生で観に行こうと思ったのは、大学の間限定で東京に住んでいることと、フィギュアで生の醍醐味を知ってしまったから。そして何故か「最初は絶対ジゼル」と決めてかかっていました。でもって、どうせ観るならいいバレエ団の公演を、いい席でというのが、先に別のもので生の魅力を知ったから出てくる発想。

 この日のキャストは、ジゼルがバルボラ・コホウトコヴァ、アルベルト(この公演はこの名前でした)がデニス・マトヴィエンコ、ミルタが前田新奈、ハンスがゲンナーディ・イリイン。つまり海外ゲストの日だったんですね。因みに五日間の公演の中で、この日にしようと言い張ったのが私。コホウトコヴァのジゼルには定評があると耳にしてのことでした。この辺が、頭でっかちの成せる技です(苦笑)。

 「ジゼル」では男主人公の性格の解釈が分かれるんですよね。純愛だったのか、遊びだったのか。貴公子か、それともどこか逸脱した感じで演じるか。メロドラマ好きの私と、同行の友人M嬢にしてみれば、絶対純愛青年でなきゃ嫌だったんです。なのに、この日のアルベルトは、明らかなプレイボーイ。遊んでました。邪気のある遊び方ではなかったんですが、純真無垢なジゼルよりもっとお気楽。楽しそうでした。そして、破局の責任を取る気ゼロ。そういう解釈なんだから仕方ないのですが、ついつい怒り出す私とM嬢。正直な話、第一幕は、ペザントの所で飽きていたんです。それでも最後まで眠気も催さずに観ていられたのは、間違いなく音楽の魔力。熊川哲也が以前、敢えて役作りをしなくても、音楽に乗れば表現出来るという意味のことを言っていましたが、案外そうなのかもしれません。第一幕のクライマックスは、破局以外の何者でもない、という圧倒的な悲壮感で迫ってくる。これはアルベルトの内面に対応していますよね。何が起こったかわからない(この日の能天気なアルベルトは特に)、でも何か、目の前で取り返しのつかないことが起きようとしている感じ、その得体の知れない恐怖から、悲劇を目の当たりにする残酷、そして最後の最後、まだ温かいジゼルの亡骸を掻き抱く彼の前に、最大の恐怖が立ち現れます。つまり、罪を罪として見せ付けられ、悲劇の重みを知るという悲劇が。その巨大な感情の波は、あの曲に乗らなければ不可能だと思うのです。

 続いて第二幕。これは本当に、夢見心地で、圧倒されたまま観終りました。唯一注文をつけるなら、舞台の特殊効果は最小限にして欲しかった。だって何だか間が抜けていたんですよ。空を飛ぶウィリの影や、極めつけは、はっと振り返るアルベルトの後ろを、さーっと通り過ぎてゆく台車に乗った人形(!)。これだけは、雰囲気ぶち壊しです。

 因みに私、バレエの技術的なことは全然分かりません。ジャンプの種類も、回転の名前も知らないし、せいぜい回転軸の安定と着地の正確さ、リフトの時の足元などという、フィギュアで観てそうな個所しか目が行かないのが正直なところ。ですが、そんな私でもあっと驚かされたのが、トゥで立って登場したミルタに、脚が無い、ということ。重さゼロの不思議。ウィリの霊性を、出のワンシーンだけで表現してしまうんですもの。ウィリたちの群舞も、私は斜めの方に居たので残念ながら完璧には分らなかったんですが、綺麗でした。

 アルベルトも変わりました。悄然とした様子でただ歩いてくる姿の美しさ。それから、二幕のジゼルは、アルベルトを最初から赦すか、途中で赦すかという解釈があるそうですが、コホウトコヴァのジゼルは最初から赦していましたね。アルベルトを抱きしめる腕の優しさ、アルベルトの上に降り注ぐ百合の花の、ぼうっと明るいような白さ。包容力のある、優しいジゼルでした。無償の愛、無償の赦し、何もかもを抱きしめる、母性愛。私のイメージぴったりのジゼルで、本当に嬉しかったです。

 あとは、アルベルトの終盤のソロ。喘ぎ声が聞こえました。駄目駄目、そんなに踊っちゃったら、本当に死んでしまう!という緊迫感。ジゼルも同じ気持ちで彼を見守り、ただただ祈りながら夜明けを待っていたのではないでしょうか。

 そして夜が明け、ジゼルが去った墓標の足元で百合の花を愛おしむように抱きしめるアルベルトの見せた、複雑な表情――一命を取り留めた喜びなどこれっぽっちも無く、永遠に彼の前を去った最愛のものを、それでも抱きしめようと手を伸ばし、やはり何処にも居ないことを悲しみ、赦されたことに感謝を捧げる――そんな表情に見えたのです。

 スケートリンクもそうですが、劇場もやはり異空間。帰るのが寂しく、ぽーっと呆けたまま人の流れに乗って帰るそんな感じです。不満な点は若干あったものの、最初のひとつとしては上々だったジゼルでした。

 

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