「アースガルド皇帝テオドールの子、ジークフリード・フォン・ファーレンハイトという。よろしくたのむ」

思い起こせば今も、鮮やかに脳裏に甦る言葉があるのです。あれはそう、私が7歳の年でした――

 

 クロイツェル伯爵夫人たるヴァレリーが、六将軍の朋友ナイトハルトに問うたのは、彼女としては珍しい、故無き好奇心のためだった。

「ねえ、ナイトハルト。気が向いたら教えてくれないかしら」

己の執務室で、常のように膨大な報告書に目を通しながら、さも何事も無い調子で、ヴァレリーは言った。最も、彼女にとって「何事も無い」とは「陰謀や暗殺を企む時と同じ」という意味でもあるのだが。ともかくその声には、何らの揺るぎは無く、落ち着き払って、ごく静かなものであった。

 同じ部屋で、彼女から借り受けた文書を書き写していたナイトハルトは、何か仕事の依頼だろうと思い、手を止めることもしないで、返した。

「グラフィンのご依頼とあれば、何であろうと、承りますよ」

軽く答えながら、それでも、内心は身構える。ヴァレリーの要求は、途方も無いことがままあるのだから。

 しかし、肝心のその内容は、ナイトハルトの予想の範疇には無いものだった。

「昔話を、聞かせて」

確かに、ヴァレリーはそう言った。彼女らしく、簡潔極まりない調子で。けれども、ナイトハルトは咄嗟に理解出来ず、今度こそ手を止め、顔を上げて、ヴァレリーを見返す。一方のヴァレリーは、その反応が面白いのか、微かに瞼をすぼめて、笑みの手前の表情を作った。

「昔話を聞かせて、と言ったの。貴方と陛下の。私の記憶にある限り、子供の頃からずっと一緒のようだけど、貴方の御父上が亡くなった後からよね。先帝陛下の侍従をなさっていたと聞いているけれど、何の因果で、幼い身の上で宮廷に上がることになったのかしら」

 数秒の間、ナイトハルトは必死に、その言葉の裏の意味を探ろうとした。類稀な智謀で知られる伯爵夫人が、今度は一体、何を企んでいるのか、と。けれども、考えても理由など思い浮かばず、ましてや彼に、それが何であれ、ヴァレリーの思惑に乗らない、という選択肢は、もとより無い。

「お忙しいのではなかったのですか?」

照れ隠しの一言に対して、ヴァレリーは嫣然と微笑み返す。

「生憎と、今日はすこし余裕があるのよ。だからこんなことを思いつくのね」

 やれやれと、ナイトハルトは軽く吐息をつく。こんな唐突な我儘を言うのは、主君であり親友である、ジークフリードだけだと思っていた。まさか、こんなところで遭遇しようとは。

 けれども、ヴァレリーがこんな可愛らしい我儘を言ってくれるのは、最初で最後かもしれないし、それを受け止める立場にあるのは、彼にとっては喜ばしいことだ。

「他愛も無い話ですよ」

一言だけ前置いてから、ナイトハルトはゆっくりと、記憶を手繰り寄せ始めた。

 

 冗談ではなくて言うのですが、私の人生の始まりは、七つの年の、あの日にあったと思うのです。本当のところ、それ以前ことは、覚えていませんしね。それ以前のことというのは、生家に居た頃のことです。

 生家は騎士の家柄で、仰る通り、父は先帝陛下の侍従を務めていたそうです。母は、私を生んだ後の肥立ちが悪く、そのまま死んだと聞かされました。そのせいもあって、父は家に寄り付かなかったようですね。私のことを乳母と家令に任せて、職務に逃げていたようです。その父も、私が七つの年に、病を得て呆気なくこの世を去ったのですが。

 でもこれは、すべて後から聞いた話ですよ。薄情と思われるでしょうけれど、本当に、覚えてないんですから。

 先帝陛下が何をお考えだったのか、それは私も、ジークフリードも知りません。ともかく、寄る辺が無くなった私を、先帝陛下が引き取られたのです。それ以来、もうかれこれ十五年以上にもなりますけれど、ずっと宮殿に部屋を与えられて、そこに住んでいますから、贅沢な話かもしれませんね。

 私の記憶の始まりは、そう、先帝陛下に連れられて、ジークフリードの部屋に行ったところです。私が七つですから、ジークフリードは五つ。まだ十分に口が回るような年頃でもないのに、物怖じもせず真っ直ぐに私を見て、言ったのです。

「よろしくたのむ」と。

嘘のような話ですが、本当に、私の人生はそこから始まるんですよ。それから、もうずっと、ジークフリードに何かを頼まれ通しの人生です。

 幼い頃のジークフリードですか。そうですね、あの方は、小柄でしたね。ご記憶かもしれませんが、声変わりする年頃までは、ずっと小さかったんですよ。私は子供の自分から背は高い方だったので、余計にそう見えたのかもしれませんが。

 ただ本当に、物怖じをしない子供でしたね。好奇心旺盛で、何でも真っ直ぐものを見て、こうと決めたら即、その方向へ向けて歩き出す。まあ、子供の頃から、ジークフリードはジークフリードだった、ということかもしれません。怖いもの知らずな子供ではありましたね。

 そんな腕白坊主の唯一の泣き所が、母后エルフリーデ様でした。この方のことは、覚えておいでだと思います。ええ、ジークリンデ様が生き写しでいらっしゃいます。最も、お顔の表情がまったく違いますから、受ける印象と言ったら逆のものなんですけれどね。ジークリンデ様が、溌剌と輝くような印象なのに対して、エルフリーデ様は儚げで大人しやかで、とても静かな印象の方でした。ご病気がちだったせいもあるでしょうね。私が宮廷に上がった年、ジークリンデ様が生まれてからは、特に臥せりがちで、庭園の離宮で寝起きされることが多かったと記憶しています。

 先帝陛下もジークフリードを可愛がっていらっしゃいましたが、そこはやはり、皇帝のお立場もありますし、後継者たるジークフリードを、そう甘やかすわけにはいかない。それなりに厳しく接していらっしゃったと思いますし、どうしても距離があったのも事実だと思います。

 その部分を補っていらっしゃったのが、恐らくエルフリーデ様だったと思うのですが、何分にもご病弱でいらっしゃいましたから、いくら息子でも、会いたい時にいつでも会えるというわけではない。だから余計に、会える時に甘えたのでしょうし、あの方の仰ることなら、何でもふたつ返事で聞いていましたね。

 私ですか?私は、そもそも「母親」というものを、まったく知らないわけですから、羨ましいも、何もありませんよ。ただ、「母親」というのは、ああいうものなのだなぁ、と思っていただけです。

 それはもちろん、エルフリーデ様はお優しい方でしたから、私にも随分と良くしてくださいましたし、恩人であると言って差し支えないでしょう。ただ…私は家臣で、あの方は皇后陛下でいらっしゃいましたから。

 分別臭い子供だったのでしょうね。自分で言うのも何ですが。たかだか七つやそこらでお役目を与えられて、疑問を持つより早く、その境遇に馴染みましたからね。妙に分をわきまえていて、小利口な口を利く――可愛げ、というものが、無かったかもしれません。無かったでしょうね。

 ジークフリード、ですか?本当のことを言うと、決して最初から、そうそう仲が良かったわけではないんですよ。無邪気で怖いもの知らずの皇子と、大人ぶった家臣の子。そう簡単に打ち解ける筈が無いでしょう。まして私は、例の妙な分別で「この方はご主君だ」と決めて、精一杯礼儀正しく、他人行儀でしたからね。ええ、実際、他人ですけれど。

 私は、あの方の学友で、遊び相手で、お守り役で、という立場でしたけれど、一緒に家庭教師に就くと、どうしても二歳分だけ、私の方が物分りが良いんですよ。それなのに、ジークフリードは、あの方は、泣いて悔しがったんです。何をする時も。私の方が、随分背も高いのに、走って勝てなかったとか、無茶苦茶なことを仰って。とはいえ、そこはお役目ですから、家庭教師から教わったことを、もう一度私が教え直すわけです。手がかかる子供だなと思いながらね。そう思っている私自身が、そもそも子供だったんですけれど、子供というのは、自分のことは棚に上げてしまう生き物ですからね。

 異常な境遇?そうでしょうね。今、客観的に思い起こせば、確かにそれ以外の、何ものでもありません。ただ、今もそうですけれど、一体何を以ってして「正常」と言うのか、よく知りませんからね。己の境遇に疑問を持つだなんて、有り得ないことですよ。それしか知らないんですから。

 ただ、流石に十二歳とか、十三歳とか…まあ、小利口な年頃になってくると、色々と思うところはありましたよ。自分はこの、手のかかる子供の面倒を見て、生きていくしか無いのか、なんてね。我ながら、結構な言い草だと、今は思いますけれど。

 私が、ジークフリードと本当に打ち解けたのは――あれは、私がじき十四歳で、ジークフリードが十一歳という頃ですね。エルフリーデ様が、例によって臥せられたことがありまして。その時ジークフリードが、何が何でもエーデルワイスの花を、エルフリーデ様にお届けすると言って、宮殿を抜け出したことがあったんです。帝都の北に、バーデンという山がありますでしょう?あそこにね、陽だまりの岩棚があって、そこは毎年、他の場所より早く花が咲くと、何処かで聞き及んだそうです。それで、エルフリーデ様はエーデルワイスがお好きでしたから、何としてでも、お届けして、お元気になっていただきたい、と。

 止めなかったのか、ですって?止めましたよ、一応、形ばかりはね。ただ、言い出したら絶対に聞かないのは、あれは恐らく、生まれつきでしょう。私が出会った五歳の頃には、既にそうでしたから。それに私も…まあ、自信過剰な年頃でして。岩棚の場所は、狩りだの遠乗りだので、何となく分っていたんですよ。それで、あんな所に行って帰ってくるなんて、造作も無いことだと思っていたものですから。

 実際、宮殿を抜け出すのはなかなか上手くいきましたし、目的の場所を探すのも、決して難しいことではありませんでした。ただね、まず最初に誤算だったのが、徒歩だったこと、なんです。それまでは、いつも馬で行っていた場所ですから、実際に歩くとこんなに疲れ果てるものなのか、と。

 ただね、お互いに生意気盛りの年頃で、意地っ張りですから、絶対に疲れたとは言わないんですよ。それから、あんなところまで行くのは簡単だ、なんて言いながら、兵法の教科書通りに地図を読んだりしてね。今思えば、大したおままごとだと思います。

 その岩棚というのは、ちょっとした崖の途中にあって、もちろん命綱は必要ですけれど、決して子供に降りられない場所、というのでは無かったんです。ただ、身が軽い方がいいだろうということで、ジークフリードが降りて、私は命綱を見ることになりました。

 花を摘むところまでは、実に上手くいっていたんですよ。問題は、帰り道です。今にして思うまでも無いことなんですけれど、命綱の引き方が悪くて、崖の突端に、引っかかってしまったんです。それを更に引くと――どうなるか分りますよね?綱が切れたんです。

 いえ、ジークフリードは落ちたわけではなくて、片手で岩に齧り付いていました。もう片方の手で、摘んだばかりの花を死守して、ね。

 私は、それはもう、声まで蒼くなって、大慌てで引き上げようとしましたよ。そんな花は早く捨てて、捉まりなさい、とね。手を伸ばせば、ぎりぎりどうにか届きそうでしたから。

 ところがジークフリードは、きっぱりと一言「嫌だ」と言ったんです。そうです、あの方が腹を括ってしまった時に見せる、あの強い光を、瞳に一杯に湛えて。

 私は焦っていましたから、何を言っているんだと思って、もう一度言ったんです。そんな花は捨てて、早く捉まりなさいと。そうしたらあの方は、何て言ったと思います?

「だから、それが嫌だって言ってるんだよ!行動は、成果があってはじめて価値を持つんだ。特に、今日の俺たちみたいに、人が止めるようなことをやってしまった場合は、成果なしじゃあまりにも救いがないだろ?それじゃ、今日一日が無駄になる。俺は、そんなのは絶対に嫌だ!」

あの方には、かなぐり捨ててもいい誇りなど無かったのでしょうね、あの頃から。そして、成すと決めたことは必ず成果を得るまでやるのが、その誇りの源だったと思います。その言葉に、深くにも心の底を洗われたようでした。

 でも、ジークフリードは更に凄いことを言ったんですよ。

「花がなくなったら、両手で体を支えられる。そうすれば、もう少し楽になるんだ。だからさ、花、引きあげてくれよ」

焦っていたのは私だけで、あの方は、自分が落ちそうになりながらでも、きちんと状況を見ていたんですよ。

「じゃあ、花を受け取ったら、残りのロープを使ってお前の命綱を作れ。一気に子供一人ぶんの体重がかかるんだ。勢い余って二人とも落ちたら洒落にならないからな」

多分、私はその時初めて、ジークフリードを尊敬したんだと思います。その心意気と、現実感覚と、ふたつの意味で――つまり、今抱いているものと同じ意味で。

 まあ、正直に言うと、帰り道は大騒動だったんですよ。あんなに威勢が良かったジークフリードが、眠たいの疲れたのと大騒ぎして。一安心したら、どっと来てしまったんでしょうけれど、幾ら何でもまだ早すぎましたね。だから私は、ずっとあの方を叱り飛ばしながら歩いていたんです。いくら背が違うと言っても、まさか背負って帰るわけにもいきませんし、第一私も、言わないだけでへとへとでしたからね。

 ただもう、あの方が何者であるか、分り始めていましたから、それまでのように、うんざりすることは無かった。どちらかというとそう、あれは、楽しい思い出なんですよ。最初から最後まで含めてね。

 それでまあ、どうにか宮殿に帰り着いたのが、夜も随分更けた頃でしたっけ。衛兵に見つかれば、そのまま引っ立てられて、先帝陛下の厳しいお叱りを受けるのは、目に見えていましたから、こっそり忍び込んで、そのまま離宮の植え込みに潜ったんです。結局ジークフリードは、ここで本当に寝てしまうんですけれどね。

 ただ、救いの神が現れたんですよ。ほかでもない、エルフリーデ様ご自身が、私たちを見つけてくださったんです。偶然なんですが、その日はお加減が良かったそうで、私たちが逃げ出したことを聞き入れられて、だったら必ずここに現れるだろうと、密かに気をつけていて下さったそうで。

「悪戯坊主が二人、ここで何をしているのですか」

と、とても穏やかな、優しいお声で――今もよく覚えていますよ。ジークフリードはその一言で、跳ね起きましたからね。

 私は、とにかく慌てて前に出て、平謝りをしようとしたんです。そういう時に罪を被るのも、まあ、お役目のうちと言えば、そうですから。

 もちろんジークフリードは、すぐにそれを制して、洗いざらいすべてを、エルフリーデ様にご報告申し上げたんですけれどね。

 それから、ですか?エルフリーデ様は、こう仰ったんですよ。

「疲れたでしょう、二人とも。一日大変な冒険をしてきたのですものね。その心意気に免じて、今夜一晩だけ、わたくしの所に泊めて差し上げます。まずしっかり食べて、汗を流して、ゆっくり眠って疲れを取って。それから、お父上の所へ謝りにお行きなさい。後のことは、お父上が差配してくださいます。きちんと叱られて、罰を受けたらまた、なるべく早くここへいらっしゃい。冒険の話を、聞かせて」

ええ、もちろん翌朝には、先帝陛下から、それはそれは厳しいお叱りを受けましたけどね。

 

 ひとしきり語り終えたナイトハルトが見返すと、ヴァレリーは、ごく淡いが、親しい間柄の者にだけは満ち足りていると分る、静かな笑みを浮かべていた。

 一瞬、息が詰まるような錯覚を覚えながら、務めて冷静を装って、ナイトハルトは問いかける。

「それにしても、一体どうした風の吹き回しだったんです?結局、ジークフリードは昔からジークフリードでした、という話でしょう?」

するとヴァレリーは、やや決まり悪げに瞳を伏せて、こう言った。

「そうね、たまには、理由の無いことをしてみたかったのかもしれないわ」と。

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