何が悪かったわけではないんです。コール・ドは流石の統一感と様式美だったし、ロットバルトを踊ったクズネツォフ、名前は分からないけど道化を踊ったダンサー、三幕の民族舞踊も「この役はこう踊ってほしい」という一線を、ぴしっと押さえていた。王子を踊ったコルスンツェフは、いまひとつパッとしない、地味な印象もあったけれど、問題にするほどじゃない。要は、すべてを包み込んで高い次元に持っていってしまうほど、ロパートキナがずば抜けていた。

彼女は、私が今年のアタマに観て、飽き足りなかったザハロワの白鳥が持っていなかったものを、すべて持っていた。出の一瞬、ピケ・アラベスクですべてを語りつくす存在感。ゆったりと広がり、決して見せつけがましくは無いんだけれど、破綻無く雄弁なライン(でも決して語り過ぎない)。

もともと霊的なイメージを持つバレリーナだったけれど、オデットを踊った彼女は、確かに人より高次の存在になっていた。妖艶優美、哀れな白鳥姫であると同時に、ファム・ファタルの香りも持っている。匂い立つような気品があって、かもし出すオーラが、しっとりと舞台の空気に馴染む。一言でまとめると、神々しい、という言葉が一番似合う。

オディールを踊るロパートキナは、確かに「誘う」意思は持っているんだけど、手管は使わない。魔性の目で王子を見つめて、引き寄せてしまう。妖気のようなものを持つオディールは、ほかのバレリーナが踊る時のように、けばけばしい印象は無い。一見、地味かもしれない。でも、こんな恐ろしいオディールは居るもんじゃない。

何よりも印象的なのは、彼女はオデットもオディールも、決して「演じる」わけではない、という点。プティパが生み出し、セルゲイエフが磨き上げた振付を、至上の美しさで辿っていく。それは、刹那の瞬間に移ろうものでありながら、普遍を描いて、永遠に昇華する。それは、クラシックバレエの抱く儚い夢であり、究極の理想であり、未だこの古い芸術が生き残っている意味でもあると思う。「踊り」という移ろうものが、朽ちゆく人間の体を通して、普遍性を獲得する。そうすることで、永遠という名の夢を、人に見せる。

バレエを観始めてしばらくになるけれど、永遠を感じたのは、本当に初めて。ライヴという意味で、これより凄い舞台なら見た。だけど、ロパートキナは、確かにそれとは違う方法で、「究極のクラシック」を披露してくれた。何はなくとも彼女に感謝。そして、彼女のDVDを作る、と言い出し、実現させてくれた。ゲルギエフに感謝。この際、ラストの振付に説得力がまるで無いことなんて気にしない(私は白鳥はバッドエンドが好きだ)。ロパートキナが居ればそれでいい。

ロパートキナに始まり、ロパートキナに終わり、ロパートキナだけで、あまりに素晴らしい。そんな舞台でした。

キャスト
オデット/オディール:ウリアナ・ロパートキナ  ジークフリード王子:ダニーラ・コルスンツェフ
ロットバルト:イリヤ・クズネツォフ
inserted by FC2 system