滾々と溢れ出す血潮のように、あるいは無慈悲なまでに滔々と湧き出す海原のように――果てしない哀しみの物語に思えました。誰でも知っている物語。でも、こんなにも痛ましく語れるなんて思わなかった。誰も悪い人が居ないからこそ、遣る瀬無い物語でもあります。

キャスト

人魚姫:シルヴィア・アッツォーニ  詩人:イヴァン・ウルバン  

王子:カーステン・ユング  王女:エレーヌ・ブシェ  

海の魔法使い:オットー・ブベニチェク

 舞台が開く前から、緞帳には紺碧の照明が当たっていました。そして、その幕が開くと、書きかけの手紙か原稿のようなものを前に、詩人が立っています。まだ無音の世界に笑いさんざめく声が聞こえて、新郎新婦とブライドメイドたちが入ってくる。その新郎エドヴァートこそ、詩人の最愛の人なのですが、彼はその想いを伝えることが出来ず、ただ「そうありたかった」とでも言うかのように、1m以上も長く引きずられている、花嫁のヴェールに潜り込んでいます。 

ウルバン演じるこの詩人、物語の完璧なる傍観者ですが、存在感がアンデルセンそのもの。品が良くてたたずまいも何処と無く詩的だけど、気弱で臆病で傷つきやすくて、いざ事態を目の前にすると、何を言うことも出来ない。彼はそうやって、ずっとずっと、間近で哀しみの物語を見つめています。

すべてが去って取り残された詩人は、海の中へ。水面の表現には、不規則なウェーブを描く光の線が複数本張られていて、これが上下します。つまり、詩人が潜っていくに従って線は舞台の高い位置へ上がっていくわけですが…殆ど移動しないで見事に潜水をやってのけたウルバン、さり気なく見事でした。

水底の世界には、人魚姫を始め、海原と同じ紺碧の色の「長袴」を履いた人魚の一族が居ます。彼らの踊りは、所謂「コール・ド」という感じではなくて、コンテンポラリーのアンサンブル。いたるところで色んなダンサーが色んな動きをしているので、良くも悪くもどこを観ていいか分からなくなります。

そして、一際長い「袴」を履いたアッツォーニの人魚姫は、3人の黒子に抱えられて、本当に「泳いで」居ました。しなやかに波打ち、旋回し、尾鰭を翻す姿は、魚そのもの。優美な流線型を描く回遊魚のような、自由に泳ぎまわるシャチのような、華やかな鰭を持つ熱帯魚のような――色々な「魚」の表情を見せてくれます。慣れないことづくしで踊る方には負担が大きいような気がしますが、これだけでも観るに値する踊りです。それから、かなりの長さを引きずる袴の処理は、能や歌舞伎を研究したとのことですが、はらりと崩れ落ちる儚げな所作や、具体的にどうとは言い難いけれど上半身の身のこなし、袴を履いた状態での足さばきなどに、確かに日本の舞踊芸術(所謂日舞ではなくて)を咀嚼した動きが多々あったなと感じました。

幻想的な海のシーンから一転して嵐のシーンは、魚たちや海の魔法使いが破壊的な踊りを披露します。海の魔法使いは、個人的に一番、動きが歌舞伎っぽいと思った役であると同時に、白塗りの上に隈取を描いていました。

嵐で船が沈み、海に投げ出されてくる王子。人魚姫とのデュエットがありますが、彼女が恋に落ちたのは、ここではないような気がする。振付としては面白いけれど、情感という意味ではそれほどでもない感じでした。

悲劇の恋の始まりは、きっと、人魚姫が王子を浜辺に連れて行った時。彼女はここで、初めて王子の顔を見るんですよね。それからおずおずと顔を近づける様子が、とてもいじらしくて可愛かった。でも、彼女は王子に姿を見せることは出来ず、それどころか通りがかりの女学生(実は王女)が彼の目を覚まさせてしまう。これをきっかけに2人は恋に落ち、人魚姫はその一部始終を物陰で見ていました。

「私もあんなふうになりたい!」――そう言った彼女の手には、女学校の冴えない制服が。そして人魚姫は海の魔法使いを訪れます。間違いなく、ここからがアッツォーニの真骨頂でしょう。この物語では、人魚姫の美しい尾鰭は、都合よく脚に化けたりしない。鰭も鱗も剥ぎ取られるんです。鰭の袴は、2m以上はあるでしょう。すべて失い、肌に近い白のボディースーツだけになったアッツォーニは、元々小柄なこともあって、どうしようもないくらい頼りなく、か細く見えます。そして、これは原作にもある文言だそうですが、そんな苦しみまで味わって手に入れた脚なのに、一歩ごとにナイフを踏むような痛みがある。そうでなくても、生まれたばかりの弱い皮膚に情け容赦なく太陽が照りつけ、「立って歩く」という動作をしたこともない人魚姫は、上手く動くことさえ出来ない。解放空間である海で生まれ育った彼女にとっては、屋内の壁や天井でさえも、異常な圧迫感を与える。観ているこちらが痛みを感じるほど、切実な表現でした。

そして、動けない彼女の目の前で、王子と王女は再会し、想いを深めてゆく。その2人も含めて、誰もが彼女のことを「ヘンな子ねぇ。まあ、仕方ないわ」的な、同情も含めた優しさで扱ってくれる。憎まれるべき悪い人は、誰も居ない。でも、彼女にとって叶うことは何も無く、ただ生きているだけでも、物理的にも心理的にも、あまりにも辛い。

歩けるようになった後も、人魚姫は、ポアントで軽々と歩むバレリーナたちに囲まれて、猫背ベタ足でバタバタと動き回るんですよ。身体が歪んで、やっぱり全身が痛くて、でも、王子の側に居るにはそれしか無い。王子は鈍感で陽気で多分ちょっと莫迦で、でもとても親切。常識を知らない無作法な彼女にも優しくしてくれます。でも、彼が愛しているのは王女ただ1人で、人魚姫に対する優しさは、あくまでも人間が人間に示す程度のものでしか無い。でも人魚姫は、ほんのすこしでも優しくされると、辛さをすべて忘れてしまえるくらい嬉しくて――或いは、息が止まってしまうくらい苦しくて――天国と地獄を行ったり来たりする。

そこに海の魔法使いが現れます。持っているのは、剥ぎ取られた尾鰭と刃物。懐かしさに思わず尾鰭に手を伸ばす人魚姫、そしてその手から滑り落ちる鰭――という一連の動作が、痛ましい。人魚に戻りたければ王子を殺せ、という魔法使い。叶わない恋と生きるのが苦しい世界に耐えかねて、刃物を振り翳す人魚姫。でも、寸前で振り向いてしまう王子。しかし、この世の辛さを知らないかのような彼は、「そんなことしちゃ危ないよ。こんな風になってしまう」とふざけて死んだフリを。それを見た人魚姫は、出来ない、という現実を突きつけられます。さっきの尾鰭といい、こういう演出が、残酷なほどハマる舞台です。

最期に想いを伝えようとする人魚姫、でも結局それは王子にはまったく通じず、彼は王女の元へ去ってしまいます。使えないポアントや、しめつけるようなドレスや、人間になるために纏っていたすべてをかなぐり捨て、我が身を引き裂かんばかりに、悲痛な叫びを上げる人魚姫――この鋭さと救いの無さは、「椿姫」の「黒のパ・ド・ドゥ」に通じるものがあります。

見も世も無く泣き崩れ、やがて力なく倒れ伏した彼女の側には、いつの間にか詩人の姿が。同じように叶わぬ恋、伝えられもしない恋に破れ、癒しきれない傷を抱えた2人の、重なり合うようなデュエット。その間に、舞台上に置かれたパネルには、蝋燭の炎に似た暖かい色の光が無数に灯り、同じ色の光が雪のように降り零れる――原作のラストでは、人魚姫は空気の精になり、300年の善行を積み重ねなければなりません。つまりはそのシーンなのですが…果たしてこのラストに救いがあるのか、私には分らなかった。何故なら、無数の暖かな光に囲まれ、暗くなった舞台の中空に居る人魚姫が、とても孤独に見えたから。あと300年もそこに居て、寂しいでしょうと思った瞬間、涙が出てきました。

誰が悪かったわけでもない。ただ、叶わない夢を見ただけで。それなのに、どうしてこんなに、すべてが辛くて悲しいんだろう。悲しい、辛い、遣る瀬無い――それは、前半をあまりにも幻想的に、優美に踊っていた(泳いでいた?)アッツォーニが、後半でその美も、バレリーナとしての美もすべて捨てて、無様に痛ましく表現し切ったからこその余韻です。素晴らしい作品、素晴らしいバレリーナを観たと思う。ただ、この悲しみを追体験するには、けっこう勇気が居るなとも思います。

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