もう遠い日に

彼と、最初に「その話」をしたのは、確か、彼がこの部屋に引っ越してきて間もない頃だった。

「ねえ、敦司、ちょっと話があるんだけど」

呼ばれて振り向いた顔は、今思えば、まだあどけなさを残していたかもしれない。それとも、それは単なる記憶違いなのか――定かでなくなるのに十分な時間は、とっくに流れてしまった。

「あのね、私、あなたの子供なら、生んでもいいかなと思うんだけど、あなたはどう思う?」

何て台詞を、しかも不意打ちで吐いたんだろう。そう思うことも、今なら出来る。だけど、あの頃の私にとって、それは清水の舞台どころじゃない高さから飛び降りるような台詞でもあって、きちんと状況と整えたりしていたら、絶対にその間に怖気づいて、何も言えなかったに違いない。

 だけど、欠片ほどの予想もしていなかったのに、こんなにも重要な話題を投げかけられてしまった25歳の彼には、心から同情したいと思う。自分でやっておいて、何て勝手な、とも思うけれど。

 敦司は、最初に黒い瞳を丸くし、両目をみひらいて、それから何度か瞬きをした。恐らく、意図的に。全身硬直してしまって、そこしか動かなかった、というのが、実際のところだろうと思う。

「…あの、」

実際に言葉が返ってきたのは、それから更に何秒か後のことだった。

「佐恵がそうやって言ってくれるのは、凄く嬉しい。本当に、本当に嬉しいんだけど…ちょっと考えさせて。自分に『親』になる覚悟が持てるかどうか、すぐには分らないから。そんなこと考えたこともなかった」

それが彼の基本の性格ではあるんだけど、恐ろしく真面目で素直なリアクションだと、その時も思ったし、それは今も変わらない。

 私が、もちろん待つわ、と言うと、彼はそこで始めて、両肩に入りすぎていた力を抜いた。

「…ありがとう。ごめん、まっとうな返事が出来なくて」

「何言ってるの。この上なく真っ当な答えだったと思うけど?」

「何ていうかさ、プロポーズを保留させて貰ったみたいな、ヘンな後ろめたさがある」

ある意味、それはとっても正しい例えだったんだけれど、人生の何もかもが、即答出来るシンプルな事柄で出来ているわけじゃない。

「いいんだってば。嘘さえついてなかったら」

私が微笑うと、彼は軽く溜息をついた。

「そうやって言って貰えたこと自体は、凄く嬉しい」

まだ気負いの残る笑顔で――彼はそう言った。

 

 回答を貰ったのは翌々日のことだ。

「佐恵、一昨日の話だけど、覚悟を決めることにした。希望だけで全部叶うなら、正直俺も、凄く欲しい。佐恵の子供」

子供っぽいと思えるくらい、緊張した面持ちで、彼は言った。

「私の子供、なんだ?」

上目遣いに、その強張った表情を伺うと、彼はこれ以上無いくらいの真顔で頷いた。

「うん、まだ何も現実になってない段階としては、それが最大限の…実感、かな。本物の顔を見るまで、想像もつかないかも。それが自分の子供で、だからどうしろ、なんて。今、想像がつく限界は、それが佐恵の生んでくれる子供、ってとこまで」

嘘じゃなければいい、とは言ったけど、ここまで本当のことだけ言われると、いっそ落ち着いてしまう。そんなものかもしれない。男の子の実感なんて。

 ただ、彼の偉いところは、そこで立ち止まらずに、恐ろしく現実的なことに話題を向けたことだ。

「それで、俺たちこれからどうすればいいのかな?『生んでもいい』っていうのは『すぐにも欲しい』っていうのとは違う?それとも言葉の綾だった?」

それを聞いて、私は思わず笑ってしまった。まったく、子供みたいなこと言っておきながら、案外ちゃんと、押さえるところは押さえているんだから、と。

「もし、ふっと授かってしまうなら、別にそれが明日でもいいのよ。ただ、どうしても欲しいから手を尽くしたい、っていうのは絶対に違う」

それだけのことで良かったら、自信を持って即答出来た。

 

 多少は私の倫理観にも関わっていただろうが、主目的が「賭け」だったことは、否定しない。勝手な都合で最初の子供を堕ろした人間が、今度は欲しいから、と言って次の子供を望むのは、度を過ぎた我儘ではないのか、と――罪悪感が疼いたのは、紛れも無い事実だったから。

 もしそれで、無事に子供を生むことが出来たら、「母親になる資格がある人間」という、意味不明の免罪符を、誰かから与えて貰えたような、美味しい錯覚があるんじゃないか、という期待もしていた。赦されるために子供が欲しかったわけではないけれど、邪念が山ほどあったのは、否定する余地ゼロの事実。

 そんな私の内心を、一体何処まで推し量っていたのか、彼には訊いたこともない。ただ、その時彼は、その日1番すっきりした表情で、こう言った。

「それじゃ、自然に任せてていいってことだね。分ったけど、方針変えたくなったら、いつでも言って。何か…大事な決断を佐恵に押し付けてる気がしないでもないけど、俺じゃなくて佐恵の身体の話だから」

その時私は、30歳の誕生日を、ぼちぼち現実のものとしてカウントダウンを始めなければいけない時期にあった。


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