若草色の春の草原を、冷えた一陣の風が吹き抜けていった。暦の上では春、花も咲きほころぶ頃合いだが、アースガルドの空気はまだ温まりきってはいないけれど、火照った頬にはその冷たさこそが心地好い。草の上に寝転がっていると、風にそよいだ緑の葉が頬にあたる。エルヴィン・シュライヤーの視界の中で、浅葱鼠色の空を、右から左に雲が流れていった。

 その視界の真ん中に、突如現れた影がある。影――人の顔。逆光のせいで、顔の造詣や表情は見えないが、誰かはわかりきっている。

「エルヴィン、まだ休むの?」

艶やかに流れる黒髪を頭の後ろ、高い位置でひとつに束ね、灰色がかった青の瞳に、活力に混ぜて一抹鋭さを輝かせる――それでいて、まだあどけない少女の顔。アンゲリカ・ラウラン、このアースガルドで、恐らくは最も純粋な戦士の血をひく、まだ十四歳の少女だ。

 やれやれと溜め息をついて、エルヴィンは上半身を起こした。

「俺は明日、出陣なんだぞ。いつまでこき使う気なんだ?」

「…そうしたらまた、しばらく稽古をつけてもらえなくなるじゃない」

頬を膨らませる表情が、まだまだ幼い。肩をすくめて、エルヴィンは立ち上がり、もう一度だけと木刀を構えた。

「今日はもう、これっきりだからな」

「わかってる」

頷く笑顔が、輝くように眩しい。木刀の構えは彼女の父のものだが、気迫や雰囲気といったものは、エルヴィンも幼い頃に何度か見ただけの、現役時代の母親のものだろう。潔くて鋭いその眼差しは、年齢以上に大人びている。

 一瞬呆けていたところを、アンゲリカは見逃さなかった。上段からの一撃。まだ身が軽いせいもあって、とてつもなく速い。受け止めてみると、速さに比して威力はそれ程でもないから、あしらって、稽古になるよう加減しながら、しばらく打ち合う。それがいつもの運び方だった筈だが、その日のアンゲリカは、どこか様子が違った。

 元々まだ駆け引きの出来るような年でもない。しかし、それに増して無計画に、感情に任せて打ち込んでくる。激しいが、何か足りない感じだ。このままやっていると、何処かに無理をきたして怪我をする。だが、言葉で制止しても聞こえないだろう――そう思ったと同時に、大きく木刀を払った。アンゲリカの木刀が、真っ二つに折れる。

 「真面目に立ち会ってよ!」

一瞬の自失の後、アンゲリカは、右手に残った木刀の切れ端を投げ捨てて、怒鳴り始めた。未熟とはいえ、幼い頃からアースガルドの英雄である父母に直に鍛えられている。無理矢理勝負を断ち切ったのは、見抜けたらしい。

「そんなに稽古をつけるのが嫌だったなら、最初からそう言ってよ!わたしの相手、そんなに嫌?!」

瞳の色は、父譲りの、青味の強い青灰色。その瞳が、炎のような激しさで燃えている。やがて涙がひと筋、ふた筋白い頬を伝った。

 やれやれ、とエルヴィンは肩をすくめ、軽く吐息をついた。

「アンゲリカ、お前さ、何をそんなにやけっぱちになってるんだ?元々そんなに冷静って性格じゃないけど、今日のはまた、感情的すぎるぞ。そんなんじゃ、幾ら立ち会っても怪我が増えるだけだ」

冗談めかして軽くあしらおうとしたが、通じない。涙に濡れた恨みがましい双眸が、じっとこちらを睨んでいる。時折嗚咽を堪えて口許が引き攣っているが、何か喋れそうな雰囲気ではない。こういうのは苦手だ、とエルヴィンは逃げを打とうとした。

「喋れないなら、明日の準備もあるし、もう帰るぞ。どうしても言いたいなら、俺が帝都に戻ってきてからにしてくれ」

わざと素っ気無く言い放ち、さっさと踵を返す。この状態の女の子には深入りしたくない…いや、それとも、アンゲリカ自身に深入りするのが嫌なのか。ふとそんなことが頭をよぎった刹那、衝撃が、柔らかく胴の真ん中を突き抜けた。胸の前に、白い手。背中から、アンゲリカに抱きつかれた。

「お、おい……」

二重の戸惑いが、エルヴィンを襲った。まず第一に、アンゲリカの行動に。それと、背中に押し付けられる、細い体の意外な柔らかさに。いつまでも子供だと思っていたし、事実中身は子供なのだろうが、体つきだけは、いつのまにか大人びてきている。

「嫌だよ、エルヴィン、逃げないでよ。戻ってきてからなんて、約束できないじゃない。どんな戦だって、死ぬ人がいるんだよ」

ごく、あたりまえの台詞だった。しかし、言葉面より声が秘めたものが、真に迫って聞こえてくる。

「わたしは、エルヴィンが好き。だから貴方の側に居たい。だから一生懸命真っ直ぐに貴方を見て、喋って、動いてるのに、貴方は絶対真正面からはそれを受け取ってくれない。貴方にとってわたしは、それだけの子供だっていうこと?それとも逃げてるの?」

その言葉を聞きながら、エルヴィンはぎょっとしていた。多分、心の何処かで察してはいた言葉だ。それが現実の形をとるのが、何故こんなに恐ろしいのか。

「……明日。明日の朝、夜明け頃にここで会えるか?正直言って、そこまで考えたこと、無かったからさ。だから、一晩時間が欲しい――頼む」

咄嗟にそんなことを口走った。誤魔化すことも考えられず、かといって突き放すには、抱えたその想いは複雑すぎて。

「わかった……忙しいときに、ごめん」

細い腕がほどかれて、ぬくもりの感触が離れ、足跡が去ってゆく。そうしてエルヴィンは、途方に暮れたままその場に取り残された。

 

 とりあえず一人で考え込んでも埒があかないから、誰か相談相手が欲しかった。口が堅くて、こういうことには経験がある相手――そうなると、それなりに多い友人たちの中でもかなり限られてくる。結局エルヴィンは、宮廷を訪ねることにした。目的の人物がここで働いている。といっても昼間はそれほど忙しい職業ではないから、呼べば現れる筈だ。

 「久し振りだね、エルヴィン。何の用?」

こちらの気持ちまで洗われるような、穏やかに澄み切った笑顔。北のこの地ではひときわ異彩を放つ、蜜色の肌と漆黒の髪、瞳。南といえばウェスタやローランを指すアースガルドという国で、十数年前までは決して見ることの出来なかった人種、アヨドーヤ人だ。といっても彼、マリーチは、アヨドーヤ人としては初めてジークフリードに仕え、アルベルト・ライザーの死後ほんの半年ばかり六将軍の任にあった養父について、十歳でこの北の地に移り住んだ。その後養父の任地が移ったせいで一時は帝都を離れていたが、八年前からずっとここに住んでいる。職業は宮廷楽士。北と南の楽器双方を扱える上、歌も上手いので重宝されている。エルヴィンとは同い年で、彼がアースガルドに来て以来の幼馴染であり、一番気心の知れた友人でもある。

 上の空で挨拶を返した後で、うだうだしていても仕方ないと、本題の前置きに入る。前置きをつける辺りが、微妙に逃げの姿勢だと言えよう。

「アンゲリカのこと、なんだけどな」

「ああ、君のお姫様のことだね」

マリーチはアンゲリカのことを、いつもこう呼んで、甘やかしすぎだとからかう。けれども今日、その緩やかで穏やかな語り口は、先を求めているように聞こえた。

 

 ひとしきり事情を聞いた後で、マリーチは軽く頷き、真っ直ぐにエルヴィンを見据えて言った。

「それで、君は何を悩んでいるのかな?君は彼女を無碍にはふらなかった。ということは、ふってしまいたくないんだよね。それは、彼女がかわいそうだから?そうなのか、別の気持ちがあるかは、幾らなんでもその年ならわかるだろう?」

予想通りに、痛いところを突いてくる。

「…ああ、わかってるよ、ふりたくなかったよ。けど、やっぱり何かあるんだよなぁ、「好き」以外にさ」

「それを聞いて少し安心したよ。十四歳の女の子相手に躊躇する理性はちゃんとあるみたいだね」

渋々本音で返すと、混ぜ返された。それはエルヴィンに息を抜かせているのだが、間合いの感覚が、なかなかに侮り難いと、いつも思う。

 しばらくしてマリーチは、手に持っていた楽器の弦を軽く爪弾いた。リュートに似た南の弦楽器で、シタールという。リュートのそれより太くて深みのある音が、柔らかく空気を震わしている。旋律というほどに整った形はしていないが、聞き心地のよい音色だ。

「要は、安心できる愚痴聞きが欲しかったのかな?わかっているだろう、ちゃんと言っておかなきゃいけないことは。それに、どう足掻いたって、僕には君以上には君の気持ちはわからない」

爪弾きながら更にマリーチは言った。これも痛い。事実の八割はこんなところだから。

「それでもまだどうしていいかわからないなら、一度君にとって『女の子』とか『女性』というものが何なのか、じっくり考えたほうがいいかもしれないね。君の人生の中で、女性がどのくらいの位置を占めていて、相手に対して何を望んでいるか。難しそうに聞こえるけど、身の回りの人のことを考えると、案外簡単に出てくるよ」

と、さも簡単そうに言われたので、ついひねくれて、お前はどうなんだよ、と問い返した。

「僕は…女性像の原型を問われると、母親としか答えようが無いんだけどね。実の母も育ての母も、人間としては致命的に欠陥のある人だったけど、母親としては合格点をあげていいと思うよ」

そう言ったときのマリーチの表情は、もう風に溶け込んでしまいそうなくらい澄み切っていて、エルヴィンの胸に鋭い痛みを走らせた。

 マリーチの実母は、皇帝ジークフリードの覇業の最後に立ちはだかった敵、アヨドーヤ八大諸侯ヤマ家のインドラジットの愛妾で名はウシャス。闇の一族の女王として陰謀の手駒になっていたが、最後は行き場を失い、幼いマリーチの目の前で殺されたと聞く。

その後養父母に引き取られたが、養母という人もまた、所謂普通の人ではなかった。エルヴィンは子供の頃に何度か会ったことがある。小柄でかぼそく、アヨドーヤ人にしては随分色の白い人だった。濃い睫に縁取られた大きな瞳は、生まれたての子犬のような、一抹青を含んだ深い黒。何かこの世ならぬものでも見ているかのような、神秘的な瞳だった。夢のように儚げな、美しい人。けれど彼女は、しばしば困り果てたように、何の表情も浮かばない顔で夫を見上げていた。彼女は時に、自分が抱えている思いを何と呼び、どう表していいかわからなくなるのだ、と聞いた。それが何故かは知らないが、大人になってから感情を学びなおした人だったようだ。だからマリーチは、養母と、引き取られて間もなく生まれた夫妻の実子とに、逆に色々なことを教えなければならなかった。

 「僕を生んでくれた母は、外では何をしていたかわかったもんじゃなかったけど、僕にだけは掛け値なしに優しかった。今思えば、それは僕が父のたった一人の子供で、母が無くしてしまった寵愛を引き戻せる道具に使えそうだったからと、あと、顔が父にそっくりだったっていうのが大きいような気がするけど。何をするのも結局は父に愛されたいからで――傍から見れば怖い人だったんだろうけど、綺麗だったよ、本当に。育ててくれた母は、出来ないことは多かったけど、やり方を知らないだけで、母親としての気持ちを持っていなかったわけじゃないし…かえって僕も一緒に学びなおしていたかもしれない。それに、音楽を教えてくれたのは、養母(はは)だったから。笑うことさえ上手く出来ない人が、一度歌い出したら、本当に豊かにいろんなものを表現できた。それが不思議で、楽器を手に取ったんだ――」

マリーチのその言葉は、おそらく独語。早春の風が長い黒髪を攫い、蜜色の頬にはためかせる。

「だからね、僕はその人を最もよく表す『なにかひとつ』を持っている人を、一番綺麗だと思うし、大切に思う。その人の側に居て、その『ひとつ』の助けになりたい。そうやってその人を見つめていることが、僕の音楽にも力を与えてくれるし――」

遠く空を見上げる瞳、横顔の浮かべる幸せそうな笑顔の向こうには、彼が人生の伴侶に選んだ相手と、その間に生まれた、幼い娘の姿があるのだろう。妻の名はヴァルトラウト、皇后ルフィラに仕える高位の女官で、護衛として唯一、武器を帯びてその傍に在る権利を持つ。それまで適当に浮名を流して遊んでいたマリーチが、彼女に出会って誠実であることを覚え、ルクレツィアと名付けられた娘と三人、穏やかな家庭を営む様を、エルヴィンはずっと、つかず離れずの距離で見守ってきた。時にはそれを羨ましいと思い、我が身を省みたことも、一再ではない。

 穏やかな沈黙が、二人の間を流れた。しばらくして、エルヴィンが立ち上がる。

「行くんだね?」

心の底から洗われるような笑顔で、マリーチが言った。

「ああ。時間取らせて悪かったな。大体どうしたいか見当はつけたよ」

「じゃあ、話を聞いた甲斐はあったかな。そういえば、明日、出陣だろう?生きて帰っておいでよ」

「当たり前だ、莫迦」

照れたように苦笑して、エルヴィンは大きく、一歩を踏み出した。

 

 翌朝早く、約束した場所に行ってみると、明らかに眠れぬ夜を過ごした様子のアンゲリカが、既にそこにいた。夜明け前の仄明りの中で、真っ直ぐに、か細い少女は立っていたのだ。

「朝早くから、ごめんな」

歩み寄って覗き込んだ面は、瞳を大きくみひらき、かすかにわなないて、緊張と恐れをたたえている。エルヴィンの中に、罪悪感が湧き起こった。

「…あの、ね。覚悟は、してきたから。一晩、かけて。だから、いいのよ、遠慮しなくても」

震える唇が、震える言葉を紡ぎ出す。それに対しては、ゆっくりかぶりを振って答えてやった。

「本当に、悪いことしたな。そんなに心配しなくても、俺はお前が好きだよ」

 一瞬。アンゲリカは、何が起こったか分からない、と言いたげに、小首を傾げた。

「あのな、そう何回も言わせようったって無駄だぞ。そう滅多と言えるもんじゃないんだから」

「…わかってる。わかってるわよ、ちゃんと」

その呟きも、むしろ自分に言い聞かせているふうであった。

「でも、何で?何で逃げたの?」

そして、気持ちが落ち着くとこんなことを問い返してきた。アンゲリカは、自分の生き方にも逃げを許していないが、同じくらいを人にも要求する。それは幼さの発露なのだが、この場合、エルヴィンが受けねばならないものであるのは確かだ。

「正直言って、どうにか誤魔化して、まだしばらく、あのままの関係で居たかった」

ありきたりな言葉だが、過不足無く、真実である。

「俺にとって何であっても、お前はまだ『女の子』だからさ。体つきは大分大人になったけど、成長しきるのはまだまだ先の話だろ。最低それまでは、と思ってたんだけどな」

「それまでに、私の気が変わっちゃったらどうするつもりだったのよ?!」

大きな瞳を更に大きくみひらいて、更に問い返される。

「その時は、その時で考えたさ。まあ、仮にそうなってたら、俺の運が悪かったっていうだけの話で、選択肢を間違えたとは思わないだろうな」

そうするうちに段々と、アンゲリカの表情も緩んできた。日の出が近いのか、辺りも明るくなっている。

「だからな、アンゲリカ。早く大人になれよ。待っててやるからさ」

「うん」

頬を染めて頷いたその顔は、やはりまだまだ幼い。その顔にかかる前髪をかきあげて、額にちいさく口づけた。

「続きはまた、そのうちにな」

そのうちが、いつになることやら、覚束ないけれど。あどけない笑顔を見つめながら、それもまた良しと、エルヴィンは思うのだった。

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