下腹部に激痛が走ったのは、キッチンを出て、リビングに戻ろうとした時だった。それこそ、中に悪性腫瘍でも抱えているんじゃないかと思ってしまうような、思わず叫び声を上げてしまうような、強すぎる痛みが最初に来る。そしてそれは、しばらくすると落ち着くのだけれど、それでも鎮痛剤無しには立ち上がれない。

 今回も、どうにか最初に数時間をやり過ごさなければならなくて、このまま倒れるわけにはいかない。身体を二つに折って、痛みを紛らわす振りだけをして、一歩、二歩。歩いたところで、動けなくなって、床にへたりこむ。助けを呼びたくても、痛みを堪えて歯を食いしばるのに必死で、声を出すことも出来ない。

 「佐恵、どうしたの?」

どうやら私は、立てなくなった時に、何か物音を立てたようだった。リビングに居た敦司が、それを聞きつけて来てくれた。そして、一目瞭然の様子を見て、眉を顰める。

「…また――?」

頷くことだけは、辛うじて出来た。

 それが私の、ここ数ヶ月の状態だった。生理痛、というのとは、どうやら違うらしい。何故なら医者の見立てでは何事も無いから。何か大きなストレスや、環境の変化はありませんでしたか、と尋ねられた。つまり、心因性を疑われているということだ。

 理由なら、嫌というほど分る。強すぎる生理痛もどきと、今まではありもしなかった排卵痛が、これも異常な大きさで来る。でもそれは、本当の本当なら、来てはいけない痛みの筈だ。

 もしもあの時、ちゃんと責任を果たすという決断をしていたなら、私はもうすぐ、初めての子供を生む筈だった。それは今でも、私と、別れた夫と、中絶手術をした医者と、敦司――4人だけが知る秘密だ。

 最初に告げられた出産予定日は、5月の12日。その日は、もう目前に迫っている。

 

 目が覚めると、寝室でベッドに横になっていた。どうやらあの後、結局痛みで気絶してしまったらしい。時間の確認をしようと思って、身体を起こすと――随分マシになったとはいえ、到底我慢は出来ないような、重い痛みが襲い掛かる。どうにか堪えて、サイドボードの上の携帯電話を取り上げると、表示された時刻は、5月10日の午前10時になっていた。気絶してから約12時間。仕事が無い身の上だからいいようなものの、そうでなかったら一体、どうなっていたことか。想像するだけでも気が遠くなる。

携帯電話の横には、コップに入った水と鎮痛剤と、何故かチョコレートが置いてあった。キッチンの戸棚にあるものを、必死に漁った結果がこれらしい。それからコップの下に、右上がりの神経質な癖字で「今夜は遅くなります。ついてられなくてごめん 敦司」と書いたメモが挟んであった。シンプルな文面が、こんな時には何より染みる。

 下手だけど一生懸命な、そういう気遣いに触れた瞬間、私の中に、温かく湧き上がるものと、冷たく滑り落ちるものがある――そんな想いをくれる人が居て幸せだ、という実感と、果たして幸せでいいんだろうか、という疑念だ。

 私がこうして、彼に愛されている裏側には、奪ってしまった命がある。まだ9週間目だった私の子供。この腕に抱くどころか、顔も見ず名前も無く、性別さえ分らないまま、居なかったことにされてしまった。

 あの日、彼にこのことを話した瞬間は、ただ素直に、この痛みを抱えて生きていくんだ、とだけ思っていた。だけど、現実はそんな簡単なことではなくて、繰り返し何度でも、後悔の揺り返しが来るし、迷いのぶり返しも襲ってくる。

 そして今でも、本当に分らない。一体私は、何をすればいいのか。何をすれば赦されるのか、ではない。そもそも赦されるべきなのか。今更何が出来ると言うのか。

 解きほぐされないその気持ちが、知らず知らずのうちに凝り固まって、内側から圧迫する――それがきっと、この痛みの正体だ。

 分っているのに、どうすることも出来ない痛みだ。

 それが無ければ立ち上がれないと分っているのに、どうしても鎮痛剤に手が伸びない。せめて、痛みだけでもこのままにしておいた方がいいんじゃないだろうか。何の理由もつけられなくても、何となくそう思ってしまっている。こんなものを抱えたままでは、何も出来ないのに。

 このままではまた、生ける屍に戻ってしまう。それはいけない。彼が悲しむ。彼が嬉いと、私も嬉しい――嬉しくていいの?

 そこに出口が無いことなんて、考えなくても分るくらい明らかなことなのに、私はどうしても、その袋小路から出られなかった。

 

 最初の痛みが襲ってきたのは、誰にも知らせないまま中絶手術をして、この部屋に帰ってきた時だったと思う。既に夫は出て行った後で、がらんどうになった部屋には静けさが満ちていた。その場所で独りぼっちになって初めて、自分がしてしまったことの重大さに気がついた。そして、痛みのあまりの大きさに驚いて、すべてに蓋をして、忘れたふりをして、空虚な生活を始める。それが、敦司に出逢った頃だ。

 離婚だけなら、後悔したことは一度も無い。お互いの勝手な夢だけで結びついて半年間、真っ当に繋がりあうことが出来なくて、苛立って罵り合って、疲れ果てて冷え切って――そんな結婚生活だったから。あの頃はただもう、お互いに、一刻も早く終らせたくて、終らせたらその後は、引きずるものは何も欲しくなかった。

 「…何か、言うことは無いの?」

私が差し出した離婚届と中絶の同意書を見た時、夫はまったく表情を動かさないで、ごく機械的に記名捺印をして、私につき返した。別に、何を聞きたかったわけじゃないんだけど、妊娠したことは夫には言っていなかったので、流石に何か言われるんじゃないか、と構えていた。

「…そんなことを言われても、君がそう決めたなら、そうすればいいじゃないか。正直言って、僕には何の現実感も無いよ」

そんなものかもしれない、と、今なら思える。悲惨な結婚生活を終らせる段になって、突然そんなことを告げられても、困惑するしかなかっただろう。まして男性にとっては、目に見えず存在を感じ取ることも出来ない赤ん坊なんて、愛せないなら、居ないも同じだ。ただあの時は、その反応が何故か悲しくて仕方なかった。

「ありがとう、それじゃあ好きにさせて貰うわ」

そして、そんなに悲しかったのに、何故か口ではそんなことしか言えなかった。

 あの時には、あれしか選べなかった。何度考えても、答えは同じだ。あの時どうすれば良かったのか、とは思えない。

 だけど今が、選び得た唯一の現在なら、私はあの子に何が出来るんだろう。それだけが、今も分らないで居る。

 

 行き場の無い物思いと痛みの連続は、ただじりじりと私を消耗させた。眠って起きるというよりは、無意識と有意識の間を彷徨う感じで、意味の無い時間が過ぎてゆく。すぐ近くに敦司を見つけたのは、一体何度目に意識を取り戻した時だろう。

 ベッドの横に椅子を据えて、最初は多分、座っていたんだと思う。とうとう待ちきれなくなって、そのままベッドに突っ伏している様子が、初々しくて愛おしい。

 だけど、このまま放っておいては風邪をひいてしまいそうなので、揺すって起こすことにした。

「敦司」

呼ぶとすぐに反応する。この姿勢では特にそうかもしれないが、眠りの浅い子だ。

「佐恵、具合はもういいの?」

顔を上げると、敦司は、まだ半分以上眠ったままの、座った目でそんなことを尋ねる。

 私はそれには答えないで、痛みを顔に出さないようにしながら、軽く上半身を起こして、手を差し伸べた。

「そんなとこで寝てないで、こっちにおいで。寒いでしょう」

そしてその腕に、彼を迎え入れる。身体の奥から、安堵感が湧き上がる。

「本当にもういいの?大丈夫?」

敦司はまだ、そこにこだわりたいらしかった。

「いいのよ。この方が落ち着くから」

寝たきりだった自分よりも、転寝していた彼の方を温かく感じるなんて、と思いながら、そこにはもう、腕をほどけなくなった私が居た。そして敦司は、どうやら眠気に負けたらしくて、そのまま私の腕の中で寝息をたて始めた。

 穏やかな寝顔を見ていると、確かに落ち着いた。痛みはまだ消えたわけではないけれど、すくなくともピークは過ぎている。何よりも、こうやって確かに、愛する人を抱いている幸福感の方が勝った。

 ただひとつ間違い無いのは、今度はこの手を、離してはいけない、ということだ。

 

 次の朝目が覚めると、どうやら痛みは落ち着き始めていて、頑張れば起き上がれそうだったので、食事の用意をすることにした。考えるまでもなく、痛みが始まって丸2日以上、何も食べていない。冷蔵庫の中のものも色々駄目になったりしていたので、それを整理して、何が作れるかを考えるまでが、一仕事になってしまった。

 とりあえず献立を決めて、料理にとりかかったところで、敦司が起きてきた。そして、私の顔を見るなり、おはようよりも先に、こう言った。

「佐恵、起きてからちゃんと鏡見た?すっごく顔色悪いよ?」

剥き出しのままで、遠慮の無い言葉かもしれない。ただ彼が言うと、混じり気無く真剣で一途なので、特に嫌味には感じない。

「…そうね、半分病み上がりみたいなものだから、そうかもしれないわね」

「本当は今も、まだ痛むんでしょ」

怖いくらい真っ直ぐに、敦司は私を見ていた。世界の運命を決める二択を前にしたみたいに。

「…嘘が上手だよね、佐恵は。痛いのに痛くないフリしたり、泣きたいのに平気な顔してたり」

そしてゆっくりと、そんな風に言葉を続ける。私は手を止めて、真っ直ぐに彼を見返した。

「今も、嘘をついているように見える?」

「半分だけ。本当はまだ、具合悪いんでしょ。でも、とりあえず、気分はそんなに悪くないよね」

確かにその通りだ。この子は私のことを、とてもよく見ている。

 それから敦司は、しばらく言葉を探している感じだった。そして、すこし躊躇ってから、また口をひらいた。

「お願いだから、俺の前では、そういう嘘はつかないで欲しい。じゃないと俺、いつも心配してなきゃいけないじゃん。佐恵は今、本当に笑ってるのかな、泣きたくないかなって。それは…けっこう辛いよ」

「うん、分った、約束する。だから今は、まだ痛むけど、精神的にしんどくはないのよ」

あんまりストレートに感情をぶつけられるので、ついこちらまで、一緒に素直になってしまう。そんなに簡単じゃない、と言うことだって出来たのに。でも彼に、そういうことはしたくない、と思った。それでやっと、敦司の表情が柔らかくなる。

「朝イチから、きついこと言ってごめん。とりあえず朝飯だよね。佐恵は、今日の予定は?」

「それが何も無いのよね。いい加減に働かないと」

それで、会話は他愛の無い方向に流れていくんだと思った。でも敦司は、私がついている、最大の「嘘」を見逃していなかった。

「じゃあ、俺昼からだから、後で時間貰える?」

そうやって、物事の核心に近づく時、彼は、アーティスト特有の、鋭い目をする。闇の深淵に似たその色には、誤魔化しの効かない何かが宿っていて、私はいつもその前で、自分の存在の、悲しいくらいの頼りなさを思ってしまう。

「…いいわよ、いくらでもどうぞ」

そして、そのくせ口先では、そんな風に余裕のある台詞を返してしまった。確かに私は嘘つきた。

 

 食事と片付けを終えて2人が選んだ場所は、リビングのソファだった。結局そこが、家の中では1番落ち着く場所であり、しにくい話にも適している。

 そして、いざ話すとなったら、敦司は迷わない。言葉に詰まることはあっても、絶対に逃げたりはしない子だ。私も多分、その潔さを、必要としているんだと思う。

「俺ずっと考えてたんだけど、佐恵はさ、本当は、お母さんになりたかったんじゃないの?」

だけど、いざ提示された一言目は、色んな意味で予想を超えていて、咄嗟に反応出来なかった。

「分らない?それじゃもっと広い意味で、子供生みたいって思ったことは無かった?あったとしたら、それって最後は何時」

それは――女性だから、一度ならずある。幼い頃の憧れから始まって、学生時代も仕事を始めてからも、別にキャリアだけで生きていこうなんて思ったことは無い。もちろん真剣ではなかったにせよ、尋ねられれば、結婚願望も出産願望も、ある、と答えていた。

 思いの記憶を遡ることは、決して楽ではないけれど、この場合不可能ではない。忘れられない、大事なことだから。

「最後は…1年くらい前よ。結婚したばかりの頃。すぐにそれどころじゃなくなっちゃったし、早々にとは全然思ってなかったけど、そのうち…生むんだと思ってた」

細い針で突き刺すように、胸の奥が痛んだ。「そのうち」は、もしかしたら、明日かもしれなかった。

「子供好きそうだもん、佐恵は。下手したら、スタッフの誕生日は忘れても、スタッフの子供の誕生日を覚えてる方でしょ」

その絶妙な一言が、痛みから私を掬い上げようとする。だけど、笑ってはいけないような気がして、頷きかけた途中で、浮かびかけの笑みを噛み殺した。

「今、また嘘ついた。笑いたかったら笑ってよ。泣きたかったら泣いていいし、怒ったらそれも出してくれないと困るし…いつでも100%、思ったことをぶちまけるのが正しいわけじゃないだろうけど、佐恵は出す量が少なすぎ」

そして敦司は、やっぱり、怖いくらいよく、私のことを見ている。大きな手が、触れるくらいの軽さで頬を叩いた。だけど、一度消してしまった笑みは、そう簡単にもう浮かび直したりしない。

「ね…だから、こうやって、無かったことになっちゃうんだよ。ひとつひとつ、佐恵が生きて感じた、大事な感情なんだから。ちゃんと活かしてあげないとかわいそうだ」

 何の気なく放たれた一言、にも思える。それなのに冷えた痛みが襲ってきたのは「無かったこと」になった、もっともっと大事なものを、忘れられないからだ。

「それって…あの子のこと?」

恐る恐る尋ねると、敦司はかぶりを振る。

「そんなこと、俺が言わなくても佐恵はよく分ってる」

そう言って敦司は手を伸ばすと、髪を掻き揚げ私の頬に触れた。掌の温かさよりも、見つめている瞳の強い光の方が、ずっと印象が強い。

「凄く、凄く、責めてるでしょ、自分のことを」

頷き返すしか、私には出来なかった。

 「本当はね、」

真っ直ぐに私を見ている目が、あんまり透き通って綺麗なので、もう逃げられない、と思った。逃げたくない、とも。すべて吐き出してしまいたい、とも。

「痛む理由は、見当がついてるのよ。あの子のことで、自分を責めてるのは本当。でも、問題はそこじゃなくて、それじゃそのために、何をしたらいいのか分らないところ、なんだと思うの。何も出来なくて、だけど忘れられなくて、気持ちの持って行きどころが何処にも無くて…だから鬱積して、痛みになっているんだと思う」

「で、その痛みを、後生大事に抱えちゃってるよ」

敦司がそう言った瞬間、私は間違いなく、安堵したと思う。一番肝心なところを、言わなくても分ってくれた、という意味で。

 痛むという事実だけが、今となっては唯一、確かに私が、短い時間でもあの子と一緒だった証拠だから。それは到底、手放せない痛みに思えた。

 けれども敦司は、すぐにはそこを突っ込まないで、話の矛先を変えた。それが優しさなのか、未熟さなのかは分らない。

「話があっちこっちするけど、ひとつだけ、はっきりさせたいことがあって…佐恵は、本当はその子を、生みたかったんじゃないかなって。思い込みかもしれないけど、ずっと気になってて…初めて俺にその話をしてくれた時、佐恵が自分のことを『そんなに優しいお母さんじゃなかった』って言ったのが、凄く印象強くて、それって絶対、自分のことを『お母さん』だって思ってなきゃ、出ない言葉だと思ったからさ」

未熟さの方かもしれない、と思った。その生硬さと性急さは、決して穏やかでも優しくも無くて、私の心の痛むところを、ダイレクトに突いた。胸が詰まって、喉の奥が変に熱い。こみ上げた涙が、言葉を押し流しそうになる。

「私に、そんなこと言う資格無い…」

「佐恵、違う!」

 大きな声にはっとして、俯きかけた顔を上げる。敦司の目は、一度としてぶれること無しに、痛々しいくらいの真っ直ぐさで、私を見ていた。

「資格があるとか、無いとかじゃなくて。佐恵はどう思ったの。それが大事なんじゃないの」

やっぱり未熟だ、と思う。そこに余裕なんか無い。だけど、その必死さ以上に優しいものを、私は他に知らない。

 「ねえ、佐恵、俺思うんだけどさ、確かに佐恵の子供は、事情があって生まれてこられなくて、それは凄く不幸なことだった、と思う。でもそれで、その子がかわいそうだって言うのは、物事の三分の一でしかないよね」

ゆっくりと、噛んで含めるように、敦司は言った。

「三分の一って?」

間の抜けた問いだと思ったけれど、訊き返す。その瞬間、敦司の口元に、寂しい笑みが浮かんだ。

「だってさ、それは、佐恵と、その子と…その、別れた旦那と、3人の大事な話でしょ」

別れた旦那、という一言が、とても言い難そうだったけど、訥々と、話は続く。

「これって、3人全員にとって、凄く不幸な話だよ。俺もその、よく分んないけどさ…確かに、もう好きじゃない女の人に、子供が出来たって言われたら、『何だそれ』って思うんじゃないかな…男にしてみたら、すくなくとも目に見えるようになるまでは、何の実感も無いでしょ。だから、その人のこと好きじゃなかったら、子供もやっぱり、その人の一部みたいなものだから……」

敦司はまるで、迷子の子供のようにも見えた。行きたい場所は嫌っていうほど分っているのに、どうやったら上手くそこに辿り着けるか分らない。泣きたいのを堪えて、精一杯張った意地を持て余して…これは一体、どっちの問題だったんだろう。

「だけどさ、逆に、じゃあその人のこと好きだったら、どうだろうと思うとさ…そんなに幸せなことって無い気がする。大好きな人が、自分の子供を生んでくれるのって。俺が言っていい台詞じゃないかもしれないけど…でも、やっぱり嬉しいよ。大好きなものが、自然に増えるっていう意味でもさ」

ひとつ、何かが収まった、という感触があった。「腑に落ちる」とは、多分このことを言うんだろう。知らないうちに空いていた穴に、ぴったりのピースが填まる感じだ。

「そうね」

ゆっくりと、息をつくように、頷く。

「本当なら、そうあるべきだったのにね。幸せに出来た筈のことを、そう思えなかったって、とても不幸なこと、よね」

そしてすべての息をついたら、身体の中にわだかまっていた何かが、確かに、減った感触があった。

 敦司は、多分、私のその言葉を、待ち構えていたんだと思う。

「ね、そうでしょ。だから三分の一なんだよ。佐恵と、別れた旦那と、子供とさ。3人がみんな、それぞれに不幸だった。なのに佐恵は、三つのうちひとつだけを後生大事に抱えてるんだ」

わだかまりの抜けた心に、その言葉は、すっと染み込んでいく。

「佐恵、確かにさ、子供はかわいそうだったと思うよ。だけど、それは佐恵も同じなんじゃないの。ずっと待ってたんでしょ、その子のこと。それが叶わなかったって、やっぱり凄く不幸だよ。資格があるとか、無いとかじゃなくて、佐恵もかわいそうだ」

痛い、と思った。何がどうじゃなくて、何処がこうじゃなくて。ただ、自分の中のある部分が、疼いて傷んでいるのが分った。前にも知っている痛みだ。その時も、私たちはこの場所に居て、こんな風に話していた。

 痛みの根源には熱がある。熱いというよりは温かい。

「偉そうなこと色々言って、これ全部俺が1人で考えたことだからさ…本当のところ、佐恵はどう思ってるの?」

その一言が、溜まっていた涙を呼び起こした。頬を伝う感触は、痛みが持っているのと同じ温かさだ。

「…生みたかったんだ、と、思う。じゃなかったら、こんなに後悔しないわよね」

ただひとつの言葉が、世界の扉を開けることがあると、教えてくれたのは敦司だった。ほかでも無いこの場所で。そこに辿り着くのは、いつも決して楽ではないけれど、開けた扉の向こうには、鮮やかな世界が待っている。

 それを聞いた敦司は、静かに頷いた。

「ねえ、佐恵。俺がこんなこと言うべきじゃないかもしれないけど、佐恵の子供は、この世に生まれてくる代わりに、佐恵に今の時間をくれたんだと思う。すくなくとも、佐恵が別の決断をしてたら、俺たち逢ってないよね。だから…凄くおこがましいけどさ、その時間を、大事に使おうよ。不幸なことがあったから、結末が更に不幸になりました、じゃなくってさ。俺、佐恵に幸せになって欲しい」

目の前には、最後の扉があった。どうしても、あることを認められなかった扉が。

「だけど、それじゃあ私は、あの子に何をすればいいの」

何の衒いも無く、最後に吐き出された「本当」は、自分が途方に暮れている、という事実だった。

 違う決断をしていたなら、明日には光を浴びて、名前を与えられ、私が抱いていた筈の――その先に、数え切れない未来を描けていた筈の。それを奪った代償に、一体私は何をすればいいのか。分る筈が無い。

 もちろんそれは、敦司にとっても同じことだ。というよりも、私よりも5年短い時間しか持っていなくて、世間で言う「親」の年齢にはまだ若い敦司にとっての方が、これは得体の知れない問題になるのかもしれない。

 明らかな戸惑いが、端整な面にしばらくの間、たゆたっていた。そして敦司は、ふっと目線を部屋の隅の天井に向けた。

「ねえ、その子って、もしかしてあのへんに居るのかな」

そしてそんな、わけのわからないことを言い始める。

「それとも天国に行ってしまったと思う?」

咄嗟に、かぶりを振っている自分が居た。もしかしたら半分以上は、そんなに遠くに行かないで、側に居て欲しいという、とんでもない我儘かもしれなかった。

 それを見て、敦司はふっと微笑んだ。内側から柔らかい光が滲むような、透明な表情だった。

「それじゃ、あんなところに放っておかないで、その手で抱いてあげたら?」

そして、迷った形跡の無いくっきりした響きで、そう言った。

 それから敦司は、何かを持て余したように、長い黒髪を掻き揚げると、視線を上げた。

「『きら』って呼んでいいかな…長い間、放っておいてごめん。ずっと寂しかったよね。こっちへおいで。お母さんも寂しがってる。きらのこと、抱っこしたいって」

すっと伸ばされた腕の先で、大きな掌が何かを包み込む。そして敦司は、何の気負いも無い自然な素振りで、私の掌に、その掌を重ねた。

「取り返しのつかないことが、あったよね。だけど、この先何があっても…いつか、また誰かの子供を生むことがあっても、佐恵の一番最初の子供は、間違いなく、この子だから。それだけは変わらない。この子が居たっていうことを、ずっと大事にしてあげてよ」

そう言うと敦司は、包み込んだままの掌を、ぎゅっと私の胸に押し当てた。体温以上の温かさが、そこに確かにあると、錯覚でも信じたいと思った。

「だから…抱いててあげて、その子のこと。それで、佐恵が幸せになってくれたら、その子もきっと嬉しいと思うよ。すぐ近くに居るんだからさ。何度でも言うけど、佐恵には幸せになって欲しい」

意地っ張りも戸惑いも迷いも、すべてが溶けた先にあったのは、穏やかに落ち着いた真心だった。それをそのまま響かせたら、きっとこんな音になるだろう。

 まだ言いたいことはたくさんあるのに、口をひらくそばからすべてが嗚咽に引き攣れて、何の音にもなりはしない。震えるその肩を、敦司の手が抱き寄せた。

「泣いていいよ。とりあえず、俺、ここに居るから」

 その一言が、とどめになった感じがした。必死に堰き止めていたすべてが崩れ、私は声を上げて泣いた。それが一体何のためなのかは分らない。何かを洗い落とすためではなくて、何かを吐き出すためでもなくて――ただ泣きたかった。

 泣きすぎて頭痛がして、まだ泣き止まないうちに頭痛が治まって、それでやっと、私も落ち着くことが出来た。涙が止まり、晴れ渡った視界に、また光が満ちる。

「きら、ちゃん」

しゃくりを上げて、涙の最後の余韻を振り払うと、私はもう1度、胸の前に掌を持っていった。

「弱いお母さんで、ごめんね。本当にごめん。あなたが来てくれたこと、とっても嬉しかった筈なのに、気がつけなくって、あなたのこと、抱いてあげられなくて…赦して貰えないかもしれないけど、でも、私はあなたのこと、大好きよ――」

一語一語、ゆっくりと形にしながら心に納める。そこが、紛れも無い、たった1人の私の子供の、居る場所だ。

 それから私は、敦司に一言断って席を立ち、顔を洗って、またリビングに戻った。敦司はと言えば、さっきからずっと変わらない姿勢で待っている。

「ねえ」

なので、私もさっきと同じ場所に腰掛け直しながら、その瞳を覗きこむ。

 ほんのすこし前まで、必死に張り詰めて、一杯一杯だけど大人びていた顔は、緊張から解放されて、今は逆に、すこし幼く見える。

「何度でも言えるなら、もう1回言ってよ」

え、という音のままに、目と口をポカンと開くと、その幼さが際立った。

「幸せになって欲しい、って」

その後何を言うかも、全部分って言っているので、何だか随分意地悪なオバサンになっている気がしたけれど、もういいだろう。

 敦司はもちろん、私の考えの裏なんかこれっぽっちも読まないで、微笑み返す。

「だから、俺は、佐恵には幸せになって欲しい」

生真面目なその響きが、どうしようもないくらい愛おしく思える。でも、今言いたいのは別のことだ。

「何で、そんな風に言うのよ」

言いながら、自分でも本当に意地悪だと思ったけど、このくらいの我儘は許して欲しい。第一、嘘をつくなと言ったのは、ほかでもない敦司なんだから。

「それだとまるで、私だけ勝手に幸せになるみたいじゃない。そうじゃなくて、貴方も一緒に来てくれないと嫌だから」

その一言で、一瞬硬直していた敦司の表情が、笑みに崩れる。

「一緒に行くよ。だから、2人で幸せになろう…って言えばいい?」

「最後の一言だけが余計!」

言ったそばから笑えてきてしまって、もうそれ以上、絡むなんて出来なかった。

 その時一瞬、もしも何時か、誰かの子供を生むとしたら、それはこの人の子供なのかな、と思ったんだけれど、まだとてもそんなことは、口には出来なかった。それよりも今は、こうしてお互い、無心に笑い合えることの方が、ずっとずっと大切だ。

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