室に置いてあった筈。ここでは着替えようが無い。階上で待つものが何だか分っているだけに、ザビーネは途方に暮れた。この格好で、つまり花嫁衣裳のままで行くのか、と。往生際が悪いのは、承知している積りなのだけれど…

 

  扉を開けると見えてくるのは、何のことは無い、寝室の風景。一番奥に寝台があって、その端に、ヴェンツェルが腰掛けている。寛げた襟元から、素肌が覗いていた。

「一日、お疲れ様」

立ち上がりながら言う様は、まるきり余裕そのもので、憎らしいくらいだ。けれどもザビーネは、広げられたその腕に、すっぽりと収まってしまう。広い胸の温かさが、晩夏の冷えた夜気には快い。そこはもう、何百回と無く身を預けてきた、彼女の安らぎがある場所だった。 

 自然に、安心と幸福感がこみ上げて、深い息をつく。そこに柔らかく、口づけが落とされた。そこまでは、いつもと同じだったけれど――その唇は驚くほど貪欲で、注ぎ込まれる熱に、一瞬気が遠くなる。相手の首に回した手に力を込めたいが、どうしても入らなかった。蕩けてしまいそうな心と身体が、ふわりと抱き上げられる。気がつけばザビーネは、寝台の上に居た。

 

 初めての夜を、人は儀式になぞらえる。けれどもヴェンツェルには、どうしてもそうは思えなかった。純潔の花嫁を目の前にして、ある程度厳かな気持ちになることは認める。けれども、そこにあるのは飽くまでも、ない交ぜになった、愛と欲。欲しいと思う気持ちと、慈しみたいという願いと――偽りの無い、あるがままの営みでしかない。

 蝋燭の炎に照らされた薄闇を透かして、ヴェンツェルはザビーネに見とれた。夜を切り取ったような豊かな黒髪、繊細な、優しい線で描かれた面輪、しなやかな身体の曲線を包む、純白の花嫁衣裳――それはライヒェンタール夫人の見立てだったが、まったく見事なものだ。遠目にこれといった飾りは無いが、間近で見ると、緻密に織り込まれた花の模様が浮かび上がる。本人はその下の、胸の膨らみが小さいのを気にしているが、厭らしさが無く、清楚なドレスには相応しく思えた。そして、襟も袖も無い、ごく単純な形の身頃が、却って首や肩のすらりとした線を際立たせる。細身に見えるスカートは、動いてみると信じられないほどの分量があって、幻のようにドレープが広がる。最初は目で、それから掌で、ヴェンツェルはそれらすべてを、ゆっくりとなぞっていった。

 触れてみてすぐに分るのは、表面に浮かび上がる震えは無いが、身体の内側は強張りきっているということ。無理も無い。

「流石に怖い、か――」

意地の悪い呟きだ、と我ながら思った。実際、輝く菫色の瞳は、恨みがましい色をたたえて、真っ直ぐにこちらを見つめている。

「…悪かった」

そのあまりの一途さに、思わず笑みが零れる。そして、年齢に不釣合いなほどの幼さに、ほんのすこしだけ、罪悪感が疼いた。

 二度目に唇を重ねたのは、ザビーネの方からだった。言葉などとうに干上がり、何をしていいかも分らないまま、という風情ではあったが、矢鱈と必死な様子が、どうしようもなく可愛い。無理をするな、と言いかけて、ヴェンツェルはその、あまりの欺瞞に腹の底で苦笑し、黒髪の向こう側の、細い首筋に手を伸ばした。

 このドレスの間違いない特徴は、釦が背中に一列に並んでいて、それも目立たないようにかなり細かい代物なので、一人で脱ぎ着するのがまず無理だ、ということ。仕立ててくれたライヒェンタール夫人の、明らかなお節介だと思われた。釦が外れて、背中に指が触れた途端、細い体が大きく震える。すべてを解き放つにはそれなりの手間を要したが、最後には、羽根のように軽やかな絹地が、はらりと滑り落ちた。

 露になった前を掻きあわせようと、咄嗟に動いた細い手を、握りこんで布団に縫い付ける。

「いやだ…っ」

やっとのことで解放された唇から、力なく零れる抗議の言葉。当然ながら、取り合ってやることなど出来ない。握り合わせた掌に、すこしだけ力がこもったのも、同じ意味だろうか。

 手だけは合わせたまま、すこし身体を離して、露された白い曲線を目で追いかける。

 色が白いのは、じゅうじゅう承知していた積りだったが、恐らくは長い時間、日の光など浴びてこなかった肌の色は、血の色が透けそうなくらいだ。ほんのすこし歯をたてれば、容易に破れてしまいそうな、薄くて肌理の細かい皮膚。彼女を形作るすべてが、痛々しいほど華奢で、細い。その身で戦場を渡ってきて、白い肌に刻み込まれるほどの傷を受けてこなかった――そのことについては、ただ神に感謝したい気分だった。

 唯一の例外は、背中にある、大きな刀傷だ。二人を結びつけた事件の名残だが、消せるものなら消してしまいたいと、ヴェンツェルは何度も思った。それは、彼女の細い背に刻まれるには、あまりにも過酷すぎると。

 ふいに、伏せられて震えていた瞼がひらいて、笑みに似た柔らかい光が、そこに宿る。それがヴェンツェルに、一瞬息苦しくなるほどの、激しい愛おしさを呼び起こした。繋いだ手を引き寄せて、細い身体を抱きしめる。早鐘を打つ鼓動が重なり合って、やがてゆったりと、ひとつに溶けた。

 胸元に何か、冷たいものが零れたのは、その時だった。それが涙であることは、見なくても分った。

「どうした?」

「何でもない…莫迦なことを考えただけ」

自分の胸に顔を埋めたまま、ザビーネは震える声で返した。先ほどまでの、緊張に強張った声ではなくて、自分でも抑えきれない感情に、負けそうになる時の声だ。

「莫迦なこと…?」

「…ここを通り過ぎていった、女の人たちのこと」

それは多少、意外であり、耳が痛くもある返事だった。確かに、ヴェンツェルの腕を通り過ぎていった女の数は、両手の指に余る。

「妬いてるのか?」

「…それも、ある、かな――でも、そうじゃない」

ザビーネは顔を上げた。双眸は涙で膨らんで、今にも溢れ出しそうに見える。

「ただ、私の前に、ここに居た人が何人も居て…私の後にも居るんだろうなって、急に思ったんだ。私はきっと、お前を置いて逝くだろうから――そうしたら、急に寂しくなった」

その一言は、ヴェンツェルの心に、冷たい痛みの感覚を呼び起こす。それは確かに、いつの頃からか、彼の内に芽生えた恐れを、正確に言い当てたものだった。ザビーネは身体が弱い。本当は、戦場など駆け回るべきではないし、それをやめたところで、恐らくは老境を迎えることなく、天上の王国へと翔り去るだろう。それはもう、揺るがし難い未来に思われて、一瞬、ヴェンツェルは言葉を失いかけた。だが、黙りこくる前に、伝えたいことがある。

「お前で最後だ」

例えその日が、明日だとしても、まだ何十年かは、先のことだとしても。

「確かに、お前より前に、ここに来た女は何人か居る。本気で愛した女も居たし、伴侶に望んだ相手も居たさ――だが、俺が最後に選んだのはお前で、妻と呼ぶのは、後にも先にも一人きりだ――」

菫色の瞳に浮かんでいた涙が、頬を伝って零れ落ちる。

「それからもうひとつ」

多分、これが一番の本音。

「せめて、ここに居る間だけは、余計なことは考えるな。俺のことだけ、見て、考えていろ」

それはまるで、百凡の小僧のような、我儘な願いで――ザビーネの口元に、優しい笑みを浮かばせる。

「子供みたいなことを言う」

明日の朝、この部屋を出る頃には、お互いのことよりも、待ち受ける仕事のことばかり考えなければならないと、分りきっているのだけれど。

「子供、か…そんなものだ、男とは。惚れた女の前では、特に――知らなかったのか?」

艶やかな黒髪が揺れて、小さな頭が、かすかに横に振られた。

「嬉しい――」

幸福に満ちたちいさな呟きが、細かな煌きを放ちながら、夜の底に沈んでいった。

 

 

 

 

 扉を開けると、垂れ込めたままの重い空気が「まだ何も終わっていない」と教えてくれる。振り向いた女中のヨハンナも、ただ力なく、かぶりを振ってみせる。唯一救いだったのは、愛娘のアンゲリカが、曇りの無い笑顔で、飛びついてくれたこと。

この娘が生まれてきた時も、悪阻は重かったし、決して安産ではなかったと聞く。しかし、二度目となる今回は、すべてが上手くいかなかった。悪阻は前回に輪をかけて重くなり、長く寝付いた。そうして体力が落ちたところで、一度は赤ん坊が流れかけたし、今にしたところで、八ヶ月と半分ほどだ。あることとは言っても、やはりまだ早い。

そして、医者と母親が苦闘を始めてから、既に丸一日以上が過ぎている。無限と思えるほどの長い時間が、ヴェンツェルには耐え難かった。生みの苦しみという言葉を、人は軽々しく使うが、きっと自分は二度と口にしないだろうと、真剣に考える。聞こえてきたのは、搾り出すような、苦しい悲鳴。あの声に値する痛みを、彼は味わったことが無い。ひとつの小さな命を、この世に送り出すために、あのかぼそい妻が、これほどの苦しみを味わわねばならないとは。

挙句に、一度始まった苦痛は、いつ果てるともなく続き、日が暮れて、夜が明け、また夕闇が訪れた。誰も何も言わないが、最悪の想像が、何度も頭に浮かんだ。

「とーさま、いたいよ」

腕の中で、アンゲリカがむずかる。抱き上げた腕に、力が入りすぎていた。

「悪かった」

強いて微笑み、母親譲りの艶やかな黒髪を撫でてやる。

 その時だった。階段を下りてくる足音に、全員が背筋を強張らせ、居住まいを正して、息を呑む。けれども、現れたのは医者ではなく、その若い助手。しかし、その腕には、白い布に包まれた、小さなものが息づいていた。

「女のお子さんですよ」

何気ない一声が、一気に家中の緊張を解き放った。

 布の塊から顔をのぞかせるのは、まだ人の子ともつかぬ、赤くて小さい、弱々しくも健やかな生き物。けれども、血を分けた我が子という以上に、何か不思議な愛しさを感じさせるもの。

「お前の妹だぞ、アンゲリカ」

今しがた「姉」になったばかりの上の娘を、抱き上げて見せてやる。

「かわいくない」

二歳の幼児は、至極正直にそう述べた。それもまた可愛いと思えるのは、親の欲目であろうか。

 そこでヴェンツェルは、もうひとつの大事なことに思い至る。

「母親は?」

「まだすこし、処置が必要ですので…」

語尾に残るかすかな乱れを、聞き逃す筈も無い。

「危ないのか?」

「峠は越しましたが、油断の出来る状況ではありません」

結局、ヴェンツェルはこの際無力であり、祈りながら待つ以外には、術が無かった。

 

 無事に後産がおりて、医者が一区切りと判断したのは、真夜中のこと。ヨハンナとアンゲリカは、疾うに眠った後のことだ。憔悴し切って部屋を出てきた医者は、残った気力を振り絞るように、ヴェンツェルに幾つかのことを報告してくれた。

 生まれた赤ん坊は五体満足で健康だが、母体には相当な負担がかかったこと。命は取り留めたものの、今後どこまで回復するかは保証できないということ。そして恐らく、三人目の子供を生むことは出来ない、ということ。

 一通りの話を終えてから、ヴェンツェルは医者に丁重な礼を述べ、ひとまずは下がって貰った。短い時間に大事が立て続いたわけで、気持ちの整理をつけるのは、彼といえども容易ではない。ひとつだけ分っていたのは、ザビーネの側に居たい、という想いだけだ。

 薄闇を透かすと、窶れてしまった白い面に、今だけは安らかな表情が浮かんでいる。じっとそれを見つめながら、ヴェンツェルは茫漠と、自分たちの未来を思った。ザビーネと、二人の娘たちと、申し分なく幸福に、生きてはいけるだろう。けれどそこには、何か言い知れぬ空虚の感じがあった。

 

 眠りに落ちて、再び目覚めた頃には、夜は明け、穏やかな朝の光が差し込んでいた。ふと気がつけば、ザビーネがこちらを見ている。

「ずっとそこに居たの?」

「そんなに長いことはない」

「赤ん坊の顔は見た?」

「アンゲリカよりは、お前に似ている。可愛い女の子だ」

「…そう――」

何気なく転がった会話は、そこで途切れる。その時ヴェンツェルは悟った。誰に、何を言われなくても、ザビーネには分っているのだ、と。

「ごめん」

「…何を謝るんだ?」

けれども、発せられたのは意外な言葉で。

「ごめんヴェンツェル、わたし、お前に男の子を生んであげられなかった」

薄く、鋭く突き刺さるような痛みとともに、胸にぽっかりと開いた空虚が、埋まっていく。

「医者が、言ったでしょう。これ以上は無理だって。隠さなくてもいいよ、分っている」

そう言ったザビーネの表情は、すこし悲しくなるくらい、静かに落ち着いていた。

 一人目が娘だったから、というのではなく、いつか男の子が生まれてくることを、ヴェンツェルは信じて疑わなかった。女の子は男親に似るというが、それは幼年期だけの話で、いずれは母に似、その才覚を受け継いで、大人になっていく。無論、才を継ぐのは血の繋がった我が子ばかりではなかろうが、出来れば息子に譲ってやりたいものを、ヴェンツェルは幾つも持っていた。けれどもそれを渡す相手は、永久にこの世には現れない。

 抱えた痛みは、まだしばらくは癒えないだろう。けれども、不毛な空虚を抱えることは、もうない。現実ははっきりと姿を現し、彼に手を差し伸べている。そのことも、ちゃんと分った。

「いいんだよ、お前たちが居れば――それでいい」

それは強がりだけれど、何よりも本当の言葉でもある。腕を広げて、しっかりと抱きしめた「現実」は、やはり暖かく、どこか優しいものだった。

 

 

 

 

 歌を歌って欲しい、とザビーネが言ったのは、夕暮れ時の、柔らかい薄闇の中でだった。若い頃からずっと、少女のような一途さを失わない妻だったが、その声はひときわ幼く、どこか痛ましくなってしまうくらい、無邪気に響いた。

 もとよりヴェンツェルに、風雅の嗜みなど無い。ただ、詩は幾つも読んだし、旋律を添えて、頭に入っているものもある。とはいえ、好んで口ずさむほど饒舌ではないから、ザビーネが一緒に居た二十数年の中でも、耳にしたのは一曲だけだ。そのことを、無論ヴェンツェルも知っている。

 急にどうしたんだ、と尋ねるよりも早く、溢れ出した冷たい予感が、喉まで詰って、溢れそうになる。必死で飲み下して、何も無かったように繕うが、ザビーネの菫色の瞳は、穏やかな光をたたえて、すべてを見ていた。すっかりこけてしまった顔の輪郭の中で、その瞳だけが、唯一出逢った頃と変わらない。あの日の彼女は、すっきりと細かったけれど、枯れ木のようではなく、血が透けそうに薄い肌も、こんな病的な白さではなかった。

 寝付いたきっかけが何だったか、もう忘れてしまった。元々、二人目の娘を産んだ後は、些細なことで身体を壊しては、寝込んで起き上がり、の繰り返しだった。かつて戦場を駆け抜けたワルキューレの面影は、既に無い。それでも、五十路を控えるこの年頃まで生きたことを、あるいは幸福とすべきなのだろうか。

 だが、何と言われても、迫り来るその「明日」は、彼にとって受け入れられないものだった。

「…また今度な」

自分が何かしたところで、その日が遠のくわけでもない。けれどヴェンツェルは、そのちいさな望みが叶った瞬間に、すべてが終わってしまうように思えて、椅子から立ち上がろうとした。

「我儘を言ってごめん、でも、今がいいんだ」

菫色の瞳は、残酷なほど静かに、真っ直ぐこちらを見つめている。二十代の初めからずっと変わらない、清らかな光。結局ヴェンツェルは、その輝きに、誰よりも弱かった。

「…わかった――」

もう一度、腰掛けなおして、すっかり肉の落ちてしまった、細い手を握る。そしてゆっくりと、呟くような低い声で、旋律を紡いだ。

 

黄昏が、死の予感に似た暗さで地を覆い、谷間は闇に包まれる

天の高みを目指すあのひとの魂にも、夜を行く道は恐ろしい

星々の中の、最も愛しい輝きよ、穏やかな灯火をかなたに送って、

優しい光で闇をかき分け、谷間からの道を示しておくれ

恵み深き宵の明星よ、私はいつも、幸せな気持ちで喜びを迎えるが、

あのひとが過ぎ行く時に、裏切ることなきこの心を伝えておくれ

清らかな天使となるべく、あのひとが地上を過ぎ去る時に

 

決して上手い歌いまわしではない。けれど、ひとくさり歌い終えたヴェンツェルに向けて、ザビーネは満ち足りた笑みを浮かべた。

「嫌に嬉しそうだな」

「幸せだな、と思って――」

繋いだままの手を、一体いつ離せるだろうかと、ヴェンツェルは途方に暮れた。途方に暮れながら、もう片方の手で、こころなしかすっきりした、艶やかな黒髪を撫でた。

「もういいぞ。もう、何も気にしなくていい。ゆっくり休め――」

ザビーネは深々と頷き、瞼を伏せて、二度とあの菫色の輝きを、見せることは無かった。

 すべての終りは、その次の明け方に訪れた。けざやかに目に映るものは何もなく、ただ眠りが果てるように、咲いた花が散りゆくように――その命は、灯火を消したのだった。

「…父上が、可哀想だわ。何だって、こんなに早く独りになってしまわないといけないの」

三年前に嫁いだ上の娘は、涙に紛れて、そんな憎まれ口を叩いた。本当は、自分の内に抱えた初孫を、母に見せたかったのだろう。そうは言わない意地っ張りが、幼い頃から変わらない。そして、姉に代わって母の世話をしていた下の娘は、ひとしきり泣いた後に、そっと呟いた。

「お母様は、幸せだったと思うの。最期までずっと、お父様と一緒で――でも、幸せでも不幸せでも、早いには違いないでしょう」

 そして、娘たちの父であり、亡き人の夫であった者は、何を言うことも無く、最早動かぬ妻の顔を、じっと見つめていた。繋がれていた手は引き離されて、瞳は永遠に伏せられたまま――唯一、命ある頃の面影を宿しているのは、流れる黒髪だけだろうか。

 戦場に翻る、長く豊かで、艶やかな黒髪――それはワルキューレの証であり、若かった彼を魅了したものであり、その向こう側には、尽きせぬ愛情と優しさをたたえた、柔らかい笑顔があった。年を経て、こころなしか髪の量も減り、よく見れば、幾らかは白髪も混じっていた。それがまるで、二人の過ごした時間を、歴史を、語っているようだった。

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