――た…か、ひこ――――

 そう、呼ばれた気がした。遠く、近く、低く――夢の中から「その声」は、彼を呼んだ。答えなければ。そう、思った。俺は、ここに、居る、と。それなのに、声が出ない。喉を絞ろうとしても、幽かな音さえ出ず、伸ばそうとした手は空しく風を掴む。

 そして――目覚めると、言い知れない虚ろが、胸に穿たれていた。

 呼んだのは、誰だろう。考える。けれども、どうしても「思い出せない」。思い出さなければ――何故、そう思ったのだろう。分らない。夢だろう?真面目に考えるなよ。そんな風にも、思った。

 だが――自分は、思いだせる筈だ。理由も無く、けれども、揺ぎ無く強固に。崇彦は、そう感じた。

 

 崇彦の勤務先は、同じ市内にあって、歩けば二十分ほどのところだ。天気さえ良ければ、適度な運動も兼ねて、徒歩で通勤している。そのちょうど真ん中には、町を見下ろす小高い丘があり、天辺には、一説に樹齢千年を超すとも言われる、古い桜樹があった。

 丘に登らず、回り道をしてもいいのだが、どの道、そんなに時間は変わらない。だから、崇彦はいつも、その丘を登り、下って、会社に向った。その近くには駅があり、学生時代は、そこから電車に乗って通学していた。十年以上も通い慣れた道を、桜樹はいつも、見下ろしていた。

 春まだき頃の、朝早く。温みきらない冴えた空気の中を歩いて、いつもの場所に辿り着く。そして見上げた桜樹は、未だ寒々しい姿ではあるが、よく目を凝らせば、膨らんだ花芽が、命を孕んでいる。毎年、春が来ると、天に届きそうなその枝は、夢まぼろしのような、あでやかな花で覆われた。雲、それとも霞――淡い紅を含んだ無数の花弁が、儚くも綺羅びやかに、刹那の絢爛を描き出す。そして、僅かな時を経て、花嵐となり散り落ちる。その季節が、近付いていた。

 桜花、葉桜、黄葉の頃。その道を歩き、無意識に見上げては、桜樹の四季を見守る。それが、そのまま崇彦の四季にもなっていた。

 

 「どうした、調子悪そうだな」

昼過ぎだった。片付かない書類を無理矢理片付けようとしていると、流石にコンディションの悪さを見抜かれたらしく、上司に声をかけられた。

「風邪でもひいたか?顔色悪いぞ。それとも何だ、人より遅れてインフルエンザか?社内で流行った時、お前は無事だったもんな」

「あ、すみません、体調は悪くないです」

顔を上げて、苦笑を浮かべる。

「昨夜、不思議と寝付けなくて、寝不足なんですよね。ありませんか、そういう時」

「寝る前に、何か余計なこと考えたんで、目が冴えたんじゃないのか?今夜は酒でも飲んで、早寝しろよ」

幸いにして、その場は軽く、流すことが出来た。

 正確には、眠れなかったのではない。眠ったにも関わらず、休まらなかったのだ。また、あの「夢」を見た。いや、「聞いた」と言った方が正しいのだろうか。いつもいつも、崇彦の視界には何一つ、映るものは無いのである。聞こえるのは、ただ、声。

 いや、それも実は、正しくないのかもしれない。テレパシーが届く、と言うのが、一番適切だ。声は脳裏に響く。その証拠に、繰り返し繰り返し、嫌になるほど聞いているのに、崇彦はその声が、男のものだか女のものだかさえ、知らないのである。

 幼い頃から、幾度と無くその「夢」を見てきた。最初が何時だったかさえ、もう覚えていないほど、それは繰り返され、いつしか日常の一部と化していた。疲れを残すその眠りは、風邪をひくのと同じように、ふいに訪れる不運だと思っていた。

 たまのことなら、不用意な夜更かしや、寝そびれた夜と同じこと。これまでの四半世紀以上を、彼はそうやって生きてきた。そうもいかなくなったのは、この年が明けてからだ。今までは、忘れた頃にやってくる程度だったその夢が、頻繁に訪れるようになったのだ。最初は、十日ほどしか明かずにやってきた。そこまでならまだ、我慢出来たのだが、日を追ってその感覚は短くなり、とうとう連夜のこととなるに至って、身体の中には、取れない疲れが澱になって残っている。

 

 月半ばの、それほど忙しくない日だったこともあって、崇彦はその日、定時で仕事を終えて、帰路に就いた。年が明けて、日は徐々に長くなってきている筈だが、まだ実感はあまり無い。日は疾うに落ち、薄闇の空に、桜樹が浮かび上がっていた。

 何気なく、それを見上げた刹那。

 たかひこ、と。

 確かに、「声」が聞こえた。まだ若い、女の声だ。鈴を振るような細い声。けれども、弱々しくはなく、掻き消しえない響きを、脳裏に残す。

「お前が、俺を、呼んだのか?」

莫迦だ、と思った。思いながら、問いかけずにはいられなかった。無論、桜樹は答えない。黒ぐろとしたその影は、徐々に濃くなる暮色に溶けて、やがて輪郭を失ってゆく。まるで、その中に消え入るように――求めた答えもまた、失われてしまった。

 

 あの桜樹は何なのか。生まれて初めて、崇彦はそのことを、疑問に思った。物心ついた時には、既にそこに、その樹は在った。今と変わらぬ、古びた太い幹と、天を覆う広い枝。染井吉野よりは色の濃い、豪奢な花の姿。それが、あまりに当たり前すぎて、考えたことさえ無かった。

 思えば、不審な点は幾つもある。あれほどの大樹で、俗説に拠れば、樹齢は千年を超えているという。普通、そういう樹は、天然記念物か何かにされて、札のひとつも立っているのではないか。そうでなくても、最低限、何という種類の桜なのかくらい、書き記してあるものだと思う。何よりも、町を見下ろす丘の上、という意味ありげなところに生えていながら、その足元には、神社ひとつありはしない。公園になっているわけでもなく、不埒な子供が悪戯をしないようにとの、囲いさえ無い。本当にただ、野辺の雑草と同じように、道端に生えている。そんな桜樹だった。

 調べてみると、やはりあの桜樹は、何かにつけて奇妙であった。

 先ず、樹齢が分らない。かつて何度か、正確な数値を測定しようと試みられたことがあったらしいが、その度に、不測の事態が起きて話事体が流れてしまったり、何らかのトラブルがあってデータが狂ってしまったり、結局今日に至るまで、測定は成されていない。樹齢千年を超す、という町の噂は、飽くまでも他所にあるその手の桜と大きさを比べて、適当に出た話らしい。

 それから、そもそも何という種類の桜であるのかも、よく分らないのだそうだ。最も、天然記念物級の桜の中には、その後の品種改良やら何やらで仲間が途絶え、今やそれ一木しか無い、というものが珍しくないそうだが。

 「それにしたって、囲いとか看板とか、何かあっても良さそうなものですよね?」

「はあ…まあ」

問いかけると、教育委員会の職員は、曖昧な笑みを浮かべて頷いた。普段なら、これだから公務員はと文句のひとつもつけたくなる態度だが、今回に限っては、確かに自分が迷惑な客なんだろうな、と思えるので、崇彦はそれ以上、尋ねなかった。いずれにしても、あそこに桜樹がぽつんと聳えていることに対して、目の前の事務員風の男が、何の責任を取れるわけでもないのだ。

 せっかく昼休みを潰した割に、まったく実りの無かった市役所訪問を終えて、職場に戻る。

「お帰りなさい。今日は何食べて来たんですか?」

思ったよりも時間を食ってしまったので、近道をしようと、通用口ではなく正面から入った。受付嬢が、人懐こい笑みを浮かべて声をかけてくる。

「野暮用があってさ。飯食ってないんだよな」

半ば以上儀礼的に、そう返した瞬間だった。

 あたしを、思い出して――

「あの女の声」が、脳裏に響いた。鈍器で殴られたような衝撃が、頭を貫く。思わず、崇彦はよろめいて、床に片膝をついた。

「どうしました?!」

受付嬢の慌てた声が、壁一枚隔てたように、遠くから聞こえる。

 たかひこ。

くっきりと。呼ぶ声が、刻み込まれる。記憶にも、心にも、身体にも。

 「大丈夫、ちょっと眩暈――」

立ち上がり、まだ耳鳴りのする頭を軽く振る。見えているのは現実の光景であり、聞こえている音も確かに現実のものなのに――まだどこか、足が雲を踏むような、不安定な感じが消えない。

「ごめん、ほんと大丈夫だから」

それなのに、動かしてみれば、身体は自由に動く。そこに、却って強烈な違和感があった。

 

 その日の帰りは、夜すこし遅い時間になった。桜樹の側には街灯があり、申し訳程度の明かりで、闇を和らげている。とはいえ、余りにささやかなその光では、見上げた梢を浮かび上がらせることは出来ない。

「思い出したいのは、山々なんだ。だけど、何を思い出せばいい」

暗がりに溶ける桜樹の頂を見上げて、崇彦は問いかけた。答えは、無い。

 我ながらどうかしている、と思う。流石に、これほど同じような夢が続くと、たかが寝ている間のこと、と切り捨てることは出来ないかもしれない。それにしても、もの言わぬ樹木に問いかけるくらいなら、心療内科でも受診した方が現実的だ。何かのノイローゼとか、ストレス性のものとか。理由をつけて、説明出来れば、人はそこで安心できる。それじゃあ睡眠薬を処方しましょうとか、しばらく休んでくださいとか、解決方法を示されると、そちらに向って動き出す。

 だが、今の崇彦は、そういう行動を取れない。ただ、返らぬ答えを求めて問いかけている。だから、考えるのを止められない。自分は何を思い出せばいいのか。誰が、問いかけているのか。それは何故か。考え続ける、その状態は酷く不安定で、心細いものだ。

 そう、思った瞬間。

 何かが、笑った。

 「聞こえた」わけではない。「見えた」わけでもない。ただ、「笑った」と思ったのだ。誰が――それは分らない。何故――それも分らない。だが、途方に暮れて惑う崇彦を、嘲笑ったのでないことだけは、分った。

 不思議と暖かい想いが、胸郭を満たす。懐かしいような、嬉しいような。知らない筈なのに、しっとりと心に馴染むその感覚は、幸福と言えば最も近いだろうか。

「これで…いいのか――?」

問いかけは、暗天に吸い込まれても。その向う、梢の辺りに、受け止めてくれる何かがある。漠然と、そう思えた。

 

 その夜の眠りは、随分久し振りに、安らかに訪れた。問いかけは聞こえず、見上げた桜樹は満開の花を咲かせて、光を零しそうな、絢爛の姿だった。

 たかひこ――と、呼ぶ声が、透き通る光の細粒と一緒になって、降り注ぐ。その声に対して、「思い出さなければ」という切迫感は、湧いてこない。ただ、甘やかで切ない。胸を締め付けられるように懐かしくて、暖かい。

 花天に向って伸ばした両手に、光。それ以外に、掴めるものなど何も無くて。けれども、その哀しい事実が、どうしようもないほど愛おしくて。矛盾しているけれど、これほど胸に馴染んだ感情は、かつて無かった。

 そして目覚めた双眸は、涙に濡れていた。

 

 日に日に、寒気に冴えていた空気が緩み、春が近付く気配が濃くなる。先ず先に梅花がほころび、香りを風の中に振りまいた。続いて道の辺に若葉が芽吹き、菫や土筆が、愛らしい姿を見せた。天に伸びる桜樹の梢にも、今しもほころびそうな蕾が無数に息づく季節になった。

 あの夜以来、夢は崇彦を訪れない。相変わらず、桜樹の下を通って通勤していたが、見上げても問いかけても、何かが返ってくることは無かった。

 あれは、一過性の夢のようなものだったのだろうか――次第に、崇彦はそう思うようになった。それは酷く寂しいことのようにも思えたが、日常生活を送る上では、間違いなく、好都合だった。

 けれど。その感覚に反比例して、湧き上がるものがある。それは、最後の、あの幸福な夢で感じた、苦しいまでの切なさ、胸に詰るほどの愛おしさへの、切望だった。あそこが、間違いなく、自分の辿り着くべき場所だった、という、根拠の無い確信。そして、それから遠ざかったことへの悔恨と、今、そ知らぬ顔で日常を送ることへの罪悪感。

 あそこへ帰りたい、という、強い想い――湧き上がり、尽きせぬものを纏めると、そんな風に言えるだろう。

 禍福だけではなく、この世の大抵のことは、(あざな)える縄の如くに、裏腹に出来ている。日常を取り戻した、という安心感は、容易く、失われたものへの寂寥と郷愁に、とって代わられた。そんな莫迦なと思い、大量の残業を引き受けても、浴びるほど酒を飲んでも、ただ一度裏返っただけの札が、二度と表を見せることは無かった。

 「何かあったのか」

遂には、上司にそんな言葉をかけられる始末だ。仕事の質を落とした積りは無かったが、顔に疲労が出たのだろう。我ながら、不健康な自信はある、と崇彦は思う。

「あ、いや別に…大丈夫です、個人的なことですから」

それは、極めて穏当且つ無難な、壁を作る言葉だ。だからこれ以上立ち入るな、と。気持ちは有り難かったが、例えそれが誰であれ、自分が今置かれたこの状況を上手く説明し、理解して貰うなど、不可能なのだから。

 当然ながら、上司はそれ以上、深い追及はしなかった。ただ、疲れているようだから、今日は残業をせずに帰れ、とだけ言われた。

 夕暮れ時の家路は、淡い紫の紗にかかって、値千金と言うにはまだ早いが、幻のような宵の景色だった。仕事事体は早々に上がらされたものの、身体的な疲れは殆ど無い。遠出をするのは億劫だが、このまま帰るには手持ち無沙汰な感があった。かといって、帰り道の途中に、これといって時間を潰せる場所があるわけでも無い。

 結局、選んだのは、帰りの道すがらに一軒だけある、決してカフェとは呼ばない喫茶店で、コーヒーを一杯、引っ掛けていくという手段だった。片田舎の町にあるくせに、妙なこだわりが強くて、紅茶とかジュースの類は置いていない店だ。コーヒー豆の種類だけは矢鱈と豊富で、それにすると問われても分けが分らない。だが、こんな日に限っては、マスターの薀蓄に耳を傾けて、徹底的に惑わされるのもいいような気がした。

 結論から言うと、選んだ銘柄は、「今日のお勧め」であり、長話に付き合った意味は、「暇潰し」だけだった。たかだか一杯のコーヒーが目の前に出てくるまでに、二十分かかったと思えば、中々立派な時間の使い方ではあったが。

 とりあえず、目の前に突き出された白磁色のカップを口に運び、まだ熱い一口を飲み下して、一息ついた瞬間。

 脳裏に、ひとつの言葉が浮かび上がる。

 さやこ。

 固有名詞――恐らく、人の名前。それも多分、女性の――咄嗟に、それだけは思いついた。そして、久し振りに訪れた夢のよすがを離すまいと、必死に神経を研ぎ澄ました。

 カップをカウンタに置く。喉まで届きそうな拍動の大きさと、一緒に滾る血の熱さが、居ても立ってもいられない思いにさせた。

「すみません、急用、思い出しちゃって」

咄嗟に口をついたのは、そんな独創性の欠片も無い台詞。立ち上がると当時に財布を取り出し、押し付けるように、奪い取るように、強引に会計を済ませる。

 釣銭を受け取った瞬間には、逸る心のままに、駆け出していた。息を切らせて、丘へと続く坂道を登る。何百回、何千回、通い続けたこの道を、こんなに遠いと思ったことは、かつて無い。

 「()夜児(やこ)――」

呆然と、そして陶然と――崇彦は、呟いていた。見上げた宵闇の天には、桜樹が広々と枝を伸ばし、咲き初めのちいさな花が一、二輪、微風に震えている。

 ここだ、と思った。自分はここで、何かをしなければならない。それが、遠い遠い過去に結ばれた約束であり、そのために、自分はここに来たのだ。あの、最後の夢の中で湧き上がった幸福感と同じものが、胸郭を一杯に満たす。そして同時に、確信した。かつて自分が、ここで何か、とても大切なことを、したのだ、と。

 けれども、桜樹は何も答えない。ただ、嘗てそこに在り、今もそう在るように、静かに立っている。風が吹き抜けた――そして、残酷なまでの静寂が残る。丘の下で、人々の暮らしが生み出す喧騒さえ、遥かに遠く、聞こえてこない。

「佐夜児、佐夜児…ここへ――戻ってくれば、良かったのか?」

問いかければまた、何かが笑いかけてくれるのではないか。そんな一縷の望みを託して、桜樹を見上げる。だが、今度は何も感じなかった。無窮の沈黙が、呼ぶ声を吸い込み、潮のように引いて、あとにはただ独り、崇彦が取り残された。

 「俺は、あと何を、思い出せばいい……?」

いつしか宵の淡い紗は色を深めて、闇の寸前まで濃くなっていた。遠い梢も、そこに咲く花も、暮色に溶けて、消え入ろうとしている。それはまるで、崇彦がやっと掴んだ、細い細い、よすがの糸のように。

 力なく立ち竦む崇彦の上に、音も無く夕闇が降り注ぎ、黒く視界を閉ざしてゆく。その傍らの低い枝で、ただ一輪、微笑むように咲く、桜花が在った。

 

 春風駘蕩――そんな言葉が、理屈よりも肌で分る、暖かい日が続いた。花の便りはこの片田舎の町にも届き、至る所で、桜の花は咲き零れ、咲き乱れて、爛漫の春を描く。丘の上のあの桜樹は、染井吉野よりは山桜に近い種類らしく、すこし遅れて満開になるが、それでも遠目には雲とも霞とも見紛う、あでやかな姿になり変わった。

 あの日以来、崇彦は、あらゆる手段を講じて、あの夢の続きを見ようとした。真面目なところでは、それこそ心療内科に行って精神分析のようなこともして貰ったし、子供騙しに近いところでは、桜樹の写真を枕の下に敷いたりもした。どこかに何かがあったなら、藁でなくとも縋りたい、そんな気持ちで、巡る夜を迎えた――そして、落胆とともに目覚めを繰り返した。

 そうして辿り着いた、幾つ目かの夜。疲れ果てた、泥の様な眠りの中に、その面影は訪れた。

 そこは、花に満ち光に溢れた天地だった。崇彦は、降り注ぎそうなほどに爛ける、桜花を見上げていた。いや、正確には、その花の中に居て、花よりも可憐に微笑む、一人の少女を。

 たかひこ、と――

 薄紅色の唇は、確かにそう言った。風に儚く揺れてしまいそうなその声が、細く澄み渡った、玲瓏の音を紡ぐ。相手の名を呼ぶ、というあまりに単純な行為が、まるで無上の幸福であるかのように、彼女は微笑んでいた。天に満ちる花よりも、なお艶やかに、愛らしく。

 実際、彼女は美しかった。豊かに流れ落ちる、()()(たま)の夜なす黒髪。抜けるように白い肌、柔らかな線で描かれた面輪。だが、何よりも印象的なのは、夜を溶かしたような闇色の、円らな瞳だ。生まれたばかりの赤子さながらに無垢で、隠し立ての無い心のすべてを、溢れんばかりに湛える瞳。その輝きに、崇彦は魅入られた。

 眠りはそこで途絶える。跳ね起きて、時計を見ると、時計の針は丑三つを更に回った、正真正銘の深夜を指していた。こんな時間に起きていたことなど、数年来無い。だが、双眸ははっきりと冴え、頭も明快だ。何をすべきかは、分りきっていた。

 布団を出て、手早く身支度を整える。一分前までは熟睡していた筈の身体まで、怖いほどよく動く。それは即ち、今この時を取り零してはならないという、崇彦の想いの現れだった。

 当然の様に、真夜中の町は静まり返り、人の気配さえ無い。況や明かりを灯した家は皆無であり、片田舎の道には、街灯も乏しい。月は明るかったが、それでも朧にアスファルトを照らす程度だ。だが――通いなれた道だから分る、という以上の次元で、崇彦は自分が進むべき方向を、心得ていた。

 一路に駆け上がったのは、丘へと続くいつもの道。その時間が、まるで早回しのように、恐ろしい速さで流れ去る。それでも、頂上を目指す道は、遠くもどかしく思われた。

 丘の上で待っていた桜樹は、淡い春の月光を集めて、ぼんやりと光を放っていた。月が投げかける光が夜空を紺青に変え、次いで桜の放つ光がそこに溶けて、古代紫の色が浮かび上がる。月は花を照らし、花は月を見上げている。まるで、世界には月と花と、その二つしか存在していないかのような――絢爛の世界。けれどもそれは、必衰の儚さを秘めた、寂寥の世界でもある。永遠の邂逅は、刹那に流れ去り、無限の彼方に消え果てる。その只中に、崇彦は立っていた。

 「佐夜児――」

ゆっくりと、確かめるように、愛おしむように、その名を紡ぐ。

「俺はここで、何をした。何を、思い出せばいい――教えてくれ、佐夜児」

桜樹に向けて、崇彦は問いかけた。夢の中で見た、桜花は、この木のものと思われた。すると、その中に溶けていた少女も、そこに居るかのように思われた。

 問いかけが夜の静寂に吸い込まれ、最後の余韻が消えたのと、時を同じくして。月の光を孕んだ桜樹は、音も無く崩れ落ちた。満開のままに、砕けて散る無数の花弁が、嵐になって乱れ舞う。そして、その中に溜め込まれていた光が、世界を桜色に染めた。

 その、夢幻の光景の中に、もうひとつ、浮かび上がるものがあった。

 つぎへ

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