この部屋に住み慣れてきた頃から、玄関を上がる度に、敦司にはひとつ、湧き上がる疑問があった。

 最初に来た時は、モデルルームだ、と本気で思った。

100平米よりはすこし広い4LDK+ウォークイン・クローゼット。玄関にはマホガニーのチェストがあり、その上には鍵類を入れる籐の籠と、花を活けておくガラスの器がある。今は梔子と夏椿だ。上がり框には穏やかなチョコレート色のマットが敷かれ、深い赤と紺色と、2種類のスリッパが並んでいる。続くフローリングの広々とした床の真ん中には、この部屋のハイライトであるソファが鎮座している。3,5人掛けの大きなソファはサンドベージュの布張りで、佐恵子曰く、萌黄色と芥子色と胡桃色のクッションが置いてある。ほどよい硬さと柔らかさを兼ね備えたそのソファは、最初にこの部屋に来た時から敦司のお気に入りだ。広々としているせいもあり、そこで一晩明かしても、身体は何処も痛くならない。その足元にはくすんだ濃いベージュのカーペットが敷かれ、ガラスのテーブルがしつらえられている。

 テレビや電話を置いている台、部屋の隅の物置に使っているテーブル、書棚の類はすべて玄関のチェストよりワントーンかもうすこし明るい茶色で、確か桜材だったと思う。デザインも似通っているので、同じ工房で手がけたものを一気に買ったかオーダーするかしたのだろう。唯一の例外は籐のマガジンラックだ。壁は生成り地のクロス張りで、光を受けると柔らかい影を落とす。優しい若葉色のカーテン、青磁の花瓶から零れ落ちるこでまりの花、テーブルや電話台に敷くクロスは季節で換わる。

 奥のダイニングには、白木のテーブルと椅子があり、浅葱色(これは敦司も覚えた)のランチョンマットと、縹色(これは何故か覚えさせられた)の座布団が敷いてある。テーブルの隅には2人分のスケジュールを書いた大判の手帳があって、マットと座布団の中間色のカバーをかけられている。キッチンに並ぶ食器類は白いものが多く、色がねえ、という理由で、ル・クルーゼの鍋などは無い。奥の方を探せば、絵付けの皿や塗りの器は幾つも出てくる筈だが、基本的に佐恵子は、台所に強い色のものを置くのを嫌がる。だから、鍋釜の類は、金属の色がそのまま出る黒か銀色かあかがね色、琺瑯なら白だ。磨かれたシンクに薄青のタイル、ハンガーのところには、2人分の藍染のエプロンと、紺色のミトン。タオルや布巾は白い。

 寝室は落ち着いたグリーン系、バスルーム周辺は柔らかなピンク色。どの場所にも明確なコンセプトがあって、一切の妥協無く丁寧に組み立てられた、城のような家だ。その代り、殆どのものが、1度買ったら滅多なことで買い換えなくても済むような、上質の品ばかり。現に敦司が引っ越してきてから5年以上もの間、唯一の例外を除いて家具家電の類は買っていない(因みに唯一の例外とは、寝室のベッドだ。こればかりはサイズを大きくしないと狭くて仕方なかった)。

 目に入るすべてがそんな具合だから、バッグを置きに自分の部屋に入ると時々、敦司は苦笑を漏らしてしまう。基本的にその部屋は、物置と、喧嘩をした時に寝る場所としてしか機能していない。前の部屋から持ち込んだ、安っぽい、というか事実安いスチール製の家具と色褪せたソファベッドが、軋みながら雑居している。オーディオが矢鱈と良いものな他は、高校生の勉強部屋、と言ってしまっても差し支えなさそうだ。

 とにかく佐恵子は、自分の城を作り上げるのに、妥協する気配が無い。フローリングのワックスがけもカーテンの洗濯も、休みのたびに厭わずにやるし、夜遅く帰ってきた日でさえ、目立つところの埃は払ってから寝る。掃除をさぼることは滅多に無い。部屋はいつも手入れが行き届いていて、それこそリビングの隅に掃除機とモップが立てかけられているところくらいにしか、一見して生活感は出ない。

 敦司に言わせてみれば、マガジンラックの中に気がつけば3日分の新聞が溜まっていたり、たまにリビングの窓近くが鉢植えで占領されて収集がつかなくなったり、決して完璧などではない。そして、そんなことがある度に、やれやれと苦笑しながら、安心する自分に気付く。完璧主義の佐恵子さんも人の子でしたか、などと言えば、むくれられるのは目に見えているが。

 窓を開けると、すこし離れたところに神宮の森が見える、閑静な住宅街。その部屋は、7階建てのうち6階だ。佐恵子はここに住んで10年になるという。

 で、一体幾らしたんだよ。

 今日も湧き上がってきたその呟きを、敦司は静かに飲み下した。

 

 気の迷いを起こしたのは、その夜遅く、佐恵子がしたたかに酔っ払って帰ってきた時だ。メインの仕事は関係先のレセプションだったが、その後付き合いの席で盛り上がりでもしたのだろう。だが、それにしても、酒豪の佐恵子がここまで酔うとなると、日本酒なら1升、ワインならボトル2本以上が空いている筈だ。

「ただいまぁ〜」

完全に酔っ払いのそれと分る、うんと甘ったるい調子で佐恵子は言い、そのまま全体重かけて、敦司に凭れかかってきた。これは甘えたい時の彼女の癖なのだが、間違っても言葉ではねだれないところに、年上の無駄な意地が見え隠れする。

 酔っ払った声を聞いた瞬間から、今夜は来るな、と予想していたので、支えてしまうのは造作も無い。問題は、そこからどうするかだ。敦司は上がり框に居て、佐恵子はまだ靴も脱いでいない。

 やれやれ、と敦司は内心で溜息をつきながら、佐恵子を座らせて、これで一体何歩歩けるのか、と疑ってしまうくらいの、華奢なパンプスを脱がせた。露になった白い足が、薄暗がりの中でなまめかしい。

「ありがと」

素面の時にこんなことをしようものなら、何をするのと大暴れするくせに、酔っ払った佐恵子は嫌に素直だった。盛り上がったんじゃなくて、飲まないとやっていられなかったかな、という思いが、敦司の脳裏を過ぎる。それでも人目がある限りは、酔ったそぶりも見せないで「河村あすか」を演じ続けるので、人はまさか、永遠の美女と噂される一流モデルに、こんな隙が存在するとは思いもしない。

 裸足になった佐恵子は、それでも決してふらつかない足取りでソファまで進むと、その上に身を投げ出した。ドレスの豊かな深紅が、サンドベージュの上に広がる。

 「砂の上の薔薇」

酔い覚ましの番茶を注ぎながら、敦司は呟いた。

「え、なあに」

とろんとした目で、佐恵子が問い返す。

「花が咲いてるみたい。綺麗な紅だね」

そのドレスは、佐恵子、というか河村あすかがプロデュースするブランドの新作だ。

「そーお、これ、今年の自信作なのよね」

しなだれかかって、滝のように流れ落ちる華やかな巻き髪。耳たぶと喉元には、星のようにダイヤモンドが煌いている。酔っ払ってぶっ倒れたのでさえなければ、なかなか絵になる光景だ。

「で、我ながら独り占めするのが空恐ろしいくらいの美女」

相手が酔っ払いで、何を言っても次の日には持ち越されないと分っているので、歯の根が浮くような恐ろしい台詞が、次々と口をついてしまう。一応、何一つ嘘ではないが。

 くすくすと、籠もった声で佐恵子は笑い、ソファの隅を指差す。

「立ってないで座ったら?」

促されるままに敦司が腰掛けると、佐恵子はその膝の上に、頭を預けた。

 指を伸ばして乱れ髪を梳くと、ふわりと香水の香りが立ち上る。一頃、ライヴハウスの客席あたりでやたらと嗅いだゴルチエだ。ゆえに敦司にとっては、妙な意味で馴染んだ香りだったりするが、佐恵子が使うとそれは、濃密な夜の香りに変わった。

 問いかけてしまったのは出来心で、勢いでさえなかった。

「ねえ、佐恵」

「うん?」

「この部屋買ったのって、佐恵が幾つの時だっけ」

「えーと、25歳、確か」

敦司もよくは知らないが、河村あすかのキャリアの、最初の絶頂期ではないかと思う。この頃彼女は、発行部数日本一を誇るファッション誌「クラウディア」の専属として毎号表紙を飾るほか、テレビのCMや各種イベントに引っ張りだこで、劇的に多忙だった、と推察される。

「何でまた、『家』なわけ」

「だって、いい物件だったのよ?この立地でこの間取りで、台所はガスに変えてもいいですよって言って貰えたし、この部屋、このマンションを売る時にモデルルームに使ってたから、多少値下がりしてたし」

「ふーん、それで、一体幾らしたの?」

「いちおくえん」

聞いた瞬間に、素晴らしい脱力感が敦司を襲った。言いたくは無いが、彼の事務所兼レーベルであるFlat Fieldの年間の総人件費が、そのくらいではなかったかと思う。

 佐恵子もそれは分ったようで、鮮やかなローズ色の唇に甘い苦笑を浮かべると、指を伸ばして敦司の顎をなぞった。

「いじけないでってば」

「…まあ、お蔭様で俺、ここに住んでるわけだよね。確かにいい部屋。凄く。佐恵のこだわりが全部詰まった、城、だよね」

うん、と佐恵子は頷いて、問わず語りのように呟き続ける。

「東京に出てきた時に、最初に立てた目標が、1億貯めて家を買うことだったのよね。堅いでしょ、20歳のくせに」

「自慢じゃないけど、俺今まで人生で1度も、不動産に手ぇ出そうって思ったこと無いよ?」

「それはまた、事情が別でしょう。ほら、私、何しろこんな性格だから…最初の3年くらいは、いつまでこんな仕事続けられるんだろう、って心配で。だから、何も無くなった時に、せめて形があるものが残ってたらいいなって…帰る家があったらいいな、って思ったの。それにほら、いつまで仕事があるか分らないから、ローン組むのも怖いし、ね?いい家だったら、いざとなれば売れるし」

「…夢の無い20歳だなー」

「しょうがないでしょ、そういう性格なんだし…それで、1年くらい探し回って、この家を見つけたの。その時はまだ…条件がOKなだけで、何も無い部屋だった」

佐恵子がふわりと瞼を閉じると、長い睫毛が目元に淡い影を落とす。

「その、何も無い部屋を『家』にするのに…そうね、更に1年はかかってる。私にとっていいもの、私の家にあって欲しいもの、何があったら安らげる家になるのか、せめて1人ならどんな空間に迎えて欲しいか…そんなことばっかり考えてて、ひらすらものを選び続けたのよね」

そう、それも、たった1人で、と敦司は敢えて言わなかった。

「だって独りじゃない。だから、誰かに何かして貰いたくても、誰も居なかったし…帰るところをしっかりしておかないと、忙しさに紛れて何処かに消えてしまいそうだったの、自分が――それを繋ぎとめるための、どうしても帰りたい家、かな」

そして佐恵子は、殆ど思いつくままに問わず語りを続けてゆく。

「最初はそうなのよ、私は――仕事だってそうよ。選んだ時は何も無い。だけど、選んでしまった以上は、放り出せないし、放り出したくないし…どうしたらそれを愛せるか、どうしたら大事に続けていけるか、考えるのよね。そうやって丁寧に付き合っていくうちに、一生手放せないものになるの。だから今は、ぜんぶ、すごく大事。仕事も、この家も…ぜんぶ」

続けるうちに、段々と語調が蕩けてきた。流石に飲みすぎているらしい。

 軽く溜息をついて、敦司は佐恵子の上半身を抱え上げた。

「とりあえず、あんまりそうやって寝転んでると、ドレスが皺になるよ。だいぶ酔ってるみたいだから、風呂入って、寝た方がいいんじゃない?」

真正面から見た佐恵子は、もう目を開けているのがやっと、という感じで、座った視線をどうにか上向けている。そして、言われるままに頷くと、立ち上がり、やはりこれだけは澱みの無い足取りで、バスルームの方へ歩いて行った。

 

 「おはよう、佐恵。胃は動きそう?オレンジとグレープフルーツ買ってあるけど、どっちにしよう?」

翌朝、佐恵子は、とても人には見せられない二日酔いの顔を晒して起きてきた。ダイニングでコーヒーを飲んでいた敦司は、軽く溜息をつきながら、テーブルの上からオレンジとグレープフルーツを取り上げる。

「…グレープフルーツ。あとヨーグルトに蜂蜜」

どうやら胃が動いているとは言い難そうだが、毎食それなりの栄養を摂ろうとする辺りは、流石のプロ根性と言うべきだろう。ジューサーを出してグレープフルーツを切りながら、敦司は苦笑した。

「本当に、真面目だよねぇ、佐恵は」

「何か言った?」

「いや、何でもない。それよりさ、顔洗ってくれば」

実際に、その真面目さは自分には出来ない、と敦司は思う。仕事を愛そうとするその根性も、整えるとなったらここまで完璧な家を作ってしまうその神経も。

 そして敦司は、その真面目さを、けっこう可愛いな、と思っているのだった。

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