マネージャーの遠藤女史が面白いオファーを持ってきてくれたのは、夏前のことだった。

「民放の特番で、ヨーロッパの歴史モノのナビゲーターなんだけど。9月後半の10日間で、ロケ地はこことこことここ」

とりあえず、地図上を滑った指が示したのは、行ったことの無い人間から見ても、「ご冗談を」と突っ込みたくなる程度にハードそうな行程だった。

「やります。何から勉強したらいい?」

にも関わらず即答でOKしたのには、理由がある。

 ひとつは、流石に選んでいられる立場じゃない、という自覚があったから。

 もうひとつは、彼女が何を考えてこの話を持ってきたか、よく分ったからだ。

「ありがとう、遠藤さん」

そう言ったら、遠藤女史が目を丸くした。

「私のこと大事にしてくれて」

「…何言ってるの。下品なタレントを手がけるのは、この会社の方針じゃないし、私の流儀でもないんだから」

「安売りしても質のいいタレントは育たない。遠藤さんの持論よね」

そこまで言ったら、遠藤女史は無言で資料の山を渡してきた。業界の中でも大手の一角であるこの事務所で、文句無しに腕利きとされるこの女性は、仕事一筋20年近い朴念仁で、シビアな割にはとてもいい人で、とんだ照れ屋だったりもする。

 選んでいるほど仕事が無いのは、遠藤女史のところで、相当数が切られているから、でもある。早い話が、私はスキャンダル女だ。これまでどんなにクリーンなイメージで売ってきても、女性芸能人には、恋愛ひとつ、離婚ひとつが致命傷になることがある。そうなった時、まだ若いタレントならば存在自体を抹消されてしまうこともあるし、一気に足元を見られることもある。何にしても、よほど上手くやらない限りは、入ってくる仕事の質と量が露骨に落ちる。

 そうなった時、落ち着いて、ゆっくりと回復を目指して進むことを許してくれたのは、遠藤女史が体現する、この事務所の品の良さだ。起死回生を図って、傷を曝して暴れまくる――早い話が脱いでしまうとか、深夜枠のバラエティか何かで喋り捲るとか――ということは、一時的な売りにはなっても、長続きしないことが多い。何よりも、結局それでは「壊れたキャラクター」として定着してしまって、元居た場所には戻れない。

 私のところにだって、「荒っぽいオファー」は幾つもあった筈だ。「堕ちた高嶺の花」を、この際徹底的に曝していたぶるというのは、困ったことに、芸能界という場所、そのお客様であるお茶の間に対しては、絶好のご馳走なんだから。結婚前のイメージが潔癖すぎただけに、その落差はあまりにも美味しいだろう。

 だが、遠藤女史が選んできたのは、まだ小さなブランドで、私が育てることの出来る「S・K」での仕事であり、今回のこのオファーだった。

 もちろんこの事務所だって、商売だし、芸能界の一員だし、それしか売りようがなくなったタレントなら、情け容赦なく「荒っぽい」売り方をしただろう。だけど私は、まだそうじゃないと、言って貰えたわけだ。

「たたずまいの美しさ、振舞いの上品さ、語り口の落ち着きと、どことなくミステリアスな感じ、かな」

私が持っているもので、今回の仕事に使えるものはこのくらいだ。列挙してみたら、遠藤女史が頷いた。

「そうよ。流石に自分の価値をよく分ってるわね。だから私は、貴女のことが好きだった」

素っ気無い口調。でも、この業界に入って間も無くから、私はずっと、この人と二人三脚で働いてきた。綺麗事でも何でもなくて、その期待に応える責任があるだろう。

「…ていうか、本当に綺麗事じゃなくて、働かないと生きていけないわ」

通帳の残高は、まだまだ莫迦みたいな数字をキープしていたものの、流石にそれで一生生きていけるとは思わない。何よりも、今までの29年、無駄なものばかり積み重ねてきたわけじゃない、という証拠として、間違いなく自分で築いたプライドの拠り所として、仕事は大事にしたかった。

 

 喋りの仕事は、やったことはあるけど数は多くない。なので、やるとなったら準備は大変で、発声やナレーションのレッスン、過去に放映された同系統の番組のチェックや資料の下読みと、毎日あっという間に時間が過ぎてゆく。

 こんなに忙しいのは久しぶりだった。でも、以前と確実に違っているのは、自分の意志で「やる」と決めて、なりたい姿を描いて、現在地とその場所との間にある空白を埋めるために、こつこつ努力している、というところ。流されるままではなくて、自分の仕事だと腹を括って、ドンと構えて、肩の力を抜いて――ただそれだけで、同じような忙しさが、見違えるほど色濃い時間になってゆく。

 そうやって、ひとつひとつ身につけていくことと、今まで、流されながらもどうにか身についていたことを確かめるのと。確かにそれは、楽しい作業だった。

 もうひとつ楽しかったと言えば、番組制作スタッフとの打ち合わせだ。相手の意見を汲み取ること、その中に自分が出来ることをプラスアルファしていく過程がこんなに面白いとは、思ってもみなかった。

「あー、成る程、その視点はいいですね。この時間帯は比較的、年齢層の高い視聴者が多いですから、いけると思います。それ、いきましょう」

プロデューサーにこう言わせた時には、内心で飛び上がりたいくらい嬉しかった。

 「どうしたの急に、前向きになっちゃって」

遠藤女史に苦笑されたのは、打ち合わせの帰りの車の中だった。

「貴女ってもっと受身な子だと思ってた。というか、受身の天才。すぐに周りの空気を読んで、相手を受け入れて、欲求を満たしちゃうのよね。流石は商売屋の娘だと思ってたわ」

今度は私が苦笑する。

「…それをやりすぎて、ストレス溜めまくった結果が、去年のあれよ。確かにそれも、私に出来ること。でも、もういい加減、それ以外のやり方も身につけないと、持たないなって。自己主張のカタマリになる必要は無いけど、きちんと自分で決めて、ひとつひとつ身につけていかないと、苦労した割に自信がつかないし。自信が無いと生きていけないし。自信つけるには仕事するしか、今のところ私には無いし」

自分でも驚くくらい、その台詞はすらすらと口をついた。そして、言い終えるにつれて、笑みが零れてきた。

 だが、流石に敏腕マネージャーは鋭かった。

「随分吹っ切れて、前向きになったものね。それって、あの男のお蔭?」

意地悪でもなく好奇心でもなく、事実確認の落ち着きで、遠藤女史は言った。

「…そうよ」

混じりけ無く100%、それは本当のことだ。あの男、つまり敦司が居なかったら、私は多分今も、ぐずぐずといじけた生活をしていたに違いない。

「バツイチ美人モデルと、落ち目のヴィジュアル系ミュージシャンか…絵的には美しいけど、ぱっとしない話だわね。せいぜい大人しくしてて頂戴」

呆れ半分の笑みを交えて、遠藤女史はそう言った。

 

 「あらー、イヤだこのコったら、吸い付きそうな肌しちゃってェ。さては相当いい男と付き合ってるわね!」

甲高い声を上げたのは、ヘアメイクのコウちゃんだ。それが本性なのかキャラクターなのかは定かではないけど、こういう喋り方をする。物腰や雰囲気は、仕事柄元々柔らかいので、区別はつかない。とにかく、湯浅幸太郎という固い本名があるくせに、誰もそうは呼べない。

「…そうかしら。そんなに変わった?」

「だって、1年くらい前までのあんたの肌って、若さと勢いとドーピングの産物だったもん。休まず働いて、無理矢理色々使いまくって回復させてたでしょ。今はそうじゃない。内側から活き活きしてるわよー」

矢鱈嬉しそうにそんなことを言いながら、コウちゃんはマッサージを始める。

「暇になっただけよ。良く寝て規則正しく生活してるから」

「嫌あねー、そういうんじゃないわよ。肌は正直だって言うでしょ。あれ本当よ。本職のアタシが言うんだから間違いない」

「それでまた、どうしてすぐに『男』なわけ?」

「色っぽくなったから」

からからと大声を上げて、コウちゃんが笑う。実際のところこの人が幾つか知らないんだけど、こういうところはかなりオバサン臭い。

「でもねーえ、あすか、アタシさ、本当は安心してんのよ。あんた、遊び方も知らないうちに田舎からこっちに出てきちゃって、あっという間に人気が出て、かたーいまんま、全速力で仕事してて、まっとうな恋愛もしてなくってさ。それでなんか、事務所的に都合の良さそうな男と急に結婚して、ねえ。人生これでいいんかいって、心配したんだから」

「別れて良かったって言いたいの?」

「ええ?そりゃあ、最初の男が最高だったら、人生言うことないけどさ。だけど、そんなもんじゃないでしょ、現実って。ともかく、あんたが今、いい男と恋愛して幸せなら、それでOKってことよ。はい出来た!」

 とん、と軽く肩を叩かれる。鏡の中には、ごく落ち着いた色調のメイクをした、自分の顔があった。ストレートの髪は、毛先だけがやや明るい。「S・K」で借りてきた黒いワンピースに、足首をうんと細く見せる黒いブーツ、緋色のショール。ワンピース自体は、ラインはシンプルだけど生地が総レースになっていて、一見、私の年齢で着るものではない。だけど、ものは使いようだ。

「こういう服って、子供が着るとおもちゃになっちゃうのよね。それはそれで可愛いけど、それだけの使い方じゃ勿体無いなって思って」

S・K」で仕事を始めて以来、夙にそう思っていたので、番組用の衣装を選ぶ際、スタイリストさんに頼んで、これを混ぜて貰った。採用されないまでも、若干でもスタッフに覚えて貰えたら、それでいい。

「これなら、色味も落ち着いてるし、ヨーロッパの石畳に馴染みもいいと思うんだけど…?」

「そうねー、レースだからただの黒ほど重くないしね。よし、これで行きましょう」

スタイリストさんの口からその台詞を聞きだした瞬間は、内心で小躍りしそうになった。

 

 そんな風に毎日を積み重ねて、予想通りの強行軍だったロケを終え、無事に放送まで漕ぎ着けたのは12月に入ってからだ。視聴率は、民放で教養ものの特番としては上出来の8,4%。センセーショナルに作りすぎなかったことで、大人の視聴者からそれなりの好評を得ることが出来た。

 世間、特にこの業界って現金なもので、急に仕事のオファーが入り出したのも、その日からだ。「ほとぼりが冷めた」頃合だとしても、本当に、風向きを見るのが得意な人たちだなぁ、と思う。もちろんそんなもの、好きも嫌いも無い、この界隈の風潮なんだけど。

CM3本、化粧品とウィスキーと油、コレステロールがつきにくいってヤツ」

殺到、というほどじゃないにせよ、それなりに集まったオファーをざっと吟味して、遠藤女史が出したのはそれだけだった。

「あすかは、この中だったらどれが大事」

「化粧品、と言いたいところだけど、コンセプト次第で油」

遠藤女史の質問には、即答出来る。もちろん、ファッションモデル出身として、化粧品は大事だ。すくなくとも同性から憧れられないタレントを、その位置に配することは無いんだから。でもそれは、今までの私にでも、出来る仕事だ。

「食べ物関係って、今まで無かったじゃない。『河村あすか』の枠を広げる、いい仕事に出来ると思うわ。何ていうか、今までの私って、綺麗だけど近寄り難いイメージもあったでしょう。そこをもうちょっと、血の通った存在に出来るというか…食べるのも料理することも、私にとっては自然な動作だから、無理なく出来るし」

自分をどうしたいか――考える時間だけはたっぷりあった間に、出てきた答えがこれだった。ヘンに身近すぎる必要は無いけど、もう「高嶺の花」で居る必要も無いな、ということだ。

 遠藤女史は、にやりと満足そうに笑った。

「私もそう思う。もちろん3本とも受ける方向で調整するけど、今の台詞は覚えておくわ」

きっぱりと、遠藤女史は言い放ち、この人が言ったからには、それはちゃんと、その通りになる。

 なりたい自分をいつも思い描いて、その場所と、今現在を繋ぐために、何が必要かを考えなさい、とは、この人と組んで、ごく初期の頃に言われた台詞だ。私は20歳そこそこで、目まぐるしく動く業界の中で、目を白黒させていた。あの時、意味を取ることさえ出来なかった言葉が、今なら分る。それはとても、心地良いことだ。

 結局、CMは3本とも私がやることになり、年明けに撮影が決まった。その他にも、オーガニック系の通販カタログ、女性誌の和装特集と、仕事はどんどん入り始めた。本当を言うと、もっと足掻くことを予想していたので、拍子抜けした面はある。だけど、遠藤女史はきっぱりと言い放った。

「当然のことよ。貴女は上っ面が綺麗なだけじゃない。所作も喋り方も品があるし、頭もいい。今日びは、お客さんから見て小莫迦に出来る、子供みたいなモデルが多くってね。貴女のような存在は貴重なのよ」

20歳そこそこから、20代いっぱい、殆どの時間――冗談抜きで、寝る間を惜しんで働いた結果は、ちゃんと私の実力になっていた、というのが、何よりも嬉しいことだった。

 

 充実した仕事を終えて、我が家に帰ると――待っているのは、おなかをすかせた莫迦な猫だ。

「おかえり、佐恵」

猫――敦司は、すっかり定位置と化したリビングのソファの上から、極上の笑顔で私を見上げる。

「毎日忙しいね」

「ごめんごめん、待たせて。夕飯まだでしょう?」

言いながら、足早にキッチンに向かったのは、微妙な「逃げ」があったからだ。

 私の仕事と反比例するみたいに、敦司を取り巻く状況は悪くなっていった。遠藤女史が「落ち目のヴィジュアル系」と言った、残念ながらその通りで、昨年末に出したアルバムの売り上げが思ったほど伸びず、今後の方針を巡って、事務所やレコード会社と随分揉めたらしい。そしてここ数ヶ月は、俗に言う「干された」状態で、まるで1年前の私のように、働いているんだかいないんだか、よくわからない状況に陥っている。

 手っ取り早く作れるもの、と思って冷蔵庫を開ける。莫迦のひとつ覚えのようにご飯だけは敦司が炊いておいてくれたし、卵丼にしよう。あとは、ありあわせの野菜をたっぷり入れて味噌汁でもあれば、夕飯の格好は整う。我ながら凄い勢いで材料を切って鍋に放り込んで味をつけて、出来上がるまでに30分とかからない。

 「はい、おまちどうさま」

ほかほかと湯気の立つどんぶりを目の前に置いてやったら、猫は満面笑顔で私を見上げた。

「美味しそう」

鶏肉が嫌いで親子丼が食べられないくせに、似たような味のこれは好きらしい。

「まだ熱いから気をつけてね」

それで口をついたことと言えば、そんな「お母さん」みたいな台詞だった。

 で、そこから次の会話が続かなかった。今日何をしていたの、じゃなくて、今日こんなことがあったの、じゃなくて。仕事の話を避けようとしたら、喋ることが無かった。何しろ私は今日一日、外では仕事しかしていなかったし、彼は今、仕事が出来ない状態なんだし。何か言おうとして、何も言えなくて、とりあえず箸を動かしてはみたんだけど、流れる沈黙の不自然さは、もうフォローのしようが無かった。

 先にどんぶりを下ろしたのは敦司だった。

「佐恵。そういう風に、腫れ物みたいに扱われると、かえってツライんだけど。変な気の使い方をしないでよ。今日、何してきたの?」

声から抑揚が失われているのは、機嫌が悪い証拠だ。腫れ物扱いされたのと、積極的にかまって貰えていないので、二重にいじけているに違いない。

「…ごめん。今日は、プロフィール用の写真を撮り直してね。あと、新しく入ったオファーが何本かあるから、それのスケジュールを確認したり」

「ふーん…そう」

聞きたがったのはあなたでしょう、と言いたくなるくらい、気の無い返事を、敦司はした。この子もこの子で、話はしたい、でも仕事の話は正直辛い、というところで足踏みしている。

 でも、それにしても、今のリアクションは子供すぎないか、と思った。だけど、今厳しい位置に立たされているのは彼の方なんだから、ここは私が優しくしてあげなきゃ…と抑えた瞬間、背筋がざわついた。

 ちょっと待って。今、私は何か、凄く気持ち悪いことを考えなかったか?

 優しくしてあげる?!それって、どこの立ち位置から、一体何様の積りで?もしかして、かなりな勢いで、彼を見下していないか?それに、やっぱり悪いことは悪いことで、言わなきゃいけないんじゃないのか?!

 どっと噴き出した、ということは――溜まっていた、ということだ。何しろこのところ、毎日がこんな感じだから。干されていじけている敦司と、そんな彼を置き去りにして忙しく働いて、その反動で家に帰ったら過干渉する私と。不健全だ。そんなの、関係として。

 1人でぐるぐると考えを巡らしていたら、てきめん、表情に出たらしい。

「佐恵?」

敦司が、不安げにこちらを覗いている。ええい、子供みたいな顔して、こっちの顔色を窺うな!

「私もあなたに変な気の使い方をしてるけど…あなたも、意識過剰だよね。私に対して」

言ってから、しまった、口調が厳しくなりすぎたかも、と思ったけれど、もう遅い。このテの会話は、その勢いで進んでしまうから。

「…そりゃあ、佐恵は全国の誰もが知ってる有名なモデルで、年もキャリアも俺より上だし、しょうがないと思うけど、気にもなるよ」

で、せめて二言目はもうちょっと優しく、と思った矢先に、拗ねた台詞を返されたので、ぷちん、と何かが切れてしまった。

「何よ、僻んでるの?」

「僻んでなんかないよ」

嘘をつきなさい嘘を。だったら何で、興味なんてありもしない私の仕事を気にして、挙句の果てに冷めたリアクションをするわけ?というか、私の仕事の何を、そんなに気にしてるわけ?

 辛い状況なのは分る。分るけど、それにしても煮え切らなさ過ぎる。今は休みたいならそれでもいいけど、だったら本当に、仕事と私情は切り離してゆっくりしてくれないと、こっちが落ち着かない。こんな風に苛々するんだったら、擦り切れるまで頑張ってみろ、と言いたい。これは、恋人だからじゃなくて、似たような業界で生きている先輩として。

 言いたいことは、たくさんあった。でも、今言ったらきっと、感情に任せて全部怒鳴ってしまう、と思った。だから、今じゃない方がいい。

「…お風呂のお湯、入れないと」

会話を切り上げる適当な口実が思い浮かばなくて、そんな風にわざとらしく、席を立ってしまった。敦司はまだ何か言いたそうだったけど…バスルームをざっと洗ってお湯を入れて戻ったら、不貞腐れた顔をして、食器を洗っていた。

 頼られると突き放せないのが、悪い癖だと思う。今夜は絶対にベッドに入れてやらない、ソファで寝かせるんだ、と思っていたのに、いざ敦司に凭れかかられたら、とても「そんな気分じゃない」なんて言えなかった。あの子が強引だったわけじゃない。私が抵抗しなかっただけだ。

「痕はつけないで。明日も何を着るか分らないから」

それで、やっと口に出来たことといえば、そんな間の抜けた台詞だけだ。

 

 朝、目が覚めて最初に出た言葉は「莫迦みたい」だった。結局、全部なあなあにして、寝て誤魔化したわけだ。その状況も莫迦みたいなら、嫌々応じたくせに、結局は蕩けてしまった私自身も莫迦みたいだ。

「…何やってるんだろう」

そう呟いた横で、敦司はまだ眠っていた。子供みたいな顔をして。

 何だかもう食事を作るのも面倒臭かったので、昨日の残りのご飯と味噌汁を温めて、卵だけ焼いて敦司を起こした。それで、食卓に就きはしたものの、不機嫌は露骨に顔に出ていたらしい。

「ねえ、佐恵、俺、佐恵の気に触ることしたかな?」

「…別に」

それがいかに大人気ないリアクションであるかは、考えるまでも無く分っていたけれど、ちゃんとした反応を見つけるのが億劫で、つい言ってしまった。

 で、そのぞんざいな対応に、敦司はまたいじけたらしかった。

「どっからどう見ても機嫌悪そうな顔して、何言ってんだよ」

「お願い、朝からつっかからないで」

「そっちが気になる態度を取るからでしょ。やりたくなかったんなら、言ってくれれば俺、退いたんだからね!」

短絡的な発想かもしれないし、それは事態のすべてではない。でも、確かにそれは私にとって痛いところだ。というか、直接的に今不機嫌なのは、そのせいだ。

「何よ、自分から甘えかかってきたくせに」

積もり積もった不機嫌の上に図星を刺されたので、もうどうでもいい感じになってきてしまって、思いっきりつっけんどんに、そう返してしまった。

 敦司は一瞬、凄く傷ついた顔を見せたけれど、流石に気は強い。すぐに顔を上げる。

「確かに、甘えてる俺も悪いと思うけど…その俺の顔色窺って、腫れ物みたいにちやほやしてるのは佐恵でしょ!」

「五月蝿いわね、甘えてる自覚があるんだったら、もうちょっとしゃきっとしなさいよ!すくなくとも、いつまでもいじけてないで、ちょっとは働いたら?それが出来ないなら、せめて私の仕事を僻むのはやめてよね!」

一気に言って――ぞっとする。何て余裕の無い台詞だろう。何て身勝手で、相手の入り込む隙が無い。

「ごめん、言い過ぎた」

咄嗟に口にしてももう、すべては形を取ってしまい、敦司にも届いた後だ。そして、あれだけ凶暴な形を取り得るものが、私の中に鬱積していた、という事実も、2人とも知ってしまった。

 固形化してしまったみたいな、重苦しい空気の中で、辛うじて私が出来たことと言えば、茶碗の中にすこしだけ残っていたご飯を飲み下して、箸を置き、立ち上がること。

「…頭を冷やしてくる。まだ早いけど、今日はもう出るわ」

敦司は何も言わない。帰りは何時、とか、自分の予定はどう、とか、出かける前には必ずある、お約束と言うのも莫迦らしい、決まりきったことさえも。

 身支度をして、玄関に行こうとした時だった。

「佐恵」

呼ばれて振り返ると、途方に暮れた顔をして、敦司がこっちを見ていた。何か一言言えば泣き出してしまいそうな黒い瞳が、揺れて見えた。

 いつもなら、ここで彼は、子供のように無邪気に微笑んで、いってらっしゃい、と言う。私も笑ってキスを返す。半年以上も繰り返されてきた、お決まりの挨拶を――ねだられているのは、よく分っていた。

 何も無かったフリをして、彼に優しくすればいいのか。それともこんな不安定な時に、下手に身体で慰めあうのは、昨晩の繰り返しになるのか。一瞬で激しく迷った挙句、私は軽く会釈をして、自然に伏せた瞼で、視界を閉ざした。

「行ってくるわね」

そしてそのまま、ドアノブに手を掛けた。閉ざされた扉の向こうで、彼は一体どんな顔をしただろう。

 

 結局、何と言って謝ればいいか分らないまま、1日は過ぎていった。打ち合わせ、取材、衣装合わせ、お付き合い――気が紛れる程度に次々と予定は入っていて、すべてが終ったのは、もう夜も更けた頃だった。

 何の連絡もしなかったし、あの子も何を言ってくるわけじゃなかったけど、子供じゃないから食事くらいはしただろう。せめて明日の朝は、あの子の好きな塩鮭のお雑炊でも炊いてあげようと、買い物をして帰って――愕然とする。

敦司は居なかった。逃げたな、と咄嗟に思った。

厳密に言うと、彼はこの部屋に住んでいるわけではない。ほぼ入りびたりの状態ではあるけれど、荷物の大半は以前から住んでいた東北沢の部屋に置いてあるので、ちょくちょく行き来をしているし、何かの都合があればその部屋で寝泊りすることもある。面倒だし、この部屋には余計な間取りがあるんだから、引っ越してくれば…と言いたいところだが、デビュー3年目の若いミュージシャンが住んでいる部屋なんて、事務所が手回しした物件なんだろう。引き払えないのは分る。事情が事情だけに、あの部屋に住んでいる、という言い訳が必要なこともあるだろう。

そういう諸般の事情はさておいて、何が悪いって、こういう展開になった時に、都合よく逃げる場所としても、あの部屋が使われる、ということだ。

何、1人で勝手に気を揉んで、気を回して、彼の好物なんて買って帰ってきたんだろう。やっぱり莫迦みたいだ、私、朝から晩まで。

徹底的に腹を立てた私は、絶対に自分から電話をするのはやめよう、と心に決めて、その晩は横になった。たかがセミダブルのベッドが広いなんて、変な話だ。

そうして朝が来て1人の朝食を済ませ、仕事をして眠りに就く繰り返しで、2日が過ぎ3日が過ぎ――1週間経っても、敦司からは何の音沙汰も無かった。

 

 流石に、怖い、と思い始めたのは、きっかり1週間目に、半日オフになった時だった。このまま永遠に連絡が無かったらどうしよう。浮かび上がるたび、何度でも力ずくで沈めていた言葉が、ふつふつと湧いてくる。そういう嫌な言葉は、出てきてしまったら絶対に消えない。気が付くまでもない。1人で暮らすには広すぎる部屋の中で、途方に暮れている私が居た。

 こういう時、一体どうすればいいんだろう。世間並みの29歳なら、駆け引きでも手管でも、もっと知っている気がする。だけど私は、コウちゃんに言われるまでもない、硬いのだ。どうしようもない事実だけど、男性なんて、別れた夫と敦司と、2人きりしか知らない。そして、別れた夫とは、こうなったが最後だった。ただ決定的に違っているのは、今回は、すくなくとも私は、一点の曇りも無く本気で、戻ってきて欲しい、と思っている、ということ。

 余計なことばかり考えているから、せっかく焼いた魚は焦げたし、澄まし汁の中からは切れていなかったワカメが出てきた。お茶は出すぎて苦かった。花瓶がひっくり返った――もう滅茶苦茶だ。

 というか、相手も居ないのにぐちゃぐちゃ考えたら、泥沼にはまり込むだけで、絶対に解決出来ないでしょう。子供じゃないからそれは分る。分ったところで堂々巡る――彼に何て言えばいいの?

 完全に行き詰って、頭が爆発寸前になった、その時だった。電話が鳴った。一瞬、心臓が止まりそうになるが――恐る恐る見たディスプレイには、彼ではない、もっと付き合いの長い、懐かしい名前が表示されている。

 「あ、佐恵子姉、綾ですー、今晩は。今ちょっと仕事で東京に来てるんやけど、明日、時間貰えへんかなぁ?ご飯でもどう?」

電話口からは、はきはきした気持ちの良い関西弁が聞こえる。

「明日?ええよ、何処に行こう」

電話の相手は、3歳離れた下の妹だ。私もつられて故郷の言葉に戻っていく。この際、拾う神なら何でもいい――そう思って、手短に時間と場所を打ち合わせた。

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