ファーレンハイト王朝ユグドラシル帝国の歴史を、女性という面で切り取る時、何人かの欠かせない名前が存在する。開祖である「英雄帝」ジークフリードの皇后ルフィラもその一人だが、ある意味ではそれ以上の存在だと言えるのが、三代「大帝」アンドレアスの二人目の妻、アルマだろう。

 英雄帝が密かに気に病んでいたのは、己の血を継ぐ後継者の少なさだった。英雄帝自身、妹であるジークリンデと二人きりの兄妹だったが、皇后ルフィラが産んだのも、同じ二人きりの兄妹だった。二代目「賢帝」ヴィクトールと、妹のヴァレリーだ。しかし、この兄妹は、親以上に、子宝に縁が遠かった。母の故国ニンフォニウムへ嫁いだヴァレリーは、生涯子を授かることはなかったし、ヴィクトールと、その妃で旧ローラン王家の姫であるエリザベートの間に、一粒胤のアンドレアスが生まれたのは、両親が三十を過ぎてからだった。英雄帝はその直前まで、かなり本気で、妹の血統から、帝国の後継を選ぼうとしていた、という。

 その、諦めの限界に近いところで、アンドレアスはこの世に生を受けた。ただ一人の後継者ということで、過保護に育てられはしたものの、父よりも祖父に似た子供は、恐ろしいほど腕白な冒険家で、その闊達さと気宇の壮大さを、祖父に愛されたという。

 また、長く宰相格として行政の面から英雄帝を支えていた父親は、己の分を弁えた上で、このように言ったという。

「私は、人を惹きつけ、熱狂させるという才覚は持っていないけれど、最初は父がそこに居たし、後には息子がそこに居てくれるようになった。それで十分だ」と。

 そうは言いつつ、帝国の礎となる法の多くを手がけたのは、この賢帝である。偉大な父と、圧倒的な存在感を持つ息子の治世に挟まれて、一人で大陸を統べた期間は、決して長くは無い。けれども、間違いなく、五百年を閲した世界帝国があったのは、賢帝の法があればこそだった。

 英雄帝の理想が起こした帝国を、賢帝の法が持続可能なものとした。そして、それらすべてを実行に移し、帝国の創業を完成させたのは、大帝の御世のことだ。戦乱に明け暮れた帝国を、ひとつの国家として纏め上げるのに、それだけの年月が費やされたのだ。アースガルドの名を捨て、ユグドラシル帝国を名乗った大帝は、ファーレンハイト王朝に最初の黄金期を齎した。

 しかし、彼にはもうひとつ、どこまで自ら望んだのか、定かではない功績がある。実に八人の子に恵まれて、皇帝の血統を安定させた、ということだ。そして、それを語る時に現れる名前が、アルマ・フォン・クリューガー、下級貴族出身のこの皇后は、後世、「ファーレンハイトの偉大な母」と称されることとなる。

 

 聖樹歴1140年の春だった。二十八歳の若き皇帝アンドレアスは、やり場の無い苛立ちを抱えて、日々を過ごしていた。父ヴィクトールの死をうけて即位し、間も無く一年になる。まだ短いその治世は、これといった災いに見舞われることなく、まずは順調に推移している。

 だがアンドレアスは、決定的に、あるものを欠いていた。即ち、心を開ける存在を。

 アンドレアスにとって最初の結婚は、遡ること六年前の皇太子時代、相手は父ヴィクトールが見繕った貴族の令嬢で、名はイングリットといった。アンドレアスにしてみれば、宛がわれた妻ではあったものの、気性が激しく、時に情熱を抑え切れない若い彼には、穏やかで大人しい性格のイングリットは、誰よりも平穏を与えてくれる存在だった。イングリットの持つ静けさだけが、アンドレアスの血を冷まし、落ち着かせて、安らげることが出来た。最初はその無口さ、静かさを毛嫌いしていたアンドレアスが、イングリットから離れられなくなるのに大して時間はかからなかった。

 しかしイングリットは、アンドレアスのすべてを受け止めきるには、かぼそい女性であった。年若い皇太子の熱愛を受けた彼女は、四年の間に三人の子を生むが、その度に身を削り、とうとう三度目の産褥で死んでしまったのである。娘二人が続いた後、待望の男の子を産み落とした直後のことだった。マリアンデル、アンネ・ゾフィー、そして嫡子たるマクシミリアン。幼い子とともに遺されたアンドレアスは、しばらくの間、悲しみと怒りで荒れ狂い、誰の言葉を聞くこともなく、半ば狂ったような数ヶ月を送った。それを中断せざるを得なくなったのは、父である皇帝がふいの病に倒れたからで、結局父ヴィクトールは、その更に数ヵ月後、そのまま世を去ったので、至尊の位は、当然彼のところにやってきた。

 廷臣たちの多くは、妻を喪い理性を放棄したかのように見えた皇太子の存在を、一時はかなり本気で危ぶんでいたが、父ヴィクトールは、決してその信頼を揺るがすことは無かった。そして、いざ父に代わって政務を執るようになると、アンドレアスは見違えるように落ち着き、何年前からそこに居たのかと言うような堂に入った姿勢で、すべてに取り組むようになった。

 ヴィクトールは、一人息子の気質を、よく見抜いていた。ことによったら、英雄帝をも上回るかもしれない、巨大な力を、その身に秘めている。そして、皇太子であるうちは、その力を存分に使う場所を与えられずに、苛立っていた。しかし、一旦、大陸という巨大な版図を与えられれば、彼は喜んでそこに力のすべてを注ぎ込み、落ち着きを得るであろうと。

 それは確かにその通りで、最初の一年、まずは父から受け継いだものを、傷つけることなく守りきった。

 しかし、アンドレアスの心は乾涸びきっていたのである。己の才を活かす場所を与えられ、どれだけの力を注ぎ込んでも、有り余ることなど考えられない職務。それに精励しているだけの日々だ。そこには、喜びも悲しみも怒りも無い。予定通りにことが運んだり、想定以上の結果が生まれれば、そうかと思うだけだし、逆であれば、淡々と次善策を練る。それだけのことだ。

 心が、右へも左へも動かない。それが何故なのか、アンドレアスには分りきっていた。かつて自分には、誰よりも愛した妻が居て、一日を終えた時には、分りもしない難しい話でも、どんなに他愛の無いことでも、笑顔で聞いてくれたものだ。苛立つことがあればなだめられもしたし、喜びを分け合うこともあった。けれどもそれを喪ってしまった今となっては、嬉しくても悲しくても、何をすることも出来ない。だからこそ、何が起こっても、心は動かず、感情を作り出さない。

 亡き妻の忘れ形見である子供たちもまた、アンドレアスにとっては厄介な存在だった。特に、嫡子である筈の、マクシミリアンが。まだ言葉も不確かな年齢であるのに、その子は、あまりにもイングリットに似すぎていた。それほどまでではないにしても、上の二人の女の子にも、確かに面影があった。

 血を分けた我が子を、ましてイングリットの産んでくれた子を、憎いと思う筈も無い。だが、顔を見ていると、何故ここに、この子たちの母親が居ないのだろうと、つい思ってしまう。そう思うのが嫌で、政務にかこつけて、子供部屋からは足が遠のいた。

 せめて、誰かにこの胸のうちを、語ることが出来たらと――アンドレアスは渇望していた。

 

 ある意味では、アンドレアスの激情を堰き止める役割を果たしていたのは、宰相である、シューマッハ公爵ルードヴィッヒであった。母で、英雄帝の妹でもある、ゴットハルト総督ジークリンデから、子供たちの中でも随一の政治の才を見込まれ、英才教育を受けた末子は、長じて中央の政界に身を移し、英雄帝の治世の末辺りから、異彩を放っていた。

 とにかく、周囲を気遣うことをしなかったのだ。誰が不愉快に思おうと、前例に反しようとお構いなし。効果が上がりさえすればそれで良く、綿密な計画と堅実な見通しを楯に、根回しもせずに策をぶちまける。それらは確かに、確実な効果を見込めるものばかりではあったが、同じくらい確実に、周囲の反感も買った。英雄帝も賢帝も、苦笑してそれをいなしながら、どうにか周囲と調整を図り、異形の天才を使いこなしてきたのである。

 しかし、若いアンドレアスに、そんな迂遠な真似は出来なかった。やって出来ないことも無いのではないかと思えたのだが、やる気がしなかったのだ。それよりも、この男には一歩下がらせておいて、その頭脳だけを、自分が利用した方が手っ取り早い。

 アンドレアスは、自分が祖父から、人を惹きつける無言の存在感を、かなり濃く受け継いだことを、よく知っていた。同じことを言うのでも、シューマッハ公爵が言うのと自分が言うのでは、皇帝と宰相という立場以上に、家臣たちの反応が違う。それが何故なのか、どう使うべきなのか、アンドレアスは若くして、理解していた。

 その日、皇帝の執務室で、アンドレアスがシューマッハ公爵と額を突き合わせていたのは、さしあたっての問題を話し合う理由もあったが、それ以上に、かねてよりの、「ある懸案」について、議論を深めるためだった。

 「ある懸案」とは、アンドレアスの宿願であり、シューマッハ公爵の持論である、ゴットハルト遷都だ。この問題については、英雄帝も賢帝も、一度ならずその可能性に言及してはきたものの、そこまで手を回すことなく世を去った。確かに、今、皇帝の玉座を置く旧アースガルドの帝都は、大陸の北深くに位置し、全体から見た時に、決して交通の便がいいとは言えない。それに引き換え、北アースガルドの中央やや聖樹寄りに位置し、街道の交差点に位置するゴットハルトは、北アースガルドのみならず、東西への交通の要衝にもなり、湖に隔てられた南への睨みを利かせるにも、恵まれた立地条件であった。古くからの商都であるだけに、人口も規模も帝都に迫るものを持っている。都を遷すならば、これ以上の候補地は無かった。

 「暮れの税収は、結局幾らになったのだ」

やや苛立ちの滲む声で、アンドレアスは尋ねた。シューマッハ公爵が幾つかの書類を示して見せる。どうやら、やっとのことで、大陸全土からの税収を総括し、報告出来る文面が整ったようだ。

「何度でも言うが、せめてもう一ヶ月、早く出来んのか。これでは予算の検証が出来ん」

生涯に亘って概ねそうであったのだが、アンドレアスはせっかちな性分だった。人より頭の回転が早く、遠くがよく見えるので、俗人の動きがまだるっこしく思えることがよくあるのだ。

「そう仰いましても、大陸各所から集められるものです。正確を期すためにも、過剰に急かしてはなりません」

「ではせめて提出期限を切れ。設定は任す。出来上がり次第などと言わせるな」

その性急さには、流石のシューマッハ公爵も苦笑する。無論アンドレアスは、持論を曲げることなど無いのだが。

 それからほぼ半日の間、二人の間では、予算を巡る激論が、途絶えること無く続いた。双方ともに、実行に移したいことを有り余るほど持っているのだが、それらすべてに、先立つものが必要なのだから。まずは足元を固め、次いで優先順位をつけて、実行の都度検証し、改善する。すべてがあまりにも迂遠ではあったが、その手順だけは、アンドレアスは急かずにこなした。そうすることでしか、国というものが動かないことを、父ヴィクトールから学んでいたからだ。

 そして、その予算が上手く片付いてこそ、遷都という課題に話を移せる。それはあまりに大きな課題であるため、例えば資金面ひとつとっても、長い年月をかけて蓄える必要がある。それを、今年はどの程度確保出来るのか。それを周囲に対して何と言うか。加えて、資金の目途がつく頃には、その他の条件も整えていたい。何を、どの程度進めればいいのか。まずやるべきは何で、何なら後回しでも大丈夫か。

 やっとのことで議論に目途がついたのは、日が暮れる頃のことだ。いや、目途がついたというよりは、いい加減暗くなってきたので、一旦区切りをつけた、というだけの話だろう。煮詰め足りない部分は、まだまだある。

 だが、皇帝たる者、永遠に執務室に籠もり切ることは出来ない。彼に謁見を望む者は数多いし、こなさなければいけない行事もある。その夜アンドレアスは、南の地から来た客人のために、宴を催すことになっていた。

 「気晴らしには、なるか…」

そう言いながら、自分でもそれが嘘だと思った。元来、賑やかな席は好きだし、食べることも、酒を飲むことも好んだ。が、それもすべては、イングリットが生きていた頃の話だ。今そういった席に連なっても、自分が取り残されたことを、痛感するだけなのだから。

 とはいえ、空けることの出来ない席ではあったので、アンドレアスは大人しく、宴の席に着いて、客人に歓待の言葉を述べ、ほどほどに会話を転がしながら、時を過ごすことにした。

 ところで客人は、政治家や軍人ではなく芸術家であり、宴には数々の華やかな座興が用意されていた。それらは主に歌舞音曲の類で、英雄帝の皇后ルフィラが芸術家を保護して以来、それらを生業とする多くの人間が、大陸のあらゆる所から帝都に集まっていた。

 そんな催しの中の、一体幾つ目の出し物だっただろう。今までとは、やや毛色の違うものが出たので、アンドレアスは、半ば以上何も見ていなかった目を、すこしだけ見開くことにした。

 出し物は寸劇であった。演じたのは、観たところどうやら玄人ではないらしい。そのくらいは、アンドレアスにも分った。ただひとつ、目を引いたのは、主役を演じた少女――芝居の腕は、極上とまでは言えない。だが、見据えたものを射抜いてしまうような、強い眼光を持っていた。炎のような暗紅色の髪が翻り、深い蒼の瞳が世界を見据える。それだけで、その瞳に映ったものに、今までとは違う意味が与えられてしまいそうな――そんな眼差しを、少女は持っていた。

 他愛の無い寸劇が終り、役者たちが挨拶をする、その時になって、アンドレアスはその中に、見知った顔が幾つかあるのに気が付いた。隅に立っているのは侍従長だし、皇女たちに仕える女官の顔もある。

「お目汚しでございました」

侍従長が、苦笑して頭を下げる。要するに、廷臣たちが趣味でやっている芝居らしい。それにしては皆、芸達者ではあったが、毛色が違っても当然だ。

「驚いたぞ。このような余技があるとは知らなかった。何人か、私の知らぬ者も混じっているようだが」

アンドレアスは苦笑し、さり気なく、主役の少女に視線を向けた。一瞬、ふたつの視線が絡み合う。役を降りた少女は、流石にあれほどの強さで見つめ返してはこなかったが、大陸を統べる皇帝を相手にした割には、物怖じした気配も無く、力みの無い視線で、アンドレアスを見つめた。

「クリューガー男爵の娘、アルマと申します。今月から、皇太后陛下のもとで、行儀見習いをさせていただいております」

そして少女は、形通りの作法で一礼し、澄んだ声でそう名乗った。クリューガーという名をアンドレアスは知らなかったが、知らないからには、末流の貴族に違いない。

 アンドレアスは、そこで些かの意地悪心を起こして、無遠慮に少女の双眸を覗き込んだ。

「行儀見習いに来て、最初に教えられたのがそれか。いや、咎めているのではない。素人にしては見事であった」

一瞬、深い蒼の瞳に、怒りに似た炎のような光が閃くのを、アンドレアスは見逃さなかった。

「怒りたいなら怒って構わんぞ。座興の席だ、許す」

しかし少女は、一瞬だけ唇を戦慄かせると、毅と顔を上げて、澱みない声で答えた。

「ここで堪えるのも、行儀見習いのうちと存じます」

その一言で、酒精に滲みがちな宴席の空気まで晴らそうかという、凛とした響きが、耳に心地良い。アンドレアスは思わず、ほう、と溜息をついた。

「一丁前に生意気を言うか。気に入った」

アルマと名乗った少女は、微動だにせず、ただ真っ直ぐに、アンドレアスを見つめていた。その奥には、確かに、堪え難い怒りも憤りもあるには違いないが、ここでこの男に負けはしないという、清冽な覚悟がすべてを包んでいた。気丈と言えばそれまでかもしれないが、その意地の張り方は、いっそ可憐にも思えるほどだった。

 

 アンドレアスが、母のエリザベート皇太后から叱責を受けたのは、その翌日のことだ。流石にあのやり取りは、皇帝と女官のそれとして相応しいものではなく、そうあって当然の展開と言える。生来やんちゃなアンドレアスにはよくあることだが、見習い女官のアルマにとっては、相当堪えたらしかった。

 エリザベート皇太后は、決して声を荒げる人でもないし、上段から一方的に叱り付けるようなことはしない。アンドレアスが勝手に思うには、手緩いところも多々ある。だが、それでも、アルマにとっては主であり、それ以前の問題として、支配者にあたる階層の人間なのだ。それだけのことで、人は萎縮する。

 が、だとすれば、あそこで萎縮せずに自分を受け止めたその度胸は、中々のものだ。一向に反省する気配もなく、アンドレアスはそう思った。単に未熟で、一時我を忘れただけかもしれない。それでもいい。たかがそれだけのことで、あの清冽さが翳ることは無かろう。

 アンドレアスがアルマに再会したのは、それから数日後だった。子供部屋に行くのは気が進まないとも思いつつ、足が遠のくと罪悪感が疼いている、勝手な己が居る。けれども確かなのは、あの子たちはイングリットがこの上なく愛した子供たちで、アンドレアスにとってもまた、愛してやりたい子供たちには違いない、ということだ。

 扉を開けると、輝くような笑い声が聞こえた。

「おとうさまだ!」

舌足らずな声を上げたのは、一番上のマリアンデル、五歳になる。それから、三歳のアンネ・ゾフィーと二歳のマクシミリアン。それぞれに母の面影を宿す、イングリットの忘れ形見たちだ。

「随分と機嫌が良いな。一体何があった」

鋭い痛みが胸の奥に突き刺さるのを感じながら、アンドレアスは笑みを作り、膝を折って子供たちに尋ねた。

「あのね、アルマがおはなしをしてくれたの」

その膝に飛びつきながら、マリアンデルが言う。三人の子供たちが、二本しか無い父の腕に飛びつく様子は、いたいけで愛おしい。

 が、アンドレアスは、我が子の幼い唇が紡いだ名を、聞き落としはしなかった。

 どうにかこうにか子供たちを腕に捕らえて、顔をあげると――そこにはあの、強い眼差しの少女が居て、見違えるほど穏やかな瞳で、こちらを見ていた。

「お前か」

「皇太后陛下より、お子様たちのお世話を、仰せつかりました」

あの時とは、まったく違う表情。けれども、変わらないものがある。りんと響く声音と、時に相手をたじろがせてしまうほど、真っ直ぐにものを見る目――そのふたつが、清冽という言葉でひとつに結びつく。

 が、アンドレアスがもう一度口を開こうとした瞬間に、アルマは軽く瞼を伏せると、完璧な礼儀で一礼して、こう言った。

「隣に控えておりますので、御用がおありでしたら、お呼びくださいませ」

 それから幾許かの時を子供部屋で過ごしたアンドレアスは、退出する際に別の女官を呼んで子供たちを任せると、隣室にアルマを呼び出した。

「何の御用でしょうか」

流石にアルマは、皇帝を正面に見据えて、緊張した様子であった。物怖じこそしていないが、先般この男のせいで、とんだ叱責を受けたという思いはあるに違いない。

「お前から、物語を聞いたと、子供たちが言っていた。何の話だ?」

「お子様がたに、お聞きにならなかったのですか?」

「何分子供の言うことで、要領を得んのでな」

素知らぬ顔をして、アンドレアスは嘯いた。本当は分っている。決して子供たちの説明が上手かったから、ではなくて、あまりにも有名な物語だからだ。

 そのことは、アルマにも見抜かれているようだったが、流石に皇帝を相手に、お分かりでしょうにとは言わない。ただ困ったように微笑んで、それでも真っ直ぐに、アンドレアスを見返す。この少女は、それ以外のものの見方を知らないのだろうか。アンドレアスはふと、そう思った。

「パルジファルです、陛下」

そしてアルマは、小さな声でもよく響く美しい声で、言った。

 それは、古い騎士道物語のひとつだ。己のことが誰だかも分らぬ「聖なる愚か者」――パルジファルという名を負う騎士が、病に苦しむ王を救う物語。アンドレアスも幼い頃、祖父である英雄帝から聞かされた。

 深く考えるまでもなく、アルマはそれで、話を切り上げたい様子だった。が、アンドレアスは更に言い募る。

「私のせいで、皇太后陛下から叱られたのか」

「いいえ。私が無作法だっただけですわ」

彼女としては、そう答えるしか無いだろう。

「重ねて言うが、咎めるのではない。好奇心で訊くが、何故、芝居なのだ?」

アルマの双眸には、聖樹の根元に広がる湖に似た、深い深い蒼がたたえられている。アンドレアスはその色を覗き込んで、一瞬、吸い込まれそうな錯覚に襲われた。

「…自由になりたい、という、途方も無い夢を見ますの」

アルマの方も、その不躾な視線に、すくなからず戸惑った風ではあった。が、やがて、謳うような響きで、静かにそう呟いた。半ば以上、独語かもしれなかった。

「本当はそんなこと、叶う筈も無くて、現実の私は、こうしてここで、女官として行儀見習いをしています。それが不満だとか、不幸だと言うのではないのですが、心の中にそれでは収まりきらないものがあって、その思いに、翼を与えてやりたいと、時々無性に思うのです」

 そこまで言ってから、アルマは、喋りすぎたとでも言うかのように、言葉を切って、かぶりを振った。

「このようなことをお聞きになって、どうなさるお積りです」

「どうもこうもない。気になったから訊いている。それだけだ」

アンドレアスは、目の前の少女の正確な年齢を知らないが、まだ「少女」という言葉で括れる年なのは見れば分る。ということは、二十八歳のアンドレアスとは、十年以上の開きがある筈だ。が、喋れば喋るほど、その差が意味を失い、溶けて崩れてゆくのが分った。アンドレアスは自分が、酷く無力な存在になっている、と感じていた。

「結局は私も、自分の中に収まりきれない思いをどうすればいいか、見当もつきません。ただ、芝居の舞台の上で、役を演じている間は、自分ではないものになれる――そういう形で、何かを解き放っているのだと思います」

そこで言葉を切ると、アルマは静かに微笑んだ。

「これで、よろしゅうございますか?」

もう深入りするなと、言外に、けれどはっきりと――少女は言い放っていた。

 仕方無しに廊下に出てから、アンドレアスは思わず、天井を仰いだ。かつてその想いに溺れたことがあるからこそ、よく分った。自分が一体何をしているのか。今ならまだ引き返せる。それも分る――子供ではないのだから。

 アンドレアスはふと、幼い頃、自分を可愛がってくれた老人に、会いたいと思った。その老人とは、英雄帝ジークフリードの六将軍であり、賢帝ヴィクトールの守役であった、時の大将軍ヴェンツェル・ラウランだ。アンドレアスの誕生を誰よりも喜んだのは、両親でもなく祖父母でもなく、この男だったとも言う。アンドレアスという名も、ヴェンツェルから貰ったものだ。

 幼かったアンドレアスにとって、ヴェンツェル・ラウランは、身近な好々爺に過ぎなかった。煩いことも言われたし、かなり厳しく当たられることが多かったが、アンドレアスは基本的に、その老人によくなついていた。

 その老人には、かつて美しい妻が居たという。同じく英雄帝の六将軍に名を連ね、アースガルドの戦女神と讃えられた、ザビーネ・シュナイダー。けれども、アンドレアスが生まれた頃、彼女は既にこの世に居なかった。元来、決して頑強な人ではなく、老境に達する前に、ふとしたことから寝付いてしまい、そのままこの世を去ったという。

 そらから、ほぼ三十年という長い時を、偉大な大将軍は一人で生きた。無論、妻との間には子供もあり、孫たちにも囲まれて、人生の黄昏としては豊かな日々であったと思う。だがアンドレアスは、時々、どうしても訊いてみたいと思いながら、口に出せないことがあった。

「ヴェンツェル、お前は、寂しくないのか?」

幼い頃、それだけは訊いてはならぬと思い、必死に口を押さえつけて止めた言葉が、今になって零れ落ちる。

 あの頃の彼と、今の自分とでは、随分年が違っては居るが、ただ一人と思い定めた相手に、先立たれたことに変わりは無い。それ以前とそれ以後とで、何が変わり、変わらなかったのか。何を思って、彼が残された日々を生きたのか。今なら語り合える気がした。

 無論それは、迷ってしまった彼の、些細な夢に過ぎないのだけれど。

「参ったな――」

素直に口をついたのは、そんな芸の無い言葉だった。そして、軽く瞼を伏せると、そこには今も、アルマが見せた、澄み渡った蒼の輝きがちらついていた。

つぎへ

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