「血は争えない、か…好きな言葉じゃないが、あの娘の場合は、そうとしか言いようが無いな。一目で、それと分ったよ」

皇帝ジークフリードが、しみじみとそう呟いたのは、その夕刻のことだった。傍らにはザビーネが居て、眠そうにとろとろしている幼い娘たちを、優しくあやしている。

「それで、教えてやろう、という気を起こされたのですか?」

「いいや」

股肱の忠臣であり、幾多の死線をともに渡った戦友でもある相手に、ジークフリードは、少年のような悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「そうと決めたわけじゃない。もちろん、あの娘には、知りたがる権利があるだろうが…知る権利を得るかどうかは、会って、話して、俺がその価値を見出せるか、だな」

それは、いかにも彼らしい言い草ではあったが、年若い娘に対して、余りに意地悪とも思える。無論ザビーネは、そこに異を挟む気などありはしないが。

「ナイトハルトがお側におりましたら、叱って貰いたいところですよ、陛下。相談などと仰って、わたしの申し上げることなど、最初から容れるお積りではない…それは、ずるいというものです」

唯一、苦笑交じりに言ったのは、そんな言葉だ。それは、かつてアースガルドの戦女神と呼ばれ、ワルキューレとして兵たちの崇拝を集めた、颯爽たる女将軍のものではない。母なるものの、穏やかで静かに凪いだ、強さから生まれる言葉だ。

「ああ、悪かった。だけど、とっくに知ってるだろう、そんなこと」

悪びれもせず、透き通るような無邪気さで、ジークフリードは笑った。

 それは、夕方のすこし遅い時間であり、ザビーネは間もなく、子供たちを連れて退出していった。すると代わって、皇后ルフィラが、ジークフリード自身の子供たちを連れて、入ってくる。ジークフリードは腕を伸ばして、両方の膝に、双子の皇子と皇女を抱き上げた。

 ひとしきり父に相手をして貰った幼児たちが、それにも飽きて乳母の手に引き取られると、ジークフリードは肩を竦めて、ルフィラに言った。

「俺の知らないところで、随分と面白いものを飼っていたんだな」

「まあ、人聞きの悪い。わたくしはただ、ザビーネに頼まれた娘を、預かっていただけです。もちろん、心映えのも働きも良い娘ですから、重宝しておりますけれど」

そこには、共犯者たる者が持つ、すこし意地の悪い響きは無い。何よりもルフィラは、ジークフリードやザビーネと違い、ヴァルトラウトの出自には、直接関わりあったことが無いのだ。

 けれどもジークフリードには、あの一瞬の光景が、生々しいほど鮮やかに、焼きついている。皇帝、というだけの理由では、自分を恐れない、一途すぎるほど真っ直ぐで、清冽な眼差し。青みがかった灰色のそれは、その刹那に、確かに自分の表情を読み取ろうと、鋭い光を放った。そして、求めていたものを確かに掴み取ると、躊躇うこと無く、引き寄せようとしたのだ。当代一の覇者、大陸を統べる者を相手に、あの若さでこれほどの態度を取れるとは。

無論、それは、知らぬが故の無鉄砲とも思える。だが、怖いもの知らずの果敢さが宿す輝きを、ジークフリードは決して、軽く見ようとは思わない。過信でも、井の中の蛙でも構わない。最初の勇気を持たない者が、後から何を知ったところで、それ以上に大きくはなれないのだ。いや寧ろ、あの若さがあればこそ、いずれは恐怖を知り、そこを乗り越えて、次の階梯を昇ることが出来よう。そう、ちょうどあの年、十八歳から二十歳にかけて、ジークフリード自身が辿った道のように。

「それで、本当にあの娘に、お会いになるのですね」

軽く呆れたような調子で、ルフィラが言った。それほど、今の自分は、楽しそうな顔をしているだろうか。我知らず、ジークフリードは苦笑していた。

「皇帝たる者が、約束を破るわけにはいかない」

「わたくしの、大切な侍女です。あまり苛めないでやってくださいね」

そんなことを頼まれても、確とは約束出来ないのだけれど。

 

 一方のヴァルトラウトは、その同じ頃、宮殿の中の自室で、我が身と心を持て余していた。主人である皇后から、今日はご苦労だったから、もう下がっていいとは言われたものの、せめて身体でも動かしていた方が、気は紛れたろう。

 瞼の裏には今も、皇帝のあの、強い眼差しが残っていて、彼女を放さない。

 あの瞬間、ヴァルトラウトの顔を見止めた皇帝の、紫がかった青の稀有な瞳は、確かに一瞬、驚きを閃かせると、もっと短い刹那に、懐かしさと暖かさを込めた、納得の表情をたゆたわせた。そう、何かまるで、遠い過去に失ったものを、再び垣間見たような、優しい表情だった。

 けれどもそれは、決してぼんやりとした、柔らかい眼光ではない。焼きつくように強烈で、一度見たら忘れられない刻印を、記憶に残す。きっと、それと同じ強さで、皇帝自身の心にも、見たものが残っているのだろう。それは、常人がこの世で最も貴重なものを見る時の集中力に等しい。あの、何気ない瞬間にさえ、その眼差しを持てる皇帝に、ヴァルトラウトは、立ち竦むような恐怖さえ覚えた。

 だが、お蔭でひとつ、分ったことがある――あの皇帝は、きっと何か、自分の過去に繋がる事実を、知っている。それは無論、直感に過ぎないが、そうでなければ皇帝は、あんな表情をしなかった。それだけは、言い切れると思った。

 とはいえ、皇帝から指定された謁見の時間は、明日の朝。到底眠れそうにも、休めそうにもない身と心を寝台に投げ出したまま、ヴァルトラウトは夜の長さに倦み疲れた。

 扉を叩く音がしたのは、どれほどの時間が経ってからだろう。窓の外はすっかり暗く、濃い夜霧が立ち込めていた。

 この際は、相手が誰でもありがたい。とにかく、持て余した時間の空白さえ、埋めてくれれば構わない。そんな思いで、それが誰かを確かめることもせずに、起き上がって扉を開ける。するとそこには、闇色の髪と瞳の、南の地の楽師が立っていた。

「…予想外のお客様ね。何の用?」

つっけんどんな言い回しになったのは、この間の朝の出来事を消化しきれていないのと、尻切れ蜻蛉のままになった、今日の会話の気恥ずかしさから。するとマリーチは、世慣れない少女ならうっとりと夢に見るような、優雅な笑みを浮かべた。

「昼間の話の続きを、と思って。まあ、ほかにも多少、用はあるんだけど」

「そうやって、女性を口説いて回っているわけ?だとしたら相手を間違えているわ」

言ってから、後悔した。マリーチに対して礼を失する、無遠慮で生意気な台詞だった。けれどマリーチは、柔らかい表情を崩さない。

「まだ怒っているのか。気まずい思いをさせたのは、申し訳なかったと思っているよ」

とは言いながら、空間を滑るように、部屋の中に入ってくる。

「だけど、君はひとつ、大きな誤解をしている」

見たこともない南国の花のように、艶やかな笑みに、ありきたりな台詞を添える。

「僕はね、骨の折れることは嫌いなんだ。無駄な努力ほど骨の折れるものは無い…だから、恋をしている女性を口説いたりはしないよ」

けれども、その言葉はヴァルトラウトには意外すぎて、青みがかった灰色の瞳を、無防備に大きくみひらいた。

「しているよ。自分の、源に」

見返す闇色の瞳の深い色に、一瞬、吸い込まれそうになる。

「是が非にも引き寄せて、抱き締めたいという渇望を、恋と呼ぶならば、ね」

歌うような声の甘さと、心の琴線を震わす言葉は、昼間と変わらずヴァルトラウトを酔わせる。けれども、みすみすそこに堕ちるには、彼女はあまりに気丈だった。

 ゆっくりと呼吸を整えると、今度は凛と研ぎ澄ました眼差しを、マリーチに返す。

「貴方は、奏でるだけが能ではなくて、自ら詠う詩人なのね…だけど、その詩人がどうして、こんな小娘のすることを、気にかけてくれるのかしら?」

その一撃の鮮やかさに、マリーチは、そうでなくては、という満足感を込めて、頷いた。

「冗談を言っても許されるなら、それほど強くて美しい視線を専らにするものには、嫉妬するよ。でも本音を言うなら、僕と似ているからだろうね。僕も、異国の地で生まれて、ここで育った異邦人だ。この北の地なくしては生きていけないと、自分で知っているのに、時々、重い冬の空に耐え切れなくなる」

「そうね、でも、貴方は私よりも、もっと自由に見えるわ。私は見ての通り、ウェスタの娘よ。でも、それが何故、北の名前を貰って生きているのか分らなくて――結局、どっちも自分のものだと信じられないの。でも、貴方は違うでしょう?」

早く、返事が欲しいと思いながら、ヴァルトラウトは一度、言葉を切った。けれどもマリーチが口をひらかないので、飲み込もうとした続きを、押し出す。

「すくなくとも、貴方の音楽はそうよ。貴方は、南で生まれて、北で育った――だけど、南の楽器でも北の楽器でも、それ以外のものでも、自由自在に何でも奏でる――その楽器にとって、無理がある音でもない。その曲にとって、不自然な音でもない――どうして、そんなに自由になれるの?」

今度はヴァルトラウトの言葉が、マリーチの心の琴線に触れて、天上の音を奏でる番だった。

 本当のことを言うならば、マリーチはすべてを「こうあるもの」として、受け止めてきたに過ぎない。自分は、そういう生まれであり、育ちであって、どうなるものでもない、と。だから、彼女のように深く悩まないから、結果的に自由になれたのだと思っていた。悩みを超えたことが無いから、時折まだ、冬の空を重く感じるのだ、と。

「それは、どうもありがとう――」

韜晦に流れかけた語尾を、ヴァルトラウトの真っ直ぐな視線が許さない。その痛いほどの清冽さが、酷く快かった。

 「僕にとって、世の中とは、自分の力ではどうにもならないものだった――僕の生まれについては、噂くらい聞いたことがある?」

素面で喋るには辛いことを、この娘は、自分に強いている。そう思いながらも、マリーチは口火を切った。忘れたふりをしていた痛みが、淡く疼いたけれど、不思議と恐怖は湧かなかった。

「元の六将軍の、ガルーダ様のご子息なのでしょう?」

「あの人は、親だけど義理だ。実際に会ったことが無いから、仕方ないけどね…実の親子の年齢差じゃない」

軽く伏せた瞼の裏には、命を与えてくれた人たちと、その命を育んでくれた人たちと、幾つかの面影が明滅して、最早手の届かない、遠い昔を呼び起こす。

 ゆっくりと、マリーチは語った。物語歌とはかけ離れた、静かに乾いた口調で、己の生い立ちを。闇の一族の総領家に生まれたこと、母のこと、父のこと。養父母に引き取られて育まれたこと。歌を教えられて、この道に至ったこと。

「…だから、僕はもうとっくに…子供の頃に、自分を巡る状況について、考えるのを止めたんだ。考えてどうなるものでもないからね。偉そうに言えるような自由じゃない」

 ヴァルトラウトは口を噤み、一度たりともその視線を外すことなく、その話に聞き入っていたが、マリーチが一息つくと、星のような瞳に笑みを灯して、ゆっくりとかぶりを振った。

「そんなことは無いわ。私は貴方の持っているものを、羨ましいと思うもの」

小首を傾げるマリーチに、ヴァルトラウトはなおも続ける。

「お養母様が、貴方に伝えたもの…貴方が、『それで生きる』と決めたもの――それと共に在る限り、貴方は自由よ。それが、貴方を支える武器で、守りの楯。暗闇の中の灯火で、すべての始まり、すべての終わり。貴方はそこから歩み始めて、そこへ帰るのよ。そんなものを持てる人は決して多くはないの。私にはそれが無い。だからきっと、こんなに自分の源に、拘るんだと思う…せめてそれを知ることが出来たら、この不安定さを、支えることが出来るんじゃないかって」

煌びやかな美貌の上に、年齢相応の、憧れと迷いの影がたゆたう。この時初めてマリーチは、彼女を一人の少女として見直した。

 けれどもそれは、間もなくもっと率直な賛辞へと変わる。

「君にかかると、僕の気楽な生き方が、素晴らしいことのように思えるよ」

「…褒められたものじゃないことも、しているとは思うわ。だけど、貴方は自分の拠って立つ場所を知っているんだもの。それだけは、何があっても決して揺るがないでしょう?」

晴れやかな笑みが、すこしだけ眩しかった。

 「それで、明日の朝、陛下にお目通りして、自分の素性について、尋ねてみるんだって?」

一瞬芽生えかけた揺らぎを掻き消そうと、話題を変える。

「そうよ…我ながら、身の程知らずだと思う。だけど、もう決めてしまったことだから」

「その果敢さを、陛下は嘉されると思うよ。あの方も、そうだからね」

そう言って、マリーチは踵を返し、扉に向って歩き出した。これ以上の深入りは、彼のするようなことではない。

 退出の挨拶をしようと振り向いて、思っていたよりずっと近くに、ヴァルトラウトの姿を見止める。驚いて軽くみひらいた目に、青みがかった灰色の輝きが飛び込んできた。

「…さっきは、失礼なことを言ってごめんなさい。本当のことを言うと、大それたことを言ってしまったって、ずっと悶々としていたの。来てくれて嬉しかったわ。ありがとう」

恐らく彼女は、自分がここに来るまで、一日の出来事と、明日待つものを抱えかねていたに違いない――そう、マリーチは思う。なのに、今、目の前に立つヴァルトラウトは、その悩みを一躍に飛び越した、鮮やかな光を纏って見えた。

 その光の眩さに、マリーチは我知らず、瞼をすぼめていた。

 

 夜が明け、霧が晴れて、朝が訪れた。一点の澱みも無い蒼穹の色が、心地良いとも、厳しいとも思える。けれども、時は来てしまい、二度と後には退けない。

 約束の時間きっかりに、ヴァルトラウトが通されたのは、皇帝の執務室だった。宮殿に伺候し、部屋を与えられていても、近付くことさえ無かった場所である。

 「よく、来たな」

そして、迎える皇帝ジークフリードは、紫がかった青の、稀有な瞳に穏やかな笑みと、到底微笑んでいるとは思えない、強い光をたたえて、待っていた。一瞬、気圧されるけれども、ヴァルトラウトは怯まない。臣下としての礼はともかく、この眼光に返すべきは、己の偽り無い瞳しか無いのだから。

 その眼差しを受けて、ジークフリードはもう一段、笑みの色を濃く染めた。

「…それで、そなたは俺に何を望むのだ?」

けれども、口の端に上るのは、そんな穏当な問いかけから。

「私の、出自を。教えていただきとう存じます」

「何故、それを俺に乞う?」

まずは、予想された切り返し。

「ご覧の通り、私はウェスタの血を引く者です。それが何故、この名を負って育ってきたのか、かねてより疑問でございました。父も母も、そのことは黙して語らずヴァルハラの住人となりました今は、問いかけるべき宛を、持っておりません」

ここで、一旦言葉を切ると、大きく息を吸い込む。この続きは、暴論でしかないと、分っているから。

「ベーレンスの家には、私が五歳よりも幼い頃のものは、何もありませんでした。それは、私があの家に来た年月を、示すものであろうと思います。そして…私が五歳の時、陛下はウェスタを併合なされました。小娘の見る愚かな夢と、思し召されても結構です…私は、陛下の軍が、その折に、故あって連れてきた子供だったのではありませんか?」

口では怖気づいたようなことを言っているが、その双眸は、ひたと皇帝の顔に向けられて、揺るがない。その視線の向う先で、低い笑い声が起こった。

「なるほど、確かに、面白い想像だ…では、もうひとつ訊こう」

確実に、皇帝の機嫌は、良い方向に向っている。

「そなた、何故それほど、己の出自に拘る。この国で生い立ったことが、不幸か?」

「いえ、微塵ほども、そのようには思っておりません」

そのことには、即答出来た。

「秘密は明かしてくれずとも、何不自由なく、愛して育ててくれた両親に、不満などございません。今も、皇后陛下のご信頼をいただいて、大切なお勤めを、させていただいております。そのことに不満を申すなど、滅相も無い」

それでは、何故。皇帝の瞳は、重ねてそう問いかける。

「憶測で申し上げる非礼を、どうぞお許しください、陛下」

この問いも、予想はしていた。そして、一晩かけて、答えを考えた。

「陛下が、ご自身の野望にお気づきになったのは、何時のことでしょう。それに、理由がおありでしたか?いいえ、私が聞きたいのは、それではないのです…理由はともあれ、萌した野望のために邁進されることで、陛下はご自身の生を、築いてこられた…違いますか?」

「確かに、その通りだ」

皇帝は頷き、一段と強い、貫くような視線を投げかけてくる。

「私の思いも、それと同じものです。最初にあったのは、子供らしい疑問に過ぎません。何故、私は父、母と似ていないのか。けれども、誰も教えてくれないその答えを、ずっと求めて、生きてきました。私はこれまでの十何年かを、そうして築いて参ったのです」

「では、もしもその答えに、辿り着いたら?」

「…正直に申しまして、まだ分りません。ただ、そこから見えるものを基に、己の足場を、築けるのではないかと思います。何を武器にして、この生を生き延びるのか。何が私を守ってくれるのか。私はどこを目指し、どこへ還るのか――それを見出さねばなりません…ちょうど、陛下がその野望を見出されたように。けれども、私のように依怙地な小娘にとっては、先にひとつ、探すものがある時に、もうひとつのものを追いかけるような器用なことは、出来ないのです」

 ごく短い沈黙が降り積もり、やがて、軽やかな笑い声が、すべてを取り払った。

「…気に入った」

ひとしきり笑った後に、皇帝は短く、そう言った。

「良い覚悟、良い性根をしている――それから、良い読みだった」

それは、求めていたものが来る、最初の合図に相違ない。ヴァルトラウトの背筋に、冷たい緊張が走った。

「それから、真っ直ぐにものを見る…知らないだけかもしれないが、恐れない。シニョリーナは変わらんな」

ウェスタの言葉で令嬢を意味するその呼称は、ヴァルトラウトの中に、何か不思議な懐かしさを呼び覚ました。そして同時に、皇帝の言わんとするところを、漠然と掴みかけた。自分の、暴走のような想像は、正しかったのではないか、と。

「ヴァルトラウト・フォン・ベーレンス――良い名だが、そなたが生まれ持った名は、別にある。思い出さないか?ルクレツィア・オルシーニ――それが、そなたのもうひとつの名だ」

瞬間、ヴァルトラウトを包む空気が凍りつき、思考が麻痺する。

「気づいたようだな。そなたの父は、ウェスタ教会軍総司令アスカーニオ・オルシーニ。母はその正妻チェチーリア。ウェスタ併合の時に、俺がこの国に連れ帰った娘だ」

 凍てついた空気が罅割れて、跡形も無く砕け散る。その残骸の中に、ヴァルトラウトは立ち尽くした。アスカーニオ・オルシーニ――無論、その名は知っている。皇帝ジークフリードの覇業の前に、最初に立ちはだかった、偉大な野心家。大陸統一の過程で相見えた多くの敵手の中でも、とりわけ皇帝が重んじ、敬意を払う存在――生みの親とは言われても、その存在の大きさと重さに、ヴァルトラウトは押し拉がれそうだった。

 無論、皇帝はその様子を、つぶさに見ている。

「やはり、一時に受け止めるには、大きすぎるようだな」

口元にたたえられた笑みは、嘲る様子も無く、先ほどまでの少年めいた軽やかさも薄れて、父性を感じさせる。

「そうだな…暇を出す。一度、里帰りしてくるといい」

そして、そのままの表情でいかにも軽く、次の言葉を投げかける。

「そなたの生まれたところに戻り、父の存在を、感じてくるといい。あの男と相対するには、それしかあるまい…俺にも分る、経験者だから」

だが、仮にもヴァルトラウトは、皇后の侍女だ。皇帝から話を通してくれるとしても、役目は疎かにしたくないし、周囲の目もある。戻ってきた時、前の場所に入れるのか、という不安もだ。ヴァルトラウトが返事を躊躇っていると、ジークフリードはやっと、そのことに気づいたらしく、軽く肩を竦めた。

「ああ、悪かった、そうだな、名目が要るな……近々、皇后の楽師が、故あってウェスタの聖都ナヴォーナに赴く。その護衛を、そなたに任す」

皇后の楽師とは、マリーチのことだ。この事態に関わるもう一人であり、彼女と同じく、皇帝の敵手たる者を父に生を受け、北の地で育った異国人である人物。その二人の道行きは、相応しいとも思われたし、意地が悪い、とも取れる。 

 けれども、ヴァルトラウトには今更、否やは無い。目の前に開かれた扉なら、それが何であれ飛び込むのが、彼女の性分であった。

「お役目、謹んで承ります、陛下」

深々と頷き、もう一度目線を上げて、見据えた皇帝の双眸は、そうこなくては、とでも言いたげな、不敵で満足そうな色を浮かべていた。

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