ただ踊ることには、何の意味も無い――これは演じてこそのバレエだと、心から思いました。そしてルグリがこの作品を「ダンサー人生最後の夢」と呼んだ気持ちも、よく分った。本当に地味な振付。マクミランやノイマイヤーのように、動きそのものを観る楽しみは殆どありません。それなのに、物語はとても味わい深いもの。きっと下手に手を出したら、目も当てられないことになるんでしょうね。

 「エフゲニー・オネーギン」は、原作の小説も読んだし、オペラも聴いている、愛しい物語のひとつ。それを、このような形で観ることが出来たのは、とても幸せでした。

 

キャスト

オネーギン:マニュエル・ルグリ  タチアナ:マリア・アイシュヴァルト

レンスキー:ミハイル・カニスキン  オリガ:エレーナ・テンチコワ

グレーミン公爵:イヴァン・ジル・オルテガ  ラーリナ夫人:メリンダ・ウィザム

乳母:ルドミラ・ボガード

 

 幕が開くと、そこに追憶の秋がありました。澄み切って明るい太陽が注いでいるけれど、それは決して暑くはなく、もう翳り始めている光。そして、全体にセピアトーンがかかっていて、どんなにはしゃいでも、何故か痛ましい。それはこれが、この物語の結末を知っている誰かの、回想だからなんだ、と自然に思いました。

 寝そべって本を読みふけるタチアナ、名の日のドレスを合わせるオリガ、ラーリナ夫人と乳母、収穫祭の農民たちの賑やかな様子――これらは基本的に「こんなもの」というラインで揃っていました。意外性のある芝居も無ければ、外れも無い。流石に看板レパートリーだけあって、こなれているんでしょう(コール・ドはちょっと不揃いだったけど)。オリガは落ち着き無くも可愛らしかったし、タチアナはまだ踊らないし。

 レンスキーとオネーギンの登場。レンスキーは、流石に夢見る詩人らしく、とても柔らかくてロマンチックな踊りぶり。彼とオリガのデュエットは、薄いピンクのマカロンみたいな味わいでした。ひたすら甘くて可愛らしくて、触れると溶けそうに現実感が無い、夢の所業。チャイコフスキーの感傷的な音楽がよく似合います。

 一方、ルグリのオネーギン。その佇まいは端正至極で、語り過ぎないけれど自然な説得力がある。シュツットガルドのダンサー陣とは、はなから存在感の桁が違いました。でも、何よりも驚いたのは、彼は私が抱いていたオネーギン像と、寸分違わぬ演技を見せてくれたこと。とてもノーブルでジェントルだけれど、その目は誰も見ていない。何をしていても、誰からも、平等に遠い。その距離感が、冷ややかさが、まさしくオネーギンそのものでした。

 それから、あることに気付きます。私がこの日、居たのは二階正面の席で、オペラグラスは使わない主義だから(視界が狭くなるから)、表情までは見えません。だから、ただ感じただけのこと。でも、オネーギンの視線には二つ、種類があるなと思ったんです。ひとつは、空の遠くの、空虚なところを見つめている目。もうひとつは、自分の空っぽの内面を見ている目。ルグリはこの二つを使い分けているようでした。誰かと一緒に居る時は遠い視線。独りで居る時は近い視線。それに気付いた時、どうやらこのバレエの見方が分りました。視線を追いかければいい。レンスキーはオリガ、オリガは目まぐるしく変わる目先の何か、タチアナは本のページしか見ていない。さて、その視線が向きを変えた時、何が起こるのか…

 差し当たり、タチアナは本のページを閉じて、オネーギンを見ます。まるで小説の登場人物のような、影を背負った青年を。そして彼女は、彼がまさしく「小説の登場人物のようだから」気になる。何故なら彼女は本の読みすぎで、そこに描かれた架空の恋や、架空の人々に心を寄せていたから。その上、オネーギンの上辺の振る舞いは、あくまで丁寧。恐々近付いて、とりあえず踊ってみる様子が、とても幼くて可愛らしかったです。

 でも、この時タチアナは、まだオネーギンに恋をしていたとは思えない。「素敵な人」とは思っていても。きっと彼女が恋に落ちたのは、手紙を書いている最中。だから手紙のシーンが、オペラでは長大な歌になるし、バレエではパ・ド・ドゥになって、いずれも一大ハイライトを作れる。手紙を書いているうちに、ぼんやりしていた気持ちが形をとって、頭がのぼせる。オネーギンに向ける言葉を選んでいるうちに、勝手にその先を想像して、「かくあるべき彼」を設定してしまう。こうやって落ちた恋は、失敗に終わるんです。結局、相手を見ていないから。だから、選ぶ相手を根本的に間違える。私もいつもそう。だからタチアナの状態は、嫌というほど分りました。そして、タチアナが「こう」と設定したオネーギンが、鏡の中から出てくる。タチアナは手紙に綴った想いを真っ直ぐ彼にぶつけ、想像上の彼はそれをストレートに受け止めてくれる。この時、タチアナの目にもう恐れは無く、真っ直ぐオネーギンを見つめて、幸福に酔っていました。そして想像上のオネーギンも、彼女だけを見てくれる――でも、夜は明け、現実の手紙がオネーギンのもとへ。

 名の日の舞踏会は、センチメンタル・ワルツから。それに乗って踊るオネーギンとタチアナも、とても感傷的に見えました。ただ、踊っている彼らが感傷的な想いを抱いている、というよりは、これを回想している誰かが、感傷的になっている、という感じかな。

 冒頭からずっと思っていましたが、クランコのコール・ドの使い方は面白いですね。男女一対の隊列を組ませて、それを自在に動かす。収穫祭のシーンでも、そんな彼らが舞台を斜めに四回、横切るシーンがありましたが、非常に活き活きして爽快だったし、この後、ペテルブルクの舞踏会で隊列を組み替えながら踊るシーンはとても華麗。ここでの縦一列も綺麗だったし、ちょこっと挟まれたピースが面白い。彼女を怒らせてしまって、膨れッ面の女の子にズルズル引きずられていく彼、フタマタが発覚しておたおたする彼、どれも些細なネタなんだけど、活きてました。

 そんな騒ぎの中で、タチアナはオネーギンに近付こうとする。何故なら彼女は、現実のオネーギンと想像上のオネーギンの区別がつかなくなっている。だから彼女は、受け入れられないことに戸惑いながら、想いを投げ出そうとする。「受け入れてもらえるんだ」と信じきってしまったから。その目はひたすらオネーギンだけを見ているんだけど、オネーギンが今、見ているのは、自分の中の空虚。視線は絡まず、タチアナの訴えは受け入れられず――最後は手紙が破られるわけですね。タチアナに手紙を持たせてから、その手を掴んで破らせる、という仕草が極悪。

 一方、オリガの目は、目の前を通るものなら、何でもとらえてしまう。それがレンスキーではなく、オネーギンでも。だから彼女は彼と踊るし、レンスキーはオリガしか見ていないから、怒り狂う。結局は彼らも、すれ違うべくして、すれ違っていたんですね。レンスキー、オネーギンに往復ビンタ四回の上、手袋を投げつけるんですが…オリガとすれ違い、彼女を見られなくなった時点で、レンスキーの視線が変わるんです。今度は自分しか見られなくなる。だからこんな大仰なことが出来るんですね。

 それがもっと顕著になるのは、オペラで言えば「黄金の日々よどこへ」にあたる、長いソロ。このバレエの中では一番美しいソロかもしれません。今にも涙を零しそうな弦の音に合わせて踊るレンスキーですが、この踊りは非常に感傷的でナルシスティック。自分独りで作り上げた悲劇に浸っている踊りです。だからもう、オリガとタチアナが止めにきても、歯止めがかからない。彼女たちが目に入らないんですね。

一方のオネーギンは…彼は何度か、レンスキーをなだめようとしています。でも、そこに真剣さが無いし、案外、唯々諾々として決闘に入ってしまう。やはり彼も、レンスキーを見ていないんです。彼の目は空虚しか見ない。だから、レンスキーの怒りも悲しみも理解出来ない。それどころか恐らくは、レンスキーの死を、リアルなものとして考えられなかった。だから彼は、唯一の友人だったレンスキーを殺めてしまえるんでしょう。

 ペテルブルグの舞踏会。オネーギンの周りを、何人もの女性が駆け抜けていきますが、その誰も、彼に近寄ることは出来ない。彼が持つ周囲との距離感、隔絶は一層際立っていました。でも彼は相変わらず、誰も見ていないんです。世界にはセピアトーンがかかったまま。ここでやっと、どうやらこの物語はオネーギンの物語であり、今までは彼の回想だったんだな、と分ってきました。

そんな彼の前に、グレーミン公爵夫妻が現れて…この時初めて、オネーギンの視線が外を向きます。夫妻のデュエットは、丁寧で暖かな雰囲気で、まるで長い年月を寄り添って生きてきた夫婦のよう。グレーミン公爵の包容力は羨ましいばかりで、夫人も慎ましく、美しい。その美しさに気がついたオネーギンは、それがタチアナであることを理解し――この瞬間、世界を覆っていたセピアの色が剥がれ、オネーギンは空虚を見るのをやめて、現実を見せ付けられたんです。

鮮やかに、舞台を包む空気が変わった。すべてが控えめで、感傷的だった舞台が、圧倒的な生々しさで迫ってきました。狼狽するオネーギン、その背後を、走馬灯のように様々な人物が走り去る。幼い日のラーリナ姉妹、レンスキー、舞踏会の人々。普通のバレエなら、ここでオネーギンのソロを配するところでしょうが、クランコはオネーギンをただ、立ち尽くさせた。その背後、紗幕の向こうを、物凄い速さで色々な人が駆ける。この効果の上手さには、舌を巻きました。まるで映画みたい。そして、並大抵のソロよりもくっきりと、オネーギンの心を描き出すんです。何か取り返しのつかないものを(恐らくは青春と呼ばれるものを)、取りこぼしてしまったという、言い知れない不安と焦燥感。今になって、レンスキーの死の重みまでが、現実感を伴なって迫ってくる。けれども、すべては取り返しがつかないという暗示。それを理解するが故に、一層うろたえるオネーギン…何と鮮やかな演出でしょうか。

 オネーギンがタチアナを掻き口説くのは、彼女を愛してしまったから、というよりも、彼が取りこぼした青春の中で、唯一彼女だけが、今、目の前に残っていたからじゃないでしょうか。だから彼は、絶望的な思いで彼女に縋った。狂ったように彼女だけを見つめて、救いを求めた。一方、タチアナは最初、彼には視線を向けません。見ているのは、どこか遠く――多分、出かけていった夫の姿と、過ぎ去ったあの日を、かわるがわるに見ている。この時、彼らは跳ばないし、回りません。ただ地を這うように動いて、互いを引っ張り合い、飛び立てない想いに苦しんでいる。

そしてタチアナは、存分に遠いものを見たあと、とうとう目の前のオネーギンに視線を向けます。生身の二人の視線が絡み合う、最初で最後の瞬間。タチアナの中には、少女時代の幼い愛がまだ生きていたし、オネーギンは過ぎ去ったあの日を悔いて、彼女を渇望していた。今、この場でぶつかり合う二人の想いは、とても強くて激しいけれど、結ばれるべき時を過ぎてしまい、もう取り返しがつかない――そのことを、二人はよく知っていました。高らかなジャンプもリフトも、すべてがセピアトーンの時とはまったく違った意味で、痛ましく、悲しい。あの時、視線が絡み合わなかった不運。今、絡み合ってしまった不運。青春は遠く過ぎ去り、二人の道は分かたれて、二度と結びつきようも無い。抱いた愛は、もうどうしようもない。その叫びの果てに、オネーギンはそれでもタチアナにすがり付こうとしたし、タチアナは手紙を突き返したんですね。

オペラ版オネーギンの名手であるバリトン歌手ドミトリー・ホロストフスキー氏はこの物語を「終わりではなく始まり」と言っておられます。オネーギンはどこかに忘れてきた情熱を取り戻し、これから生を始めるのだ、と。バレエ版には、そこまでの余韻はありません。オネーギンは走り去り、タチアナは立ち尽くし、青春の時を取りこぼしたがために引き裂かれた愛だけが、痛ましく残っている。オネーギンはこれからどうするんだろう、と一度、ルグリに尋ねてみたい気がします。原作にも、オペラにもバレエにも、ホロストフスキー氏が言ったような含みはありません。だから、オネーギンがこの苦しみをどうするのか、乗り越えてまた何かを求めていくのか、放棄して空虚の中に逃げ帰るのか、どうとでも取れる。そして私には今、見当もつかないのです。この苦しみの果てに、別の人生があればいいな、とは思いますが。

そしてタチアナはどうするんだろう。これはすこし、わかる気がします。彼女の幼い部分は、私のどうしようもない部分とすこし、似ているから。愛を引き裂かれた苦しみは、まだ当分、彼女の中に残るでしょう。でも本当は彼女は、一度、それを乗り越えている。オネーギンに手紙を破られた、あの時に。だから乗り越えられる筈です。そして気持ちの整理がついたら…夫に話をするんじゃないでしょうか。ぽつりぽつりと不器用に、時々は涙ぐんだりしながら。グレーミンはそれを、黙って聞いて、受け入れてくれる。そういう人だから、タチアナは彼を選んだし、彼らはオネーギンの目を覚まさせるくらい、幸福に満ちていたんでしょうから。

 「エフゲニー・オネーギン」は、とても愛しい物語。そして根本的には、タチアナの物語だと、思っています。このバレエも、キャストによっては立派なヒロイン・バレエになるでしょう。タチアナの回想にだって仕上がります。でも、この日の上演は、間違いなくオネーギンの物語だった。それはほかでもない、マニュエル・ルグリというダンサーがこの物語を語った結果、オネーギンの物語として結実したんです。ある意味では、私は彼の、ダンサー人生最後の夢を、一緒に観ていたのかもしれません。それはとても濃密で、幸福な体験でした。こんなバレエの見方もあるんだ、と思った。この物語に、こんな味わい方もあるんだ、と分った。そう思ったら、自然と立ち上がっていました。思えばルグリの全幕は、生は初めて。ひょっとしたら、これが最後になるかもしれません。でも、観ておいて本当に良かった。そう思います。

  

最後に余談を少々…この日、終幕後にルグリとアイシュヴァルトのサイン会がありました。この時、ルグリにどうしても伝えたくて「貴方が最高のオネーギンです」と言ったのですが、彼は照れとも呆れともつかない笑顔を浮かべて、それを聞いてくれました。

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