「その報せ」を聞いた瞬間、ザビーネは一瞬にして血の気を失い、手にしていた皿を床に落とした。

「…どういうことなんだ。本当に…行ってしまうのか?」

白くなってわななく唇が、やっとそれだけの言葉を押し出す。細い手は、六ヶ月目を迎えて、すこし目立ち始めた腹部を、心配そうに抱えている。その、今にも泣き出しそうな双眸を、ヴェンツエルは黙って見返した。

 

 ことの発端は、皇帝ジークフリードが聖樹の根元での戦を終え、この帝都に戻ってきてから間もなくだった。確かに、ジークフリードはこれで、大陸各地の諸勢力を頭だけは制圧した。大陸の北と東はほぼ掌握したと言って良かったし、西についても、目途は立っている。けれども最後に、彼がまだ一度も足を踏み入れたことが無い土地、南のアヨドーヤが残った。

 ラーマが言うには、今度の戦で、いわゆるアヨドーヤ八大諸侯のうち、五人までが命を落としているという。首魁たるヤマ家のインドラジット、彼に付き従った、ハヌマン、ガネーシャ、ナンディンの三家、そしてインドラジットに反旗を翻した、マルトタンダ家のクリシュナ。更に、残り三家のうち一家、ガルーダ家の当主たる彼は、今やアースガルド六将軍に名を連ねている。   

残されたのは、今回の件で静観を決め込んでいた、アプサラとナーガの二家だ。

アプサラ家の当主は名をヴァーユといい、六十を越した老人だったが、ここ数年は病の床に就いており、実務は息子が行っていた。今回、インドラジットの起こした戦に巻き込まれずに済んだのは、その当主がいよいよ危なかったからである。

一方ナーガ家の当主は、名をラクシャサといい、年齢は四十歳。寡黙で政治的な利害にはまったく関心が無い男である。しかし、何事も筋を通す生粋の武人で、クリシュナがラーマとともに協力を期待しながら、得られなかった男でもある。何故、この家がインドラジットの野心から逃れ得たかは、ラーマにも正直、見当がつかない。領地に引きこもる、正統な理由など無かった筈だ。けれども事実として、ナーガ家の紋章たる大蛇の旗印は、聖樹の根元にはためくことは無く、ラクシャサは命を永らえた。

 そして、シャーテンヴォルフがどうにか調べ上げた情報によると、インドラジットの死を知った彼らは、それまで根でも生えたかのように領地に据えていた腰を、やっと上げたのだという。二人は協定を結び、当面は話し合いを重ねて、国を治めていこうという結論に達したようだ。インドラジットは、簒奪にあたって手回し良く、カンサ王の血を継ぐ子や孫たちを、綺麗に始末してしまっていたから、後継を探すといっても容易なことではない。元来、八人の諸侯が分割統治してきた国だけに、たった二人が治めていくには火種の多い土地柄でもあり、南の地は未だ、不穏なままに残されていた。

 一度、南へも行った方がいい。今、その地を治めている者たちと会って、今後を話し合わなければ、大陸の統一など覚束ない。ジークフリードは早々に、決めていた。

 けれどもラーマは、ジークフリード自身が南へ行くことだけは、強硬に反対した。気温が高く、湿潤な彼の地には、独特の風土病が幾つもあり、北の地の人間が足を踏み入れた時、どうなるかは保証出来ない、という理由だ。それを聞いて、流石にジークフリードも恐怖を抱いたし、宰相たるデュッセルドルフら、宮廷の重臣たちは、早くも決して許すまい、と意思を固めていた。

 また、そのような事情があるとなれば、北の地から徴兵された者たちを、安易に連れて行くわけにもゆくまい。そんな事情もあって、ラーマとアルワリードが中心になり、バグワットの兵を主体に、軍の編成を進めた。バグワットは歴史的に、何度かニンフォニウムと戦をしたことがあり、その際にも、大規模な疫病が発生した記録は無い。つまりは砂漠の人間ならば、病魔に全滅させられることは無いわけだ。

 南への遠征軍を率いるのは、ラーマとアルワリードの両名。誰もがそう、信じて疑わなかった。けれどもそこに、手を挙げた者が居たのだ。

「アースガルドの将が一人も居ないのでは、格好がつかんだろう」

そう、さも当たり前げに、それ以上にぶっきらぼうに、ヴェンツェルは言い放った。

「これは、昔あったような、西と南の境界争いではない。大陸統一の、仕上げになる戦だ。誰がやることか…アースガルドが、だ。疫病があるというなら、兵にまで付き合えとは言えん。だが、将までそれで逃げていては、誰に対しても示しがつくまい」

確かに、それが正論には違いなかった。本当なら皇帝が行くべきところを、代理人に任せるのだ。その顔ぶれには、アースガルドの人間が居るべきだろう。

 けれども、豪胆と言うにも度を過ぎていた印象は否めない。いかに大陸最強の剣士と言えども、病まで斬り捨てるわけにはゆかず、その点では将も兵も関係ない。ひとつ間違えれば戦場の外で命を落としかねないのだ。

「…まったく、お前の強さには恐れ入るよ――」

誰も、何も言えないで居た苦しい沈黙を、ジークフリードが取り払う。ヴェンツェルは、さしたる表情も浮かべないまま、皇帝を顧みた。

「自分の身の危険は、怖いとは思わないんだな」

「…いえ、流石に正直、恐ろしいと思います。ですがこれは、誰かがやらねばならぬこと。そう思ったまでです」

「御免だぞ、ザビーネに泣かれるのは」

言いながら、ジークフリードはそれを、禁じ手だと痛感した。公事と私事では訳が違う。事実だとしても、この際それは関係の無いことだ。ヴェンツェルも、それは反則だと言わんばかりに、苦笑して肩を竦める。

「その事情は、誰でも同じです、陛下。ゲオルグも、ナイトハルトも――」

 けれどもジークフリードには、あとひとつだけ、どうしても確かめておきたいことがあった。

「あのさ…もうひとつ禁じ手を打つけど――ユーリエや、アルベルトの分を、背負い込まなくてもいいんだぞ」

その言葉に対して、ヴェンツェルは最初、灰色がかった青の双眸をみひらいて、すこし驚いた表情を浮かべていた。やがてそれが和らぎ、苦笑に染まる。

「…参ったな、そう、見えますか――」

「憶測だよ。けど、何となく、な」

ヴェンツェルは未だ、アルベルトを喪った事実から、自由になってはいない。口では彼を死人と呼び、もう何の関係も無いなどと言いながら、強烈にその不在を感じ、その心を更に鞭打って、前に進んできた印象がある。その強さに、ジークフリードは感嘆し感謝もしたが、珍しく、その内心を測りかねていた。自分でない者が、喪失の傷とどう向き合い、折り合うのか。

 そしてもうひとり、最愛の妻ザビーネが、娘と呼んだユーリエのこともある。ヴェンツェルが傷を負い、暁の女神ウシャスを追跡出来なかった時に、代わりに走ったのがユーリエだった。そして彼女は、その果てに死んだ。誰も、何も言いはしないが、ヴェンツェルの心には、未だその棘が刺さっている。

 けれどもヴェンツェルは、予想したよりはずっと穏やかで、静かな笑みさえ浮かべて、返事をしてくれた。

「…ある程度、背負い込んでいることは認めます。でもそれは、俺があいつらに、何かの責任を負っているからじゃない。奴らがすべきだったことを、俺がしようとも思わない――ただ、俺とあいつらと、両方のために出来ることが、まだ幾つかある筈なんです」

はっきりと、言葉には出来ないけれど、そのおおまかな意味は、ジークフリードにも掴めた気はする。彼らが居たならばやったであろうこと、喜んだであろうことの中で、自分に出来ること、実りになることを、ヴェンツェルは探しているのだ。

「特別な事情が無かったなら、俺とアルベルトを送ったような場所だ――違いますか、陛下」

そう問われれば、ジークフリードには否定のしようも無い。

「そうだな――そうなっただろうな。分った、お前に任せるよ。その代わり、ちゃんと帰って来いよ。もう、死人はたくさんだからな」

有り得たかもしれないひとつの未来図は、差し向かう二人の胸に、鋭い痛みを投げかけた。けれども二人は、その現実を握り締めて、決断を下した。この、消えることの無い痛みにいつか慣れ、ともに生きてゆける、すこし遠い日のために。

 

 長く、重苦しい沈黙の中で、ザビーネの頬を涙が伝い始めた。怒りでも無く悲しみでもない、複雑でやるせないその涙を見ながら、ヴェンツェルは自分に呆れていた。彼女を泣かせないことなど、最初から不可能なのだ。最も身近で愛しい者を踏み躙らなければ、遠い南の地へは行けない。だが、その感触の何と残酷で、痛ましいことか。

「…行きたいなら、行けばいい。わたしにそれを止める権利なんか無い」

更に沈黙が引き伸ばされ、限界点に達したところで、ザビーネは言った。搾り出すような、苦くて力無い声で。恐らく、彼女ならそう言うであろうと思った言葉を。

 だが、この日のザビーネはそれでは終わらなかった。

「行ってしまえばいいんだ、どこへでも。所詮わたしは、そこには行けない。だって、お前とアルベルトの世界なんだから――わたしには、関係の無いところなんだから!」

抑えきれない不安が、理性を取り払っていた。そこに溢れ出したのは、嫉妬、恐怖、疎外感と自暴自棄――どれも、およそザビーネらしくは無いが、人である以上、心のどこかには、これらの感情を潜ませている。今、それが目の前で爆発したのだ。

「怖いのか?」

ヴェンツェルは、愚かしいくらい陳腐な問いをした。それが一番、大きな理由なのだ。だったら徹底的に吐き出させてやらなければ。

「ただの戦場に行くなら、信じて送り出すよ…だけど今度だけは違う。アースガルド人は行かない方がいいと、ガルーダ殿が言ったんだろう?何で、敢えてそこへ行こうとするんだ?わたしには、無茶にしか見えない。それに今度は、わたしは何の力にもなれない…」

言葉の最後に、消え入りそうな声で付け加えられたもの。その一言が、驚くほど自然にヴェンツェルの心に収まり、「答え」を形作る。

「…本音はそれか」

気がつけば、涙に濡れた菫色の瞳は、毅と真っ直ぐに、彼を睨んでいた。

 この時になって、ヴェンツェルはもう一度、自分の愚かしさを思い知る。いかにザビーネが気丈な清々しい性格の持ち主でも、嫉妬くらいはするだろう。だが、無為にそれに囚われる女ではない。自分の試練を他人に肩代わりして貰おうなどと、間違っても思わないだろうから、子供なら一人でも生むに違いない。そして、お互いを喪う恐怖は、今までもずっと、一緒に抱えてきた。そこまでは、何一つ今までと変わることは無い。

 けれども、決定的に違うことがある。戦場を渡ってきた日々、二人はいつも、状況を動かし得る立場にあった。大陸の端と端に別れても、前線と後方に配置されても、同じ目的を持って、その場で最善を尽くし合った。けれども今回、ザビーネは本当に、ただ待つだけの立場に追いやられるのだ。

 アースガルドの戦女神――それは、長い間ザビーネの二つ名とされ、彼女自身が選んで、演じてきた役割だった。ヴェンツェルの目には、それは過酷なものに思えたこともあったが、本人にとっては、誇りであった。己の犯した罪を知り、歴史の中に意味を探していた、彼女にとっては。

「…だって、怖いじゃないか。今のわたしには、お前のために何を出来る力も無いんだ…脅えて震えて、泣くだけが能の役立たずなんだぞ。わたしは、レナーテやハディージャとは違う…黙って待つだけの勇気なんか無い!」

涙に押されて堰を切った言葉は、今やとめどなく溢れて、ザビーネ自身を押し流すかと思われた。

「ザビーネ…」

「五月蝿い!お前なんかに分ってたまるか。生まれてこの方、一度も役立たずになったことの無い人間に、こんなに怖い思いが分る筈が無いだろう?!違うか?!」

 その激情が、ヴェンツェルの心のどこかに障って、一瞬、怒りが弾ける。気がついた時には、ザビーネの頬を、はたいていた。無論、力は半分以下、痛みはたかが知れている。けれど、敵でもない女に手を上げたのは、それが生まれて初めてのことで――一瞬、ヴェンツェルも、行動の理由を探して、視線を泳がせた。ザビーネは何も言わない。張られた勢いで横を向いたまま、視線を床に落としている。

 けれども今度は、その場に沈黙が満ちることは無かった。

「…謝れ」

低く、短く、ヴェンツェルが言った。驚いたように目をみひらいて、ザビーネが顔を上げる。

「その子に、謝れ。自分が居るために、母親がこんなに苦しんでいると知ったら、悲しむだろう。状況はどうあれ、俺たちが望んだ子供だ。生まれる前から、辛い思いをさせるんじゃない」

灰色がかった青の瞳に浮かぶのは、誰でもない、ヴェンツェル自身の悲しみの色。その深さが、溢れていた涙を留めて、視界をはっきりとさせる。

「…知ったようなことを、言うじゃないか」

「分るさ。お前の子だからな」

その時、ザビーネの目には、最初からただひとつしか無かった「答え」が、しかと浮かび上がっていた。結局、信じて待つしかない。泣いても、悔やんでも、今更何も、変わりはしない。

 そうと思った瞬間に、濡れた頬の上をもう一筋、涙が伝って落ちた。けれども今度の涙は、苦い中にもすこしだけ、甘い。ザビーネは視線を上げた。

「分ったよ、好きにすればいい。わたしはここで、待っているから。その代わり、この子の名前は、勝手につけさせて貰うから。お前なんかにつけさせてやらない。無事に帰ってきたら、人見知りされて泣かれるといい」

不貞腐れた少女のような、意地っ張りで愛らしい反撃だった。ようやくヴェンツェルの表情も緩み、笑みが零れる。

「いいさ、そのくらいは、甘んじて受けてやる。だから、無事に帰ってくる――」

腕を広げて抱きしめたのは、最愛の妻と、彼女の中の、まだ見ぬ我が子と――約束で未来は縛れなくても、自分の想いを、そこへ向けて繋ぎとめることは出来る。その結び目の確かさを、ヴェンツェルは何度も、何度も噛み締めた。

 

 いきなりはたかれた、白い粉。むせ返り、抗議の意味を込めて睨みつけると、ラーマはしたり顔で、余分な粉を払った。

「虫除けです。気をつけても仕方ないかもしれませんが、虫が病を運ぶという話もありますから」

「まだ砂漠を出たところだろうが」

「用心に越したことはありません」

突然の仕打ちにむっとしたヴェンツェルだが、ラーマはしたり顔で相手にしない。ヴェンツェルの親友アルベルトと入れ替わりにアースガルド六将軍に加わったとあって、最初は遠慮が目立ったこの男も、聖樹の根元の決戦を経て、すっかり己の立場に馴染んだようだ。横目でその様子を見ていたアルワリードが、意地悪な笑みを浮かべた。

 アースガルド軍が帝都を出たのは、六月初頭のことだった。これよりも遅くなると、砂漠を超える際、砂嵐に巻き込まれてしまう。ニンフォニウム側から回り込むという経路も一応あったのだが、砂漠の兵を伴なう都合上、砂漠を経由したかった。また、南の地で拠点にと考えている、ラーマの旧領地ティミラーへも、こちらから回った方が近い。

 偉そうな口をきいて出てきたヴェンツェルだが、流石に今度ばかりは、得体の知れない不気味さを感じていた。先の戦までアヨドーヤは、長い歴史の中でただの一度も、アースガルドと直接、交流を持ったことが無い国だった。四季を持たず、鬱蒼と茂る植物と湿気に覆われた、極彩色の国――書物に読み、話に聞いた光景は、いつまでも朦朧として、輪郭を見せない。

ラーマがさんざん脅してくれた、南の地特有の風土病というのも、やはり怖かった。どの程度のものか分らないが、そればかりは自分でどうしようも出来ないのだ。不安がってももう遅いから無駄だ、と何度も自分に言い聞かせるが、気がつけばまた、そのことを考えている。

そんな内心を、すこしは察してくれたのだろう、アルワリードが肩を叩く。

「まあ、そう考えすぎるな。お前は間違っても、こんなところで死ぬような奴じゃない。何だったら、俺が保証するぜ」

「…下らんことを」

思わず一笑に付す、その行為だけでも、随分と心が休まる。ラーマのお節介も同じだ。

 大陸の別々の場所で生まれ、戦場で出会って、いつの間にか同じ旗を仰ぐことになった三人である。ヴェンツェルはその絆を尊いものに思ったし、これ以上喪いたくもなかった。無論、自分がそこから欠け落ちる、という状況も含めてだ。なればこそ、南の地を知る者に耳を傾けて、細心の注意を払わねばなるまい。幾度もそうやって、心に念じた。

 その時ふいに、熱風が駆け抜ける。

「国境まで異常無し!」

斥候に出ていた、ラーマの弟のラクシュマナだ。先の戦では、兄の補佐に徹して目立たなかったが、少数の兵を率いさせると、小回りが利いて、よく働く。このような仕事はもちろん、必要とあれば夜襲や伏兵にも重宝するだろう。

 乾ききっていた砂漠の風に、一抹、湿気が混じったような気がした。砂の地平の向こうには、蜃気楼に歪む、緑の影が揺らめく。南の地、アヨドーヤ――既にそう遠くは無いその場所へ、ヴェンツェルは思いを飛ばした。

 

 宵闇の中に、色とりどりの明かりが咲き乱れている。その幻のような光景を、ザビーネはぼんやりと、窓硝子越しに見つめていた。お腹の子供も今は眠っているようで、動きもしない。

 アースガルドの最も美しい夜、盛夏節――けれども彼女の心は、やはり浮き立ってはくれなかった。六将軍就任以来、この日は宮廷の宴に出るものと決まっていたが、今年は妊娠による体調不良を理由に辞退した。本来であれば、皇帝の婚約者となったルフィラが連なる初めての席であり、顔だけでも出したかったのだが、体調がすぐれないのも嘘では無いし、何より晴れやかな場に連なる気に、どうしてもなれなかったのだ。

 ふさぎこんだ彼女を心配して、家にはレナーテ、ハディージャ、シータという六将軍の妻たちが、それぞれの子供を連れて集まってくれた。ささやかに、それなりに賑やかに、祝ってしかるべき状態なのだが。

 台所からは、レナーテと子供たちの声が聞こえてくる。料理を取り仕切っているのは彼女だ。四人の子の母だけあって、よその子のあしらいも抜群に上手い。普段はアースガルド風の食事などしつけない、アルワリードの子のマリアムとユースフ、ラーマの養子のマリーチを、上手くおだてて料理を手伝わせている。ああやって作れば、慣れないものも美味しいに違いない。

 「どうしたの。またご主人のことを気にしているの?」

ぽんと、肩を叩く優しい力。振り向くと、ハディージャが微笑んでいた。

「…うん、やっぱり、考えないのは難しい。今は気を紛らわす方法が無いから、余計だな――貴女はよく、何度もこんな状況に耐えてきたと思うよ。いや、貴女の場合は、私以上か」

そうとも、ハディージャは、ただ戦に出た夫の留守を、守っていただけではない。まず最初に、夫は自分たちを残したまま、祖国を捨てた。続いて祖国に弓を引き、とどめに彼女たちを、北のこの地に送りつけて、自分はまた戦に行ってしまったのである。砂漠に居た時は、辛い思いもしただろうし、命の危険もあったに違いない。北のこの地では、気候も文化も何もかも違う場所で、どんな苦労をしたのだろう。

 けれどもハディージャは、いつものようにさばさばと笑うだけだ。

「あの男を待てるのは、私だけだから。それに、あれが何をやろうとも、私だって生きていかなきゃならない。いつもそう思っているだけよ」

「羨ましい…」

返した呟きは、自分でも情けなくなるほど、弱々しいものだった。

 やれやれ、とハディージャが肩を竦める。

「理屈じゃ無いんだよね、こういうものは。だから今は、私が何を言っても無駄だろうけどさ…せめて、この夜を無駄に過ごすのは勿体無いって、分っておいて」

それだけ言って、颯爽と踵を返す。行き先は台所だろう。今日は朝から、アースガルドの料理を教わるのだと、張り切っていたから。

 そして再び、ザビーネは窓際に独り、取り残される。せめて台所の手伝いでも、と一度は思ったが、あの広さにこれ以上人間を入れても、何も出来まい。自分の台所だ、よく分る。深々と溜め息をついたら、いつの間にか目が覚めたらしい赤ん坊が、ぽん、とお腹を蹴った。まるで、生まれても居ない我が子に、責められているような気がする。

「すまないな、情けない母親で…」

呟いた側から、涙が零れた。

 「だめよ、そんなにしていては」

一瞬、耳に届いた言葉に戸惑う。アヨドーヤの言葉だった。となれば、声の主は無論、シータだ。相変わらず、表情がぎこちないことも多いし、語彙はお世辞にも豊富とは言えず、言葉の響きは子供のようだ。けれどもこの女性には、何かそれ以上のものがある。歌う時だけ、何に妨げられることも無く溢れるそれは、時折言葉の端々からも滲み出て、聞く者の心に玲瓏の音を響かせた。

「自分をせめててはだめ。その子はちゃんと、聞いているのだから。母親がよいことを言えば、よいことを。わるいことを言えばわるいことを、ぜんぶ」

潤んだような大きな瞳が、真っ直ぐにザビーネを見つめる。

「ね、だから、母親はいつも、いい顔をしていなければ」

歌うような美声は、逆らい難い響きを持っている。ザビーネは思わず、口元をほころばせた。

「貴女も、ずっとそうしていた?」

「ええ」

問いかけると、花が咲くように、微笑む。それは、愛し愛されて咲く、無垢の花だ。夫と離れている時間は、ザビーネの比ではなく長いのに、不安の影は見受けられない。

「羨ましいな、その強さが――」

呟くザビーネに、シータはかぶりを振って見せた。夜のような黒髪が、さらさらと音と立ててこぼれる。

「いいえ、強いのではないわ。あのかたを、信じているだけ。理由はないのよ。でも、あのかたを信じることだったら、わたしはだれにも負けない」

それはまるで、幼い頃から、ただ愛情だけに包まれて育ったような純粋さで…この姫の生い立ちを思うと、信じられない気がする。あるいは、ラーマが彼女に注いだ想いの深さが分る。

 無論、理屈ではないから、完全に気が晴れたわけではない。けれども、確かにすこしだけ、心が軽くなるのを感じた。

「…前にも訊いたことがあるけれど、アヨドーヤというのは、どんな国?花がたくさん咲くところだったと思うけれど…雨が多いの?」

問いかけながら、遥か遠い空へ心を飛ばす。

「そうね、ここよりもずっとつよい太陽にてらされていて、つよい雨がふって…鳥も花も、みんな、とてもあざやかな色。緑も濃いわ。いつも花の香りがながれてきて――」

夢見るような調子は、いつしかそのまま歌になり、祭りの夜に溶けて流れ出す。ザビーネはその中に身を浸しながら、やっとのことで気持ちの重さを忘れ、ただ無心に、ヴェンツェルの無事を祈っていた。

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