この子と一緒に食事をするようになって、気になったことがひとつある。敢えて、大きく括るなら、ひとつ――

 

 「敦司、お箸」

言われると、びくん、と背筋を伸ばして、肩を竦める。無意識になると、いつの間にか、お箸を握っている。それがあの子の癖だった。気がついたのは最初に食事をした時で、指摘したのがこの部屋で一緒に暮らすようになってからで――直そうと努力をしているのが、この1ヶ月。当然のことだけど、子供の頃からしみついた癖は、そう簡単には治らない。

 気になることは、他にもあった。私が風邪をひいて、スープの塩加減を間違えた時に、何も気付かなかった。翌日、多少は回復した舌で残り物を舐めてみたら、随分塩辛かったのでびっくりして、何で言わなかったの、と訊いたら、そういう味なのかと思って、と言った。幸い、男の人にありがちな、食べながら喋る癖はなかったけれど、肱はついていた。好き嫌いが多いのは最初から分っていたことだし、早食いだとは思っていたけれど、よく見たらあんまり噛んでいなかったし。

 要するに、「食べる」ということ全般に対して、オンチなのだった。

 考えてみたら、東京出身のくせに、私が作る京風の味付けに、何の文句をつけたことが無いのもおかしい。お味噌や汁物、煮物も明らかに違うだろうに、良く言えば抵抗無く素直に食べたし、悪く考えたら、違う、っていうことに気付かなかったんじゃないだろうか。そうじゃなかったら、味の違いがよく分っていないとか。

 「ねえ、敦司のご両親って、ご出身はどちら?」

「どっちも東京だよ。父親は青梅の方で、母親は鶯谷。どうかした?」

「ううん、別に…」

やっぱり、その家庭環境で、いきなり味噌汁が京風になったのにリアクションが無いって、おかしくないか?私なんか未だに、関東のおつゆの濃さに慣れないっていうのに。

 お箸を持ち直した敦司は、ぎこちない手つきで魚の身をほぐしている。そう、魚の食べ方も下手だ。手先そのものは決して不器用ではない、というのが、包丁の持ち方を教えた時の、個人的な印象なんだけど、食べつけていないんだろうか。

 いやしくも料理屋の娘だから、食べるものには敏感な方だ。そして、食べ物を商う両親は、「食べる」ということ全般について、疎かにするのを許さない人たちだ。それは作法や好き嫌いにしてもそうだし、朝食抜きなんてとんでもないとか、化学調味料なんて碌なもんじゃない、とか。

 だから私は、世間一般よりはかなり、「食べる」こと全般に対して注意を払っていると思う。仕事や何やでご一緒する方たちの「食べ方」について、気になることなんか山ほどある。そういうものは、大抵は流すようにしているんだけど――でも、敦司のオンチっぷりは、同居人であることを考え合わせると、流せる範囲を超えていた。

 その頃、敦司は本格的に事務所との契約を解除されて、事実上の無職になっていた。といっても、一方的に切られたわけではなくて、独立する積りで事務所を出た、というのが正しいようなんだけれど、何も言わないので私も訊かない。次に向けた動きもしているらしいけど、流石に私より忙しいなんてことは無くて、家で食事をする時は、大抵一緒だった。

 というわけで、目にする機会が増えればそれだけ目に付くものが増え、気がついたものは気になるようになったわけだ。

 

 食べ物を丁寧に扱うようになるには、食べ物に興味を持たせることだ。興味を持って大切に扱うなら、時間の許す限りは、丸呑みしないで味わうだろうし、礼儀作法を身につけるにあたって、気持ちの上で助けになるだろう。

 そんなこんなで、思い立った翌日から、2人で台所に立つことにした。表向きの理由は、私の方が忙しいんだから、出来る家事を増やして欲しい、ということ。まあそれも、完全な作り事ではない。

 因みに敦司は、決して料理をするのが嫌ではないらしくて、満更でもない様子でお米を研いでいる。そういえばこれは、最初にこの部屋に来た時に教えたんだっけ、なんて思い返していたら、敦司は急に顔を上げた。

「すっごく初歩的なこと訊くんだけど、米って何で炊く前に研ぐの?」

「糠を落とすんでしょ」

「ぬかって何」

「農家の人じゃないからよく知らないけど…お米の殻を取った時に、周りにまだ付いてるものがあるのよ。それを落とすの」

「ついてたら不味いんだ?」

「糠の臭みが出たりするわね」

「ていうか米って殻に入ってるんだ?」

気になりだしたら止まらない敦司は、子供のような勢いで私を質問攻めにする。それにしても…恐るべし都会っ子、だとその時は思った。生まれも育ちも二十三区内だと、そりゃあ田んぼも無いし、精米される前のお米なんて見たこと無いよね、と。

 だが敦司は、その後も次々と、私を唖然とさせる台詞を連発した。削り節じゃない鰹節を見たことが無かったのは、まあいいとしよう。

「で、これ何に使うの?」

「お味噌汁の出汁を取るんだけど」

「ダシ…って何?」

これには流石に、唖然とした。料理なんかしたことが無いから、出汁の取り方が分らない、なら理解出来る。だけど、今時、男の子だって家庭科の授業くらいあっただろうに、その言葉そのものを知らないって、一体どういうことなの!

「あのー…あなた、家庭科の授業、ちゃんと受けてた?」

「適当に流してた。嫌いだったもん」

「嫌いだった割には、嬉しそうにお料理してるように見えるんだけど?」

「俺ね、何でやるかわかんないことって、出来ないの。これは佐恵に食べて貰うためじゃない。ガキの頃はさ…何であんなことしなきゃいけないか、よくわかんなかった」

そういえば、1人っ子で甘やかされてたから、なんて豪語してたこともあった。男の子なんてこんなものかしら、とも思いつつ、それじゃ私が教えてあげましょう、という気になってくる。

 「いい、敦司?さっきの鰹節を、お湯に入れたでしょ。ちょっと味みてご覧。『何か』が出てるから」

鰹節の出し汁をおたまに掬って、敦司に渡す。それを舐めた敦司は、分ったような、分らないような顔をした。

「…言われると、そんな気も、する、かな」

「それが『旨味』っていうものよ。次、具を入れます」

大体、味噌汁の具なんて冷蔵庫の掃除に使うものだから、にんじんとか大根とか、余っていたものがどーんと入った。

「煮えるまで時間があるから、ほかのことをするわね」

 鍋は弱火にかけておいて、おかずの準備が整う頃には、すっかり野菜の味も出尽くしている。

「また味が変わったから。ちょっとみてご覧」

さっきと同じ量の汁をおたまに掬って、また敦司に渡す。神妙な顔つきでそれを受け取った敦司は、その汁を何度も舌の上で転がしてから、頷いた。

「…うん、今度は分る。味が変わった」

「それが、野菜の味よ。その上にまた、お味噌の味を足すのね」

なんてことを言いながら、白味噌と麹味噌を半々に溶いた。因みに我が家には、お味噌は京風の白以外に、信州味噌と八丁味噌があって、ものによって合わせたり使い分けたりしている。これは単に私の趣味だ。

 最後に、出来上がった味噌汁を飲みながら、しみじみと敦司は言った。

「レコーディングに似てるかも」

何でも音楽にひきつけてしまうところは、いかにもこの子らしいものの捉え方だ。でも、こう言うからには、きっと感触は悪くないに違いない。

「そうなの?」

「うん。レコーディングの場合はさ、最初にリズム録って、メロディ入れて、最後に歌で、それを重ねていくんだけどさ…その感じに似てる気がする。順番に、ちょっとずつ濃くしていって、調整して、って」

「それじゃ、あなたにも出来るわね、そのうち」

「…だといいな」

流石にまだ、自信は無さそうだった(この程度で変な自信を持たれても困るけど)。

 基本的に、敦司は私にとってはびっくり箱なんだけど、それにしても今日は、随分久しぶりに、たくさん驚かせて貰った。それでまた、ついでだと思って尋ねたことが、私を驚かせた。

「あなたって、昔は聞き訳のいい子だったの?」

「何で?」

敦司は怪訝そうな顔をして、箸を止めた。

「だって、子供って、些細なことを気にして、親を困らせるものじゃない?空はどうして青いの、とか。そう思ったら、私にとって、食卓って謎の宝庫だったんだけどな」

「例えば?」

「蒲鉾とか、お豆腐とか、子供心に得体の知れない食べ物ってあるじゃない。お肉でもお魚でも野菜でもないものが。そういうのが何で出来てるのって、訊いたことなかった?」

そうしたら敦司は、ヘンに大人びた、寂しい笑みを浮かべた。

「あー、そっか、佐恵って、家族みんなで楽しく食事してたんだ」

「商売屋だから、そうばっかりでもないわよ。休みじゃない日はいつも、お店の奥の四畳半で、母にせかされながら、妹たちと食べてた。休みの日は、必ず家族揃って食べるのが決まりだったけどね」

そこまで言って、何でか知らないけどピンときたことがある。

「もしかして、敦司のお母さんって、忙しい人だった?」

「うん、そう。だから俺は、平日に親と飯食ったことが、殆ど無いの。何考えたとしてもさ、相手が居ないと、訊きようがないでしょ」

そう言った言葉には、何の力も感じられなくて、顔ばかり大人ぶっても、虚勢にしか見えない。

 この話は、したくないのかも、と思った。というのは、一緒になってかれこれ1年の間、この子から家族の話というのを、殆ど聞かなかったからだ。でも、知りたいと思ってしまった。

「だって、うんと小さい頃はどうしてたの?」

「小学校に入る前は、鶯谷のお祖母ちゃんが来てくれてた。夕方、保育園に迎えに来てくれて、一緒に家帰ったら、母親が朝作ってった飯があるから、それ食ってさ、寝る前くらいに母親が帰ってくるから、お祖母ちゃんはそれで鶯谷に戻って、毎日その繰り返し。そのうちお祖父ちゃんが具合悪くしたから、本格的に鍵っ子になって、学校が終ったら塾とか習い事とかをして、それも終ったら家に帰って、電子レンジで作り置きの飯を食ってたよ」

それぞれの家庭には、それぞれの事情があるとは思う。だけど、桐山家のそれは、私には随分、殺伐としたものに思えた。すくなくとも、1週間に5日も、冷めた食事を温めるなんて、寂しすぎる。

「訊いてもよければ、ご両親のお仕事は?」

2人とも金融関係だよ。父親が証券会社で、母親が銀行」

なるほど、それでイメージは湧いた。確かに忙しそうだ。特にお父さんは。

 目の前のこの子が、薄暗い台所で1人で、涙を堪えながらご飯を食べている姿は、何となく想像がついた。でも、忘れて欲しくないことがひとつある。

「ねえ、でも、お母さんって、毎日ちゃんと、敦司のご飯を作っていってくれたんでしょう?」

「…うん、まあね。半分くらい出来合いだったけどさ」

「でも、とにかく半分は、作っておいてくれたんじゃない。それで、毎日きちんと食べてたから、無事に大人になったんでしょ。それは、良かったじゃない」

一瞬――敦司は、不貞腐れたような顔をして、頷いた。

「だけど、良くても悪くても、寂しかった、よね?」

そうやって続けたら、ばれたか、という顔をして、笑う。痩せ我慢でもなくて妙に大人びてもいない、いつもの彼の顔で。

 それから敦司は、まだぎこちない手つきでお箸を取って、煮豆をつまんだ。

「美味しい」

そう呟いた表情は、何かから解き放たれたように、落ち着いて見えた。

 

 ベランダのプランターを幾つか貰っていい、と敦司が言うので、どうぞと言ったら、すぐじゃないんだけど、と返された。

「因みに、何を植える積りなの?」

「うーん…まだしっかり決めたわけじゃないんだけど、プランターでできる野菜の定番って何だろう」

「プチトマト、かな。急に、どうしちゃったの?」

「どうもこうもないんだけど、なんか、ふと思い立っちゃって。考えてみたら俺、野菜ってスーパーに並んでる姿しか知らないしさ」

それがいい傾向なのか悪い兆候なのかは、ちょっとよく分らない。ただ、こだわり始めたら止まらないのがこの子の性格なので、とりあえず食べ物全般に興味を持つ方向で、動き始めたんだと思う。

 それにしても、まさかそこまで遡る気になるとは思わなかった。その徹底ぶりは、可愛いというか、子供っぽいと言うか。

「何を作ってもいいけど、何ができても、ちゃんと料理して食べさせてね」

そう言ったら、敦司は、うん、と頷いて微笑んだ。

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