世評に言うグリゴローヴィチの特色だけで創ったようなバレエです。素晴らしい迫力。素晴らしい運動量。そしてマイムなし。でもこれは、いかにもロシアらしい、ロシアで踊り継ぐべき作品だとも思います。ロシアの芸術は、それがどんなに優雅でも、根底に骨太なものを持っています。永久凍土の地で生き抜く強さというか。その過酷な冬の果てに、春を迎えた歓喜の爆発というか(月並みな比喩で恐縮ですが)。だから、パリ・オペラ座なんかに任せてないで、ボリショイでも踊ったほうがいいと思います。

キャスト

イワン四世:イレク・ムハメドフ  アナスターシャ:ナタリア・ベスメルトノワ

クルプスキー:ゲジミナス・タランダ

 最初の、鐘を撞く男たちのシーンから、ああ来た、グリゴローヴィチだ!という感じ。ソ連時代のボリショイのダンサーって、みんなマッチョでめちゃくちゃ強そう。で、強いと言えばムハメドフ。彼の跳躍は、決して高くは無いけど、恐ろしいほどの広がりがあって、爆発的に強い。こういうマネージュの仕方もあるのかと、思い知らされました。そして何よりも、狂気をたたえた両眼。この舞台全体を通して、彼に抱いたイメージ…それは「玉座に取り憑かれた悪魔」。きっと本当はそんな話じゃないと思うんですが、そう思えて仕方ない。玉座を守るために、敵を倒し、偉大な皇帝であることを自らに課している。そのために命を削り、我が身を捧げつくしている。そんな風に見えました。ムハメドフはその狂気のような力と、鬼気迫る迫力とを、技術と表現、体と心のすべてを使って演じていました。彼の踊りは映像が色々残っているので、比較的多く観た方ですが、これが最も良かった。力とダイナミズム、演技力、役に没入する、それこそ狂ったような集中力――イワン四世が玉座に捧げたのと同じものを、ムハメドフもまた、この役に捧げたように見えました。

 その狂気を、唯一癒しうる存在だったのが、皇后アナスターシャ。ベスメルトノワはたおやかで品格のあるバレリーナですし、この役には合っています。ただ…衣装に品が無いかな。あの細いシルエットのスカートにスリットを入れて、脚を丸ごと見せてしまうと、なんだか嫌らしい感じになってしまう。ジュリエットのスカートみたいに出来なかったんでしょうか。あれも細く見えますけど、実はけっこう綺麗に広がるでしょう。全体的に、ロシアの民俗衣装を再現したかったのは分りますけど…やっぱりイヤだ。

 それともうひとつ。このバレエは、イワン四世、アナスターシャ、クルプスキーの三者だけに絞ったドラマになっていますが、前述の通り、いっそ潔いほどマイムがありません。元々ロシアのバレエとは、敢えて演じず、体にこめた思いだけで語るような面があると思いますが、それを強調していくと、こういう振付けに発展するかもしれません。でも、こういうやり方には、普通に演じる以上の演技力が必要とされると思うんです。それにしては、ベスメルトノワとタランダに説得力が足りないような…特にタランダ。ダイナミックで力強くて、悪役らしいあざとさは十分あるんですが、いかんせん、明るい。イワン四世とベスメルトノワに向ける気持ちも曖昧で、野心だったのか、横恋慕の果てなのか、はっきりしない。これはもっと陰険に踊ってしかるべきだと思います。同じことが、ベスメルトノワにもいえる。確かに綺麗なバレリーナで、イワン四世への愛情表現も細やかなんですけど、毒殺されても全然死にそうに無い。悲壮感が足りないんですよ。振付け自身の問題もあるんでしょうけど、あそこにもっと悲しみや苦しみの表情を滲ませることが出来れば、改善の余地はまだまだあったと思う。要は二人とも、一本調子。もっと演技の起伏が欲しかったな。

 でも、それを補っても余りあるほど、ムハメドフが素晴らしかった。叛乱を平定する様子は英雄的だったし、玉座に迫る叛臣を撃退する様には、玉座への執着、狂気、彼の生きる場所はここにしかないという迫力を感じました。そしてアナスターシャへの愛情と、その死に抱いた絶望。最後の方で、不気味な仮面を被ってクルプスキーを殺しますよね。あの時、あれがムハメドフだとは咄嗟に分らなかったんですが、地の底から湧き上がるような、恐ろしい憎悪が感じられました。その後、今まで運命を告げるかのように打ち鳴らされていた鐘の紐に縛られ、中空に腕を広げる姿は、彼の狂気の頂点でした。どうしようもないくらい、恐ろしい。けれど彼は、そうせざるを得なかった。望んで狂気に身を捧げた。この振付けからは、「スパルタクス」のフィナーレと通じるものを感じました。どちらもひとつのものに我が身を投げ打った、犠牲に捧げた男の悲劇の物語だった。そう感じます。

 ムハメドフ以外にも素晴らしかったのは、言うまでも無くコール・ド。あの時期のボリショイならではの、素晴らしい迫力と圧倒的な存在感。こういうバレエは、やはりボリショイで踊りついで欲しいなぁ…

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