しまった…と、ナイトハルトは思った。目の前で、彼の主君であり、人生の大半を共にしてきた親友でもある人物が、ニヤリと笑うのを見た瞬間である。いい加減若くも無いくせに、何かの拍子にこうして、子供でもそう簡単には浮かべないような、悪戯小僧の表情をすることがある。そういう時は大抵――後から、凄いことになるのだ。

 

 発端は、ローランの総督であるロザリー・フィリスからの提案だった。彼女には、名をエリザベートと言って、十歳になる娘が居る。その子を、ジークフリードの嫡子で十二歳のヴィクトールと婚約させてはどうか、という話だ。ありきたりの政略結婚と言ってしまえばそれまでだが、旧ローラン王家の、やがては唯一の生き残りになるという少女は、世界帝国の後継者の花嫁としては、得がたい価値を持っている。ファーレンハイト家は、旧ローラン王家を無理なくその内に取り込んでしまえるのだから。

 とはいえ、軽々に決められることではないから、ひとまずはエリザベート嬢に帝都まで出向いて貰い、ヴィクトールと顔を合わせさせたい。ジークフリードはそう返し、ロザリー・フィリスもあっさりと了承の返事を寄越した。

 表向きは、盛夏節の祭に招待する、という格好で、見合いをさせよう、というわけだ。盛夏節には、ジークフリードが最も信頼する二人、妹でゴットハルトの総督であるジークリンデと、その夫であり幼い頃からの親友であり、大将軍職にあるナイトハルトも来る。相談相手には事欠かない状況になるわけだ。

 しかし、ジークフリードはそれだけで話を終わらせる気など無かった。元々、自分自身が政略結婚をしていないし、妹にも勝手を許した過去がある。その男が、突然息子の代になって政略に徹することが出来るのか、という話もあった。ナイトハルト自身も、そこのところが気になっていて、顔をあわせたら先ず問い質そう、などと考えていたのだが。

 ジークフリードは見事な先手を打ってくれた。

「あの…それは本気で言っているんですよね?」

無駄と知りつつも、問わずには居られなかった。あまりに無茶苦茶過ぎる。

「愚問中の愚問だな。お前が一番、良く知っているだろうが」

そう言われると、ぐうの音も出ない。

 深い深い溜息をついた後で、非難がましく、すこし後ろに控える、もう一人の大将軍ヴェンツェル・ラウランを省みたが――案の定、憮然とした表情で、かぶりを振られてしまった。

「大丈夫だ。子供が何人かつるんで悪さをしたところで、即、危険な目に遭うというわけでもないだろう。そんなことは、この帝都に住む子供の大半がしているんだからな。それに、万が一のために、特別信頼出来る護衛をつけてある」

そういう問題ではない、と言おうとして、ナイトハルトは諦めた。後から自分が何かを言って、ジークフリードの決断を覆した実績など、皆無なのだから。ここは潔く、その、一国の主とも思えない、恐ろしい提案を呑むしか無かった。

「分りましたよ、ジークフリード…せめてこんなことは、今回だけにしてくださいね」

そう言ってから、一体どれだけ、自分はこの台詞を繰り返してきたのだろう、と、しみじみ思ってしまった。

 

 でも、殿下が何もしようとしなければ、この計画は潰れますよね?最後の悪足掻きとして、ナイトハルトはそう言った。

 何だって?そこで何も起こさないような奴は、俺の息子じゃない。ジークフリードは、得意そうな顔で、そう返した。

 

 大騒動の幕開けは、盛夏節の一週間前、エリザベート・ド・ランベール嬢の到着からだ。

 令嬢を迎えに帝都郊外まで向かったザビーネは、思わず、ほう、と溜息を漏らした。美男美女家系で名高いランベール家の令嬢であるし、その両親、ローランの元女王であるロザリー・フィリスも従兄であるフェリシアンも、それぞれに人目を惹く美貌の持ち主だった。だから、ある程度の予想はついていたし、ザビーネ自身は、絶世の美女と名高い、アースガルド皇后ルフィラを見慣れている。だから、生半可な美少女では、驚かない筈だった。

 驚いたのは、ある意味では、エリザベートの存在が、ザビーネの予想を裏切ったからだ。母親似の豪奢な顔立ちを、どこかで予想していた。そして、あの母に仕込まれた、隙の無い振る舞いを。それは偏に、母であるロザリー・フィリスの印象の強さを語るものだったかもしれない。

 しかし、跪いた女将軍の前に降り立ったのは、楚々とした、かぼそい少女だった。

「むかえに来てくれて、ありがとう。ザビーネ・シュナイダーどの…ですよね?」

はにかむように微笑んだ少女の白い頬は、家系の特徴である、輝かしい金髪の向こうで、けぶって見えた。他を圧倒するような代物ではない。大人しやかで、儚げで、愛らしくて――皇后ルフィラは、幼い頃には或いは、このような少女だったのだろうか、とも思った。

 けれども同時に、母であるロザリー・フィリスの人の悪さをも、ザビーネは思った。その、子供子供した娘に母が着せたのは、黒と白の、古雅なドレスだった。見た目の豪奢さは無いが、要所を押さえる装身具が、とても華やかに見える。そして、あどけない筈の娘を、妙に大人びて見せる。その不安定さと不釣合いさが、恐らく、思春期の少年にとっては刺激的だろう。

「遠いところを、遥々、ようこそいらっしゃいました。お疲れではございませんか」

「いいえ、だいじょうぶ。もうまもなく帝都ですか?」

父親譲りの青い瞳に、作意の無い笑みが浮かぶ。ザビーネは、その向こう側に色々とありすぎる大人たちの作意を思って、すこしだけ、この少女を気の毒に思った。

 

 帝都に戻り、令嬢をしかるべき女官たちに預けると、ザビーネは早速、夫であるヴェンツェルに、エリザベート嬢の印象を伝えに行った。話を聞いたヴェンツェルは、そうか、それは駄目だろうな、と呟いて、溜息をついたという。

 

 そして、その日の夕刻、長旅の疲れをすこしは癒した令嬢は、歓迎の晩餐に先立って、皇帝一家に挨拶をすべく、謁見の間に通された。

 「北の果てまで、足労をかけた。疲れは取れたか?」

エリザベートが部屋に入ると、掟破りの皇帝は、挨拶よりも先に、そう答えた。エリザベートはもちろん、驚きはしたが、そこは子供特有の鷹揚さで、にっこりと微笑み返す。

「皇帝陛下には、お初にお目もじつかまつります、ローラン総督ロザリー・フィリス・ド・ランベールの娘、エリザベートでございます」

そう、あどけない口調だが完璧な礼儀で、返してみせた。

 その後、細かいやり取りが幾つか重ねられていく間――落ち着きなく、視線を泳がせていた人物が、部屋の中に居た。その視線は、時折さり気ないふりをして、エリザベートの金髪や、ドレスの裾や、組み合わされた白い掌のあたりを掠めていった。その人物とは、ほかでもない、皇帝の傍らに立っていたその嫡子、皇太子ヴィクトールである。

 

 遡ること六時間ほども前になるが、同じ宮殿の一角で、こんな会話が交わされていた。

「理不尽です、殿下。その年で、見ず知らずの異国人と婚約だなんて。嫌なら嫌だって、はっきり言わないとダメですよ」

そう言ったのは、部屋の中に居たうちでは一番年上で、十四歳のアンゲリカだった。

「だけど、大人の事情が色々あってそういう話になっているんだから、あまり我儘を言うのもどうかと思うけど」

などと知った風な口をきいたのは、次に来る、十三歳のオスヴァルト。

「また、兄上さまは、自分だけがおとなだと思っているでしょう!えらそうにいってもムダよ」

生意気な口をきいたのは、ヴィクトールと同じ十二歳のマリア・エルフリーデだ。

「どちらにしても、姉さまが決めることではないでしょう?父さまが聞いたら、きっとそうおっしゃるわ」

続いてまともなことを言ったのは、これも十二歳のフェリーツェ。ねえ、と首を向けた先では、やはり十二歳のヴァレリーが、おっとりと頷いていた。

「決めるとしたら、やっぱり、お兄さまか、お父さまだと思うわ。そうでしょう?」

妹たちにやんわりと窘められて、ばつの悪くなったアンゲリカは、唯一の当事者であるヴィクトールに、その矛先を向け直す。

「どっちにしても、殿下は気持ちが優しいから、ついつい、嫌なことでも引き受けてしまうでしょう?それだけはダメですよって、あたしは言いたいの」

その言葉自体は、嘘ではない。実際アンゲリカは、妹フェリーツェと同い年のヴィクトールを、本当の弟のように思っている。無論、それだけではない、物語のように幸せな恋愛というものに対する、年齢相応の憧れもあるのだが。

 誰もが好き勝手なことを言うのに閉口しながら、それでも優しい性格のヴィクトールは、煩いとは言えないまま、曖昧に微笑んで、その場をやり過ごそうとした。

「わかっているんですよね、殿下」

しかし、そこは気の強いアンゲリカのことで、ぴしゃりと言いつける。ヴィクトールは内心で辟易しながら、生返事を返した。

「分ってるさ。分ってる。分ってると思うよ、多分…」

そう言いながら、目は横を向いて、末っ子で九歳のハインリッヒが広げている、絵本の頁を泳いでいた。アンゲリカは憤慨した様子だったが、流石にそこは臣下であることをわきまえてか、それ以上、キャンキャン言おうとはしなかった。

 皇帝ジークフリードの双子の子供たち、皇太子ヴィクトールと、妹の皇女ヴァレリー。兄妹の従兄にあたる、ジークリンデとナイトハルトの子供たち、オスヴァルト、マリア・エルフリーデ、ハインリッヒ。ヴェンツェルとザビーネの二人の娘、アンゲリカとフェリーツェ。その部屋に居た七人とエリザベートが、皇帝ジークフリードの意地悪な計画の、主演俳優たちになる。

 

 さて、晩餐もつつがなく終り、夜は更ける。ヴィクトールとヴァレリーは、かつて父ジークフリードと叔母ジークリンデが使っていた子供部屋に戻っていった。

「ねえ、お兄さま。エリザベートさまは、やさしそうな方だったわね」

着替えて顔を拭いて、それぞれの寝室に行く前に、ヴァレリーはそう言った。一緒に生まれた双子だが、年回りの関係で、今はヴァレリーの方が、背も高いし大人びている。心ここにあらずの兄が何を考えているかは、おおよそ見当がついたのだ。

 ヴィクトールは、ああとかうんとか、言葉にならない曖昧な返事をして、やはり曖昧な足取りで、寝室に向かってしまった。だが、何とはなしに落ち着かなくて、当分の間、眠れそうに無い。枕を背に当て、寝台に腰掛けると、ヴィクトールは一冊の本を開いた。一ヶ月ほど前に、父から貰った冒険物語だ。塔に捕われた姫君と、それを救う騎士の恋愛を描いた、他愛ない騎士道物語で、父が自分と同じくらいの年の頃、腐るほど読んでは溜め込んだうちの一冊だという。

「高い高い塔の窓から壁を伝って外に出るのは、あまりに危険なことだと思われました。騎士ひとりならともかく、今は姫君も一緒なのです。そこで彼は考えました。階段を下りていって、裏口から外に出る術は無いものだろうか――」

読み返すということもなく、開いた頁の、一番上の文章を読み上げる。思春期の少年の頭の中は、まだ混沌としていて、何がすっきりしないのかさえ、定かではない。どうやら、まだ当分の間――少年は眠りに就けそうもない。

 

 少年の父親である、皇帝ジークフリードに曰く、少年は思い込みやすいのだという。

「それだけ一途で愚かだと言うことも出来るが…思い込みというのは力だ。ほら、俺なんて、あの年頃の思い込みに忠実に生きて、ここまで来たんだからな。肝心なのは、何を思い込んで、どう行動に移すかだ。見ものだぞ、これは」

ふざけた口調で、いかにも楽しそうに喋るが、本人はこれで大真面目なのである。少年の母親でもある皇后ルフィラは、無論そんなことなど百も承知だが、敢えて返した。

「あまり、ご自分を基準に、あの子たちを測られませんように。貴方は特別ですのよ」

分っているよ、とジークフリードは返したが、この場合、後に「だからどうした」が続く。ルフィラは苦笑して、とんと軽く、夫の胸を叩いた。

「貴方は、ヴィクトールには厳しくていらっしゃるから…時々は甘やかしてやらないと、本当にいじけてしまいますよ」

愛しいからこそ、父は子に難題を与え、母は子を案じるのだけれど。

「大丈夫だ。いじけはするが、立ち直れない子じゃない」

それからジークフリードは、にやりと、いかにも人の悪そうな笑みを浮かべる。

「こう言っては何だけど、人を見る目にだけは、昔から自信があるから、な」

 

 さて、同じ頃同じ宮殿の別の部屋では、別の夫婦が同じことについて、別の会話を交していた。

「今日という今日ほど、貴女をジークフリードの妹だと思ったことはありませんよ」

深々と溜息をつくナイトハルトだが、無論ジークリンデは取り合わない。あっけらかんと微笑んで、真っ直ぐにナイトハルトを見返す。彼女の夫は、この笑顔にとても弱い。

「あら、何もあの子たちをけしかけたわけじゃないわ。大体、エルフリーデが突拍子も無いことを言い出すのは、いつものことでしょう。わたくしはそれを聞いてあげただけ」

至近距離に迫った笑顔が嫌に眩しくて、ナイトハルトは顔を背ける。三人の子供の母親となり、齢も三十路の半ばだというのに、未だにそこには、少女の日の闊達さが活きている。

「貴方は何でも正しいの間違っているのと頭ごなしに言いつけようとするけれど、子供というのは失敗しながら学ぶものよ。本当はね」

ジークリンデが言っているのは、大人顔負けに分別臭くて、およそ子供らしいところの無かった、ナイトハルトの子供時代だ。あれと同じことを我が子に要求しても、決して良い結果は招かない、と彼女はいつも言う。

「一番基本的な物事の善悪とか、常識とかを、知らない子たちではないわ。戻ってきたら叱らなければいけないけど、しでかしたことのすべてが間違いというわけではないと思うの」

そう言うと、ジークリンデは思い切り背伸びをして、手を差し伸べ、長身の夫の頬を挟んで、自分の方を向かせた。

「だから、ここは兄上とわたくしに任せて頂戴」

結局ナイトハルトは、この兄妹の我儘に、勝てた例が無い。

 

 残る一組の「両親」の会話は、いますこし異なった色合いを帯びる。

「で、おまえが心配しているのは、うちのお転婆娘のこと?それとも殿下?」

ザビーネの問いかけに、ヴェンツェルは思い切り眉を寄せて、渋い顔をした。

「両方だ」

「大丈夫だよ、よくある子供の悪戯だ。うちの子たちがやったところで、誰も咎めやしない」

「問題は殿下だろう。外のことは、まるきり御存知無いわけではなかろうが、疎いことは確かだ。そこまで言うのは過保護かもしれんがな…」

そこまで言ってから、ヴェンツェルは慌てて口を押さえたが、もう遅い。

「ほら、やっぱり二言目には殿下、殿下なんだから」

可笑しくて仕方ない、という表情で、ザビーネが笑っている。四十路を越えた辺りから体調が思わしくなく、元々すっきりしていた顔立ちに窶れが浮かぶこともあるが、こういう表情をしていると、急に若返ったように見えることもある。

「うちのお転婆はいいんだ。俺がどやしつければ済む。殿下の場合は、そうはいかんだろう」

ばつの悪さを、どうにか誤魔化そうとするのだが、どうにも上手くいきそうにない。

 皇太子ヴィクトールが生まれた時、ジークフリードはヴェンツェルを、その守役に任じた。それは、政治からは距離を置きたいと願い、そのように生きてきたヴェンツェルにとって、十分、戸惑うに値する命だったが、ジークフリードは請合わなかった。

「親のほかに一人、身近に、尊敬出来る男を置いてやりたい。どうせ俺は、この子に随分、厳しく当たることになるしな…逃げ場も必要だろう。お前が適任だ。というより、俺はお前がいい」

その同じ年には、ヴェンツェル自身にも、下の娘であるフェリーツェが生まれた。そして、難産の末に、ザビーネに次の子供が授かることは無いだろう、と言い渡された。つまり自分は、血の繋がった息子を持つことは無い――それは何だか、符号めいて思える偶然だった。

 実際、ジークフリードは、大概の人間が驚くほどの厳しさで、嫡子ヴィクトールを育てた。それは、彼の生涯を賭した帝国に半端な統治者を残せないという使命感であり、我が子が重責に潰されることの無い強さを備えられるようにという愛情でもある。

また、ジークフリード自身は、少年の頃に父帝テオドールの限界を見切ったという。彼がヴィクトールに接する中には、自分は見切られたくない、いつまでも乗り越え甲斐のある壁でありたいという、切ない願いも込もっているように、ヴェンツェルには思えた。

ともかくも、以来十二年、ヴェンツェルは、我が子と同じくらいの時間をヴィクトールと過ごし、半ば以上父親の思いで、その成長を見守り、育ててきた。その子に、娘たちよりも先に、縁談もどきが来てしまったのだ。寂しい気持ちも、戸惑いもある。それからヴェンツェルは、ジークフリードとは違い、大概の親がそうであるように、ヴィクトールの力量を見縊っている。だから、余計なものまで含めて、色々と心配が尽きない。ザビーネにとって、ヴィクトールは飽くまでも「主君の子」でしかないから、よく分る。

だが、こればかりは理屈ではないから、口で何と言っても、どうにもならない。

「心配したいなら、幾らでも、好きにすればいい。それしかすることが無いんだから」

すこし乱暴にぐしゃぐしゃと、くせのある銀灰色の髪を掻き回してやる。若い頃よりも、すこし銀色に近くなったかもしれない。本人に言うと、憮然として否定するに決まっているが、ザビーネはこの色も、とても好きだ。

「何とでも言え」

いい年をして、子供のように不貞腐れた調子で、ヴェンツェルは言い捨てると、そのまま「だんまり」を決め込んだ。どうやら本当に、拗ねたようである。

 そんな夫の反応とは対照的に、ザビーネはどこか野次馬的に、起こるかもしれない出来事を、楽しみにしていた。

 

 さて、明けて翌日の午前、皇太子ヴィクトールは、いまひとつすっきりしない頭を抱えて、従兄弟たちと家庭教師の授業を受け、取り立てて叱られたり褒められたりすることもないままに、休憩時間に入っていた。

 因みにエリザベートは、ヴァレリーやマリア・エルフリーデと一緒に、母である皇后ルフィラの部屋に居る筈だ。芸術好きの母が、サロンの音楽家たちを寄せている筈である。その部屋の窓までは、今居る部屋から見えるのだが、当然、中のことまでは分らない。

「…はぁっ――」

それは別に、聞こえよがしの溜息だったわけではない。自然とその大きさになってしまっただけだ。しかしながら、矢鱈と大きな音だったがために、部屋中に響き渡ることになる。

「ため息をつくほど、イヤ?」

最初に声をかけてきたのは、オスヴァルトだった。思春期の半ばに位置する掠れた声が、まだ澄んだ喉を持つヴィクトールには、妙に大人びて響く。

「何が」

「エリザベート嬢のこと。昨日からずーっと、上の空だからさ」

しかしながら、深窓育ちで、市井の同年代ほどに、異性に慣れていないのは、実はオスヴァルトも同じこと。いや、そういう意味では、何も分らないといった風情でぼんやりしてる、末っ子のハインリッヒだって、そんなに違いはしないだろう。

「どうして、すぐにそこに持っていくのかな。別に、そんなんじゃないよ」

などと突っ張ってはみたものの、じゃあ何なのさ、と返されれば、上手い受け答えなどありはしない。言葉に窮したヴィクトールは、かなりわざとらしく、教科書に戻っていく。

 オスヴァルトもオスヴァルトで、特に面白くも無かったので、それ以上の深入りはしなかった。ただ、昼食の時にちょっとだけ、そのことを妹に話した。その話が、瞬く間にヴァレリーやアンゲリカに伝わったことを、一体誰が責められようか。

 そんなこんなで、すべての授業が終り、ヴィクトールが解放される夕刻には、かまびすしい少女たちが、集団で押しかけてくることになる。アンゲリカを除いては、やはり色恋沙汰など遠い存在で、みんな等しく疎いのだけれど、好奇心だけは、あるものだから。

「イヤならそうそうに断るべきよ、ヴィクトール!今ならまだ、子どもですもの、責任は伯父さまが取ってくださるわ!」

開口一番、マリア・エルフリーデがまくしたてる。これは絶対に、八割は面白いからだ。

「そうです殿下、陛下のことですもの、絶対に嫌がっていることを、ムリに押しつけたりはしないはずだから。今ならまだ、エリザベートさまの体面を傷つけることもないでしょうし」

生真面目なアンゲリカの場合は、多分にして、義憤があるに違いない。でも、ヴィクトールというよりは、どちらかというとエリザベートに対してのそれかもしれない。

「それよりも、このままずーっとうかない顔を続けたほうが、失礼ですよ。お父さまに対しても、そのほかのかたがたに対しても」

一番穏当そうなことを言ったのはヴァレリーだが、正鵠を射すぎていて、ちょっと鋭い。 

 色々な人間から一斉に色々なことを言われたので、流石に辟易したヴィクトールは、ああもう煩いなとか何とか、適当なことを言って、机の上の本に戻ろうとした。

「いいじゃないか、僕があの子のことをどう思って、どうしたってさ」

そして、勢いで発した言葉は、日頃温厚で通っている皇太子のものとは思えなかった。

 その態度にピンときたのは、部屋に居た中で唯一、身に覚えのあったアンゲリカだった。

「わかった!殿下、さては、満更でもないんでしょう」

アンゲリカの中では、一気に物語が出来上がってしまったようだ。確かに、初恋の物語としては、それなりに美しい。そして、それに対するヴィクトールのしどろもどろな反応が、言わずもがなの回答を教えてしまった。

 そうすると、女の子たちを包む空気が、一気に熱くなる。入り込めないオスヴァルトが、そそくさと部屋の隅に行ってしまったことにさえ、気付きもしない。

「そうならそうと、早くおっしゃいよ!そうよねぇ、かわいらしい方ですものね!」

マリア・エルフリーデの外まで聞こえそうな大声に、ヴィクトールは思わず頭を抱える。

「本当に、あなたは水くさいんだから。ちょっとくらいしゃべったって、へるものではなくてよ」

しかし、誰に似てか極端にお喋りで、下世話なことも大好きなこの従妹が、そう簡単に黙るものとも思えない。ヴィクトールは慌てて、双子の妹に助けを求めてみたが、軽く見上げた視線の先で、ヴァレリーはにっこりと微笑んだ。

「すてきな話よ、ヴィクトール。そう思っているのなら、お帰りになるまえに、エリザベートさまに、お伝えしておいたらどうかしら」

縋った筈の一本の糸は、有り得ない鋭さの針になって、ヴィクトールにとどめの一撃を突き刺した。アンゲリカも、普段は大人しい筈のフェリーツェまで、そうしろそうしろと一斉に囃し立てて、静まる気配も無い。

 「いい加減にしてくれ!まだそうと決まったわけじゃないよ」

やっとのことで、それだけの言葉を吐き出すと、精一杯の虚勢を込めて、自分を取り囲む少女たちの顔を睨みつける。年下のマリア・エルフリーデを除いては、みんな彼より背が高い。年頃からして当たり前の事実なのだが、この瞬間には、妙な圧迫感と、敗北感さえ感じてしまいそうだ。

「それもそうね、ゆっくりお話しをする時間もなさそうだし…」

しかし、怒鳴られたくらいで引き下がる少女たちでは、断じて無かった。マリア・エルフリーデの面に、危険な笑みが輝いている。

「お会いするにしても、必ずだれか、大人がいっしょですものねぇ。それではたしかに、進展のしようもないわねぇ」

出来るならヴィクトールは、耳を塞いでそこから先を聞きたくなかった。しかし、一度喋り出したマリア・エルフリーデを止められるのは、厳格で鳴らす彼女の父親と、彼女でさえ一目置く、その母親をおいてほかに無い。

 

 すべての話が終り、アンゲリカとフェリーツェが、父ヴェンツェルに連れられて、家に帰る。そのほかの子供たちも、それを機に、子供部屋に戻ることになった。何だか大変そうだね、とオスヴァルトが言う。ヴィクトールはそれに、どう反応していいのか、よく分らなかった。

 

 翌日は盛夏節の前夜祭で、宮殿中が慌しく、浮ついた空気が流れていた、というのが、まずひとつ。

 朝早くに通用口から来たアンゲリカとフェリーツェの姉妹が、昼前にバタバタと帰っていった、というのがもうひとつ――といっても、この姉妹の出入りは殆ど毎日のことなので、誰も気には留めていなかった。もっと極端なことを言えば、見ていなかった。実は、フェリーツェはマリア・エルフリーデと一緒にまだ城の中に居たし、走って出て行った子供の数は三人だったのだが、あまりに正面突破すぎて、どうやら誰も疑わなかったらしい。つまり、アンゲリカを案内に、ヴィクトールとエリザベートは、前夜祭の雑踏の中に消えていったのである。

 「すげぇ、本当にまんまと逃げおおせたな。大丈夫かよ、この城の警備」

その様子を見ていた傭兵が、何の危機感も無く呟いた。小柄だがよく鍛え抜かれたその腕は、北の地では人目を引く、濃い小麦色だ。

「失礼なことを言うな。こうなるように、俺が配置をいじったんだから」

そう答えたのは、この北の地でもやはり人目を引く、長身の騎士。

「どちらにしても、可愛らしい計画が実行に移されたわけだね。さあ、追いかけようか」

続けるのは、これまた人目を引く蜜色の肌と、すれ違う女性の多くが振り向いてしまうであろう、繊細な美貌の楽師。

「そうね、子供の足だけれど、この雑踏だし、甘く見ていると見失うでしょうね」

既に歩き出したのは、これまたすれ違う男性の殆どを振り向かせそうな、華やかな美貌の女官だった。要するに、何かしらの理由で目立つ、まったく尾行に向かない人間が四人揃って、脱走した子供たちを追いかけるという寸法だ。

 まあ、それはともかくとして、皇帝ジークフリードが、こうなることを期待して用意した追っ手というか、護衛というか、お目付け役のような四人組――アルワリード・エル・アッラシードの息子ユースフ、ゲオルグ・シュライヤーの息子エルヴィン、ガルーダ家のラーマの養子でヤマ家のインドラジットの息子マリーチ、アスカーニオ・オルシーニの娘ヴァルトラウト――もまた、雑踏の中に姿を消した。

 ことの次第を確認した上で、皇帝ジークフリードがほくそえんだのは、言うまでもない。

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