見渡す限りの荒野を、一路に突き進む三つの影がある。最初のひとつは矢の様な速さで、真ん中のそれは前後の距離を測りながら、最後の大きなものは、やや後れ気味である。

「おっさん、大丈夫か?」

真ん中を行くヒムが、振り返って呼んだ。最前を行くラーハルトは、己の脚の動くままに、どんどん先へ進んでしまうが、走ることを得手としていないクロコダインは、ついて行きたくても限界がある。

「あのヤロー、ちったあ後ろに気ぃ使えってんだ!」

遠く近く、不気味に轟くマグマの鳴動もどこ吹く風の勢いで、ヒムは憤慨する。

「仕方あるまい。俺のことは気にするな」

無論クロコダインとて、決して今のこの状況を、快く受け入れているわけではない。ラーハルトに反感を持つというよりは、ついて行けない己に歯痒さを感じる。そして、それ以上に、日の光の一筋とて差さぬ、吹き上がる炎が照らし出すだけの闇の世界に、心を蝕まれている感触がある。その中で、ヒムの陰日向無い態度は、僅かでもその鬱屈に、風穴を開けてくれたようだった。

 そして、前方に向き直った瞬間、獣の咆哮が、耳をつんざいた。目を見張る。それは、小山ほどもある巨大な体躯を薄い毛で包み、幾つもの角や牙を光らせた、地上では見たことの無い種類の怪物だった。縄張りに踏み込んだのだろうか。獣は双眸に怒りを漲らせて、先頭に立つラーハルトに襲い掛かった。

 最初の一撃は、大きく跳んで躱す。と同時に、ラーハルトは左の腕に仕込んだ籠手に、反対の手を遣った。籠手から、両刃で先の尖った、長い刃が現れる。けれどもラーハルトは、それを完全に引き抜こうとはせず、ちょうどドラゴンキラーの刃を腕に装着したまま使うような感じで、軽く振るった。鋭く切り裂かれた空気が、獣の鼻先を掠める。ラーハルトはにしてみれば、軽い威嚇の積りで、無益な殺生をせずともそれで相手が退けばよし、と思ったらしかった。しかし、言葉を解さぬ獣は、その一撃で更に猛り狂い、地獄の釜に似た赤い口を大きく広げて、ラーハルトに襲い掛かった。

 瞬間、澄み切った音が鳴り響く。あまりに速く、あまりに鋭利な刃がものを斬り裂いた時、空気が割れた音だと気づくには、しばらくの時間がかかった。獣は苦悶の叫びひとつ上げることなく、真っ二つになって息絶えていた。

 ラーハルトの得物は、鬼神の槍といって、ロン・ベルクの武器庫の中に保管されていた、過去の作品のうちひとつだ。鎧化技術の実験段階で造られたものだそうで、必要に応じて、籠手の姿から多少、形を変えることもある。そして、中に槍を仕込んでいるのだが、先程のように完全に引き抜かないままで使うことも可能だ。

 ロン・ベルクに言わせると、ラーハルトにとって防御は大した意味を成さない。何故ならば、高速で常に動き回るこの男には、相手の攻撃を受ける、という事態そのものが稀だからだ。それよりも、過剰な防具で動きを鈍らせる罪の方が重い。加えて、左右の腕をほぼ同じように使え、戦況に応じて同じ武器でも異なった扱いが出来るこの男には、鎧の魔槍よりも、かえってこういう武具の方が相応しいのだと――確かそう、ロン・ベルクは言った。

 その通りだと、魔界に来てからの僅かな時間で、クロコダインは痛感していた。どんな防具であっても、金属であり身体を保護するという目的で造られている限り、完璧に動きを阻害しないものは存在しない。機動性に留意し軽装を心がけた鎧の魔槍でさえも、例外ではなかったのだ。鬼神の槍を手にしたラーハルトは、二年前の戦いの時よりも一層速く、武具の名に相応しい働きで、行く手を斬り拓いた。

 このパーティのリーダーはクロコダイン。それは、地上に居た時に決めたことだった。だがラーハルトは、予想通りと言うべきか、その決め事を積極的に無視するかのように、口もきかずにどんどん先を行く。元よりダイ以外の命令など聞く積りも無いらしい。二、三度ヒムが何か苦情を言ったが、素っ気無い返事があったに過ぎない。

 やれやれと、クロコダインは思った。何とも気の重い役割を引き受けてしまったものだ、と。

 

 魔界の澱んだ空には、暗い天をめがけて聳える、大きな山のようなものが存在している。それが、「悪意」が打ち込んだ楔だった。その楔は、引き裂いた二つの大地の間を隔てて、地上側の先端は、クロコダインとヒムにとっては住み慣れた場所、デルムリン島の洞窟に繋がっている。

 クロコダインとラーハルトは、魔界には何度か行ったことがあったが、それはいずれも魔族の移動呪文を用いてのことで、まさか直通で二つの世界を繋ぐ穴が存在していようとは、知る由も無かった。

 そして、洞窟を抜けた三人は、今居るこの場所、楔の根元に近い、封印の谷に来たのだった。

 最初は、もしや谷の入り口などに、谷を守る強力な魔物が居るのではないかと警戒していたのだが、意外にもそういったものは存在せず、ただ魔界の他の場所と同じとように、飢えた怪物が得物を探して闊歩しているだけだった。

 道のりはすべて順調そのものだった。

 肝心の、楔に辿り着くまでは。

 

 「クソッ、また跳ね返しやがったぜ!」

既に数えるのも嫌になったほどの挑戦が失敗に終ったところで、ヒムは憮然とした表情を浮かべ、どっかと胡坐をかいて、地べたに座り込んだ。

「危惧はしていたが、まさかこれほどのものだとはな…」

一方のラーハルトは、手に入れたばかりの得物に刃毀れを見つけて、苦々しい表情を浮かべている。そしてクロコダインはといえば、柄から真っ二つに折れてしまったグレイトアックスを、半ば呆然と見下ろしていた。

 それが、最も考えたくないことだったので、考えなかった、と言うことも出来る。あるいは、考えても仕方ないので、考えなかった、と。けれどもそれは、確かにその通りだった。

 大地を引き裂く楔は、恐らく魔宮の門と双肩を張る程度には、強固だったのである。しかも、門があくまでも門であり、厚さのたかは知れていたのに対して、この楔は、天をつく巨大な山なのである。守護者など不要なわけだ。

 さてと、ここで三人は顔を付き合わせた。そして思い知る。この面子は、策を弄するとか、小器用に立ち回るといった方法から最も遠い。力押しの顔ぶればかりだ。

「…誰か、何か考えろよ」

それを思い知ったのか、最大限自嘲的に、ヒムが言った。ラーハルトは、憮然として何も言わない。仕方が無いので、クロコダインが口を開いた。

「正面からぶつかっても駄目なことは、分った。すまんが、ラーハルト、この楔の上まで行って、様子を見てきてくれないか。どう考えてもお前の身が一番軽い」

それが気休めに過ぎないことは、言っている本人が重々承知しているのだが、とりあえず、これ以上跳ね返されて、余分な体力を消耗する意味も無い。ラーハルトもそれを分っているようで、黙って頷くと、疲れを感じさせない驚異的な軽やかさで、岩づたいに楔を昇っていった。

 しかし、ひとつだけ、クロコダインが気がついたことがある。どうやらこの楔は、ラーハルトの鋭利極まりない一撃よりは、ヒムの闘気拳の方が、まだしもダメージになるらしい、ということだ。ヒムが重点的に挑んだ一角には、気休め程度には、傷がついている。それもそうかもしれない。魔界には本来、ヒムの持つような光の闘気は存在し得ないのだから。

 突破口は、無いわけではない。あまりに小さく遠すぎるけれども。せめて一撃、楔に傷らしい傷を穿つことが出来ればと、クロコダインは思った。そうすれば、その傷の内側から、更にダメージを与えることが出来る。蟻の一穴とも言うではないか。

「おっさんの闘気流で、オレをぶつけてみるかい?」

冗談とも本気ともつかない調子で、ヒムが言う。確かに、衝撃の大きさと硬度において、それを上回る一撃は考えられない。試してみる価値もあるか、と思われた。

「だが、万一それで失敗した場合、お前の身体を復元する者はおらんぞ。その場合、一時魔界を撤退することになるが」

即座に肯定出来ない理由といえば、それがあった。確かに、とヒムが唸る。

 そこで、ラーハルトが戻ってきた。

「駄目だな。どこまで昇ってもこの調子だ。下手に動き回るよりも、一箇所に腰を据えてかかった方がマシだろう」

そして淡々と、何の救いにもならない事実を報告する。クロコダインとヒムは、思わず顔を見合わせた。

 数秒の沈黙。そして、空気が重くなりかけた、その時だった。ずっと岩の上に胡坐を掻いていたヒムが、決然とした面持ちで立ち上がり、鋭い目で、クロコダインを見た。

「ええい、こうなったら仕方ねえ!おっさん、さっき話したやつを、試してみようぜ!」

短気なヒムのことだから、膠着状態に痺れを切らしたのかもしれない。血の流れる生き物よりも、ずっと安直に身体を復元出来る、金属生命体だから出来る発想なのかもしれない。だが、それにしても、それは決してヒムにとって安全なものではない筈だ。凄まじい勢いで叩きつけられた挙句に、木っ端微塵に砕け散ることが、無いとも言えないのだから。

 そのことが、ふと頭を過ぎって、クロコダインを悩ませる。けれどもヒムは、そんなことは覚悟の上だと言いたげに、笑った。

「駄目で元々、やるだけやらねえと損だぜ、クロコダインのおっさんよ」

その、人を食った軽口調子に、クロコダインは思わず破顔した。

「ヒム、お前、いつの間にそんな口を利くようになった。まるでポップのようだぞ」

無論、ふてぶてしさの出所は違う。ポップは頭の中の、綿密な計算から。一方ヒムは、絶対の自信と生来の無鉄砲からだ。源は真逆なのに、言葉にすると同じ形を取るのは、パーティのムードメーカーという立場が同じだから、だろうか。

「ケッ、あの小僧と一緒かよ」

ヒムは、あからさまな照れ隠しの表情で、軽く吐き捨てた。

 しかし、とクロコダインはまだ逡巡していた。仮に、楔の強度を魔宮の門と同程度としよう。それを砕いたのは、竜の騎士二人分の力だった。呪文の併用こそしていないが、ダイとバラン、それぞれにとって渾身の一撃だったと思われる。それに対して、自分とヒムの渾身を足したところで、及ぶものかどうか――答えは明らかに否だ。

 やらなければ何も起こらない。それは正しい。だが、やる前から明らかに失敗すると分っていることを、しかも誰かの命を危険に晒してまで、することが正しいのか――?その答えも、明らかに否だった。

 クロコダインがいつまでも黙っているので、今度はラーハルトが、訝しげな視線をぶつけてきた。

「何か策があるのなら、さっさと試したらどうだ。時間に追われていないとはいえ、空費するのは惜しいぞ」

遠慮斟酌の無い物言いが、いかにも彼らしい。

「オレの闘気流でヒムを楔にぶつけて、肉弾で粉砕しようという話なのだが…成算があると思うか」

「無駄だな」

クロコダインの問いかけを、ラーハルトは即答で否定した。

「一人ぶんの闘気を全力でぶつけて、微細な傷程度だったのだ。それを倍にしたところで、たかが知れている。確かにこのまま個々にぶつかり続けるよりはマシかもしれんが、決定的な一撃にはならん。無謀すぎる」

ほぼ予想した通りの答えだった。図星を突かれているので、反論出来ないヒムが、憮然と黙りこくった。

 ここに居る三人で、竜の騎士を超える力を出す方法――話は再び振り出しに戻る。ダイたち四人を天界に送り込んだ今、物理的な破壊力でこの三人に肩を並べる仲間は存在しない。だから、地上から助っ人を呼ぶという手段は考えられない。

「また、グランドクルスでも試してみっか?」

投げ遣りな調子で、ヒムが言った。これは明らかに軽口だと分る。

「やめておけ。木っ端微塵に砕け散って、目も当てられん」

それに対して過剰に律儀に、ラーハルトが返した。そしてヒムは、分ってましたと言わんばかりに、憮然として黙った。

 そうやって、まだしばらくは、不毛な時間が流れた末のことだった。今度も、立ち上がったのはヒムだった。今度は、その鉄仮面を鋭く引き締めて。

「何か、思いついたのか」

クロコダインの問いかけに対して、ヒムは不適にその口元を歪めて見せた。

「イメージは悪いけど、いいもんを思い出したぜ」

そう言って、超金属の拳を握り締める。

 そこに眩い光が宿るのは、いつものことだ。必殺の一撃だが、莫迦のひとつ覚えでもある、オーラナックル。楔に対して数限り無く試したもので、このまま繰り出しても効果が殆ど無いのは分りきっている。

 が、今度はその宿った光が、どんどん眩く、目を射るほどに輝きを増してゆく。鈍い銀色に光っていた拳は白熱し、マグマの熱にうかされたような魔界の空気を、鋭く染めてゆく。まったく別種の、けれども確かに、魔界の空気よりも高い熱が、そこには込もっていた。

 やがて、極限まで凝縮された闘気の光は、ヒムの拳を何倍もの大きさに見せ始める。そこでクロコダインは、あるものを思い出した。最もそれは、酷く忌まわしいものではあるが。

「おっさん、思い出したかい?」

クロコダインの表情の変化を読み取って、ヒムは胸を聳やかして見せた。

「悪党の技で、イメージは悪いけどな。俺に試せるものって言やあ、このくらいだからな」

それは即ち、かつて最終決戦の折、ヒムがその身に受けた一撃――ミストバーンの、闘魔最終掌を指す。己の全闘気を一点に集中するという発想は、決して間違いではない筈だ。

 が、同時に――クロコダインは思った。まだ足りない。確かに、これまで繰り出した攻撃の中では、最も効果的なものにはなるだろう。けれども、それで竜の騎士二人分に匹敵するかと言われれば、苦しい。

 そこに、自分の技も加えるとしよう。例えば、バランとの最初の戦いの時、ダイのストラッシュと同時にぶつけたように。この場合は、激烈掌ではなく、回心撃の方が妥当だろう。逆回転の渦をぶつけるよりも、ひとつの渦に破壊力を集中した方がいい。

 そして、残るはラーハルトだ。闘気技の類は、一切用いない男である。これほどのセンスを持つのだから、まったく使えないわけではないだろうが、誰も見たことが無いのだから、決して得手ではあるまい。けれども、全体の闘気量は、かなりのものになる筈だ。それを、みすみす使わずに逃すのか――

 「ラーハルト、話がある」

閃いた瞬間に、クロコダインは口を開いた。ラーハルトの闘気を一緒にぶつける、恐らく唯一の方法。

「お前、闘気のコントロールくらいは出来るな」

「やって出来んことは無いが、大した破壊力にはならんぞ」

「破壊する必要は無い。お前の持っている闘気を、そのままオレに流し込めばいい」

決然と、クロコダインは言い切った。ラーハルトの闘気をその身に受けて、自らの闘気と一緒に攻撃に加えると。

クロコダインは、闘気技の類は得意である。回心撃、激烈掌のような大技でなくても、小さな闘気弾を繰り出したり、闘気で土中を掘り進むことも出来る。だから、自分のものとなれば、コントロールはお手のものと言えるだろう。だが、他人のそれとなると――操った経験は無い。

「口で言うほど簡単ではないぞ」

ラーハルトもそれを思ったのだろう、いつもの冷ややかな口調で、返した。が、クロコダインは意に介さない。

「だが、今のところそれ以外に、打てる手があるまい」

「オレとお前の二人分では、お前の肉体にとって、容量を超える闘気量になる筈だ。相当な負担がかかるが、それでもやるのか」

深く、鋭く、探りを入れるように――ラーハルトは問いかけてくる。だがそれは、最終的に否定するためではない。寧ろ、自分の望む答えを、引き出したいかのようだ。

 その意を汲んで、クロコダインは破顔して見せた。

「頑丈だけが取り得だからな」

言おうと思えば、もっと幾らでも、言い募ることは可能だった。このパーティのリーダーに、一応は指名された男なのだから、このくらいは格好をつけさせろ、だとか。これまで戦力としてはものの役に立っていない埋め合わせがしたい、とか。そのすべてが決して嘘ではない。敢えて言うなら、本音に極めて近い。だが、この際の要点ではなかろう。クロコダインはそう思った。

「…確かにな」

そして、無骨な男の短い言葉に満足してか、ラーハルトはその口元に、ふてぶてしい笑みを浮かべて頷いた。

 ラーハルトが腕を伸ばし、クロコダインの肩に触れる。

「行くぞ」

短い合図とともに、送り込まれた闘気の波が、どくん、と大きく脈打った。それはクロコダインにとっても、まったく初めての経験だった。自ら放つ闘気であれば、息を整えるようにコントロール出来るのに、他人のそれは、まるで吹き付ける風に似て、クロコダインの意を介さない。

 一瞬、流れ込む闘気の負荷に、息が詰まった。当然だ。純粋な闘気量だけで言えば、ラーハルトのそれはクロコダインのものを優に上回る。本来の容量の二倍以上を、その身に溜め込むことになるのだ。だが、極限まで溜め込んで放たなければ、例え一瞬と言えども、竜の騎士の力に迫ることは出来ないだろう。

 脚を大きく踏ん張って、右腕に精神を集中する。ラーハルトの闘気は、量こそ多いが、意思は持たない。吹きしく風を息で吹き消すのは無謀かもしれないが、まずは己の闘気で流れを作って、その流れに乗せることを試みた。最初はそれでも、ラーハルトの闘気量に負けそうになる。ぐっと堪えて、もう一度力を込める。何度かその繰り返しをした末に、ふたつの闘気は流れを定めた。

 右腕に、すべての力が注がれる。本来込められるべき力の、倍以上の量。それは容易に、腕の限界を通り越した。闘気が漲り、怒張した腕は、ほどなく悲鳴を上げ始め、鋼の皮膚が罅割れて、鮮血が迸った。しかし、まだ全エネルギーが集まるには、若干の間がある。

 ラーハルトもヒムも、それを見ていた。が、誰も何も言わない。大丈夫かとも、無理をするなとも――ましてや、もう止めようなどとも。やるとなったら、やるのだ。それがいかに無茶に見えることでも、それが唯一の可能性であるならば。その一点に死力を賭すのが、この三人がここに来た、唯一の目的なのだから。

 クロコダインは、喉の奥が焼けるのを感じていた。それは決して魔界の空気のせいではない。限界を超えたエネルギーを蓄えた己の肉体が、熱を発しているのだ。その熱が、身体を内側から焼き切ろうとしている。悲鳴を上げた血管が、破れて血を噴き出した感触もあった。

「ヒム!」

苦しい息の下で、どうにかそれだけの言葉を放つ。呼ばれた兵士は、振り向くことなく、前を見据えたままで頷いた。それが、合図だった。

 二人分の全闘気と、クロコダインの全精力を傾けた、獣王回心撃――命の限界ぎりぎりまで溜め込まれた闘気は、逆巻く渦を成して、魔界の空気を引き裂きながら、真っ直ぐに「楔」に向かっていった。

 そしてヒムは、確かな目で、それを見ていた。彼が行くべきなのは、その闘気光の、すぐに後だ。たった一秒、先でも後でもいけない。遅ければ、それはすべての闘気を一瞬にぶつけるという目的から外れてしまうし、かといって早ければ、自ら凄まじいエネルギーを浴びて、無事では済まない。そのタイミングの計り方を、神技と呼ぶことは簡単だが、それはまさしく、戦闘のための駒として生まれた彼のセンスと、誇り高き魔王の命を受け継いだ彼の心意気を示すものだった。

 無慈悲に聳えていた楔の表が、激しい闘気流に晒されて、震える。そしてそこに、細い亀裂が入ったその瞬間を、ヒムは見逃さなかった。

 咆哮、そして、拳の形に凝縮された光の闘気が、その小さな隙間に、叩き込まれた。

 ヒビの入った楯――その言葉を、クロコダインは思い出す。それは、一度ダイに敗れ、蘇生液の水槽から這いずり出た自分をして、ヒュンケルが言った言葉である。その時は、傷ついた己の肉体を評する、無慈悲な言葉だと思った。だが、今、目の前で、この上なく強固であったものに傷が入り、そこから崩れてゆく様を見ると、あの言葉が持っていた恐ろしいばかりの的確さを、改めて思い知る。

 どんなに鉄壁なものにも、必ず隙は生まれ、その隙を突かれた瞬間に、すべてが滅び去るのだということを――稲妻の速さで縦横に広がり、今まさに崩れ落ちようとしている楔を見上げながら、やや呆然と、クロコダインは思っていた。

 けれども、その放心を、今度はけたたましい叫びがつんざいた。それは、崩れ落ちてゆく瓦礫の中から聞こえる。舞い上がる粉塵の向こうに、赫く光る二つの眼。金属質の声をあげたのは、一頭の竜だった。それがどのような意味を持つ存在なのか分らない。というよりも、既に全精力を使い果たし、大きなダメージを受けた今の体では、考えることさえ重労働と化している。唯一分ったのは、その竜が、凄まじい敵意で、こちらを睨んでいるということだった。

 「おーい、何か知らねえけど、やばそうな感じだぜ」

クロコダイン同様エネルギーを使い果たし、過剰な負担をかけた右腕に無数の傷を抱えたヒムが、自暴自棄気味に、大声を上げた。クロコダインもまったく同じ状態なのだが、どうやら全身がガタガタで立てないらしい。

 そんな二人の、些か情けないとも思える状態を、一番後ろで見ていたのは、当然ながら、ラーハルトだ。こちらも全闘気を放出したのは同じだが、それはクロコダインに向けてただ預けただけだから、疲労の程度は軽いらしい。

「…では、オレの出番というわけだな」

多少、見せつけがましいとも思える態度だった。呟くように、静かに言い切って、前に出る。ヒムが一瞬、このクソ野郎、とでも言いたそうな仏頂面を浮かべたものの、無論取り合わない。

 竜が翼を広げるよりも数秒速く、ラーハルトは大きく地を蹴って、舞い上がった。闘気を使い果たしたとはいえ、その戦闘スタイルは、元々スピードを最大限に活かしたもので、致命的なパワーダウンを招きはしないらしい。

 大きな殺気が頭上にあるのに気づいたのか、竜は鎌首をもたげて一声叫ぶと、ラーハルトに向けて炎の塊を吐き出した。

 無論、ラーハルトにしてみれば、そんなことはお見通しだ。かつての竜騎衆として、竜の性質など嫌というほど分っている。

 鬼神の槍の、籠手部分が大きく展開して、楯になる。それで炎を捌いてしまえば、鎧化と違って速やかに元の形になるのが、この武具の特徴だ。決してラーハルトの動きを妨げない。

 続いて、爪の一撃。これはそのままの形の籠手で受けて、刃を途中まで展開し、振り払う。そして、ラーハルトは一気に刃を引き抜いた。完全な形の槍が、姿を現す。

 この状態で彼が繰り出す技は、唯一つ。刃が風を斬る鋭利な音が、まるで音楽のように鳴り響いた。もう一度、その身体が宙に浮き、目にも留まらぬ速さで、振り下ろされる刃――必殺の一撃、ハーケンディストール。

 竜には、断末魔の叫びは無かった。恐らく、あまりに短い間にすべてが起こってしまったために、何を自覚する余裕も無かったに違いない。あとにはただ、真っ二つになった屍が横たわり、それすらも、数秒のうちには崩れ落ちる瓦礫の中に消えていった。

 

 すべてが消え去った魔界の空は、不自然なほど広く、三人の頭上に広がった。無論、そこはまだ暗雲に閉ざされ、雷鳴が轟く不穏な場所ではある。けれども確かに、威圧するように聳えていた、あの巨大な山は消えてなくなった。

「…今頃、地上じゃあ、大騒動になってんだろうな」

ヒムのその言葉は、上っ面こそ他人事の軽さではあったが、響き自体は、深刻そのものだ。ダイたちを天界へ、彼らを魔界へ送り込んだ地上の戦力は、半減以下の状態である。いかに入念な準備を整えたとはいえ、予想外のことは幾らでも起こるし、絶対は有り得ない。

「その身体で戻る気か。立ち上がるのがやっとの、足手纏い同然の身で」

ラーハルトは、疾うに使い終えた槍を籠手の中に格納してしまっている。ニヒルな台詞を吐く、その語り口は涼しいが、体力は相当、消耗している筈だ。

「帰るぞ」

それらすべてを聞き入れてから、クロコダインは言った。居ないよりは居た方がまだしも役に立つからか、弾除けは多い方がいいからなのか、そんなことはどうでもいい。

「ダイとの約束だ」

地上で、また。願わくばそれは、すべての悪意から解き放たれた、輝く太陽の下で。無論、口に出してそんなことを言ったわけではないのがだ、今度こそはと、誰もが願っている。

 クロコダインが水を向けると、ラーハルトはそうだなと頷き、ヒムは黙ってニヤリと笑い、結局それが、すべての結論になった。

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