目を閉じれば今も、その景色は、鮮やかに甦る。

 真っ白なライトを浴びたステージの上。綺麗な茶色のロングヘアを翻して、彼女は立っていた。透き通る歌声と、ギターのハーモニー。眩い光に照らし出されたその横顔は、弾ける様な笑みに彩られていた。その胸元で、蝶の形のチョーカーが揺れる。そして振り向いた彼女は、あどけない声で、俺の名を呼んだ。

「リョーちゃん」と。

それは、決して忘れたくはない永遠の光景であり――そう言うからには、喪われた光景なのだ。

 

1・春の嵐

 目が覚めたのは、病院のベッドの上だった。白い天井と、白っぽいカーテン。横にはお袋が座っていて――涙ぐんだ目で、俺を見ていた。

「亮介。気がついたの」

何が起こったのか――しばらく考えたが、どうしても思い出せなかった。

「心配かけてごめん」

と、最初に口をついたのは、お袋の泣き顔なんてものを、身内の葬式以外では初めて、見たからだった。

「あんまり喋ると、疲れるから――もう一眠りしなさい」

それは多分、ごく当たり前の、気遣いだったんだろう。俺もそう思った。意識はまだ覚醒し切っていなかったし、身体は動かない。手足の感覚も乏しくて、考えるよりも先に、これがとんでもない事態だ、と分る。とにかく、体力を回復させることが先決。そんなことくらいは、莫迦でも分るだろう。でも、俺にはひとつだけ、どうしても気になることがあった。

「事故に遭ったんだよな?」

ようやく辿り着いた最後の記憶で、俺は車のハンドルを握っていた。そことここを繋ぐものといったら、交通事故以外にあり得ない。

「そう…中央分離帯を越えてきた車と、正面衝突して…」

言いかけてから、お袋が言い澱む。

(レイ)は?」

その名前を口にした瞬間に、半分以上呆けていた意識が、一気に目覚める。助手席には、彼女が居た筈だった。思い出すまでもない。それは決まっていることだから。

 一瞬、お袋の顔に過ぎった影を、俺は見逃せなかった。見てしまった。

「今、この病院に入院してて…」

そう言った声が、不安定に震えていた。滲んでいただけだった涙が、一気に溢れて、零れ落ちる。

「俺、どれだけ眠ってたんだよ」

「二日と、半分くらい」

「玲は。あいつは、意識はあるのか?怪我は?俺より酷いのか?」

答えが返らない。

「どうなんだよ、無事なのかよ。今どうしてるんだよ!」

振り絞れる限り、精一杯の力を、喉から押し出した。それは、見え透いた悲しい答えを、引きずり出すためじゃない。万に一つ、億に一つでもいい、ただ誰かに、否定して欲しかったからだ。

 だけど。

 果たして、予想通りの答えが返ってきた。

 きこえない。キコエナイ、ヨ。そんな答えは認めない。絶対に絶対に、受け入れてやらない。

 

 玲――彼女と初めて会ったのは、大学一年の、春のことだった。軽音楽サークルの、新入生歓迎コンパ。隣のテーブルに顔を出したところで、彼女と隣の席になった。そこにあった名札を見て、声をかけようとした。

「レイ…ちゃん?」

「違う」

そう言って、彼女は唇を歪めた。

「あきら、だよ」

つまりは初対面から、思い切り、名前を読み間違えたわけだ。

「だけど、まあ、許してあげよう。呼びたければ、レイちゃんでもいいよ」

そう言った笑顔は、まるで子供のように無邪気で、翳り無く、一瞬その場が明るくなったかと思うような、不思議なオーラを放っていた。

 それが、俺と彼女――レイラとの出会いだった。

 

 レイラこと、大郷(おおさと)(あきら)。それから俺、高辻(たかつじ)(りょう)(すけ)。出会った場所はそんな具合だったが、結局二人とも、件の軽音楽サークルには入っていない。再会したのは初夏の頃、とあるライヴハウスの客席で、だった。一昔前、一世を風靡し解散した、とあるロックバンドのギタリストが、久し振りにライヴをやる、という話だった。

 オールスタンディングの、鮨詰めの客席で、たった一人とぶつかり合う確率――今ならそれを、奇跡と呼びたい気がする。彼女はちょうど、俺の目の前に立っていた。何かの拍子に、横顔が目に入って、一発で分ってしまった。あの時の、あの子だ、と。

 茶色に染めたストレートのロングヘア、ふっくらした頬の線、美人ではないが可愛らしい童顔。真っ直ぐに前を見つめる大きな瞳は、生まれたばかりの子犬のような、無垢だけどどこか神秘的な光をたたえていた。

 大声で騒ぐほど美人か、と言われると、決してそうでもないのだが、何となく可愛い、と思えるような子だった。顔立ちとか服装よりは、喋り方とか仕草とか、決して今風ではないけれど、一度見たら忘れない。そして、淡い光が輪郭を縁取っているような、オーラに似たものを、彼女は纏っていた。

 声をかけようか。すこし迷ってから、ぽんと肩を叩く。すると彼女は、当然の如く、驚いたように肩を竦めてから、振り向いた。一瞬、ちょっとびっくりしたような表情をして、そして――ゆるく結ばれていた、小ぶりな口元がほころび、声が溢れる。

「あれぇ、見たことのある人が居る」

大きな目をもっと大きくみひらいて、彼女はまた、笑った。

「レイです、こんばんはっ!」

なんて、あけっぴろげな子だろうと、随分驚いた。そんな筈は無いのだが、まるで心の底まで何も隠し事が無くて、扉を全開にしてしまったような、翳りの無い笑顔、そして声。

「まだ、それをネタにするんだ」

苦笑する俺に、彼女は肩を竦めて見せた。怒ってるんじゃないよ、と。

「君の場合、第一印象がそれだからね。つい、一緒くたに覚えちゃって」

その語尾に被さって、客電が落ちた。二人の間に喧騒が満ちて、熱気の波が襲い掛かかった。だから二人は、ひとまずは、耳を聾する爆音に身を委ねた。

 まったく、酔狂な話だとは思うが――実は二人とも、そんなところに一人で来ていた。成り行きなのか必然なのか、とりあえず駅までの道を一緒に行くことになり、ライヴの感想をあれこれと喋った。久し振りにあのギターの生を聴いたけど、やっぱり格好良いね、とか。あのバンドはその昔、最初にハマったバンドだったんだ、とか。それはまるで、祭の帰り道をずるずる行く子供の様な、他愛も無くお目出度く、思い返してみれば愛おしい風景だった。

 ライヴでテンションが上がりきっていたこともあって、話は盛り上がり、結局駅まででは、何も片付かなかった。時計は九時を過ぎたばかりで、若者のお開きにもまだ早い。そんなこんなで二人は、駅前の、深夜営業のカフェに入った。すっかり熱に浮かされていたのか、お喋りは止まらなかった。ライヴの話はまだまだ続き、好きな音楽の話から生い立ちへと続いた。

 玲は、その春に大学進学のために、地方からこちらへ出てきた、と言った。

「本当はねぇ…都会に出たかっただけなんだ。ただ、普通科の高校出た女の子が、簡単に就職できるご時世じゃないじゃん?それにあたし、田舎者だからさ、何も知らない遠い所に素手で飛び込むのは、怖くってさ。それでこんな、コソクな手段を取ってしまいました」

そう言って、ばつの悪そうな笑みを浮かべた。

「で、都会に出てきて、何すんの」

その、無防備すぎる笑顔につけ込むように、俺はそう、訊き返した。

「バンド、やりたいなぁ……」

その呟きは、恐らく返答ではなかった。夢見るように甘くて切ない、独白。その幼い響きと、窓ごしの闇夜に溶けていきそうな白い横顔を、俺は今も、はっきりと覚えている。

 

 「嘘だろ」

壊れた機械のように、呆然と、俺は問いかけた。それに対する答えは知っている。相手が誰であれ、状況がどうであれ、誰も――特にウチのお袋なんぞは――この手の冗談は言わない。

「ごめんね亮介。嘘だって言ってあげられたら、どんなにいいか知れないけど――」

そう言って、お袋は嗚咽を飲み込んだ。

 玲が死んだ。その、巨大な壁にも似た圧倒的事実を、俺はどこかで知っていた。多分、目覚めたその瞬間、この白っぽい空間を認識したのと同じ時に。

 だが、ちょっと待ってくれ。俺が意識を失ってから、二日と半分。事故があったのは、夜更け。

「お袋、玲の葬式は何時」

起き上がろうとした。身体が動かない。そして、全身あちこちが…数えたくも無いほどあちこちが、激痛やら鈍痛やらを、同時多発的に抱えていることに、気付かされた。

「落ち着きなさい、亮介。まだ動いちゃ駄目」

「そうじゃなくて」

言い募る側から、「予感」がこみ上げる。

「玲ちゃんのご両親は、事故があった次の朝に、こちらにお迎えにいらして…玲ちゃんを、連れて帰ったわ。お葬式は、そう、多分今日あたり――」

それでは、どれだけ腕を伸ばしても、もう俺の手には届かない。奈落に吸い込まれるような感覚に襲われる。毀たれ、容れるべき命を失った身体は、その故郷に帰り、もう間もなく、弔いの炎の中に消えるのだ。ライトに照らされていた長い髪、チョーカーをかけていた細い首、弦の上を踊った指と、確かに抱き締めていた、白い身体――それは永遠に失われ、二度と還らない。

 その時初めて、零れた涙がひとしずく、無窮の闇に吸い込まれた。

 

 バンドをやりたい。それは、穏やかな田舎に生まれ、ふとしたきっかけでロックに目覚めた玲の、見果てぬ夢だった、という。

「君は、自宅生?このへんの出身なの?」

あの夜、玲はふと、真顔でそんなことを尋ねてきた。肯定すると、ちょっと泣きそうな顔で、こちらを見た。

「いいなぁ…このへんに居たんなら、欲しいCD探すのも、楽器見に行くのもライヴ行くのも、その気になれば簡単だもんね。あたしの実家のへんは、そうじゃなかったんだ。CD屋はあるけど小さくて品揃えは悪いし、ライヴに行ったらその日のうちに家には帰れないからね!」

自虐的とも言える明るさで、玲は言った。

 「でも、軽音部じゃ嫌なわけだ」

愚問だったと思う。その答えは、俺も知っていた。

「うん。あたし別に、趣味でやりたいわけじゃないんだもん。コピーじゃしょうがないし…何か、あの人たちとは、テンションが違ったんだよ、ね」

返ってきたのは、ほぼ完璧に、想定していた答えだった。

「だよな。俺もそう思った」

その一言に、恐らく玲は、過剰反応した。大きな双眸を輝かせて、真っ直ぐに、食い入るようにこちらを見た。その視線が、俺を逃げられなくした。

「…あたし、独りじゃなかったんだ――」

たったそれだけのことで、そんなに喜ぶ必要は無い。そう思ったのは、それが最初で――最後の日まで何度も何度も、繰り返された。咲き零れる花に似て、無邪気で懸命なその笑顔の裏に儚さを感じてしまうのは、今こうして、感傷というフィルターを通して、回想しているからだろうか。

 結局二人は、話しすぎて終電に乗り遅れ、二駅向こうまで、割り勘でタクシーに乗ることになった。当時、一応まだ十代だった俺たちにとって、それはけっこう、手痛い出費だった。

 大学から歩いて十分ほどのところにある、玲のアパートの前で、二人はタクシーを下りた。俺の自宅はちょっと遠かったので、同じくこの辺りに部屋を借りている同級生に、泊めてもらうことになっていた。

「今日は、ありがとうね」

決して若かったから、だけではない、深夜の疲れを見せない鮮やかな笑顔で、玲は言った。

「また連絡するけど…君のことは、何て呼べばいいのかな?」

そうして今更のように、尋ねた。そういう時、その童顔は、一層幼く、頼りなく見えたものだ。

「何って…好きにしろよ。別に、決まった渾名は無いし、呼びやすいように呼べば」

「リョーちゃん…なんて呼んだら、怒る?」

探りを入れるように。けれど、臆する素振りは微塵も無く。キラキラ輝く瞳は、夜目にも明らかだった。

「言っただろ。呼びたいように呼べばいいって。そうしたきゃ、すれば」

殊更素っ気無い答えになってしまったのは、その視線のあまりの無邪気さに、照れたからだ。

「それじゃ、あたしのことは…うーん、せっかくだから、レイのままでいいよ」

そう言った表情が、一晩の中では一番、幼かった。

「何だよ、まだそのネタを引きずるのかよ」

それは随分と拍子抜けな台詞だった。力の抜けた笑みで応じると、玲は大きく、かぶりを振った。

「そうじゃなくて。せっかくだから、さ」

何がせっかくなのか、さっぱり分らなかったが、「あきら」よりは女の子っぽいし、呼びやすいことも確かだった。

 だが、その時、脈絡も無く一つの言葉が脳裏に閃いた。

「読み間違えのままじゃ芸が無いな…『レイラ』っていうのはどうだ?」

「愛しの?」

玲は即座にそう言って、混ぜ返した。言われて見れば、そんなタイトルの曲もあったかもしれない。エルトン・ジョンだったか…とにかく、普段聴かない音楽だから、忘れたが。

「そうじゃなくてさ…今ふっと思いついたんだけど、ステージネームっぽくて、良くないか?本当にバンド組んだら、使えよ、この名前」

何故、その時そこまで、流暢に口をついたんだろう。納得出来る理由はきっと見つけられないが…運命の夜には、不思議なことが起こるものだ。

 そうとも、運命と言うものが、本当にこの世に、存在しているのなら。そうとも、俺は確かにあの夜、その名前と、その背負う莫大な意味を信じた。

「それじゃあ、本当にバンドやろうよ。ギター弾くんだよね」

また明日会おうね。そう言うのと変わらない、自由で軽やかなテンションで、玲は言った。

 その一言が――俺を包む世界を変えた。

 

 あれは春――季節が初夏へと向う、爽やかで短い季節の出来事だった。

 そして今、時折不順な天候が襲い掛かる若葉の頃、あの日から続いてきた轍は途切れ、あの幼い笑顔は失われ、俺は一人で、身動きが取れない。全身打撲に加えて、肋骨鎖骨大腿骨尺骨…とにかく数えるのも嫌なくらい、折れたり罅が入ったりして、すっかりポンコツに成り果てた。

 わざとらしくもドラマチックに、春雷の響きが聞こえる。何だこの、出来すぎて泣く気も失せる状況は。声が出れば叫びたかった。けれどもそんな力は、壊れた身体の何処からも出てこず――言うなれば俺は、暗闇に独り置き去りにされた、壊れた人形だった。


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