埃を含んだ風が、艶やかで豊かな黒髪をはためかせる――その向こう側にひとしずく、輝くものを見止めて、ヴェンツェル・ラウランは立ち止まった。

「どうした?」

擦れ違い様につられて足を止めるのは、ザビーネ・シュナイダー――戦場近いこの場所では、アースガルド六将軍の僚友として見るべきなのだろうが、今ヴェンツェルの目に映るのは、たおやかな恋人の姿だ。

 やや不躾に手を伸ばし、掻きやった黒髪の影から、ごく小さな光が零れ落ちる。それを確かめて、ヴェンツェルは微笑んだ。

「着けて来たのか」

短い言葉。それを受けたザビーネは、決まり悪げに頷く。

 やや固い調子で返す、白い顔。その両横で幽かな輝きを灯しているのは、深く澄んだ色をした、一対の紫水晶だった。

 その瞳と同じ色をした、菫色の耳飾。ごく小さな品なので、これまで目に留まることも無かったのだろう。ヴェンツェルが薄っすらと目を細めると、ザビーネは、調子に乗るなという具合で、軽くその手を払いのける。

「お守りだから」

けれども、続いて唇が紡いだ言葉は、戦場に不似合いなその面輪と等しく、優しい。

「失くすなよ」

つられて淡く微笑みながら、ヴェンツェルは言った。

 

 華奢な足首で鈴のように鳴るアンクレットや、黒髪に編みこまれた色とりどりのリボン、白い喉元を飾るビーズやガラス玉の首飾り――比較的裕福な街娘だったというザビーネは、六将軍の立場を離れると、ささやかに着飾ることを好んでいた。またその一方で、扱い慣れない宝石などは、似つかわしくない、と見向きもしないのだが。

 一方、武門の名家に生まれ育ったヴェンツェルにとって、装身具とは良い品を持つべきものだった――矢鱈と数があればいいわけではない、という辺りが、武家の質実剛健を表している、とも言えるだろう。

 その両者が並び立った時、男の側に、一抹寂しさが湧いたのは、当然の成り行きだった。せっかく美しく生まれ育ったのだから、何かひとつくらい、良いものを持てばいいのに、という。

 無論、それとなく仄めかしたところで、聞き入れるザビーネではないし、こんな時に使う上手い言い回しも、ヴェンツェルは知らない。それならば良いものを見繕って贈ればいい、というのが、結局は唯一の選択肢となった。

 そしてヴェンツェルは、はたと考えを止める。アースガルドのワルキューレに、彼の美しい恋人に、似合うものとは一体何だろう、と。

 ライヒェンタール公爵夫人の手を借りる、という方法が、最も妥当であろうとは、彼にも見当がついた。それよりは、色々な意味で少々危険だが、大公女ジークリンデという宛もあった。だがしかし、ここで最初から人の手を借りるのでは、些かと言わず、情け無いではないか。

 その感情の名を意地と言い、別方向から見れば――恐らくアルベルト・ライザーなどに言わせれば、惚れた弱みの変形でしかない。そしてアルベルトにかかったならば、更に一言「仏頂面して、場数は相当踏んでるくせに」という、憎まれ口のひとつもついてくるだろう。

 兎にも角にも、ヴェンツェルは考えた。風にはためく艶やかで豊かな黒い髪に、透き通る乳白の肌に、宝石のような菫色の瞳に、最も映える色。繊細で優しい美貌を引き立てるもの。といって、実用を重んじる彼女が、存分に使ってくれるであろうもの――条件を並べるだけ、答えを導き出すのは困難にも思えたが、ある瞬間ふと気がつけば、逆に答えは出たも同然だった。

 

 アースガルドの宮廷女官長たるライヒェンタール公爵夫人マグダレーナには、若い娘を着飾らせるという趣味があって、毎年、盛夏節だ新年だと言っては、アースガルドが誇る二人の女将軍を華やかに装わせていた。片方の当事者である、クロイツェル伯爵家の女頭首ヴァレリーは、妹のヘレーネが嫁ぎ先から送ってくるものに袖を通すだけだが、何も持っていないザビーネの分は、毎年ライヒェンタール夫人が仕立てさせていた。

 その日は、出来上がったドレスの寸法合わせだとかで、ザビーネは執務室を離れて、ライヒェンタール夫人の部屋を訪れていた。皆まで話すことはせずとも、人払いを頼むくらいは容易い。ヴェンツェルが扉を開けると、そこにはザビーネの後姿があった。

 夫人が新しく仕立てたドレスは、夢のように淡い紅色で、遠目には春の花のようだ。長い髪の豊かな黒に比べると、やや弱い色とも思えるが、儚い印象を残す背中や肩の薄さを、ほどよく補う柔らかな色にも見える。

 我知らず、ほうっと溜息をつくと、衣擦れの幽かな音がして、ザビーネが振り返った。どうやら彼女は、そこで初めて、自分の後ろに立つ人間が誰かを知ったらしい。菫色の瞳が軽くみひらかれた後、同じように軽く細められて、笑みの形になる。

「何か用か?」

それには応えずに、ヴェンツェルは黙って、目の前の鏡台に小箱を置いた。

「開けてみろ」

素っ気無く言われて、ザビーネはその掌に、濃紺の布で張られた小箱を取る。

 蓋を開けるとそこには、涙の雫ほどの大きさの、耳飾の一対があった。深く透き通った、菫色の紫水晶――ザビーネの瞳と、ほぼ同じ色の。

「着けてみるといい」

目を丸くしているザビーネに先んじて、ヴェンツェルはそう言い、指を伸ばして黒髪を掻き上げた。

 そして、あることに気づき、苦笑する。

 白い小さな耳たぶには、飾りを通す孔が無かった。

「子供の頃はあったんだ。軍人になって、自分のことにかまけれいられなくなって…気がついたら無くなっていた」

表情を窺ったわけではなくても、ザビーネにはおおよその空気が読めたらしい。発せられた呟きは、すこし寂しげにも聞こえたし、照れ隠しの響きも確かにあった。

「それにしても、こんなもの一体、どうしたんだ急に」

そして、ザビーネが続けたごく妥当な問いかけに、ヴェンツェルは応えなかった。代わりに部屋の隅の燭台にひとつだけ火を灯した。続いてドレスの裾から仕付け針を抜いて、その先端を一瞬だけ炎にくぐらせる。刹那、赤く焼けた細い針は、空気に晒されてまたもとの銀色を取り戻した。

「すこし痛むぞ」

言うのと、薄い耳たぶに針を刺すのは、ほぼ同時だった。

 最初に右、次いで左――素早く、迷いの無い所作の後には、針の先ほどの血の雫が残る。その赤い色を舌先で拭い取ったら、やっとのことで、凍り付いていたザビーネが声を出した。

「…何をする!」

ただそれだけで、薄い肌の向こうから、血の色が透けてくる。何度でも思うが、とんだねんねだ。

「悪かった」

苦笑の形をした唇で、露になった首筋に軽く口づけると、ヴェンツェルは屈めていた膝を伸ばし、立ち上がった。

 触れるほど間近にあった体温が離れていって、ザビーネは一瞬、拍子抜けたような表情を浮かべた。そして、手の上に持ったままの小箱と、恋人の顔とを交互に見る。ヴェンツェルを欲情させるに足る大人で、母親のような顔をすることもあるくせに、こんな時に浮かべる表情はいつもあどけなくて、要らないような罪悪感を疼かせる。

「…着けてみてもいい?」

だからさっき、着けてみろと言ったのに――再びの苦笑で、湧き上がった言葉を包み込む。そして外には出さないままで、ヴェンツェルはただ頷いた。

 

 そうして灯された小さな輝きは、それからずっと、ザビーネの肌身を離れることは無くなった。

 日没が迫る野営地で、せわしなく行きかう人馬の群れの向こうに――細い姿を見止めた時も。

「ほら、無くさなかった」

だが今度は、ザビーネの方が先にヴェンツェルを見つけて、得意げに微笑んだ。その耳元では、あの日から変わることなく、菫色の石が光を放っている。透き通った瞳の色を、引き立てるように。

 この姿を見たかったから、その石を求めたのだと――言いかけた言葉だけが、どうしてもこそばゆくて、形にはならなかった。

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