「蛟龍を、解き放てと…――…?」

その部屋には、異様な空気が満ちていた。威圧と圧迫。傲慢と厳格。高揚と狂気。基本的には両立し得ない筈のそれらが、息が詰りそうな濃さで、部屋を満たしている。

「…狂っている」

ただ一人、その中に染まぬ者は、呆然とそう呟いた。その声が、誰に届くものとも思われなかったが。

「委細は追って通達する。任せたぞ」

彼女の困惑など知らぬげに――否、実際知らぬのであろう。知る気すら無いに違いない。部屋に連なる者たちは言い、悦に入った調子で、退出を命じた。

「ご一考を…」

「下がれ」

辛うじて上げた小さな声は、届かぬままに掻き消される。無力感ならまだいい。ここには自分を受け容れる余地は、欠片ほども無いのだという絶望感が、これでお終いだと、分からせてくれた。

 扉を開け、遙か遠くに「下界」を見渡しながら――()(れん)は深く、深く吐息をついた。

 その世界は、深い紺碧と常葉(ときわ)の緑と、枯れた赤茶で包まれている。地球、という名の星、彼女の生まれ故郷だ。そして、「委員会」はその場所を、滅ぼしてしまえ、と言ったのだ。

 「委員会」とは、星を管理する人々のことだ。かつてこの星の上で何があったかは知らないが、最初は間違いなく、星の地表でともに暮らしていた筈の人々は、地を這う下界の民と、成層圏に近いこの「塔」に住む「委員」に分かたれた。機械によって完全に管理され、完璧に保たれた「塔」と、不安定に崩れた過酷な気候の、荒れ果てた「下界」。「下界」に今も聳える廃墟は、その場所にかつて、無数の「塔」が存在したことを語る。けれども、かつてそこに「何か」があり、ひとつを除いて「塔」は崩れ去った。そして、残された唯一の「塔」に住まう者たちは、「委員」を名乗り、「委員会」として、「下界」の管理を始めたのである。

 元々、星を包むすべては、極限まで破壊し尽くされた状況にあった。かつては砂の赤茶を包んでいたであろう常葉の色は、今や陸地の半分に満たない。遠目に深い紺碧をたたえる海には、有害物質の泡が押し寄せ、到底、生き物など住めない。灼熱の昼と極寒の夜が繰り返し訪れ、乏しい食糧を巡って人が争う。その上に疫病が襲い掛かる。「下界」は、痩せ衰えた人間たちが描く、地獄絵図の地であった。

 「委員会」は時折、「下界」の惨状が目に余ると判断した時だけ、ほどほどに手を出して、少々のものを施したり、強制的に押さえつけて争いを止めさせたりしている。

 その力の根源となるのは、「塔」の頂上に住まう「蛟龍」であった。真珠の鱗と、美しかった頃のあの星に似ているであろう、深い蒼と緑が溶ける瞳を持つ、龍である。「下界」の人々は、雲の隙に垣間見えるその姿を畏れ、崇めて、その守護者を名乗る「委員会」に従うのである。

 そんなある日、人々が蛟龍に「生贄」を捧げたことがある。生まれたばかりの女の赤ん坊。それが花蓮だった。実のところ、蛟龍は人など喰わぬし、迷惑至極であったに違いないのだが、何故か蛟龍は彼女を守り育てた。それは「委員会」も同様であったが、こちらには明確な打算が存在していた。

 蛟龍は不死の龍である。しかしながら、肉体の衰えは訪れる。それ故に、数百年に一度、蛟龍は「生まれなおす」。伝説に言う不死鳥がするのとはすこし違うだろうが、その瞳と同じ色をした珠玉に化身するのだ。それが言うなれば、蛟龍の卵だ。その卵から、幼生として生まれなおし、数十年をかけて元と同じ大きさに成長し、また数百年を生きる。親も無く子も無い。ともに生きる同族さえ存在しない。それが、蛟龍というものが、この世の開闢から繰り返してきた、孤独な輪廻である。

 花蓮は思う。或いは、その永劫の孤独故に、蛟龍は自分を、育ててくれたのではないか、と。蛟龍が重ねる果てしない時を思えば、花蓮の育つ時間など刹那に等しい。けれども、その儚さ故に、蛟龍は自分を愛しんでくれたのではないか、と。理由は無い。ただ、幼かった彼女は、小鳥の刷り込みにも似た状態で、蛟龍を慕い、疑いも無く親と信じた。

 しかし、蛟龍は既に老いさらばえていた。

 ある日蛟龍は「娘」に告げる。肉体の時の終りと、次の始まりを。しかし、一度生まれなおす度に、前の肉体の記憶は失せる。それ故に、娘は親を喪うことになる、と。

 そして蛟龍は続けた。ほかでもない、愛しい娘に、次に生まれる幼い命を、託したいと。「委員会」の狙うところもそこだった。

誰もが蛟龍の時の終りを知りながら、そこから先が分らなかった。

 そこに、蛟龍とともに育った娘が現れる。ならばこれに、蛟龍を任せればよい。具体的には分らぬが、兎にも角にも蛟龍が望んだ娘なのだ。どうにかなるであろう。それが「委員会」の判断だった。

 こうして花蓮は、「蛟龍の巫女」になったのである。

 それは彼女が八つの時だった。親を無くした幼子の手には、水と緑を溶かした色の宝珠。その中には、「親」であったものと同じ姿の、幼い蛟龍が息づいていた。天地のはざまにお互い以外の寄る辺を持たぬ孤独な魂は、呼び合い、寄り添い、ともに育ち――少女は蛟龍の母となった。

 不思議なものだ――と、花蓮は今でも思う。あの時はまだ、自分自身も十分に幼く、誰かに愛されたい、無力な子供に過ぎなかった。だが、宝珠の中の蛟龍を見た時、ただひとつ思ったことは、自分がそれを、守り育ててやらなければ、という、母性に似た思いだった。

そうすることで、孤独な己を立たせていたのだ、と言うことも、今なら出来る。だが、それにしても、無力な筈の幼子は、「母」として蛟龍に語りかけ、辛抱強く待った。そして、卵の殻を割るように、蛟龍が外の世界に出てきたのは、それから三年も経ってからだ。蛟龍はものを食うということが無い。ただ、空気を吸い、水を浴びて、眠り、また醒める。その繰り返しで時を経る。

そうとも、元来、蛟龍には親も子も無く、それ故に一人でも生きてゆける。その蛟龍に、何故、「巫女」が必要だったのか――それは、「委員会」の腹にある、ひとつの考えのためだ。

蛟龍というものが、元来どこから来たかは、今や誰も知らぬ。どこかに在った筈の記録は、ほかの無数の塔とともに、灰燼に帰した。けれども、「委員会」は知っていたのだ。蛟龍は、この世を滅ぼす力を持つ。それ故に、いつか地上が混乱の極みに達し、「委員会」による制御の限界点を超えた時には、その力を以って、この星を丸ごと、滅ぼしてしまおう、と。

そのためには、蛟龍と心を通わせる存在が必要だった。そのもののためなら、蛟龍が身を投げ出す存在。そのものの言うことなら、蛟龍が聞き入れる、という存在。それが、蛟龍の巫女の正体であった。

花蓮がその事実を知らされたのは、彼女が二十歳になった年だった。その積りで、心して蛟龍を育てよ、と言われた。突然、望みもしない重責を負わされた薄い背中は、しかし、今まで一度として、そのことを現実として考えてはこなかった。

世界を滅ぼす――その途方も無い力と、愛しい「我が子」の面差しは、決してひとつに溶け合うことはない。蛟龍は己が何を持つか、本能で知ってはいるが、花蓮とその話をしたことも無い。どうかその日が現実になりませんように――果てしない空に祈りを馳せて、これまでの時を生きた。そして、願いは叶わぬ、という事実が、現された。

「おかあさん?」

呼びかける蛟龍の声は、まだまだ幼い。花蓮が生きる時を使い果たした頃に、やっと大人になるだろうか。その邪気の無い声で、蛟龍は彼女を「おかあさん」と呼んでいた。

「何でもないのよ。心配しないで、翡翠」

翡翠。それが、花蓮が蛟龍に与えた名だった。青と緑が溶け合うその色は、蛟龍の稀有な瞳の色に、すこし似ている気がしたのだ。

「でも…おかあさん、元気が無い」

愛されたことしか無い蛟龍は、無垢で素直だ。恐らく、花蓮が一言言いつければ、「下界」を滅ぼすことなど、何の罪悪感も無くやってのけるだろう。それが何であるかを、まだ知らない。それほどに幼いこの子に、委員会は何を期待するのか。花蓮は何度も、胸中に呟いた。

 加えて――「下界」を滅ぼすほどの天変地異を起こせば、恐らく蛟龍もまた、無事では済むまい。花蓮はそのことを「親」であった蛟龍から聞いていた。

 そうか、とひとつ、悲しい音をたてて、得心がいった。この子が大人になり、我が身を守る術を知ってからでは、遅いのだ。我が身可愛さが勝って、「下界」になど目をくれないかもしれない。ましてその頃、花蓮は恐らく無に還り、ここには居ない。だから、今のうちにも、なのだ。

 大きさばかりは一人前になり、顔だけでも「母」の体より大きな蛟龍は、心配そうに、その鼻先を「母」に向けた。

「どこか痛むの?」

「いいえ…そうじゃないのよ、翡翠。貴方は心配しないで」

手を伸ばして、触れたその皮膚は、真珠の鱗に包まれて、空気と同じ温度。ぬくもりを感じることはない。けれども、掌に残る幽かな光が、同じものを伝えてくれる。

「ね、翡翠」

その光を、放さないように握り締めて、花蓮は微笑んだ。

「貴方は、『下界』のことを知っている?」

「うん」

その荘厳な概観からは想像も出来ないほど、あどけなく甘えた調子で、蛟龍は返した。

「この『塔』の下の世界――青と、緑と、茶色と…とても綺麗なところ。おかあさんの生まれたところ」

その答えの、あまりの無邪気さに、花蓮は何を言えば良かっただろう。青く見える海に浮かぶ、汚染の泡のことを?それとも、緑を飲み込む赤茶の砂漠を?その上で繰り広げられる、利害を巡る闘争のことを?

「翡翠、私は、」

迷った末に、口をついたのはある決意。

「確かめたいことがあって、『下界』に行きます。何日か留守にするけれど、一人でも大丈夫?」

「大丈夫だよ。心配しないで、おかあさん」

そう言うと、蛟龍は確かに、微笑んだ。その、表情など動く筈もない、鱗に包まれた顔で、確かに――微笑んだ。

 

 「塔」の人間が「下界」に降りるのは、固く戒められた禁忌だ。けれども花蓮は、その「道」を知っていた。蛟龍の住まう場所、「塔」の頂点の社の片隅――かつて赤子だった花蓮が入れられた場所――「塔」の中のどんな設備よりも古びて、見捨てられた昇降機がそれだ。

 花蓮は過去にも、何度かこれを使って、「下界」へ行ったことがある。最初はただ、生まれた場所への好奇心から。その次からは、あまりに悲惨な「下界」の様子に心を痛めて、居ても立ってもいられずに。

 扉を開けて狭い箱に入り、錆びかけた機械をいじっていると、ふと何か、悲しみに似たものが、心をたゆたうことがある。本当ならば自分も、あの穢れた場所で這いずり、のたうって、生きるために他人を足蹴にする人生を、送る筈だった。それが、何の偶然で、こうなったのだろう。

「塔」の中に居る限り、汚染も貧困も血も、「下界」に広がる阿鼻叫喚図のすべてが、遠い。成層圏に近いその場所にあるのは、清浄な空気と水、完全に管理された、予定調和の世界だ。その二つの世界の隔たりは、実際の距離よりもまだ、大きなものだろう。

そして――鋼の軋む微かな音とともに、機械が動き出す。花蓮は思わず、空になった掌を見つめた。その、遠い遠い世界を滅ぼす力が、ちいさな掌に架されたのだ。花蓮自身は、「委員会」の庇護の下で生きているのだから、いずれ叛逆は許されない。では、翡翠はどうなのだろう。あの、幼い蛟龍は。もし仮に、「塔」を追われ、「母」を失うようなことになっても、独りで生きていけるだろうか。そして、今度この目に映る「下界」の光景は、真に存続を赦されぬものなのか。

思いの果てに、もう一度見つめた掌には、もう光は無かった。

 

扉を開けると、そこには、砂の舞う赤茶の大地が広がる。災害に洗われて不規則に歪む地表に、命の欠片も感じぬ渇いた土。澱んだ空気の中には、遠く腐臭や死臭が混じる。手を翳して見晴るかす、遥か向こうに、集落があった。

 渇ききった大地を踏み拉いて、その集落に辿り着くまでに、どれほどの時を要しただろうか。その間に、花蓮の目は真っ赤に充血し、喉も鼻も、鋭い痛みを発した。砂を運ぶ強い風の中にも、有害物質が含まれているようだった。

 そして、集落は――薄汚れた布の幕が張られ、痩せさらばえた人々が肩を寄せ合うだけの場所には――良きもの美しきものなど、一片も存在していないと思われた。

 誰もが明らかに餓え、虚ろな瞳で遠くを見ている。そうでなければ憎悪をたたえた瞳で、この世のすべてを恨んでいる。過去も無く未来も無く、ただ空しく過ぎる「今」だけが、転がされている場所だった。

 花蓮は最初、明らかな余所者である自分が、どう迎えられるかを案じていた。ことによると厳しく問い質され、集落に入ることを許されぬのではないか、と。

 しかし、現実は違っていた。それをする気力さえ、今のこの集落には無かったのだ。

 何度か「下界」を訪れて、分ったことがひとつある。それは、汚染が確実に進んでいる、ということだ。詳しい理由までは分らない。ただ、かつて地表を癒したとされる海原は、毒に埋め尽くされて、その機能を失った。雨風でさえも、毒を撒き散らして、残された僅かな緑を死に至らしめた。星の地表は完全に自浄作用を失い、己で己を傷つけ続けていたのだ。

 緩慢に死に向かう星の上で、人も最早、足掻くことを忘れかけている。ならばいっそ一思いに、洗い流してしまうべきなのだろうか。遅かれ早かれ、すべては死に絶えるのならば。その思いは、一度ならず花蓮の胸を過ぎった。あるいは、そうすればこの星は、永劫の時の果てあたりには、息を吹き返すのではないか、とも。

 けれども、そう思いかける度に、予め仕組まれているかのように、見つけるものがある。

 甲高い声に、振り向く。痩せ細った子供が何人か、こけつまろびつしながら、何かを追いかけていた。幾つくらいだろう、と思ってから、考えるのを止める。「年齢相応の発育」などというものは、「塔」の中にしか無い概念だ。あの中の誰一人として、生まれてから今までに、満ち足りた食事など、経験したことはあるまい。ただ、辛うじて口に出来たもので一時の飢えを凌ぎ、どうにか足りた分だけ、成長したに過ぎないのだ。

 意味の無いような嬌声が、やがて歓声に変わった。何か――そう、この渇いた大地に僅かに生きる、昆虫か爬虫類のようなものでも、捕まえたのだろう。そして子供たちは、「糧」に群がる。分け合うという発想は無い。その分量では明らかに、彼らには足りない。押し合い、圧し合いしながら、それでも彼らは喰らう――その営みを、幸福と呼ぶことは、果たして出来るだろうか。

 何よりも、花蓮の心を突き刺すことには――その子供たちの誰もが、少なからぬ「欠陥」を、その肉体に抱えていた。それは、四肢の歪みであったり、異常に小さな頭部であったり、何某かの部位の欠落であったり――「塔」の中の者ならば、その現実に目を覆い、吐き気など催すだろう。花蓮とて、最初はそうだった。

 そしてもうひとつ、気にかかることがある。あの子たちのうち、一体何人が、言語を解する正常な知能を持っているだろう。先ほどの声の中にも、意味を成す言葉は何ひとつ、含まれていなかった。

 何百年、何十世代に渡って汚染の中を生きてきた人類は、遺伝子の中に汚染を蓄積した。そして、母の胎内で凝縮された忌むべき雫は、赤ん坊とともに産み落とされる。輪廻と誕生の営みさえ、既にそんな悲しみに塗れているのだ。

 ならば、その輪をいっそ断ち切ろうか――何度も考える。

 けれど、それでもあの子たちは生きている。

面倒を見てくれる親が居るようには見えない。抱きしめられ、愛された記憶など持って居ないかもしれない。何も知り得ないことを、至上の無垢であるなどと、知った風な口をききたくない。何が幸せで不幸せなのかなど、知らない。耳を塞いで、花蓮は何度も心に叫んだ。

それでも――汚染の極みをその身に受け止め、淘汰され踏み躙られ、恐らく大人になるまでは生きられないだろう、あの子供たちは――生きている。その現実を、壊すことなど出来ない。

呆然と立ち尽くす花蓮の前に、もう一人の子供が現れた。その子には、一見目立った欠落は無いようだった。そして、言った。

「ほらほら、砂嵐が来るぞ。もう戻れ」

もし、年齢相応の発育を遂げているならば、だが、十二歳ほどに見える、少年だった。先に来て、獣の子さながらに丸まっていたあの子供たちは、その言葉の意味を理解したのかどうか、促されて、また転げるように、走っていった。

 少年の目が、今度は花蓮を見る。成層圏の向こうに広がる真空の闇にも似た、澄んだ黒だ。

「お姉さん、旅の人?」

「え?……ええ、そう」

「なら、そこは危ないよ。もうすぐ砂嵐が来る。ここいらは、ちょっと酷いことになるからさ。良かったら、俺たちのところへおいでよ」

躊躇った気配も無く、少年はそう言った。

「ありがとう…お世話になるわ」

そして、まるで発作でも起こしたかのように、花蓮はその申し出を、受けてしまった。

 

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