ねえ、と尋ねてみたのは、ほんの思いつきだった。あなた、私のことを「佐恵」って呼ぶじゃない、最初から。それって何か意味でもあるの?

 すると敦司は、少々決まり悪そうに視線を泳がせて、嫌かな、と返す。そうじゃないけど、と言ったら、軽く溜息をついた。

「深い意味があるような、ないような感じなんだけどさ。『子』のつく名前の女の人って、俺にとっては鬼門なんだ。それで、何となく」

「鬼門って、例えば?」

「えーと…筆頭が、うちの母親。折り合いが悪いってわけじゃないんだけど、何かと上手くいかない相性でさ。『美津子』って言うんだけど。中学の時、マジで折り合いが悪かった担任は、確か『奈緒子』さんだったし…」

と、そこまで言って、慌てて口を押さえるけど、もう遅い。先の展開は分ってるけど、言ってくれないともやもやするから、全部言っちゃいなさい。

「…だから、俺、何の因果か知らないけど、今までに付き合った女の人って、全部『子』がつく名前だったわけ。『祐子』とか『日菜子』とか『繭子』とかさ。で、最初に名前聞いた時、一瞬本気で、うわあ4人目、って思ったの」

何だそれは、と思ったその感情は、呆れるとか怒るではなくて、拍子抜けるという感じに近い。こういう業界に居るので、異常なほど縁起を担ぐ人も何人か知っているから、この程度で驚くことはないんだけれど…何というか、いじましい話だなぁ、と。

 それと同時に、もちろん、別のことにも気がつくわけで。

「ふーん、私って、あなたの4人目の女だったんだ」

「…そうだよ」

「因みに今、何歳だっけ」

「佐恵の年から5を引いてよ」

「…25ね。それで4人って、ちょっと多くない?」

「知らない」

「最長記録は?」

3年くらい。そんなこと訊いて何したいわけ?」

「過去の女の影に、ちょっとだけ嫉妬してるのよ。可愛いでしょ?」

「あー、はいはい、可愛い、可愛い」

そう言って敦司は、無造作に私を抱き締めると、ぐしゃぐしゃっと髪の毛を引っ掻き回した。

 本当はその、日菜子ちゃんだか繭子ちゃんだかに嫉妬するなんて、私には出来なかった。どこの誰で、どんな人とも分らない誰かに抱く感情なんて、持ち合わせていない。ただすこし、私の知らない彼の過去に対して、要らない興味を持った程度だ。それ以下の内容は、言葉の綾程度のもので、敢えてその辺りの過去を暴いてみようという好奇心も蛮勇も、振り翳すには年をとりすぎた感がある。

変えようの無いことに対してぶちまけるエネルギーがあったら、まだ読める資料があるとか、観ておきたい映像があるとか、夕飯の仕込とか、カーテン付け替えたいとか…キリがない。目の前に居るこの子には見当もつかないだろうが、必要なことを手早く選んで、優先順位をつけて、それ以外を捨ててしまう――そういうノウハウが身に付く年齢に、私は差し掛かっていたし、それはまた、そうでもしないと余力が無くなる年齢、でもある。

 とまあ、理屈はそこまでだけど、本音を言ってしまえば、今の生活が文句無く充実しているからこそ、余裕をかますことも出来たし、変な我儘なんて必要無かった。

 

 あれを「前触れ」と呼ぶなんて、趣味が悪すぎる。

 

 事務所に来客があったのは、その翌日だ。いやはや偶然は恐ろしい。ともかくその日、私は午後からの撮影の前に事務所に顔を出して、細かい打ち合わせやらその他のスケジュールの確認やら他愛ない業界の話やら、とにかくそれほど忙しくない時間を過ごしていた。

 スタッフの女の子が、ドアの隅からおずおずと顔を出して、あのう、と言ったのは、10時過ぎくらいだったろうか。

「あすかさん、お客様がおみえなんですけど」

「どちら様?今日はここでは何のアポも無いわよ」

などと言いつつ、差し出された名刺を受け取る。

 真っ白な四角い厚紙には、紺と赤で会社のロゴが入り、大きな読みやすい明朝体で、名前と肩書きが記してあった。が、それがあまりに意外なものだったので、私は思わず、声に出して読み上げてしまった。

「四つ葉銀行赤坂支店長、桐山美津子」

相当、ご立派な肩書きだった。全国規模で名の知れた、大手金融機関の支店長。因みにその支店はこの事務所から徒歩圏内にある、3階建ての立派な建物だ。

 が、恐らく私に用があるというのは、その赤坂支店長ではないだろう。桐山、という苗字が、殆どすべてを語っている。母親の名は美津子。昨日、彼、桐山敦司は、はっきりとそう言った。

 向かい合わせで座っていた、マネージャーの遠藤女史が、訝しそうにこちらを覗いている。

「誰?」

その声には、控えめながら研ぎ澄まされた警戒心が滲んでいる。

「…お母さん。彼の」

本当は緊張している場合なのに、何故か脱力した調子で私は言い、それに対して遠藤女史は目を丸くした。

「彼って、あの男のことよね。四つ葉銀行の支店長の息子だったの?!」

「そうみたい。私も今、初めて知った」

これはもしかして、修羅場とやらになるのかしら。ていうか一体、このタイミングで私に何の用事があるって言うんだろう。

「勘弁して頂戴、プライヴェートのゴタゴタは」

軽く呆れた調子で、遠藤女史が言った。その通りすぎて何も言い返せない。

「…会わないわけにいかないから、30分だけ下さい。でも正直言って、このタイミングで乗り込んでくる理由は見当もつかない」

「後からちゃんと、一部始終説明して貰うわよ」

遠藤女史の釘が、ぐさりと背中に突き刺さる。確かに、この人とこの事務所に、これ以上プライヴェートで迷惑をかけられないことは、重々承知している。

 だけど一体、本当に、何が起こったんだろう――というのが、正直な実感で、湧いてくるものはといえば相変わらず、緊張感ではなく変な溜息だったりした。

 

 その人に会った、最初の感想を言うならば「似ている」、二言目には「お見事」というところだろう。 

 実によく似た母子だ、と思う。この人なら、無言で訪ねてきても、敦司のお母さんだと分ったかもしれない。彫りの深いシャープな顔立ちや、その割には繊細な口元の線や、目元に淡い影が落ちるところが――性別や年齢を超えて、よく、似ていた。

 お見事だと思ったのは、その人があまりにも「戦闘態勢」に見えたからだ。ダナ・キャランのダークスーツが身の丈にあっているのを「お見事」と称することも出来る。質のいい、綺麗なラインの洋服がきちんと決まるのは、その下の体型と姿勢と、何よりも人間像が、しっかりと決まっているからだ。なんだけど、そのスーツの強い色とはっきりした線を、インナーもパンプスも全然和らげていない、どころか引き立てている。アクセサリーのひとつも無くて、茶色く染めたショートカットまで決して柔らかくは無いラインで…正直、せめて襟元くらいスカーフを巻いたら、と思った。そりゃあ、女性にとってのパンツスーツなんて、戦闘服以外の何モノでもないのかもしれない。でも、何もそこまで全身でアピールしなくても、と。

 一昔前なら、肩パッドをいからせていた人種かな、と思ったところで、はっと我に返った。値踏みしてどうする。軽く自己ツッコミをした挙句に、軽く会釈をしたら、同じものを返された。

「最初に確認させていただきますけれど、敦司さんの、お母様でいらっしゃいますね」

どんなに分りきっていても、これだけは、確認しておかなければなるまい。

「はい」

外見を裏切らない、はっきりした響きの声で、その人は言った。

「はじめまして、河村佐恵子と申します。敦司さんと、お付き合いをさせていただいております」

深々と頭を下げて口にしたそれは、万が一にも敦司のお母さんではないのなら、立場上、絶対に言えない台詞だ。それから椅子を勧めて、自分も腰を下ろす。

「ご用件を承ります。申し訳ないですけれど、次の予定が詰まっていますので、出来たら手短に」

我ながら可愛げの無い言い草だとも思うが、事実だから仕方ない。それと、多分これ系の人は、無駄話が嫌いだろうな、という勘もあった。

 顔を上げると、向かい合う人の、真っ直ぐすぎる目線とぶつかる。そして切り出されたのは、あまりにも意外な用件だった。

「最初に確認させていただきますが、敦司は今、そちら様のお宅でご厄介になっているんですね」

表情を殺したというよりは、完全防備という言葉が相応しい硬い表情で、その人は言った。ええ、と頷くと、初めてその口元に緩みが出来て、溜息が零れた。

「あの子は一体今、何をしているんですか」

呆れたような、気の無い口調に聞こえた。ていうかこの人、今何て言った?

「…恐縮ですけど、それは私の口からは申し上げられません。仕事のことは、あまり私には話しませんし、私も口を挟みませんので。ご本人から直接、お聞きになった方がよろしいと思います」

母子喧嘩に巻き込まれるのは、立場上仕方ないかもしれない。だけど、これは幾ら何でも、私が話していい領分を越えている気がする。何よりも本当に、敦司の仕事については、彼が気の向くままに話す、断片的なことしか知らないから。

 けれども、目の前のその人は、私の反応を見て、今度は深々と溜息をついた。

「…たまに、確認したいことがあって連絡を取ろうと思えば、事務所は辞めた、住んでいた部屋は引き払った後で、携帯電話の番号も変わっている。方々聞いて回ったら、貴女とお付き合いしていると小耳に挟んで、こちらに伺ったんです」

外見の、怖いくらいきりりとした様子からは想像しにくい、草臥れた調子で、その人は言った。

 しかし、冷静に考えてみると、この人は一体、最後にいつ、自分の息子と連絡を取ったんだろう。前の事務所を辞めて東北沢の部屋を引き払ったのは、もう1年近くも前のことだし、携帯の番号を変えたのもその前後だったような気がする。その全部に、今更気付くって。というか、私と付き合ってるのはもう2年以上ものことで、新聞か電車の中吊り広告で、週刊誌の見出しだけチェックしていれば分ることだ。なのに、それも知らなかった、とこの人は言う。

 私の知る限り、芸能人の親という人種は、口では何を言っていても、我が子の仕事が、ついつい気になってしまう人たちだ。私の両親がその典型で、口に出しては知らん、と言い張る父親も、写真が載った雑誌をすべてストックしている母親も、私がどこでどんな仕事をしているか、いつも気に掛けてくれている。遠い都会で堅気ではない商売をしている娘を――気遣ってくれる。

 それに対して、この落差は一体何なんだろう、と思わず愕然としてしまった。

 大人同士のことだから、それこそ私と敦司みたいに、自分で喋りたくない限りは、仕事については聞かない、ましてや干渉なんかしない、という関係もあるとは思う。だけど、幾ら何でもこの人は、知らなさ過ぎた。敦司は知らせて居なさ過ぎた。

 今度は私が溜息をつく番だ。

「…私から、ご実家に連絡するように伝えます。それ以上のことは、申し訳ありませんが」

「あの子が、金策に走っていると、漏れ聞きましたもので」

とにかくここは、一度頭を下げて、お引取り頂こう。そう思って立ち上がりかけた私を、その人は離さなかった。

 金策は、確かにしている。事務所を辞めてフリーになった後、しばらくバンドだけで活動していた時期があったんだけど、流石に色々と不自由があったので、きちんと事務所とレーベルを立ち上げて、法人化してどうこう、という話を、すこしだけしていた。いざやろうと思うと何かと物入りなんだよね、まさか俺が、こんな格好で銀行回りして、頭下げてるなんてね、と言って、笑っていたような気がする。

 なるほど、銀行回りね、と思った瞬間に、分り易過ぎる図式が浮かぶ。もしかしたら敦司は、お母さんの居る四つ葉銀行を避けたのかもしれないし、避けられなかったかもしれない。いずれにしても赤坂支店にわざわざ顔を出すことは無かったんだろう。だけど、察するに、支店長の息子がオリコン一桁のミュージシャンだった、という設定は凄く奇抜だから、周囲ではそれなりに知られた話の筈だ。そして支店長たる者、社内外に相応の人脈と情報網を持っていて然るべきだ。

 敦司は見事に、その網に引っかかったのだ。

 けれど私は、目の前の人がそこから続けた言葉に、目を剥くことになる。

「正直申し上げて、困ります。立場上、身辺は綺麗過ぎるほど綺麗にしておくことが求められますので」

きっぱりとした端整な面には、やりきれない疲労の影が被さっている。私はただ、今日明日中にも連絡させますので、とだけ言って、その場を終らせた。

 正直言って、私も疲れた。恋人の母親が抜き打ちで訪ねてくる、しかも初対面で肝心要の恋人は抜き、なんて話は、設定を聞いているだけでも疲れる。加えて、桐山家のどうなっているんだかよく分らない家庭の事情も断片的に仕入れてしまって、自分の中で整理するのに、けっこうエネルギーを使った。

 要するに敦司は今、勘当されたというわけでもなく、実家とは断絶状態というわけだ。どう考えても1年か、ひょっとしたらそれ以上は連絡を取っていない。一緒になって2年、本格的に同じ部屋で暮らし始めて1年、何度か私の口から「近いんだから、たまには実家に顔を出してきたら」と水を向けたことはあるが、そのうちとか何とか言って、捗々しい返事をしたことは無い。去年の正月、私が姫路に帰った時は、流石に帰るよ、と言っていたのに…結論から言えば嘘だったわけだ。

 で、そんな嘘にももちろん腹は立った。だけどそれ以上に何に激怒したって、母親とも思えない、美津子さんとやらの言い草だ。1人息子がここ何年も、ずっと苦しい思いをしているのを気にも掛けないで、自分の会社を立ち上げて出直そうとしたところで、急に顔を出すなんて。それも、心配するとかじゃなくて、自分の仕事に迷惑がかかったら大変なので、としか聞こえない感じで。ていうか、遡ること何年も、あの子に独りで寂しいご飯を食べさせてたのは、一体何処の誰だと思ってるの…って、これは関係ないか。

「敵がダナ・キャランなら、もうちょっといいもの着てくれば良かった――」

なんて言ったのは気休めでしかない。それは確かに、どうせすぐ撮影に行って着替えるからと、そんなに大した格好はしていなかったけど。

 いずれにしても、今日は家に帰ったら、ちょっと込み入った話をしないといけないなぁ――と思うと、澱のような憂鬱さが、ずっと身体の中に残ってしまった。

 

 雑誌の撮影が終り、翌日以降の確認をして家に帰ったのは、夜の8時過ぎだった。玄関に迎えに出てくれた敦司は、このところすっかり板に付いた藍染のエプロン姿で、子供のように笑う。

「おかえり、佐恵。今、夕飯出来るところだから」

そう言う彼は、今日は1日オフだった。忙しい合間に手早く家事を片付ける、ということは相変わらず苦手だけど、時間をかけていいよと言われると、嬉々として大掃除をしたり、手の込んだ料理を始めたりするのが、ある意味男の子らしい気がする。

 鰆の木の芽焼きをメインに据えて、そら豆の煮物とか、菜花の芥子醤油和えとか、たこときゅうりの酢の物とか、鰹味の詰め物が入ったフルーツトマトとか――細々作り出したら止まらなくなったらしい。どっちかというと、色んなものをちょこっとずつ食べたいという、女の子が喜ぶような夕飯だった。私が仕込んだんだから当然だけど、あっさりした味付けなのも好みだ。教えた甲斐があったと言えるだろう。

 なんだけど、美味しくいただいて、片づけが終って、それで満ち足りている場合じゃなかったのが、この夜の悲しいところだ。

「敦司、ちょっと」

食器を片付けて、ダイニングテーブルを拭いた後、そのまままた、その食事の時と同じ場所に腰を下ろす。敦司は小首を傾げながら、私の向かいに座った。

「今日ね、事務所に、アポなしのお客様があったの」

これ以上のことは、動かぬ証拠を見せた方がいいだろう。そう思って、テーブルの上に例の名刺を差し出す。敦司は、ごく短い時間、食い入るようにそれを見た後、テーブルに着きそうなくらい、頭を下げた。

「ごめん」

「…いきなり、一言で謝らないでくれる?私がして欲しいのは、それじゃなくて、説明。あなた一体、ご実家と何があったの」

「立場が逆かもしれないけど、俺も訊いていい?あの人、何て言ってきた?とりあえず、佐恵に迷惑かけてるのは分るんだけど、細かい内容が見当つかない」

そうだろうな、1年以上音沙汰も無いんだし、と思った時、湧き上がってきたのは、怒りでも憤りでもなくて、名刺を渡された時のような、わけのわからない脱力感だった。

 かいつまむまでもなく、簡潔な状況を話すと、敦司はお母さんに負けず劣らずの、深々とした溜息をついた。

「金策をしたらバレるのは、100%予想してたんだ、実は。で、クレームがつくのも分ってた。だけど、まさか佐恵の事務所に乗り込むなんて…ていうかいつ、東京に帰ってたんだよ」

ほら見なさい、交信途絶の結果がこれだわ。

「お母さん、東京を離れてらっしゃったの?」

「四つ葉の支店長になろうと思うと、全国転勤を受け入れなきゃいけなくて。俺が中学入ってからは、地方勤務と首都圏勤務を、2〜3年おきに繰り返してるよ。いつ東京に戻ったか知らないけど、俺はてっきりあの人は、単身赴任で九州に居ると思ってたよ」

「本題を離れるけど、お父さんは、ずっと東京?」

「あの人は為替のディーラーだから、寧ろ東京を離れられない。母親は、全国転勤を飲みます、って言ったのが一応、俺が中学に入った年で、本当にかっ飛ばされたのが高校に上がるちょっと前だったかなぁ。最初は宇都宮で、一度神奈川に戻されて、支店長に昇進して福岡に行って――で、気がついたら都内に帰ってきてた、らしい。俺も今日、初めて知った」

どうやら桐山家のご両親は、私が想像していた以上に忙しい人たちのようだ。

 軽い溜息が出た時、ふと思い当たった。私は多分、呆れている。この、噛みあっていなさ過ぎる家族の姿に。

「で、あなた一体、最後にご実家に連絡入れたのはいつだか、覚えてる?」

しばらく考え込んだ後で――敦司は絶句した。

「お母さん、引越し先の住所も新しい携帯番号も、何も御存知無いって。だから事務所にいらっしゃったの」

そこまで話を聞いてから、敦司は、片手で顔を覆った。

「うわー…そりゃそうだ、知らない筈だ。俺、親の携帯番号、自分の携帯のメモリに入れてなかったんだ。それで、メモリに入ってた人にだけ、番号変わりましたって連絡したから…知るわけないよな。あとごめん、引越し先の住所は、故意に言ってない。どうせあの人たちが俺の部屋に来るなんて有り得ないことだから、言わなくてもいいだろうっていうのとさ…女の人と一緒に居るってバレたら、揉め事になるでしょ。だから黙ってたけど、仇になっちゃったね」

「住所はともかく、電話番号くらい入れておいてよね」

「ていうか知らないもん。マジで実家に用がある時は、夜遅くに固定電話の番号にかければ足りてたし、2人とも仕事中は、絶対携帯繋がんないし」

呆れは段々、徒労感に変わってくる。何でこの家族は、こんなにバラバラなんだろう。

 自分自身も、段々感情的になってきたのが分ったので、私は一度、言葉を切って、呼吸を整えた。それから真っ直ぐに、敦司を見る。敦司は――不貞腐れた子供のような顔をして、こっちを見ている。甘えたい時の癖みたいな表情だ。

「ねえ、敦司、あなたさ、昨日たまたま、ちょっとだけお母さんのこと、話してくれたよね。折り合いが悪いわけじゃないけど、上手くいかない相性なんだ、って。それって、どういうことなの?もうちょっと詳しく教えて欲しいな」

いじけた視線が、横向きに逸れる。気まずいんだな、と思った。それ以外に方法が無いので、しばらく待っていたら、ぼそりと、敦司が言った。

「なんか、うちってさ、父親が2人居るみたいだなって思うことがあって」

軽く頷いて先を促すと、ゆっくりと、とても言い難そうに、敦司は続けた。

「2人とも同じように忙しくて、外で戦ってる強い人で、家に帰ってくる頃には疲れ果てててさ。俺あんまり、何ていうか…構って貰えてない、ガキの頃から。で、『難しい年頃』ってヤツになって、逆らってみようと思っても、手近に居ないし、大人になって、真面目に話のひとつでも、って思っても、やっぱり居ないし。でもそれは、多分俺サイドの言い訳でもあって、なんのかんので2人とも、重大な責任を負ってる人だからさ…色んな意味で、本当に強くて、自分ってものが出来すぎてて…喋ってて息苦しい、正直」

それは私にとって、凄く分り難い話、寧ろ分らない話だった。親の方が人間出来てて、何が悪いの。というか、じゃなかったら一体何のために、子供より20年も30年も長く生きてるの。

「…分らない?」

私のそんな表情を読み取ってか、敦司はごく軽く、問いかけた。頷いたのは、その響きの中に「どうして分ってくれないの」という重みが無かったからだ。

「早い話が、自分よりもしんどい状況で自分よりも頑張ってるように見える人に対して、辛い、しんどいとは言えないわけ。こっちを構え、ケアしろ、とはさ。いっそ、そんなもんぶっちぎって甘えられるくらい、莫迦だったら良かったなー、と、たまに思ったよ」

ようやく、ぼんやりとではあるけれど、桐山家の食卓が見える気がした。自立した強い両親と、それが決して楽ではないことを悟れる優しい1人息子と――お互いがお互いを気遣って、多分、気遣いすぎて、近寄れない――不器用な人たちかもしれない。

 私の生まれ育った家はそうじゃなかった。自営業でしかも職人の父親が居たから、父親は大黒柱でもあり権力者でもあり、一種のヒエラルキーが確かに存在していた。その息苦しさをフォローするのが母親の仕事で、優しさと厳しさのバランスの中はけっこう居心地が良く、とても落ち着く空間だった。

 同じ家族なのに、こんなに違う。どっちが良くて、悪い、じゃなくて、ただ違う。

 「無理に分んなくていいよ。多分、分んないでしょ」

ごくごく穏やかに、敦司は言った。それは達観なのか、それとも諦念なのか。でも、いつもそんなもので、自分の家族に触れなくてもいいじゃない。

「うん、正直、よくは分らないところもある。ねえ…勢いだから訊いてしまうけど、あなたが音楽やるって言った時、ご両親は何ておっしゃったの?」

注意深く手繰り寄せるその糸は、だけど、どう辿っても敦司のところにしか結びつかない。だから、そこから引き寄せられる情報はアンフェアなのかもしれない。でもそれが、彼にとっての「家族」だ。そして私は、彼のお父さんでもなくて、お母さんでもなくて、彼、桐山敦司の前に居る。

「最初にバンド始めた時は、好きにしろ、みたいな感じ。で、俺さ、エスカレーターで大学まで行ける学校に通ってたんだけど、大学行くのに要る書類を、わざと出さなかったんだよね。大学行ってやることなんか無い、って思ってたから。その時は流石に、一晩めっちゃくちゃ怒られたよ、将来どうするんだ、みたいな感じでさ。でも、泣こうが喚こうがもうどうしようもないってことは、全員分ってたからさ。それで、次の日には話自体が立ち消えちゃって。一応、何て言うの…親を裏切った後ろめたさはあるから、俺だけ家に居辛くなって、バンドも忙しくなるし、どんどん帰らなくなって、ハタと気が付いたらメジャーデビューっていう話が降ってきてさ。その時は…まあ頑張れとか、そんなこと言ってたかなぁ。あんまり覚えてないや」

その話を聞きながら、何て不器用で、諦めの早い家族だろうと思った。因みに私がこの業界に入るにあたっては、父親とは1ヶ月以上揉めに揉めた。

 決して情が薄いわけじゃないんだ、と思いたいのは、きっと私の願望だろうと思う。彼の実家が、そんな冷たい家であって欲しくない、という。

「…もしかして――お母さんに見かって、ほっとしてない?」

そう尋ねたのはカケだった。頷いて欲しい、と内心で強く強く願いながら、どちらに転ぶとも全然見当がつかなくて、リアクションがあるまでの、殆ど無いくらいの時間に、ぎゅっと緊張の塊を抱えた。

 そして――敦司は、軽やかな苦笑を浮かべる。

「うん、正直、ほっとした、俺が知ってる美津子さんで」

「美津子さんて呼んでるんだ、お母さんのこと」

「…あれを、『おふくろ』とは呼べないでしょ。イメージ違う」

不謹慎なのかもしれないけど、ニュアンスは分る。ダナ・キャランを着たおふくろ様も、格好良くていいじゃない、とも思うんだけど、それはまた、別の話だ。

 根本に立ち返ると、私はこの1件に関しては、まったくの部外者でしかない。打開する、改善に向けて努力する、諦めて放置する、すべての選択権は、桐山家の家族が持っている。

「ねえ、敦司。ほっとしたんなら、そのことを、言ってみれば。あなたのやってきたこと、しようとしていること、全部――難しいと思うけど、そこにしか、繋がる糸口は無いんじゃないかしら。ぶつかる前から諦めないで、1回くらい冒険してみなさい」

ひょっとしたらそれは、とんでもないお節介かもしれない。だけど、私は覚えている。

「…その変な自信は、どこから来るわけ」

「あなたが、前後の見境もなく、本気でぶつかって口説き落とした女だから」

そう、そのことを、私は絶対に忘れないだろう。

 返ってくる、笑い声のトーンが、また一段、明るくなる。

「…あったね。そういえば、そんなことが」

「そうよ。凄く大事なこと。たまには顔を合わせて、ぶちまけていらっしゃい――好きならね」

そうしたら敦司は、深々と頷いた。

 そして最後にひとつ、ささやかだけど疎かには出来ない、大事な質問が残る。

「で、ひとつだけ苦情があるんだけど、あなた、今年のお正月に私が実家に帰った時、自分も帰るって言ったわよね。あれは…結局どうしてたの?」

その一言で、一度は落ち着いていた視線が、一気に泳ぎ出した。

「今度逃げたら承知しない」

逃げ腰の尻尾を踏んづけて、睨みを利かせる。それで敦司は観念したみたいだ。

「あー…あれね、青梅の、父親の実家に行ってた。母親が正月は大晦日と3が日しか休みじゃないから、父親が九州行ってたみたいでさ。俺だけ久しぶりに、親戚に会ってのんびりしてたの」

それならば、「帰った」というのは、まったくの嘘でもないわけだ。良かったというか、拍子抜けたというか。

「じゃあ、時々私が『たまには帰ったら』って言った後に、ふらっと出かけてたのって、青梅だったんだ」

「そればっかりでもないよ。立川の老人ホームに、母方のお祖母ちゃんが居るから、顔見に行ってたりとかさ」

まったく、孝行なんだか不孝なんだか。でも、そうやってたまには身内と顔を合わせて、それなりに話もしていてくれるなら、こちらとしては一安心だ。

 だけど、今夜の敦司は妙に素直で、真っ直ぐこちらを見て、もう一度頭を下げた。

「でも、そんなの詭弁でしょ。佐恵は、俺は親のところに帰ったと思ってた。俺は、それを完全に予想してたけど、実は違うって言わなかった。これは『嘘』と殆ど変わらないよね。ごめん」

「今度やったら怒るからね」

そう言ったら敦司は、神妙な顔をして、頷いた。


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